──Deep Purple──

 

 

 

 11月29日の午前0時を悟空が眠って迎えることはない。
 たとえどれほど疲れていても、翌朝が早くても、その夜のその時間、悟空は必ず起きている。
 テーブルには酒か、茶。それから何かつまむものを。それも酒に合わせた肴だったり、茶に合わせ、甘いものが実は好きな三蔵の好みに合わせた饅頭や焼き菓子だったり。
 この時ばかりは庫裏方に頼まず自ら街で仕入れてきたものを、嬉しそうに、楽しそうに、悟空は時に鼻歌も交えて卓に並べる。
 もちろん、全ては三蔵のため。
 そして三蔵の“誕生日”を祝いたい自分のためだ。
 三蔵と悟空ふたりだけのこともあるし、悟浄や八戒達が一緒のこともあるけれど、それでもこの夜だけは、酒や茶を注ぐのも皿を並べるのもメインは悟空で、他はあくまでも“手伝い”である。
 今夜はふたり。酒はワイン。
 グラスに注いで向い合せに椅子に座り、
「“誕生日”おめでとー、三蔵」
 言うと、ぶっきらぼうな悟空の保護者は気のなさそうな声でひとこと
「ああ。」
 と答える。
 無愛想なその言葉に、悟空が満面の笑みを浮かべるのは、この日に対する三蔵の思いを誰よりも知っているからだ。
 もう何年前になるのだろう。
 あれは出会って最初の11月29日だった。

 

 

 その日の三蔵は、朝からずっと不機嫌だった。
 朗らかに笑う三蔵など逆に不気味だと悟空は思っているが──そしておそらく寺院の他の僧侶達もそうに違いないのだが──、三蔵の眉間のしわがいつもの5割増しなのだ。
 瞳の紫が深く暗いのも、機嫌の悪い証拠だ。
 数日前からずっと、時折いらいらする様子を見せていたのだが、今日はそれが一段とひどかった。
 そしていつもと違うことがひとつ。
 勤行の最中はもちろんだが、書類決済といった仕事の間も、悟空が執務室にいると怒る三蔵が、何故かここ数日はそれを許してくれていた。
 更にいつもと違うことがもうひとつ。
 三蔵の仕事中、僧侶が部屋を訪れる回数が、なんとなくだが段々増えている気がするのだ。
『急ぐ書類ですが数が多いので、我々の確認が終わったものから少しずつでも』
 と言いながら、数枚ずつ書類を小分けに持参したり。
『途切れなしでお疲れでしょう、御休憩を』
 とか
『喉がお乾きではありませんか』
 とか言いながら、それこそ1時間ごとに茶や菓子を持って来たり。
 その度に三蔵に
『余計な気を回すなまとめて持って来い』
 と怒られたり
『いらん』
 とか
『何度も来るな鬱陶しい』
 とか、嫌そうーに言われたり。
 それでも何度も、手を替え品を変え人を替え僧侶達はやって来て、その度に何か言いたそうな聞きたそうな顔をして。
 そうして、三蔵に舌打ちされたり怒られたりして、恐縮しながら帰って行くのだ。
 さすがに回数が増えると見る気すら失せるらしい三蔵が、茶や菓子をくれるため、悟空的には密かに嬉しかったりするのだが、今日に至っては朝食の時からもうそれで、さすがに悟空も、何事か、と首を傾げてしまっていた。
 ついでに言うと、ここ数日そうやって三蔵の部屋を訪れるのは、比較的頭の柔らかい、悟空にも優しい僧侶達ばかりで、実は彼等が気の毒になっていたりもする悟空である。
 つい先程やってきた僧侶もそうだった。
 休憩を、と言って三蔵の好きな餡餅と茶を持って来て、何か訊ねたそうな顔をしながら、鬱陶しがられついでに舌打ちまでされて、どこか淋しそうにすごすごと帰って行った。
 いくら悟空でも、おかしいと感じもしようというものだ。
 けれど。
「三蔵?」
「なんだ」
「なんか怒るようなこと、あった?」
 訊いても、
「別に。何でもねーよ」
 としか、三蔵は答えてくれないのだ。
 困ってしまった悟空である。
 どうやら三蔵は自分に対して怒っているわけではないようだけれど、三蔵が不機嫌なのは嫌だ。
 笑ってほしいなどという無茶──悟空はそれが『無茶』だと思っている──を言う気はないが、それでも眉間のしわは少ないに越したことはない。
 それに、自分と仲の良い僧侶達ががっかりする顔を見るのもなんだか嫌だった。
「三蔵?」
「なんだ」
「ちょっと外行って来る」
「好きにしろ」
 断わりを入れるのは被保護者の礼儀だ。
 そうして、するり、三蔵の執務室から廊下へ出た悟空は、とりあえず、先程の僧侶がいるはずの、寺院の庫裏方へと足を向けたのだった。

 

 数分後。
 三蔵の執務室に戻った悟空は、たいした前置きもなく、三蔵にこんなことを訊ねた。
「三蔵。たんじょーびって、なに?」
「ああ? ……生まれた日だ」
 与えられたのはおそろしく端的な回答だった。
 だが、こんなことで悟空はめげない。
 更に訊いた。
「生まれた日って、誰が?」
「……俺でもお前でもいい、とにかく誰かが生まれた日だ。ある存在がこの世に生まれた日を誕生日と言うんだ判ったか」
 今度は長めの言葉が返る。
 “人間”と言わずに“存在”と言うのが三蔵らしい。
「ふぅん」
 呟いた悟空に今度は三蔵が訊ねた。
「おい、猿。なんで急に誕生日なんて言い出した」
「え? さっき庫裏方行ったら話してた。たんじょーびなのにお祝いもさせてもらえないって」
「盗み聞きか」
「違うよ」
 盗み聞いたわけではない。彼等は普通の声で話をしていたのだから、誰に聞かれて悪い話でもなかったはずだ。
 もっとも、それを耳にした悟空が
『たんじょーびって何? お祝いって?』
 と訊ねても、
『悟空が気にすることではないよ』
 と穏やかに言われてしまったから、それが何か判らなかった。
 機嫌がよろしくないらしい三蔵に遠慮して庫裏方へ向かった悟空だったが、こうなると教えを請う相手はやはり三蔵以外にない。
 そうして訊ねて、返された言葉が『アレ』だったのだ。
「なあ、たんじょーびって祝うもんなのか?」
「……そういう奴等もいるな」
「じゃあ、三蔵のたんじょーびはいつ? 三蔵はお祝いすんのかその日?」
 途端、三蔵の動きが止まった。
 悟空にしてみれば至極当然の質問だったが、ビキリと何かが割れる音を聞いた気がした。
 何か聞いてはいけないことを聞いただろうか。
「…………三蔵?」
 恐る恐る名を呼んだ悟空に、三蔵は溜め息混じりの言葉を返した。
「11月……29日だ」
「11月…………? って、それって今日じゃん!」
「そうとも言うな」
「三蔵ーーー」
 やっと判った。
「じゃあ、みんながお祝いさせてもらえないって言ってたの、あれ、三蔵のことじゃないのか?」
 多分そうだ。
 9割の確信を持って問いかけた悟空に、三蔵はやはり気のない声で
「そうかもな」
 と、ひとこと言った。
 更に思い付いたことがある。
「それじゃあさー、こないだからお茶とかお菓子とかみんなが持って来るのって、あれも三蔵のお祝いじゃないのか?」
 これにも三蔵が返した言葉はただ
「そうかもな」
 だけだった。
「……三蔵?」
「なんだ」
「嬉しくねーのか?」
「別に」
 ──変だ。
 “誕生日”が嬉しくないものなら、何故みんなが“お祝い”したがるのか。
 首を傾げた悟空だったが、そこで先ほどの三蔵の台詞を思い出した。
 誕生日とは祝うものなのか、と訊ねた悟空に、三蔵は確か答えたはずだ。
『……そういう奴等もいるな』
 と。
 そして思った。
 そういう奴等もいる、ということは、そうでない人もいる、ということで、今、三蔵が、誕生日を祝いたいみんなを前にしながら「別に」と言うのは、三蔵が“そうでない人”だからではないかと。
「……三蔵?」
「だから何だ」
「嬉しくないのか、たんじょーび」
「だから別にっつってんだろうが」
「なんで……?」
 何故、三蔵は嬉しくないのだろう。
 何が、嬉しくないのだろう。
 生まれた日か。
 生まれたことか。
 ひいては生まれて、生きてきて、悟空をあそこから連れ出してくれて、そして共に在る今が、か。
 もしもそうなら、それが嬉しくないということは。
「じゃあ…………イヤ、なのか? 三蔵」
 生まれた日が。
 生まれたことが。
 ひいては生まれて、生きてきて、悟空をあそこから連れ出してくれて、そして共に在る今が。
 ひょっとして三蔵は嫌なのだろうか。
 と。
 そこまできちんと言葉になっていたわけではない。
 悟空の脳裏には大きく『全部が』と──しかしある意味非常に正しく──浮かんでいただけだったけれど、それが見詰める瞳に宿ったのか、声に、表情に宿ったのか、
「……………………」
 三蔵はしばらく悟空を見詰めて黙り込み、やがて、細く長く、呆れたような諦めたような溜め息をひとつ零して、
「……イヤでもねぇよ……別にな」
 と、ちいさな声で、言った。
 誕生日を祝われたいと三蔵が言ったわけではない。
 祝われるのが嬉しいと言ったわけでもない。
 更に言うなら『誕生日を祝われるのはイヤではない』と三蔵が言ったのでもないと、何故だか悟空には判ったけれど。
「そっか。…………なら、いいや」
 何故だか、その言葉を聞いた瞬間、悟空は
 ──それならいい
 と、思った。

 

 

 11月29日が実は三蔵の本当の誕生日ではなく、師匠の光明三蔵に拾われた日だと知ったのは、それからしばらく後のことだ。
 三蔵が誕生日に抱く思いを悟空が知ったのも、同様にしばらく後のことだった。
 誕生日前後に不機嫌だったのは、単純に僧侶達の言動が鬱陶しかっただけらしいが、師に命を助けられる形で生き残った三蔵が、“誕生日”というものに対して抱く思いは、悟空にはいつか癒える日の来ることを祈るしか出来ないほどに重かった。
 三蔵の瞳の色が深く暗い紫になるのは、単純に怒ったり不機嫌になったりしている時ではなく、その理由が自分自身にかかわることだったり、怒りの持って行き場がなかったりする時が多いというのに、悟空が気付いたのも同じ頃だ。
 普通に「誕生日おめでとう」を言わせてもらえるようになったのは、もっと後。
 とりあえず「誕生日おめでとう」を──わりと──素直に受け取ってくれるようになってからも、三蔵が返すのはぶっきらぼうな言葉だけだ。
 けれど、悟空は知っている。
 それが、実は三蔵の照れの表れだということを。
 多分、八戒も、悟浄も。
 だから、11月29日を迎える刻限、必ず悟空は起きていて、その日を三蔵と一緒に迎える。
 今夜の酒はワイン。今年の新酒。
 つまみは八戒と悟浄が「これこれ」と勧めてくれた、“料理”のいらないチーズとパンとクラッカーとディップだ。
 きちんとしたお祝いのパーティーは、29日の午後、八戒や悟浄や他の気の合う友人達と、ちゃんと、今度はごちそうつきで、やることになっている。
 実はそこへ三蔵を連れ出す使命も、悟空に与えられていたりする。
 それでも、今はふたりだから。
 悟空はワインを注いだグラスを掲げ、グラスに注いで向い合せに椅子に座って、
「“誕生日”おめでとー、三蔵」
 と言う。
 三蔵と在る今が単純に嬉しい。
 そうして、ぶっきらぼうな悟空の保護者は、気のなさそうな声でひとこと
「ああ。」
 と、答えるのだ。
 真向かう瞳は綺麗な紫。
 不器用で無愛想なその言葉に、けれど祝う気持ちを厭う色も陰もないのを、悟空はちゃんと知っていた。

 

 

 

 
と、いうわけで。
「Happy Birthday三蔵!」

ある意味(もなにも)予想通りと思われた方、いらしたら、正解です(自爆)。
八戒さんと悟浄を祝ったからには三蔵もお祝したいのが私です。
とか言いつつ、八戒さんや悟浄よりは幾分マシっぽいとはいえ
やっぱりあまりめでたくない雰囲気の話ですが(苦笑)。
掲示板メールでご感想などいただけると、茶寮主、泣いて喜びますのでよろしくお願いいたします。

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