── Ever so close II ──
「悟浄、そろそろ行きましょうか」
リビングのソファにだらしなく寝そべって、八戒が戸締まりを確認し終えるのを待っていた悟浄は、背後からやわらかくかけられた声に
「んー」
生返事でのそりと起き上がり、
「はいこれ。」
「ん」
手渡された革のジャケットを、おとなしく羽織りながら立ち上がった。
鍵を片手に玄関へと向かう八戒に、ジープがふわふわ飛びながらまとわりつく。
「はいはい」
笑いながら八戒がドアを開けると、ジープは嬉しそうに一度高く飛び上がってから、そっと八戒の肩に舞い降りて、
「キュー?」
どうする、と伺うように、顔を覗き込みながら一声鳴いた。
「どうします?」
問いかけは八戒から悟浄へ。
歩くか、ジープで行くか、と訊いているのだ。
「いいんじゃね? 歩きで。そんな寒いわけでもねーし。」
むしろ良く晴れて風もない昼下がりは、気温はさほど高くないにもかかわらず、日向に立っていれば少し暑いくらいで、パーティー前の軽い運動にはもってこいだ。
これから街で悟浄の誕生パーティーをすることになっている。親しい友人達はもう店に揃っているはずで、悟空あたりはごちそうを前に『待て』を強いられていることだろう。
「サルに料理大半食われるのも癪だからな、歩いて運動して腹減らしてこーぜ」
木漏れ日を頬に受け、木々の隙間の青空に目を向けながら、ニヤリと笑って答えると、八戒はわずかに考える素振りで
「うーん」
と唸り、それから
「油断は禁物なんですが……まあ、いいですかね。ジープで風切って走る方が寒そうな気もしますし」
言って、ジープを肩に乗せたまま、玄関ドアに鍵をかけた。
「じゃあ」
「おー」
頷きあって歩き出すと、足下で落ち葉がカサリと音を立てる。長安に近いこの辺りでは、季節はもう晩秋へと向かおうとしていた。
今年は暖房をいつ出そうか……。
寒がりなくせに自分のことには無頓着な八戒を思って、そんな考えを巡らせていると、隣から八戒がこんなことを訊いた。
「悟浄、寒くないですか?」
「あ? いや別に」
「本当に?」
妙に念押しするのは何故だろう? まさか
「なにお前もしかして寒い?」
訊ね返すと、八戒は
「違いますよ僕じゃありません」
笑って、
「あなたが寒いんじゃないかと思ったんですよ。なんせほら、病み上がりですから、あなたは」
と、言った。
「あー……」
ついうっかり視線が泳ぐ。
病み上がり、と八戒の言う通り、悟浄はつい2日前まで、風邪を引いて3日ほど寝込んでいたのだ。
バカじゃないことが証明出来て良かったですね、などと暢気に八戒は笑ったが、熱は高いし胃にくるしで、随分と八戒に世話をかけてしまった。
予報より半日も早く降り出した秋の雨に濡れてしまったのが原因だから、不可抗力と言えなくもないが、お陰で、今日の悟浄はこの同居人にいつも以上に頭が上がらない。
「悟浄?」
「……はい」
「治って良かったですね」
「あー……はい。ありがとーございます」
ふんわりとした八戒の笑顔に、どうにも気まずさが先に立って、返す言葉が棒読みになる。
と、八戒は何を思ったのか首を傾げて
「悟浄?」
「……ハイ」
「なんでそんなにぎこちないんです?」
ときたものだ。
一瞬言葉に詰まってしまった。
気のせいで流せるものならそうしたい。
だが、八戒はそうさせてくれなかった。
瞳を翳らせて言うことには
「僕、知らない内に何かあなたの気に障ることをしましたか……?」
(イヤそれ何か違うだろ)
心中突っ込んだ悟浄だ。どうしてそこへ話が飛ぶのか。
否定したいのは山々だ。
けれど、ぎこちなさの理由を正直に言うのも躊躇われる。
なのに、悟浄が言葉を探しあぐねている内に、八戒は勝手に話を進めて行くのだ。
「あ……もしかして、僕の看病が鬱陶しかった、とか?」
「違うって!」
思わず叫ぶと、八戒は、ほっとしたように、嬉しそうに、また、ふんわりと微笑んだ。
「そうですか。よかった……」
──これだ。この顔だ。
これが気まずさの原因だった。
「なあ、八戒」
「はい?」
「お前さあ、なんでそんなにみょーに嬉しそうなのよ?」
確か以前、風邪を引いても看病なんかしてやらない、と、言っていたのではなかったか。
それなのにいざ悟浄が風邪で寝込んでみたら、看病をしないどころか、薬だ、着替えだ、氷枕だ、消化の良い食べ物だ、と、細々と世話を──しかも進んで──焼いてくれたのだから、それが悟浄には不思議だったのだ。
不思議で……そして、気まずかった。
いや、気まずいというのとは少し違う気がしたのだけれど、どう言い表わせば良いのか判らなかった。
だから、訊いてみたのだ。何故、と。もしかしたら、嬉しそうに見えるのも、自分の気のせいかもしれない、と思いながら。
すると、八戒は、今度はわずかに苦笑しながらこう言った。
「……嬉しそうに見えましたか。すみません。誤解しないでほしいんですけど、別にあなたが風邪を引いたのが嬉しいとかじゃなくて、ただ……」
「ただ?」
「ええ、ただ、新鮮だったんですよ」
「は? 新鮮って……なにが?」
「だから、あなたを看病するのが」
「えーと……どゆこと?」
「つまりですね」
つまりは、自分が誰かを看病する、という状況が、八戒には新鮮だったのだ、と。
「僕がまともに風邪の看病とかしたことあるのって、花喃ぐらいでしたからね。それまでは他人のことなんてどうでも良かったから看病なんてしないし。だから」
だから、自分が誰かの看病をするのが……そもそも、彼女以外の誰かの看病をしようという気になるのが、新鮮なのだ、と、言った。
さらに
「それに、あなたが風邪引くのも珍しいですから、弱ったあなたを見るのもなかなか新鮮でしたしね」
と、駄目押しのような台詞を言う。
途端、悟浄は自分が感じていた気まずさの理由を悟った。
気まずい、ではない。
そうではなくて、気恥ずかしい、だったのだ。
もっと言うなら、照れくさい、だ。
八戒と暮らすようになるまで、誰かに付きっきりで看病された記憶が悟浄にはない。
子供の頃は体調を崩せば兄が看病してくれたけれど、義母の手前ずっと付いているわけにはいかなかったし、悟浄もそれを望まなかった。義母が逝き兄と別れて1人になってからは、他人に弱った自分を見せる気にすらならなかった。
そもそもが結構頑丈な性質で、長じてからは寝込むほど酷い風邪を引くこともあまりなかった。
だから、こんな風に細々と世話を焼かれ、看病されるのは、八戒が初めてに等しいのだ。
そもそもそこまで気を許した相手がいなかったのだから、当たり前と言えば当り前だ。
おまけに、八戒に言われた通り、寝込むことが珍しいから、看病されることに慣れてない、というのもあった。
だから、今回八戒に看病されて、照れくさくて気恥ずかしくて、気まずくもなったのだ。
理解した途端、照れくさくなった。『気まずい』が正しくは『照れくさい』だったのだと自覚したら、余計に照れくささが増した。
数年前の雨の夜に拾った碧の瞳の男は、弱った自分を見せられるほど、いつの間にかこんなに自分の近くにいる。
あらためてそんな風に思うのも、照れくささを増す一因になった。
「あー……」
「悟浄?」
「や、なんでもない」
視線を逸らして答えると、八戒は訝しげな顔をしながらも、
「そうですか」
と引き下がってくれた。
どうも何かを察したらしい。
けれど、多分まだ納得はしていない。
悟浄にしても、ついさっき悟ったばかりの事を、正直に八戒に告げる気には、照れくさすぎてなれないけれど、それでも……
「八戒」
「はい?」
「……ありがとな」
顔が赤くなっていなければいいな、と思いながら悟浄が呟いた一言に、素ボケなところもあるくせに、妙に鋭いところもある碧の瞳の同居人は、
「……はい」
と笑って応え、思い出したように今更、
「誕生日おめでとうございます、悟浄。パーティーまでにちゃんと風邪が治って、ごちそうも食べられるようになって良かったですね」
と、言った。
「……ありがとうございます。八戒さんのおかげです。」
返す声に照れくささが滲んでいなければ良いな、と、悟浄はまた、思った。
行動パターンをご存知の方には予想済みでしょうが、やっぱり八戒さんを祝ったからには悟浄も、なのです。
「Happy
Birthday、悟浄!」