傾き始めた太陽が、金の光を投げかけている。
冬至まで一月を切るこの時期の日暮れは早く、つい半月程前ならまだ明るく地上を照らしていた時間に、もう日の光に茜が混じる。
すぐにその色は赤みを増し、空も色を変えるのだろう。
そうなれば途端に気温も下がる。
いつまでもここにいるのも馬鹿らしい。
──さて、どうするか……。
マルボロの煙を吸い込みながらゆっくり踏み出した三蔵の足下で、カサリ、落ち葉が乾いた音を立てた。
三蔵がいるのは、悟浄と八戒が暮らす街のはずれ、街と外を隔てる門を出て、長安寄りに少し戻った雑木林の中である。
街道からもわずかに逸れたその場所は、紅葉の盛りならば散歩がてら訪れる人も少なくないが、木々も葉を落とした今の時期、しかも日暮れ間近とあっては、三蔵の他に人影などひとつも見つけられなかった。
もっと南なら季節はまだ秋かも知れないが、ここにはもうすぐ冬が来る。
ざわり。
葉を落とした木と常緑のそれの枝を揺らして、冷たさを増した初冬の風が吹く。
木を枯らす、と言われるその寒さに、思わずコートを羽織った肩を竦めて、三蔵は自らに悪態をついた。
(何だってこんなとこにいるんだ俺は)
──気が乗らなければさっさと帰れば良いものを。
コートのポケットに左手を突っ込んで、右手でマルボロをふかし、気のない振りを自分に対しても装いながら、けれどそう出来ない……しない自分を、三蔵はきちんと理解していた。
今日、11月29日は、三蔵の誕生日だ。
『ハミングバードでパーティーをします』
だから悟空も連れて来い、と、八戒に言い渡されたのは、月初めの悟浄の誕生パーティーの時だった。
三蔵本人はこの日を祝う気などさらさら持ち合わせてはいなかったけれど、有無を言わせぬ八戒の笑顔と、同様に笑顔で脅す蘭芳はじめ女性陣、それに、パーティー=ごちそうと悟浄に吹き込まれた悟空の金目に、面倒を嫌った三蔵は、あっさり白旗を掲げてしまった。
自分が『是』と答えた瞬間の彼等の嬉しそうな顔を、三蔵はその時不思議な気持ちで眺めたものだ。
何故、彼等はそうも喜ぶ?
だいたい何故、三蔵の誕生パーティーで、ハミングバードが貸し切りなのだ。
ハミングバードは八戒が働く喫茶店兼バーである。
だから八戒の誕生日に店を貸し切りにしてパーティーをするのはいい。常連である悟浄のそれを店でやるのもいいだろう。
だが、三蔵は常連になる程店を訪れているわけではない。知人と言える程度には親しいと言っても、マスターや、夫人の蘭芳、娘の桂花ともそうそうは顔を合わせないし、まして店の常連であって従業員なわけではない玉連達と会う機会は更に少ない。
それでも、悟空や八戒や悟浄のみならず彼等までが、こうして三蔵の“誕生日”を祝おうとする。
──して、くれる。
昔なら鬱陶しいだけだったその祝福を、そんな風に……『してくれる』と、思えるようになったのは、間違いなく彼等と出会ったからだ。
昔は、誕生日など、覚えてもいず、覚えていたくもない、1年の内のただの1日だった。
そもそも誕生日を信じてなかった。
生まれてすぐ川に流された身で、本当の誕生日など判ろうはずがない。
この日を誕生日と決めたのは、既に世界を異にして久しい師匠・光明三蔵である。
だから昔の三蔵は、ただ、父に等しい師が己のために選んでくれた日だということだけに意義を認め、師と、年の離れた友人が毎年くれる言祝ぎだけを、抑揚のない礼と共に、素っ気無く受け入れていた。
なのに、今はこの有り様だ。
自分でも何がめでたいのか判らなかった、他人になど尚更祝われたくなかった“誕生日”に、パーティーを開くと招待されて、素直に来ている自分がいる。
──やはりこの日が三蔵の誕生日だと既に知っている寺院の連中に、色々言われるのが鬱陶しいから。
──八戒達の誘いを断ると後々面倒だから。
──食べ物に釣られた悟空が煩い程熱心に誘うから。
だから来た、と、取り繕う気になれば、理由などいくらでもつけられる。
そうでなくても、どうしても嫌だと言えば八戒達は無理強いはしなかっただろうし、悟空も渋々諦めたろう。
ただ、三蔵がそんなことをするはずがないと、決めつけている節が彼等にはあったが。
……結局、今日、この街へ来ることを決めたのは、三蔵自身なのである。
それでも。
つい、「帰ろうか」などと思うのは、単に三蔵が、パーティーに、そして“誕生日を祝われる”ということに、まだ慣れていないからなのだった。
悟空と2人、店に出向いてみれば、『すみませんちょっとまだ準備終わってないんでどこかで時間を潰しててください』と、店を追い出されたのもよろしくない。
これからパーティーだと思えば……そしてそこらの名の知れた料理店より余程味の良い彼等の料理が間をおかず振る舞われると思えば、軽食を取る気も呆気無く失せる。
自然時間潰しを見つけ損ねて、こんな街外れに出て来てしまった。
──帰ろうか。
そもそも最初に店に顔を出したのだって、悟空がねだるから、それに引きずられたようなものなのだ。
当の悟空は準備を手伝うと言って店に残っているのだから、目当てのごちそうは存分に味わう事が出来るだろう。
ならば、自分はいなくても……。
店の方に足を向けると何故だか背中がむずむずして、三蔵はつい長安の方へと体の向きを変えてしまう。
どうせ自分がどこでどう時間を潰しているのか、誰にも判らないのだから、ならば本気で帰っても。
だが、ここで三蔵が帰ったら、店で三蔵を待っている彼等は、淋しい顔をするのだろう。何故か三蔵に懐いている桂花などは、泣きべそをかいてしまうかもしれない。
そうと思えば足も止まる。
そうして踏ん切りを付けられないまま、もう1本、とマルボロに火を付けようとした時だった。
「さんぞー、みーっけ!」
背後から響いた声と同時に、騒がしい気配が駆けて来た。
騒がしい……けれど鮮やかな金の気配が。
「迎えに来たぜ」
駆けてきた勢いのまま前方に回り込み、三蔵を見上げて言うのは、他でもない、悟空だ。
「……何で来た」
後もう数分遅ければ、自分は長安へと足を向けていただろうに。
諦め悪く嘯く三蔵に、応えて悟空はあっさり言ったものである。
「みんなに言われた。迎えに行けって。でないと三蔵帰っちゃうかもしれないからって。俺もそうかなーって思ったし」
「……何故、そう、思うんだ」
まるで見透かされているようではないか。
面白くない三蔵が、すっと眉根を寄せるのを気にも留めず、更に続けて悟空は言った。
「だって三蔵、帰りそうじゃん。自分主役でパーティーするって判ってるとこへ後から来るのって、三蔵、なんか照れて嫌がりそうって、八戒と悟浄が言うし、俺も思うし。」
「照っ……」
「でも帰ったらみんな残念がるの知ってるだろうし、桂花泣くの判ってるだろうからすぐ帰るってのもしないかなって」
だから自分が来たのだと。
だから、自分が迎えに出されたのだと。
自慢げに、悟空が胸を張るから。
煙草の煙と共に盛大な溜め息を吐き出しながら、三蔵は思い知った。
“見透かされているよう”なのではない。はっきり“見透かされている”のだと。
先程まで感じていた背中の妙なむず痒さも、“照れ”だと言われれば納得出来てしまう。
それは奇妙に深い付き合いのせいだろうし、彼等がそれだけ三蔵を見ている、ということでもあるのだろう。
八戒然り、悟浄然り、マスター達も多かれ少なかれそうなのだろうが、最たるものがこの猿だ。
元々聞こえるはずのない声に呼ばれて、幽閉されていた五行山の岩牢から三蔵自身が連れ出した悟空だが、以後も、どういうわけか三蔵にだけは、悟空がどこにいても何となく居場所が判る。逆もまた真なりなようで、三蔵がどこにいても、悟空にだけは判るらしい。
今も、どこにいると言い置いては来なかったのに、まるで足跡を辿るように、悟空は三蔵に追い付いた。
逃げても隠れても追い掛けて来る。どこにいても必ず見つかる。
これが寺院の誰かだったら見つけられた途端に不機嫌になるところなのだが、困った事に彼等、特に悟空が相手だと、慣れもあるのかそれを嫌だとは思わないのだから、人とは変われば変わるものだと思う。
『三蔵と悟空って、フーガですよね』
以前八戒が自分達を評してこんな風に言ったが、その時は判らなかった意味が今なら判る。
逃げれば追い掛け、いなくなれば見つけ、自分を見失いそうになったら無理矢理にでも引きずり戻して。
そうやって時を過ごして、世界を広げて、今の自分達があるのだろう。
だから。
──1年に1度くらい、生きて在ることにおめでとうを言う日があっていい、と。
師匠が昔、この日が巡って来る度に穏やかな笑顔で口にした言葉に、今の自分は存外素直に……けれどやっぱり心の中でだけ……頷く事が出来るのだ。
──やれやれ。
自分に呆れて、つい三蔵は小さく苦笑を零していた。
と。何か勘違いしたのだろう、悟空が。
「三蔵?」
きょとん、とした目で訝し気に見上げてから、とても楽しそうにこう言った。
「早く行こーぜ、三蔵。もうほとんど準備出来てるからさ! 料理もあと最後の仕上げだけになってて、でも今でも十分すげー美味そうだったんだ!」
……悟った。
何故連中が悟空を手伝いと称して店に残したか。
目の前で出来上がる料理を見せておけば、三蔵を探しに出た悟空は絶対に店に戻る。
心底では嫌がっていない三蔵がたとえ言い訳しようが照れていようが店に戻り辛そうにしていようが、心底嫌がっていないのを見抜けば悟空は絶対に三蔵を連れて店に戻る。
こういう点では三蔵は悟空にとても甘いのだ、と、そんなある意味情けないところまで。
──結局、読まれているのだ、と。
それを面白くないと思いながら、本気では嫌がっていない三蔵は、だから、悟空の頭に手を置いて
「……この食欲魔人の大バカ猿」
と相変わらずの言葉を紡いで、友人達の待つ店へと、悟空を伴って歩き始めた。
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