── 歌をあなたに ──
10月も終わりに近付いた、よく晴れて暖かい日だったように思う。 八戒がその日のことを思い出したのは、11月に入って間もない頃のことだった。 そうして迎えた11月9日。 実はこれには後日譚がある。 さて、本当にプレゼントをもらったのは、一体どちらなのだろう?
上着がいらない分、身軽に買い物が出来る、と思いながら歩いた記憶があるからそのはずだ。
そろそろ買い置きの尽きそうな酒や根菜類、多少余裕はあるけれど安かったから買い込んだ米や調味料を、嫌がる素振りを見せながらそれでも付き合ってくれた悟浄と2人で分けて持って、ふわふわと先を飛ぶジープの姿を眺めながら、茜に染まり始めた光の中を、ゆったりした歩調で歩いていた。
悟浄の煙草のストックも買ったし、もう後は帰るだけ、しかも荷物が重いから、急ぐ必要はなかったけれど寄り道はしないで、早くジープに車型になってもらえる街外れまで辿り着こうとしていた。
悟浄がふと足を止めたのは、そんな時だったのだ。
おまけにそれが、西から来たらしい移動式の自動オルガンの前だったりしたものだから、余計に八戒の目には意外に映った。
一体何の先触れか──もっと言うと、雨が降るか槍が降るか──などといささか失礼な事を考えたのは、悟浄にはもちろん秘密である。
ただ、本当に意外だったから、八戒は首を傾げて、隣に立つ男に訊ねた。
「悟浄、どうかしましたか?」
「あ? 何が?」
「何がって、だって立ち止まるから。自動オルガンに興味あります?」
長安に程近いこの街では、さして珍しいものではないはずだ。
八戒自身、これまでにも何度か見かけたことがあった。
いくら八戒と暮らすようになるまで昼間の街を歩くことが少なかったらしい悟浄でも、自動オルガンを目にした回数は、八戒よりは多いだろう。
そう思って問いかけた八戒だったが、その問いはいささか的を外していたらしい。
悟浄は少しだけ首を傾げて、
「オルガン? ……あー、いや、そうじゃなくて。…………曲がな」
と、呟いた。
「曲? 大きな古時計が、なにか?」
自動オルガンから響いて来るのは、とても良く知られた古い曲。
ひとりの男と生涯を共にした古い大きな時計の歌。
八戒の好きな曲のひとつだ。
──ひょっとして、悟浄にも何か思い出があるのだろうか?
どこか気の抜けてあたたかな音に耳を傾けながら、八戒は悟浄の横顔をそっと伺う。
けれど、悟浄は八戒のそんな言葉にも、
「大きな古時計? って曲なのか、アレ」
と、八戒には少しばかり間が抜けて聞こえる台詞を返したのだ。
「知らないで足を止めたんですか、あなた」
呆れた声になったのぐらい許して欲しい。
「ヤ、だからメロディだけ聞き齧っててだな、だから……」
「だから曲目は知らなかった」
「そーそー」
しどろもどろになりながら、律儀に言葉を返す悟浄が妙に可愛い。
だから、八戒はふと思い付いてひとつの提案をした。
「じゃあせっかくだから買いますか?」
「……買うって、なにを?」
「……この曲に決まってるでしょう。あのオルガンの音じゃなくてもCDの1枚や2枚探せばきっとありますよ」
そうすれば、聞き齧りだという曲を全て聴けて、ずっと手元に置いておける。
言った八戒に、何故か悟浄はすかさず首を横に振った。
「い、いいって!」
「いらないんです? 欲しかったんじゃないんですか?」
「違う」
「気に入ってるんじゃないんです?」
「いや、それは……気に入ってるけど」
「じゃあ」
「いやだから俺はそこまで好きってわけじゃないんだって!」
「そうなんですか?」
「そうなんです」
このままではなんだか微妙な堂々巡りだ。
いつまで経っても埒が開かない。
思った八戒は、質問を変えることにしたのだ。
「じゃあ誰が好きなんですこの曲を? 酒場のおねえさまですか?」
「違う!」
なんとなくだが即答が嬉しい。
「じゃあ……三蔵、は、あり得ないですよね。悟空」
「…………」
今度は悟浄は答えずにただただ深い溜め息を吐いた。
これは、当たりということだろうか。
「買います? せっかくだから悟空にあげたら」
しょっちゅう小馬鹿にしているように見えて、実は弟のように悟空を可愛がっている悟浄だから、悟空の好きな曲だというなら買って渡してあげよう、と。
そう考えた八戒に、けれど悟浄は今度は小さな溜め息を吐いて、
「だから、いいって。…………だいたいサルにそこまでしてやるこたねーだろ」
と、嘯いた──ように、見えた。
「そうですか?」
「そーです。」
なんだか納得の行かない八戒だけれど、ここで食い下がるのも妙な話だ。
だから、その話はそこで終わりにして、そのまま帰路に着いたのだ。
さして重いものも買わないから、とひとりで買い出しに出た街で、またあの自動オルガンを見かけたのだ。
ある程度レパートリーも決まっている──というのは機械に対するにはおかしな言葉遣いかもしれないが、演奏出来る譜面の数は決まっているのだろう。
タイミングもあったのだろうが、その時も、オルガンから流れて来るのはあの日と同じ、大きな古時計、だった。
だから、ふと、思い立ったのだ。
もうすぐ悟浄の誕生日だから、この曲を悟浄に贈ろうと。
妙なところが自分と似て、あまり物欲のない悟浄だから、実は誕生日のプレゼントを決めかねていた。
悟浄には、本当に欲しいものを欲しいと言えない──欲することを許されると思っていない節がある。
さらに言えば、おそらくは彼の『本当に欲しいもの』は、形在るものではないように思えて、だから八戒はプレゼントを決めかねていた。
大層なものを欲しがる悟浄でもない。
ならばいっそ気軽なものを。
悟浄が少しばかり気にして、けれど自分では手に入れようとしないものを。
今回に限って言えば、あの曲を。
CDでは味気ないから、音の綺麗な小さなオルゴールがいい。
似合わない、と笑い飛ばせるぐらいのものが多分良いのだ。
悟空が好きな曲なら、後でそのオルゴールがあの少年の手に渡っても構わない。
兄弟のようにじゃれあう悟空と悟浄がうらやましくないと言えば若干嘘になるが、悟浄にとってきっとそうであるように、太陽のようなあの少年は、彼の保護者と同様に、八戒にとっても『光』だから。
それに、八戒自身があの曲を悟浄に贈りたいと思ったのだ。
自分も好きな曲だから。
自分の好きな曲を、自分が心を許した相手も、好きでいてくれるなら、嬉しい。
第一、所詮誕生日のプレゼントなど、突き詰めれば贈り手の自己満足なのだから、自分が贈りたいものを贈って良いはずだった。
屁理屈だ。判っている。
けれど、贈りたいのだからいいじゃないか。
そう思って、八戒は、大通りを1本入った裏道に店を構える、雑貨店へと足を運んだのだった。
日付けが変わる瞬間を狙って悟浄の好きなワインを開け、グラスを合わせて乾杯してから、八戒はチーズを補充するふりをして、キッチンとリビングを往復した。
もちろん、プレゼントを隠し場所から取り出すためだ。
リビングに戻った八戒は、艶のある漆黒の包装紙に深紅の細いリボンをかけた小さな包みを、そっと悟浄の掌に置いた。
「…………八戒?」
「はい」
「なに、コレ?」
「プレゼントです」
「……俺に?」
当たり前のことを悟浄は訊く。
「当り前でしょう。あなたの誕生日に、あなた以外の人へのプレゼントを、あなたに渡してどうするんです」
苦笑混じりに答えると、悟浄は微妙に口をへの字に曲げて、
「……さんきゅ。」
と、呟いた。
失礼だとは判っているが、どうにも可愛く見えてしまう。
こみあげる笑いを噛み締めていると、悟浄がわずかに上目遣いで
「開けてイイ?」
と訊ねて来る。
「どうぞ」
頷くと、乱雑に包装を破るかと思った八戒の意に反して、悟浄はやけに丁寧に、リボンをほどき、テープをはがして、そっと取り出した中身を掌に載せた。
「八戒、これ……?」
「オルゴールです」
「オルゴール!? 俺に!?」
──似合わねー!
悟浄の心の声が聞こえる気がする。
それでも、
「どうぞ、鳴らしてみてください」
言うと、悟浄は神妙な顔をして、側面についた金色のネジをゆっくり回し、やがて流れるだろう音に耳を澄ませた。
カチリ。
小さな音を最初に立てて、オルゴールが澄んだ音色を響かせはじめる。
聞こえるのはもちろんあの曲で。
「誕生日おめでとうございます、悟浄」
「…………さんきゅ」
何度も何度も繰り返される古い歌の音の合間に、そっと紡がれた悟浄の言葉と、その時の悟浄の表情に、これにしてよかった、と、八戒は思った。
悟浄の誕生日から10日ほどが過ぎた頃、とある相談事を持ってやって来た悟空が、そのオルゴールを目にし、音を鳴らして、しばらく耳を傾けてから、八戒にこんなことを言ったのだ。
「な、八戒、これって八戒がときどき歌ってる歌だよな!」
──驚いた。
「は? 歌ってますか、僕?」
そんな自覚はまるでなかった。
確かに好きな曲だけれど、自分が歌っているとは思わなかったのだ。
けれど、悟空は笑いながら
「歌ってるってゆーか、なんだろ、鼻歌? たまにだけど、歌ってるよ?」
と言うのだ。
心底驚いた。
まさか、と、思った。
まさか、悟浄がこの曲のメロディだけを知っていたのは。
まさか……ひょっとして。
「八戒?」
突然黙り込んだ八戒を、悟空は不審に思ったのだろう。
首を傾げて金晴眼で、じっと八戒を見上げて来る。
それに
「いえ、なんでも……。そうですか、歌ってましたか、僕」
答えると、
「うん。俺、八戒の歌うこの曲好きだよ」
言って悟空が無邪気に笑った。
どうしても祝いたいんです。すでに業です(笑)。温い眼で見守ってやってください。
「Happy
Birthday、悟浄!」
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