節分の夜のことである。
ドアの鍵を開けて家に戻った途端、清流が紅尾に問いかけた。
「紅尾さん。エホウマキってなんですか?」
「あ? なんだって?」
いきなりの質問に一瞬漢字変換しそこねた紅尾が不審もあらわに聞き返すと、少し情報をプラスして清流が答える。
「だから、エホウマキ。この頃ずっとお寿司屋さんのCMで言ってるから、何かなーって思って」
そこまで言われて思い当たった。
「ああ……何だ恵方巻きか。確かその年の恵方に向かって節分の夜太巻き1本まるまる食べる、とかそんなのだったと思うけど」
年ごとに“恵方”とされる方角が違ったり、太巻きはまるごと一気に食べきらなくてはならなかったりと、色々制約があるはずだ。
詳しくは知らないなりに、知る限りを紅尾が答えると、清流は不思議そうに言った。
「やったことないですよね、紅尾さん」
正月飾りはきちんと飾るのに、何故?
首を傾げた清流に、紅尾と、いつの間にかやってきていた桜里が返す。
「ウチの方の習慣じゃないからな」
「妾も最近じゃな、恵方巻きとやらを耳にするようになったのは。つまり東京の習慣でもないということじゃ」
何故か今ではテレビでさも当たり前のことのように宣伝していたりするけれど、それは、本来関西の習慣である。
馴染みのない年中行事を謳う寿司屋のキャンペーンに、乗るつもりは紅尾にはない。
告げると、また、清流が続けた。
「紅尾さん、豆まきもしませんよね」
「……1人で豆まきやってる図ってかなりハイレベルなホラーだぞ……」
想像するだに背筋が冷える。
「でも、豆は買ってくる?」
「ま、豆まきはしなくても、年の数だけ食べるってのもあるからな」
「それもまた年中行事の縁起物よな」
節分豆は嫌いじゃないし。
紅尾と桜里が笑いながら答えると、笑顔に釣られた清流がうっかり口を滑らせた。
「年の数ってことは桜、もごっっ!?」
「年の数で、妾がなんじゃと?」
ほほほほほ。
袂で口元を覆ってあでやかに笑いながら、桜里は、清流の口に手近にあったミカンを1つ、まるごと容赦なく押し込んだ。
「おや清流。ミカンは皮ごと食べるものではなかろうに」
ほほほ。と、桜里が微笑う。
「口は災いの元って言うだろ。覚えとけ、清流」
半泣きになってミカンを取り出す清流を見下ろし、ポットに水を入れながら、言って紅尾が苦笑をこぼした。
「ふわい……」
それでそのまま話は流れて、豆をつまみに煎茶を飲んで、穏やかに時は移ろい日付が変わり、朝を迎えるはずだった。
が……。
明けて立春。
紅尾は朝から寝不足だった。正確には、昨夜布団に潜り込んでからずっと。
寝不足のまま仕事をこなし、残業分も意地で処理して、いつもより少し早めに退社したのは、その寝不足の原因を突き止めるためである。
「ただいまっ!」
勢いよくドアを開け、明かりのついた室内を見る。
視線の先に清流。ひとりおいて隣りに桜里。
そしてふたりに挟まれて、紺の紬に羽織を纏った小さな子供が座っていた。
あからさまに怯えた顔で、頬には涙の跡がある。
「うっ……ひっく」
堪えきれずに漏れた嗚咽に、さもうんざりと紅尾がぼやいた。
「その子か……」
「みたいです」
苦笑しながら清流が答える。
実は清流も寝不足なのだ。
昨夜、気持ちよくたゆたっていた眠りの海から、誰のものかも判らないすすり泣きによって紅尾と清流は引きずり出された。
悪い気配ではなかったけれど、止んでは始まり、始まってはまた止み、で、朝までシクシクやられては、安眠出来るはずがなかった。
『誰だ? 何で泣いてる?』と紅尾や清流が問いかけると、それだけで泣き声は止む。が、またしばらくすると泣き出して、声を掛けるとまた泣き止むのだ。
まさか夜中に大捜索をかけるわけにも行かず、そのまま朝を迎えて、結局原因の判らないまま出勤せざるをえなくなった紅尾は、清流と桜里に原因究明を頼んだ。
そうして判明した『原因』が、この子供というわけだ。
「なんでまた……」
紅尾がしみじみと呟いて見つめる子供の頭には、ちいさなふたつの角がある。
つまりは鬼の子なのだった。
「昨日の年中行事に怯えたようでの、親御殿とはぐれたそうじゃ」
やれやれ、と、桜里。
「で、ウチに迷い込んで、それからずっと泣いてたって? ……どこにいたんだ天井裏?」
紅尾がしゃがみこみ視線を合わせて問いかけると、子供は嗚咽まじりにそれでもこくんと頷いた。
「なんでウチに?」
立ち上がりキッチンに向かう背中で問いを重ねると、びくっと身をすくめる気配がある。
「怯えずともよいぞ、子供。あれはああいう性格じゃ」
「そうそう、怒ってたら紅尾さんもっと怖いから」
「それはフォローなのか桜里清流?」
「おや、失礼な」
「立派なフォローじゃないですか」
「はいはい」
桜里と清流の軽口に、軽口で答えながら戻ってきた紅尾の手には、湯気の立つティーカップがあった。
甘い香りのするそれを、紅尾は子供の前に置く。
きょとん、と目を見開く子供を、
「ホットミルク。蜂蜜入り。あったまるから飲みなさい」
促すと、鬼の子はそぉっとカップに手を伸ばし、恐る恐る匂いをかいで、やはり恐る恐る、口を付けた。
それをじっと見守って、また、紅尾が同じ問いを繰り返す。
「で? 親御さんとはぐれたは判ったけど、なんでウチに?」
ミルクを飲んで気分も少し落ち着いたのか、子供は今度は途切れ途切れに答えを返した。
「あの……ここは、豆、まいてなかった、から……」
「豆って、節分の?」
「……はい。豆まきの声もしなかったし、それに、ぼくらに近い気配もあったし……」
だから、ここなら豆をぶつけられずにすむと思った、のだそうだ。
「なるほど。」
納得した3人である。
地気の化身も鬼の子も、人外であることに違いはない。種族は違っても、人間達と比べれば、互いの気配は近いのだろう。
だが、である。
続いた子供の言葉に、紅尾は大きな引っかかりを覚えた。
「それに、あの……豆まきしてなくて、変わった気配があるところなら、父さん、ぼくを見つけやすいかな、って……」
──見つけやすい、とはどういう意味だ?
「待て。まさかひとりじゃ帰れないのか!?」
「…………うん」
素直に頷いた鬼の子である。
3人揃って呆れてしまった。
「てことは何か? この上親鬼までここに来るのか……?」
呟いて紅尾が頭を抱えた。
「……千客万来というやつかの?」
桜里は言うが、フォローにもならない。
「……でも放り出すわけにもいかないような……」
清流の言葉がそのまま紅尾の心境だった。
「だよなぁ」
いくら相手が“鬼”だといっても、この寒空の下に放り出すのは良心が咎めてしまうのだ。
──はぁあーっ。
「……すみません」
盛大な溜め息を漏らした紅尾に、子供がぴょこんと頭を下げた。
「…………ま、しょーがないか」
苦笑混じりに紅尾が言う。
「お父さん、早く迎えに来るといいね」
言って頭を撫でた清流に、子供は
「うん!」
と綺麗に笑った。
親鬼が子供を迎えに来たのは、時計が午前0時を過ぎた頃のことだ。
逃げまどい道に迷ってそこかしこを交錯し、淡くなっていた子供の気配を、やっと辿って来たのだというその端正な佇まいの父親が現れた時には、子供だけでなく紅尾も清流も桜里もが心底ほっとしたものだ。
「息子がご迷惑をおかけしました。申し訳ございません。ありがとうございました。このお礼は近々、必ず」
現れた父親は、息子の小さな体を片腕で抱き寄せながら、そう言って深々と頭を下げたものだ。
しばらくの後、闇に紛れて消える直前、もう一度振り向いて共に頭を下げた親子の姿を見送って、苦笑混じりに紅尾が言った。
「鬼が来てほっとするってのも妙な気がするんだけどなぁ」
「したが、来ぬよりは余程よかろう?」
「お迎えが来なかったら、あの子可哀想じゃないですか」
「まあね。いっそ呼ぼうかと思ったし。福は内。鬼も、内、なんてな」
応じる桜里と清流に、クスリ、笑って答える紅尾は、どこか楽しそうだった。
これが、立春を過ぎて季節が春へと向かう、まだ寒い夜の出来事。
そのまま紅尾も清流も桜里も、この件はすっかり忘れていたのだ。
──コンコン。
控えめなノックの音が響いたのは、紅尾と清流と桜里とが、あられを摘んで煎茶を飲む、という“いつも通り”の時間を過ごしていた、春分の日の夜だった。
「?」
チャイムを鳴らさない相手を不審に思った紅尾が、ドアスコープから外を見ると、そこに件の鬼の親子が立っていた。
「……どうしたんです、親子で、また?」
ドアを開けて家へと招き入れながら紅尾が問うと、鬼の親子はドアの外に立ったまま、やってきた清流と桜里にも目を向けて、
「お礼をさせていただこうと思いまして」
と、微笑みなら、言った。
「お礼?」
「はい。」
「えーとそれって一体、どういう……?」
首を傾げながらの紅尾の問いにも、鬼の親子は微笑って答えた。
「お願いですから警戒なさらず、どうぞ我らに続いてただ、ドアから出てください。そうしていただければ、少しだけ早く、ひととき春をお目に掛けます」
「春?」
「はい」
「春を、見せてくれると?」
その力が彼らにはあるのか。
問うと、やはり親子は微笑う。
そうして、穏やかに、こう続けた。
「大晦に鬼や禍事を払えば初春、新年です。節分に鬼を払って春が立ちます。我らが去って、春が来る。そうやって春を呼ぶのも、我らの役目のひとつなんです。ですから……」
大したことは出来ないが、このひととき、ほんの少しだけ早く春を呼び寄せ、見せることくらいは出来る、と。
過日の礼に代えて、そのくらいは出来るから、と、鬼の親子は微笑って言うのだ。
穏やかなこの親子に、災いをなす鬼のイメージは結びつかない。
──案外そういうものかも知れない。
不敬をなせば神とて祟る。
閻魔に仕えて地獄を護る鬼もいる。
鬼だからといって、無闇に恐れることはないのだ。
豆まきの鬼の面やおとぎ話の鬼達が、どこか愛嬌のある描かれ方をするのは、多分、人がそれをきちんと知っているからなのだろう。
見れば、清流と桜里は、もう鬼の申し出に嬉しそうな顔をしている。
断る理由などどこにもなかった。
「じゃあ、お言葉に甘えます。見せてください。春」
紅尾が答えると、鬼の親子は明るい顔で、
「ありがとうございます、では、どうぞ」
言って、1歩、2歩、後ろに下がった。
紅尾達はそれを追いかけるように足を進めて……
外に出た途端、空気が変わった。
いや、景色がまるごと変わった。
いつの間にか桜里の公園に立っていた。
夜だったはずなのに、柔らかな陽射しが降り注いでいる。
吹く風も優しく暖かく。
そうして、桜が咲いていた。
去年の桜ではない。
いつか見た春ではない。
枝の具合も花の付き方も、今年の桜、今年の蕾。
あと10日もすればそうなるだろう、今年の春の。
「……なるほど、ほんの少しだけ早く、か」
ごくごく近い未来の自分の姿を、桜里が感慨深げに眺めている。
「ああ。今年の桜も綺麗なんだな」
日に透ける薄紅の花を見上げて紅尾。
風に舞う花びらを目で追いながら清流が訊く。
「これ、あと何日くらい先のことなんでしょうね?」
「さあなあ。どのくらいだろうな」
今日の昼間蕾があのくらいだったから……
思い出しながら紅尾が言うと、淡く微笑みながら桜里が返した。
「いずれ、そう先のことではあるまい。心待ちにしておればよい」
「ですね」
「確かに」
清流と紅尾が応えて笑う。
──それを待つのが楽しいのだ。
「いいもの見せてもらったな」
心から紅尾が言った、その時。
ホッホゥ。
どこかでフクロウが鳴いた。
「……フクロウ?」
「いや、まあ今ホントは夜だけど……」
「梅に鶯は定番じゃが……桜にフクロウ、とはのう」
首を傾げた3人の耳に、どこか楽しそうなフクロウの声が届く。
太く低く。
ホッホゥ。
高く、どこか危うげに。
ポッポゥ。
「……これって……ひょっとして」
紅尾が思わず呟くと、苦笑しながら桜里と清流が。
「そのようじゃのう、どうやら」
「何て言うか……あははっ!」
ホッホゥ。
ポッポゥ。
高く低くフクロウの声が響くたび、ひとときの春の景色が薄れてゆく。
「鬼の親フクロウ、ホッホゥ。鬼の子フクロウ、ポッポゥ。なんか早口言葉みたいだな」
ホッホゥ。
ポッポゥ。
フクロウたちは楽しげに鳴く。
ホッホゥ。
ポッポゥ。
季節が戻る。
そうしてひとときの満開の桜が元の蕾に戻った時、紅尾達3人はどこかにいるだろう鬼の親子に、笑いながら
「ありがとう」
と、礼を言った。
本物の満開の桜を見るのは、もう少し先のことである。
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