── 仰げば遥けき ──

 

 

 

 

 8月ももうすぐ終わる夜の事だ。
 ロックアイスを満たしたグラスに熱い紅茶を注いでアイスティーを作っていた紅尾に向かって、窓の外を見上げながら清流が言った。
「お天気、あんまり良くなさそうですね。……もったいない」
「何の事だ?」
 紅尾が手を止めて問いかけると、振り返って清流。
「27日ですよ。お天気。」
「ああ、なるほど」
 納得した紅尾である。
 と、紅尾が確認するより先に、別の声がリビングに響いた。
「火星の大接近かの、清流?」
「桜里……。相変わらずいいタイミングで」
 紅尾が呆れるのも無理はなかった。
 いい加減物の増えた紅尾が、前の住まいから引っ越したのが春の終わり。新しい住まいは広くなったが、桜里のいる公園からはかなり遠くなってしまった。
 窓から顔を出して呼べば聞こえる距離だった頃ならいざ知らず、徒歩で行くより電車を使いたい程離れた今になっても、桜里がお茶のタイミングを1度も外さないのが、紅尾はおかしくて仕方ないのだ。
 言うと、桜里はすました顔で言い放った。
「日課を欠かすわけにはいかぬでな」
 つい笑ってしまった紅尾と清流だ。
 と、小首を傾げて桜里が清流に問いかけた。
「で? 天気は良くなさそうなのか?」
 27日の事を言っているのだ。
 火星が最も地球に接近するのは、27日深夜とのことだった。
 途端、清流が残念そうな顔になった。
「そうなんです。今も曇ってますけど、これ、このまま雨になるらしいです」
 ──もったいないですよね。
 しおれる清流に桜里が微笑う。
「確かにもったいないとは思うがの。こればかりは仕方あるまい?」
 続けて紅尾が。
「そうそう。それに、これで火星が見えなくなるわけじゃないんだし」
 火星が最も地球に近付いて大きく見えるのはその夜だが、まだしばらくはどの星よりも大きく空に輝くのだ、あの赤い地球の兄弟星は。
 それでも清流は残念そうだ。
「でも、こんなに近付くのって6万年に1回しかないって言うじゃないですか」
 この地気の化身は、こういう時、妙に人間臭い事を言うのだ。
「ああ。まあ、確かにな。これを逃したら2度と見られないけどな、この近さは」
 だから世界中でこれだけの騒ぎになっている。天体望遠鏡も天体観測用の双眼鏡も、どちらも売れ行きを伸ばしているのだと聞いていた。
 ふと、桜里が呟いた。
「6万年に1度か……確かに我等には、生涯1度の出来事よの」
 その声に、突然思い付いたように──実際思い付いたのだろうが、清流が面白いことを言った。
「そういえば……僕等には6万年に1度って一生に1度ですけど、火星とか地球とかにとったらどのくらいなんでしょうね?」
「…………。」
 つい清流を見詰めてしまった紅尾と桜里である。
 しみじみと、本当にしみじみと、ふたりは溜め息と共に顔を見合わせた。
「清流のこの発想ってどっから来るんでしょうかね、桜里」
「さてなあ。したが、面白い事は確かよの」
「同感。ちょっと計算して見ましょうか」
 言って、きょとんとしている清流を横目に、紅尾は携帯電話を手に取り、計算機能を呼び出した。
 清流と桜里の見守る前で、ぶつぶつ呟きながら、数字を入力して行く。
「えーと。地球がだいたい45億年だから、まあ短かめに寿命を80億年と見積もって。80億÷6万で……133,333? で、人間の寿命を80歳として、延べ……29,200日? げっ」
「何ですか、紅尾さん?」
「いや……どのくらいおきに会う事になるのかなーとか思ってたんだけど、そんなもんじゃないなと思って……」
「……何日おき、どころではないな、その数字は」
「ええ。ちょっと分母と分子を逆転させよう。えーと、133,333を29,200で割って、と。……ほぼ4.5……」
「えっ、てことは、紅尾さん?」
「ああ。」
 1日に4〜5回会っていることになる。
 しかもこれは、あくまでも、6万年に1度の大接近に限って、のことだから。
「つまり人間の寿命で考えると、毎日しょっちゅう顔合わせてるってことですか」
「そういうことに、なるなあ、これは」
 清流と紅尾の心中の言葉を、桜里がきっぱり音にした。
「並みの家族より多いではないか。」
 ──そのとおり。
「本当に、家族なのだな、地球と火星は」
 桜里の台詞に、3人は揃って微笑んだ。
「まあ、星のことをそのまま人間に重ねるわけにはいかないけどな」
「ええ。いくら寿命が長くたって、6万年って長いでしょうしね」
 しみじみと囁く清流の言葉を受けて、ぽつりと桜里が囁いた。
「したが……どれだけ寿命が長くとも、会うのにどれだけ時がかかろうと、自分と同じ時間を生きて、同じように時を重ねて、そうして巡り会う相手というのは、嬉しいものであろうよな」
「……桜里」
「桜里さま」
 清流も紅尾も、この桜の化身がどれほどの時を生きてきたのか、正確なところを知らない。
 それでも、時折こんな風に、『見守るもの』である桜里の時間をふと思うことがある。
 この美貌の桜の精霊は、どれだけの時を過ごし、どれだけの命を見守り、見送って来たのだろうか。
 浮かんだ思いを言葉に出来ずに清流と紅尾が見詰めていると、気付いた桜里がふわりと微笑った。
「どれ。紅尾。清流。あいにくの空模様で星は見えぬが、せっかくそこに紅茶があるのじゃ。空の上に思いを馳せて、仮の星見でもしようではないかえ」
「そうですね。せっかく淹れた紅茶の香りが飛んで温くなるのはもったいないし」
「今度晴れたらゆっくり星見しましょう」
 応えて、紅尾と清流も微笑った。

 

 

 

 仰げば遥けき空の高みに。

 

 

  

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あとがき

2003年夏、火星大接近記念突発(笑)。何かしら書きたくなるのは、これは既にサガでしょうか。ネタが浮かんだのが26日夕方、帰宅して1時間で書き上げてアップしたなんてあまりのバカさ、せっかくだから白状します(笑)。
少しでもお気に召していただければ幸い。感想などいただけると茶寮主、泣いて喜びますので、掲示板かメールにて、是非。