──天鏡──

 

 

 

 月が昇るのを、八戒は見ていた。
 まだ色の浅い夜空を、真円の天の鏡がゆっくりと渡る。
 今夜の月は満月だ。
 時に血のように紅くも見えるそれは、今夜は不思議な色をしていた。
 悟空の瞳の金を少し光で薄めたような月の面に、三蔵の瞳の紫と、悟浄の紅、そして八戒自身の碧までが、薄くブラシで刷いたように乗っている。
 不思議な、そして綺麗な色だった。
 部屋の窓を開け放ち、空を見上げて、八戒はふわり、柔らかな笑みを浮かべた。
 音を出さず、口の形だけで言葉を綴る。
 ──タンジョウビ、オメデトウ。
 こんな風に笑みを浮かべて、再び自分の誕生日にこの言葉を言えるようになったのは、つい最近のことだ。
 子供の頃の自分になど、一度も贈ったことがない。
 花喃と出会って喪うまでのわずかの間は、これはただ花喃のためだけの言葉だった。
 彼女をあんな形で喪ってからは、自分1人が生きて年を重ねることに痛みと罪悪感を感じていた。
 生きているのが辛いとも……思っていた。
 それでもこうして生きてきたのは──今もこうして生きて、『誕生日おめでとう』とこの日言えるようになったのは、悟浄と、悟空と三蔵の存在が、自分の側にあるからだ。
 彼らがいたから心からの笑顔を思い出した。
 彼らがいたから、怒ったり苛立ったり、哀しんだり喜んだり楽しんだり出来るようになった。
 八つ当たりしたり、悪戯したり、そんな、以前にはついぞした覚えのないことも、彼らと出会って初めて八戒は出来るようになったのだ。
 そもそも、悟浄が死にかけていた自分を拾って助けてくれなければ死んでいた。悟空が止めてくれなければ両の眼を抉り出していたのだろうし、三蔵の力添えがなければ死罪は免れなかったのだから、今の“猪八戒”という存在自体が彼らによって生み出されたようなものだ。
 それが疎ましかったこともあったけれど、今は素直に感謝していた。
 生きているから……今があるから、こうして花喃を想うことも、悟浄や悟空や三蔵と笑いあうことも出来るのだ。
 花喃のことは今も、いつでも想っている。
 彼女を喪い、千を超える命を奪ったあの時に、自分も死んでいれば、それはそれで幸せだったろうかと思うこともある。
 それでも、今八戒は生きていて、大切な大切な存在達と共にこうして時を過ごしている。
 以前は見上げたことすらなかった夜空や月を、今、自分は、綺麗だと感じながら眺めている。
 かつて抱いた愛も、憎しみも怒りも哀しみも、まだ消えない熾き火のように心に抱いたまま、それでも生きて笑っているのだ。
 全て、彼らがいてくれるおかげだと思う。
 花喃のことも、悟能のことも、全て切り捨て忘れるのではなく、まるごと抱きしめて生きていい、と、彼らが言ってくれるから。
 だから八戒は、壊れて歪んだココロのカタチを綺麗に直すことが出来たのだ。
 忘れない。
 けれど囚われない。
 そうして思い出す花喃の顔は、最期の泣き笑いではなく、共に生きていた頃の明るい優しいものになる。
 だから……言える。
 空に向かって。
 喪った存在と、消えた存在と、今ここにいる自分のために。
 ──タンジョウビ、オメデトウ。
 と。
 また唇だけで言葉を紡いで、カーテンを閉めた八戒は、そうして軽やかに身を翻し、自分を待つ大切な存在の元へと足を進めた。

 

 

 

「おっせーな、八戒。何やってんだろ?」
 悟空はテーブルに両肘を突き、組んだ両手に顎を乗せて、誰に問うでもなく呟いた。
 テーブルの上には、八戒を待たずに注文した、少し豪華な料理の皿が、いくつもいくつも並んでいる。
 エビチリ、水餃子、青椒牛肉絲、春巻き、干しアワビの蒸しものにホタテと青梗菜のクリーム煮。翡翠餃子にエビ餃子、大根餅に、鶏肉とカシューナッツの炒め物、フカヒレのスープ。
 テーブルに並んで湯気を放つそれらを、ただ眺めているだけ、というのは、実際拷問に近いものがあったけれど、三蔵も悟浄も悟空も、決して箸を付けようとはしなかった。
 ──冷めてしまっては、せっかくの料理の味が落ちてしまう。
 ただ今夜の主役のためを思って零れた悟空の呟きに、少しだけ笑って悟浄が答えた。
「そりゃお前……話してんだろ」
「話? 誰と? ……って、あ、そっか」
 八戒の対話の相手は、言われなくても悟空にも判った。
 それだけで納得して、それ以上何も言わないのは……誰1人様子を見に行こうともしないのは、八戒が八戒として在ると、彼らが知っているからだ。
 喪った存在への想いが八戒の心に今もあるのは、3人ともが知っている。
 それでも、闇に沈んで囚われることはもうないと、それも知っているから、だから彼らは待っている。
 窓から覗く仲秋の名月が、心なし人待ち顔に見えるのは、きっと彼らの心の顕れで。
「…………腹減った。」
 思わず漏れた悟空の言葉に、にやりと笑って三蔵と悟浄が言った。
「バカ猿」
「食欲魔人猿」
「お待たせしました。」
 悟浄が言い終わるのと、待ち人の声が響いたのはほぼ同時だった。
「八戒!」
「よぉ」
「……ふん」
「うわ、すごい。美味しそうですね」
 悟空の膝に乗っていたジープの喉を指でくすぐりながら席に着く八戒を、3人はそれぞれなりの言葉と表情で出迎えて……
「誕生日おめでと。八戒」
 グラスにビールを注ぎながら悟浄が贈った言祝ぎに、
「はい。ありがとうございます」
 応えて八戒がそれは綺麗に微笑うのを、深みを増した藍の空を渡る月が見ていた。

 

 

 

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あとがき(もしくは言い訳・^^;)

結局今年も書いてしまいました、八戒さんのお誕生日おめでとう小説(笑)。
長いものはさすがに無理でしたが、それでも書くあたりが何というか(^^;)。まあ、せっかくの仲秋の名月だし、ということで。
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