やわらかな午後の光が木々の間から降り注ぐ。
長安に近く、緯度も高いこの辺りでは、秋の訪れもそこそこ早い。
夏に青々と茂っていた草花は、そこかしこであるものは枯れ、またあるものは淋しげな風情を漂わせながらも凛然と己が花を咲かせているし、やはり夏に葉を茂らせ養分を溜め込んだ落葉樹は、大半が既に紅葉の盛りを迎えつつある。
日の光を受けて金にも輝く黄。穏やかに色付く金茶。その色自体が浮き上がって見えるほど艶やかな紅。そして、それらをより鮮やかに見せる常緑樹の濃い緑。
この森の秋の錦は今が見頃だ。
中でも一際鮮烈に紅く染まって目を引くのが、悟浄の目前に立つ楓だった。
桜などを除けば、どの木にどういう名がついているのかほとんど知らない悟浄だが、さすがにこのくらいは判る。
特徴的な形と、色。
目を閉じてもその閉じた視界に浮かぶほど、印象的な、紅、だ。
くるり。くるくる。くるくるくる。
色付いた楓は、その葉の形ゆえか、踊るように回転しながら枝を離れ風に舞う。
後から後から、くるくると、まるで同じ旋律を繰り返すように、紅い楓が舞い落ちる。
昔はこの色が大嫌いだった。
彼の人が憎んだ色だと思えば、好きになれるはずもなかった。
世の中のおよそ“あか”と名の付く色が嫌いで嫌いで、木々が赤や黄に染まるこの時期は、それらを視界に入れないように、意識を向けないように、していた。
それが……今はどうだ。
目に映る紅を、色付く木々を、綺麗だと思う自分がいる。
素直に、そう思う自分がいる。
(……まったくね。)
悟浄は淡い笑みを口元に刻んで、煙草を取り出し火を付けた。
深く吸い込んだ煙を細くゆったり吐き出せば、日の光に照らされて、ただの煙まで白く輝いて綺麗に見える。
その、ほの白い煙を透かしてなお、舞い散る楓は鮮やかに紅い。
血でも、自分の色でもない、紅。
戯れに手を伸ばすと、余程タイミングが良かったのか、赤子の手のひらのようなそれが、1枚、悟浄の手の中に舞い降りた。
軸を摘んで光にかざす。
──いい色だ、と、思った。
思い出すのはあの言葉だ。
「綺麗な赤ですね、か」
彼の──八戒の、あの一言が始まりだったように思う。
戒めだと言ったこの色を、彼があの時綺麗だと言ったから、だから、あの時から自分は、少しずつこの色が嫌いでなくなっていったように思うのだ。
馬鹿馬鹿しい、と三蔵に鼻で笑われ、燃えているみたいな色だから熱いかと思った、と悟空に言われて、そうして八戒が綺麗だと言った。
彼等に出会って変わった自分を知っている。
昔は出来るなら消したいくらい嫌っていたこの日を、笑って過ごしていられるのも、全部彼等に出会ったからだ。
彼女を苦しめるだけの自分が、生まれたこの日が嫌いだった。
だから、同居して初めて迎えた誕生日に八戒が壊れた時、その理由を聞いて納得したのだ。
その時は納得された事に驚いたらしい八戒だったが、後日、誕生日の近付いた悟浄が、おそらくその日自分も大なり小なり荒れるだろうから、と、理由とともにそう告げると、
『ああ……なるほど』
と、彼も納得して頷いた。
実際、その年の誕生日、悟浄はかなり不機嫌だった。目も合わせず外出もせずろくに喋りもしない自分に、八戒が少なからず困惑するのを、他人事のように見ていた覚えがある。
それでも、少しずつ、誕生日が嫌いでなくなって。少しずつ、誕生日を誰かに祝ってもらうことにも慣れた。
挙げ句今年は、これから催されるパーティーのために悟浄1人ハミングバードから閉め出され、呼ぶまで来るなと言い渡されて、迎えが来るのを心待ちにしながら、嫌いだった紅葉を穏やかに眺めていたりするのだ。
人も変われば変わるものだ、とは、悟浄の胸にしみじみ浮かぶ感慨である。
くるり。くるくる。
後から後から降りしきる落ち葉に、悟浄はふと、音楽のようだと、思った。
己が誕生日、床に踊る光を見てワルツのようだと言った八戒が、思い付いたように確かひとつの名を挙げた。
同じ旋律を繰り返し、時に変調し時にアレンジを加えながら何度も何度も主題に戻る、そんなスタイルの音楽があるのだと。
ワルツ同様、舞踏曲の一種だという、その音楽の名を、思い出せない。
煙草の煙を吸い込んで、ゆっくり味わい吐き出す間に、記憶の中を探してみる。
「……なんだっけなぁ、アレ」
首を傾げながら呟いたその時だ。
サクサクと落ち葉を踏む音が背後に響いて、すっかり馴染んでしまった声が悟浄の耳に飛び込んだ。
「何だ。物忘れか。とうとうボケたなエロ河童」
「…………三蔵」
声の主は玄奘三蔵。金髪紫眼の最高僧だ。
「……何でお前がここに来るわけ?」
まさか“迎え”とはこの男か。いやそれよりも、何故ここにいるのが判ったのか。
驚き半分呆れ半分、言うと三蔵は嫌そうに答えた。
「言われたんだよ八戒に。お前を迎えに行け、とな。探す場所もアイツの指示だ」
迎えが行くのが判っているから、家にいなくてもそう遠くにはいない、せいぜい裏庭から呼べば声が届く程度の、森の中のどこかだろう、と、そう八戒は言ったらしい。ついでに探す方向まで指示したというから恐れ入る。
「はあ……そうですか」
苦笑混じりに悟浄が呟くと、三蔵は心底呆れた、かつ嫌そうな顔で
「しかもホントにいやがるし」
──行動読まれまくりだなお前。
と、言った。
そういうお前だって、とは、敢えて言葉にしないでおいた。意趣返しは月末でいい。
代わりにニヤリと笑って言ってやる。
「そう言う三ちゃんだって、アイツ等に使われてんじゃん」
途端不機嫌さを増す三蔵である。
答える声も苦々しい。
「しょーがねぇだろう! 八戒は八戒で料理は全部自分が仕切るって腕まくりで張り切っちまってるし、玉連も蘭芳もマスターも悟空もみんな揃って何が楽しいんだか笑いながらアイツにこき使われてるし!」
「で、三ちゃんもこき使われた、と」
多分八戒はあの有無を言わせぬ笑顔でもって、三蔵にこの役割を言い渡したに違いない。
その度胸と強さには敬服するばかりだ。
もっとも、こういう時の八戒に逆らえる存在を、悟浄は1人として知らないのだが。
半ば共感と同情を交えてクツクツと悟浄が笑うと、今度こそ不機嫌の度合いが我慢の限界を超えたらしい三蔵が、今日ばかりはラフな私服の、どこかのポケットから愛用の銃を取り出し、悟浄にピタリと照準を合わせた。
「うわ待った待った!」
慌ててホールドアップし逃げた悟浄だ。
が、木漏れ日が色付いた葉を照らす午後の森に、銃声が響く事はなかった。
「ふん」
鼻を鳴らして三蔵が銃を仕舞うのは、今日という日のためだろうか。
「……めっずらしい……」
思わず呟いてしまった悟浄に、今度は一瞬の躊躇もなく、三蔵がS&Wのトリガーを引いた。
「死にたいならいつでも望みを叶えてやる」
「…………お前それ撃つ前に言えって」
「うぜぇ」
毎度お馴染みのやりとりである。
悟空と悟浄がじゃれあい、三蔵が怒って、八戒が笑顔で黙らせる。でなければ、悟浄が三蔵をからかって、怒った三蔵がS&Wをぶっ放し、そこかしこに穴が開いたところでやっと八戒がたしなめる。
何度も何度も繰り返す、これは既に4人のレクリエーションにすらなりつつある。
まるで八戒が教えてくれた舞曲のようだ。
名を思い出せないのが悔しいけれど。
「何つったっけなぁ、あれ」
舞い落ちる葉を眺めながら、悟浄が小声で呟くと、時間を気にしたらしい三蔵が、先に歩き出しながら悟浄を呼んだ。
「おい、行くぞ。遅れるとヤツ等が煩せぇ」
「あー。へいへい」
気のない返事をしながらも、悟浄の足取りはとても軽い。
誕生日を祝ってもらうことが嬉しいから──“彼等に”祝ってもらうことが、本当に嬉しいから、だからこそ、悟浄は、言われて素直に歩き出し、足取りも軽く歩を進める。
短くなった煙草を携帯灰皿に入れ、裏口から家に入り、玄関に鍵をかけて、街へ。
カチリ、と鍵のかかる音を聞いた時だ。
悟浄の脳裏に1つの言葉が浮かんだ。
──ロンド。
あの時、やはり家に鍵をかけながら八戒はこう悟浄に言った。
『ワルツは円を描いて踊る曲だから円舞曲とも言うんです。で、輪舞曲っていうのもあって……ロンドって言うんですけど、それは、1つの旋律を主題にして調を変えたりアレンジしたりちょっと別の旋律を挟んだりしながら、主題を何度も繰り返すんです。だから、こちらの“輪”は、舞踏の形じゃなくて音楽の形なんですよね。他には……』
蘊蓄を垂れる八戒がやけに楽しそうに見えて、呆れながらも嬉しかったのを覚えている。
何度も何度も繰り返し、何度も何度も同じところへ。
毎年やってくる誕生日なら、繰り返し覚える感情は、暗いより明るい方がいい。
悟浄が、八戒や、悟空や三蔵に、生まれた事を厭わないでほしいと思ったのと同じように、多分、彼等も思ってくれた。
悟浄に、そうあってほしいと、彼等も。
誕生日を祝える今を、くれたのは、彼等だ。
くるくるくる。
手に持ったままだった楓の葉の、軸を回せば、艶のあるその色が光に映えた。
悟浄の足を街に向けさせさえすれば役目は終わりと思っているのだろう、三蔵はさっさと先に行ってしまった。
別段急ぐでもなく、悟浄はゆったりと足を運ぶ。
ふわり、少し強く風が吹いて、音を立てて木の葉が散る。
楓の葉をひとしきりくるくる回していた悟浄は、楓を持った手を高く掲げ、紅い葉をその風に放った。
「さーて。祝われに行きますかね」
──彼等が待つ、あの店へ。
笑みを含んだ悟浄の声に乗せて、踊るように紅い髪が風に揺れた。
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