──Dark Red──
11月8日の夜は、悟浄は盛り場に出掛けない。 11月に入って、悟浄の様子がおかしくなった。 実際その年のそれからの2日間、悟浄の“ひどさ”は相当だった。
賭事の上がりが収入の全てだった頃はともかく、三蔵の依頼や、そこから派生して街の住人からも入るようになった依頼でも稼ぐようになった今では、“盛り場に出かけない夜”もさして珍しくはないのだが、それでも、11月8日の夜は悟浄はどこへも出掛けないし、出掛けても日付けが9日に変わる前には帰る。
八戒とふたりの時もあれば三蔵達のいることもある。場所が“家”でないこともあるけれど、とにかく悟浄はその日その時“自分のいるべき場所”にいる。
それは、ここ数年ですっかり定着した、沙家のこの日の習慣だ。
だから、今夜も悟浄は家にいて、だから八戒はグラスを取り出し、リビングのソファですっかり寛いでだらしなく寝そべる悟浄の前に、コトリ、小さな音を立てて置くのだ。
静かに時を刻む秒針が12を過ぎれば日付けが変わる。
11月9日に、なる。
「9日ですね」
つけっぱなしのテレビの画面が切り替わったのを横目で眺めて、ボリュームを落としながら八戒が囁くと、悟浄は
「あー、だな」
と、のそりとソファから身を起こした。
「……誕生日おめでとうございます」
やはり静かに囁いた八戒に、悟浄が
「…………サンキュ」
呟いて、淡く、ひっそりと微笑う。
その笑みの意味を、そこに宿る悟浄の想いを、八戒は知っている。
まるで他人事のように悟浄自身が語った過去。
軽薄な仮面の内側を垣間見た、あれは八戒が悟浄と暮らすようになって、最初に迎えた11月9日だった。
正確にはその少し前からなのだが、11月に入った途端、感じる違和感が大きくなった。
まず段々と口数が減った。
共に暮らし始めて数カ月、まだ”2人の暮らし”に慣れないせいでぎこちなく数も少ない挨拶が、ここ数日で更に減った。
それまでは、八戒からかける「おはようございます」や「お帰りなさい」に、「おはよう」や「ただいま」は返さないまでも「おー」ぐらいは返していたものが、11月に入ってからはそれすらなくなってしまった。
最近になって浮かぶようになった“皮肉のない笑み”が減って、皮肉な笑みまでもが少なくなった。
更に、食事の量も減った。
……といっても夜外出する悟浄が外で食事を済ませることは珍しくもないからこればかりはどうとも言えないのだが、それでも、家にいる時に食べる量が、それまでとは減っている気が八戒にはした。
けれどそれは、“他人のいる生活”にやはり慣れない悟浄が八戒に対して抱く苛立ちの現れか、とも思えて、原因を判じかねた八戒は、まだ悟浄に何も訊けず、同様に何も言えずにいた。
どうしても気になった八戒が、買い物に出た時にたまたま出会った数少ない顔見知りで悟浄の飲み友達でもある女性に、様子を訊ねてみたのが2日前。
その時の彼女の答えが
『悟浄? 別に普通よー。いつもより元気なぐらい。どうして?』
だったから、八戒は、自分が覚える違和感を、気のせいか、でなければ“自分といるせい”だ、と判断して、それ以上の行動を取れずにいたのだ。
──裏目に出た。
いや、逆に正しかったのかもしれないが、己が行動の遅さを八戒は密かに悔やむことになった。
悟浄が吐いたのだ。
11月7日の夜のことだった。
珍しく日付けが変わる2時間も前に帰宅した悟浄に、頼まれて作った鮭茶漬けを、3口ほども食べたところで、突然悟浄が洗面所へ走った。
慌てて追い掛けて、見れば、悟浄は床に膝をつき、洗面台に縋り付くようにして吐いていた。
「悟浄!?」
焦った八戒だ。
その日悟浄に出したものを咄嗟に考えた。
だが、悟浄がこの日家で食べたものといったら先ほどの鮭茶漬けぐらいなのだ。嘔吐の原因とは思えない。
加えて。
(これ…………胃液!?)
つまりそれしか吐くものが胃にないのだ。
(店でも全然食べてなかったってことですか)
食欲がないのか、食べられないのか。
いずれ体に良いことではない。
「悟浄……悟浄、具合悪いんですか? 熱があるとか? ねえ……悟浄っ」
崩れ落ちそうな悟浄の体を支えようと手を伸ばして、触れた悟浄の指の冷たさに驚いた。
「悟浄……?」
なんでもない、とでも言いたいのか、首を横に振りながら、悟浄はそれでも嘔吐を繰り返している。
もう吐くものも何もないのに、血を吐きそうなほど、何度も。
こんな悟浄を初めて見た。
そっと背を撫でていたわりながら、悟浄が落ち着くのを待つ。
やがて吐き気もなんとか治まったのだろう、力なく顔を上げた悟浄は、それでも
「ワリ……サンキュ」
と、笑った。
更に
「もうだいじょぶだから」
言うけれど、八戒にはとても信じられない。
「大丈夫にはとても見えませんよ。とりあえず口ゆすいで、それから何か……せめて水か白湯でも飲んで、体温下がってるみたいですから今日はこのまま寝て下さい」
心配で強くなる口調に、苦笑しながらおとなしく悟浄が従うのにも調子が狂う。
──こんなに弱い人だったろうか。
吐いたからだろうか、動作の緩慢な悟浄に付き添ってあれこれ世話を焼きながら、八戒の方が不安になった。
ベッドにもぐりこんだ悟浄の顔色は、いつもよりも格段に悪かった。
「……食べてなかったんですか、何も?」
「あ? あー…………うん」
「いつから?」
少なくともここ数時間は何も胃に入れてないはずだ。たかが茶漬けに吐き気を催したところから推測するに、朝からほとんど何も食べていないのではないだろうか。
だが、眉をひそめて予想しながら八戒が発した問いに返されたのは、予想以上に悪い回答だった。
「どうだろ? 一昨日ぐらいはまだ多少食えてた気がするけど……」
「一昨日!? ちょっと待って下さい悟浄だってあなた昨日……」
確か八戒は昨日の昼に、“悟浄にとっての朝食”を軽く出したはずだった。
「あー、アレな……悪ィ、後で全部吐いた」
「全部!? ちょっと……ってことはその前から吐き気はあったってことですか?」
「あー……まあ、そんな感じ?」
「そんな感じって……」
答える悟浄の声は弱々しいが、そんなことに構っている精神的な余裕が八戒にはない。
「だって4日だか5日だかに聞いた話だとあなた賭場じゃ普通だって……」
言い募ると、悟浄は、マズいことを知られた、とばかりに、ふい、と視線を脇に流した。
「……わざと普通なフリをしてた、ってこと……なんですか」
わざと普通なフリをして、わざと食べられるフリをして、その実食べられずにこうして吐いているところを見ると、おそらく八戒が感じ取っていた違和感は、あれは……本当に“そう”だったのだ。
「どうしてです?」
何故急に口数が減って、何故急に不機嫌になって、何故、急に食べられなくなったのか。
踏み込み過ぎる気はしたけれど、どうしても悟浄が心配で、つい訊ねてしまった八戒に、悟浄が返した言葉がこれだった。
「明後日。」
「え?」
「明後日。9日。誕生日。」
端的に告げられた言葉の意味を測りかねて目を見開いた八戒に、悟浄はやはり
「誕生日、だから。もうすぐ」
と、言った。
「それが、理由……なんですか」
それが、全ての理由になるのか。
訊ねて、無言で肯定されて、八戒は絶句した。
──この人は、いったい……
それが全ての理由になるほどの、どんな重い過去を悟浄は背負っているのか。
どれほどの思いを抱いているのか。
己にとっての誕生日がとても祝えるものではないだけに、だからこそ八戒はそこに隠されたものの大きさに気が付いた。
「……ああ、なるほど」
道理で9月、誕生日に壊れた八戒を、悟浄があっさり受け入れたわけだ。
“紅”に血を見た自分達は、誕生日にも種類は違うが大きなわだかまりを抱えていた。
この巡り合わせは一体何の差し金だろうか。
育った環境も性格もまるで違うのに、自分達には確かに似ている部分がある。
だからこそ判るものがある。
(やれやれ、ですね)
心中そっと溜め息を零した八戒だ。
が、八戒が黙り込んだのをどう思ったのか、バツの悪そうな声音と顔で伺うように悟浄が言った。
「あー、その……八戒? ワリ。」
「何がです?」
「や、その……店だとなんか誤魔化せンだけどよ。家だと……どうもな」
不機嫌も吐き気も隠せない、と。
「タルんでるのかね」
済まない、と、悟浄は妙に遠慮がちだ。
自分がまだ悟浄との距離を上手く掴めないのと同様に、悟浄も自分との距離を掴めないのだろうと思った。
だが、何故だろう。
それが、今は嬉しかった。
「いいですよ」
「あ? 何が?」
「全部。いいです。隠さなくていいですから、だから、家でくらいタルんでください」
「いいワケ?」
「いいですよ。だってここあなたの家でしょう」
「俺、9日過ぎるまで多分これからもっとひどくなるけど?」
「だから、いいですって」
理由が判っているのなら、八戒にはむしろその“ひどさ”が安心材料なのだ。
「無理に笑ってられるよりよっぽどいいです」
告げると、悟浄は照れくさそうに、
「……サンキュ」
と、言った。
喋らない。食べない。笑うなど論外。
それでも、買い物に出た街では、誰も悟浄の様子に不審を抱いていないようだったから、そのギャップにも驚いた。
翻って家での悟浄は、眼差しすら冷たく凍って、身を包む空気も氷のようで、少なからず困惑したのを覚えている。
数日何も入れていなかった悟浄の胃は、わずかの刺激にも過剰の反応を示したために、その後2日ほど、八戒は食事にもひどく気を使ったものだ。
『アンタなんかいなきゃ良かった、って、オフクロにずっと言われてたせいかもな。誕生日が近付くと食えなくなンだわ』
“生まれてこなければ良かった”は、いつの間にか深層心理で“生きていてはいけない”に変換され、自分の生まれた日が近付くと、無意識かつ自動的に、こういう形で発動するらしい。今までずっとこうだった、と。
そんな言葉と共に語られた悟浄の過去は壮絶で、それらを理解し、誕生日に対する悟浄の反応に納得した八戒は、翌年以降の11月9日に、その瞬間、腹を決めたのだった。
だが、そこまで酷かったのは、最初の年だけだったのだ。
翌年、悟浄はさほど食欲を落とすこともなく、最初の年ほど不機嫌になることもなく、比較的普段に近い状態で9日を迎えた。
ただ、賭場に出かけないのが前年と違っていた。
悟浄が11月9日を“家”で過ごすようになったのはそれからだ。
『家にいる方が気が楽だ』
言って笑った悟浄に安堵したのを覚えている。
9日当日に「誕生日おめでとう」を受け取ってくれるようになったのはもう少し後だったけれど、今はそのわだかまりもない。
だから、毎年11月8日の深夜、日付けが変わる頃になると、八戒はグラスを取り出し、悟浄の前にそっと置くのだ。
グラスの数は今年は2つ。
三蔵や悟空や、悟浄の誕生日を知るごく少数の街の友人達とは、今年は9日の午後にパーティーをすることになっている。
以前は『誕生日おめでとう』と言われることすら嫌っていた悟浄が、今はそれを受け入れるのが、八戒は嬉しかった。
「誕生日おめでとうございます」
囁きながらグラスにワインを満たすと、悟浄も
「サンキュ」
軽く答えて口元に笑みを浮かべる。
「ちなみに新酒ですからね、これ」
「へ? そーなの? だって解禁てまだじゃねーのか」
「ボジョレーはもう少し先ですけど、それより新酒の解禁が早い国もあるんですよ。これは、そこのです」
せっかくだからつまみの生ハムやチーズもその国のもので揃えてみたのだ、と、軽く蘊蓄を傾けると、悟浄は妙に素直に
「へぇー」
と頷いた。
グラスをそっと部屋の明かりにかざす。
光に透ける若い酒の色は、赤だ。
「綺麗な赤でしょ?」
「ああ。だな」
応えて笑う悟浄に、もう“あか”を嫌う陰はない。
誕生日を──その日贈られる言祝ぎを、厭う陰も、ない。
「八戒さんを祝ったんだからどうせ今年もやるんだろう」と予想済みだった方々、正解です(自爆)。
「Happy
Birthday悟浄!」
八戒さんを祝ったからには悟浄もお祝したいんです自分的に。
とか言いつつやっぱりまるでめでたくない雰囲気の話になっているのですが(苦笑)。
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