── 天つ水待ち
〜あまつみずまち〜
──
ぼんやりよどんで街の明かりを鈍く反射する曇り空を見上げて歩いて、帰宅すると、テレビを見ていた清流が、振り向いて、告げた。
「おかえりなさい紅尾さん。梅雨入りしたらしいですよ、東京」
「へえ」
沖縄、九州、四国と続いて、確かにそろそろ関東だと、気象予報士がニュースで言っていた。
バッグを肩から下ろして、煎茶を淹れる準備をする。
湯飲みは、3つ。
綺麗に注ぎ分けた途端、残る1人が現れた。
やって来たのは桜の精霊。
家主の紅尾、居候の大地の化身・清流と、桜里で、これがいつものメンバーだ。
「こんばんは、桜里。はいお茶。」
「ほほほ、気がきくの、紅尾」
「よく言いますよまったく。タイミング見計らって来たくせに」
苦笑混じりに紅尾が言うと、否定もせずに桜里は笑った。
ひとくち煎茶を口に含んで、一息ついて紅尾が訊ねる。
「で、梅雨入りしたって、清流?」
「ええ。夕方のニュースで。関東地方は今日梅雨入りした模様です、って。……どうして判るんでしょうね、そんなこと?」
答えのついでに清流からも。
「そりゃあ、気圧配置とか前線とか。梅雨時期の気圧配置って判りやすいし」
言うと今度は桜里が。
「しかし、面白いものよの。この季節雨が続けば梅雨と判りきっておろうに、なにゆえわざわざ役所が発表するのやら?」
「いつからやってるんでしょうね、こういうの」
2人の疑問に紅尾は笑って、
「梅雨入り・梅雨明けを発表するのは、農業なんかの関係もあるんでしょう。いつからか、ってのは……調べてみようか」
言ってパソコンの電源を入れた。
インターネットにアクセスし、検索サイトでキーワードを入力して、関連サイトを巡ること数分。
「出たよ。梅雨明けとか梅雨入りとか、発表するのは気象庁、ってのは判るよな。で。
昭和60年以前は梅雨明け・梅雨入りを非公式の『お知らせ』として発表、これが一般に『梅雨入り宣言』『梅雨明け宣言』と呼ばれる。
昭和61年、日付を特定した梅雨入り・梅雨明けの発表を正式な気象情報として採用、これが平成6年まで続く、と。
で、この平成4年とか5年・6年てのがまたクセモノの年で、梅雨入り宣言しても晴れ続き、梅雨明け宣言しても雨続きで、苦情が出たワケだ。『梅雨明けはしていませんでした』なんて発表もあったみたいだしね。
頭を悩ませた気象庁が次に考え出したのが、時期を『上旬』『下旬』って感じに大雑把にして、ついでに1週間くらい雨や晴れが続いてからやっと『梅雨明けしていた模様です』なんて言うようにする方法。これが平成7・8年。
ところが今度はこれにも判りにくいと苦情が出た。まあ1週間も雨が続きゃー、ダレだって梅雨だなって判らあな。
それで、気圧配置やら前線の位置やらをにらみつつ、『梅雨入りしたものと見られる』ってちょっとぼかして発表する、今の形に落ち着いた、と、こういうことらしい」
大変だねえ気象庁も。
クスクス笑いながら紅尾が言うのに、桜里と清流も苦笑いで応える。
「でも、僕、好きです、この時期」
「それはもちろん妾もじゃ。なにしろ妾は樹木ゆえ」
「私だって嫌いじゃないですよ。それにこの時期雨がちゃんと降らないと後々困るし、何より梅雨がないと、なんだか夏が来た気がしない」
まあ、降りすぎるのも問題ですけど。
言うと桜里と清流も「確かに」と頷いて、
──なんでも適度が一番。
で落ちが着いた。
2001年6月6日。
関東甲信越地方が梅雨入りした日のことである。
──そして。
暗く星を遮って飛ぶ薄い雲の向こうに深い藍色をのぞかせる夜空を、ガラス越しに仰ぎ見ながら清流が言った。
「梅雨、明けたみたいですよ、紅尾さん」
「そうらしいな」
ロックアイスを満たしたグラスに熱い紅茶を一気に注ぎながら、紅尾。
「あんまり、雨、降りませんでしたよね、桜里さま」
「そうじゃな」
話を振られて、桜里もグラスを口に運びながら短く答えを返した。
「ほら清流、アイスティー」
紅尾に呼ばれて、とことこと清流もテーブルに着く。
そうして言った。
「こういうの何て言うんでしたっけ……晴れ梅雨?」
「違う。」
「枯れ梅雨」
「ちがう。雨が枯れるか雨が。井戸や地下水じゃあるまいし」
「じゃあ、そら梅雨」
「惜しい。」
「んーと。照り梅雨?」
「そういう言い方も、ある。お前が言いたいのとは違うだろうけどな」
「えっ、あったんですか」
「やっぱり当てずっぽうだったな?」
「あははー……」
繰り返されるやりとりを、面白そうに桜里は見ている。
「えーとそれじゃあ……カイネレーゲン梅雨」
「一応雨は降ったんだから、それを言うならヴェーニヒレーゲン。ま、ドイツ語まで持ち出してボケようとするその努力は認めよう」
「うーんと……そら梅雨で惜しかったんだから……こら梅雨」
「怒ってどうする愚か者」
──クスクスクス。
とうとう桜里が笑い出した。
「そなたら、いつまで続けるつもりじゃ?」
「だーって、紅尾さんが止めてくれないんですよー、桜里さまー」
笑われて清流が苦情を言う。
素知らぬ顔で紅尾が答えた。
「いや。どこまでやるか見てやろうと思って」
「……ひどい……」
じと目で見上げる清流に視線を向け、紅尾は片眉を上げて促した。
「で、清流、解答は?」
「…………空梅雨(からつゆ)」
「はい正解。長い道のりだったなあ」
しみじみと溜め息混じりの紅尾と、くつくつとまだ笑っている桜里に向かって、だが清流は、今度は心配そうにこう言った。
「でもこんなに雨が少ないと、水不足になったりするんじゃ?」
──降ってくれないと困りますよね。
少しだけ、恨めしげだ。
けれどそれにも桜里と紅尾はこんな風に言葉を返した。
「それはそうじゃがの。こればかりは仕方あるまい。誰にもどうにも出来ぬでの」
「そう。まさか上空まで行って低気圧引っ張って来られるわけでもないしねぇ。ああ、何なら清流、お前行くか空の上まで?」
「無茶言わないでくださいよっ!」
口に含んだアイスティーを危うく吹き出しそうになりながら、清流。
真面目な口調でこう続けた。
「でもホントに、こんなに雨が少ないと……」
少しうつむくその頭に、ポン、と手を置くのは紅尾だ。
「雨が少なかったら少ないなり、今からその心構えもしていればいい。大体、水を無駄遣いするのはもとから誉められたことじゃない」
そうして笑いながら桜里も。
「それに、戻り梅雨という言葉もあろうが。梅雨が明けたと思うたそばから雨が続くこともままあることじゃ」
──我らに出来るのはただひとつ、空の恵みを謹んでいただくだけじゃ。
「そうであろうが、地気の化身?」
「ええ……そうですね。そうでした」
精霊たちのやりとりに、紅尾は黙って耳を傾ける。
地気の化身と桜の精霊。
雨を待ち、風を待ち、光を待ち、時にそれらに翻弄されて、そうして彼らは生きてきた。
それは決して、彼らだけのことではなく。
けれどそれは、声高に叫ぶことでも、本当はなくて。
「それを忘れなければいいんですよね」
ふわりと笑った清流の言葉を、紅尾は薄く微笑って心に留めた。
梅雨が明ければ、夏が来る。
そんな夜のことだった。
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