Here, the Green Wood


〜手塚忍の血の色みどりな一日〜


 

 3

 

「…………蓮川…………」
 後輩の名を呼ぶ光流の声が掠れていた。
 忍もわずかに目を見開いている。
 先に自分を取り戻したのは忍だった。
「蓮川。……五十嵐は元気か?」
 唐突にそんなことを訊く。
 途端に蓮川が顔から火を噴いた。
「なっ、なんですかいきなりっ! ……元気ですよ。今日も夕方電話で話しましたし、明日は一緒に映」
「判ったもういい」
 顔を赤らめながら律儀にけれどしっかり惚気に走った、つい先頃まで光流と女運の悪さを競っていた後輩の言葉を、忍はあっさり切って捨てる。
「……何なんですかだから一体?」
 遊ばれたような気がして悔しいのか、それとも惚気る機会をなくされたのが不満なのか、心持ち上目遣いな蓮川に、
「いや別に」
 とだけ忍は答えた。
 本音を言えば、だ。たった今自分たちの目の前を通り過ぎた『蓮川一也』と、その直後に階段を上ってきて、今ここにいる『蓮川一也』。そのどちらが一体『本物』なのか、判断出来るなら話題は何でもよかったのだ。
 この反応は、間違いなく『本物』。
 ならば先ほどの『廊下の蓮川』は、蓮川ではなかったということになる。
 忍と光流は顔を見合わせて頷いた。
 そして、ふと思い出す。
 ──そういえばさっき蓮川が気になることを言っていた、と。
 だが、その前に。
「おい、スカ……瞬は?」
 訊ねた光流の耳に、明るい声が届いた。
「いるよー。先輩たちそこにいたんだ? 廊下を右に行っちゃったと思ったけど見間違いだったんだねー」
 忍と光流は顔を見合わせる。
 これだ。この言葉。
「オレたちが、何だって?」
「え? だから、廊下を右に行ったと思った」
 心持ち目をすがめて問いかける光流に、きょとん、とした顔で瞬が答える。
「廊下を右に? 俺たちがか?」
「ええ。光流先輩が、ですけど。階段でオレたちを追い越して、それで廊下を右に。点呼早く終わって下に降りてきてたのかな、と思ったんですけど。でもオレが声かけても無視されて……それで階段上ってみたら、先輩たちが、ここに、いて……」
 だから不思議に思ったのだ、と、言って蓮川は瞬と目で頷きあった。
 ──まさかもしやひょっとして。
 浮かんだ疑問をありありと表に出した後輩2人に、忍は容赦なく爆弾を落とした。
「俺たちも見た。蓮川を。俺たちの目の前で廊下を横切った……そう、お前たちが、光流が向かったと言った方向へな。蓮川が階段を上って俺たちに声をかける前のことだ」
「……そんな……」
「じゃあ、アレは、でもって先輩たちが見たっていうすかちゃんも……?」
 外れることを願いながら、蒼ざめた顔で、蓮川と瞬は呻くように声を漏らす。
 そんな後輩2人に、年長2人は容赦なく言った。
「ま、まず間違いはねぇだろうな」
「ああ。俺たちが見た蓮川とお前たちが見た光流は、十中八九、今夜のこの騒動の主役だ」
 と。
 そうして4人は覚悟を決める。
 ここは、この空間はもう『彼』の場所だと。
 だから、この2階の住人の誰もドアを開けないことも、本来部屋の中から住人の声が響いてひそやかなクセにどこか賑やかなはずの『寮の廊下』というこの場所で、自分たち以外の声が聞こえないことも、もう誰も不思議とは思わない。
「あれ? どうしたんだお前ら、こんなところで立ち話なんて」
 ──だから4人はもう驚かなかった。
 忍の言葉に続いて聞こえてきた声が、誰のものであっても。

 

 

「どうしたんだお前ら?」
 3階から降りてきて、4人にそう声をかけたその『誰か』に、振り返ることなく光流は言った。
「どうもしませんよ古沢先輩。それよりも、先輩がどうして今ここにいるかの方が、オレたちは不思議でしょうがないですけどね」
「……そうか、俺がここにいるのはヘンか」
 薄く──そう、本物ならば決して見せないような冷たさで──笑って、『古沢』は階段を1階へと下った。
 途端、今度は1階から、浅黒い肌の少年がやってくる。
「あれ? どーしたんです、センパイたち?」
 聞き慣れた声に、口調に、目を伏せたまま応えたのは蓮川だった。
「どうもしないよフレッド。でもあさって帰国のはずのフレッドが、ここにいるのはおかしいよな」
 静かな声で告げられて、『フレッド』はやはり淡い笑みを残し空に消える。
「年末年始は忙しいんだから、こんなとこにいないでウチに帰って手伝えよ光流!」
 ぶーたれた口調で文句を言いながら、代わりに現れたのは光流の弟で。
「正くんは、今日遊びに来た時に、家より落ち着いて勉強出来そうだからこっちに通おうかな、って、言ってたよ。使われるのがオチだから、うかつに帰らない方がいいよって、光流先輩に、そう言ってた」
 刺すような視線で冷たく瞬が言うと、
「お兄ちゃまあ、やっぱりボク、お兄ちゃまがいないと寂しいよー」
 不意に『正』から姿を変えて『麗奈』になったその存在を、こちらはとても彼らしい穏やかな──けれどその実は決してそうではない──笑みで迎えて忍が、
「麗奈は、今度瞬に会った時に自慢出来るくらい、しっかりした唯のお兄ちゃんになっておく、と、昨日帰り際に手を振っていた」
 と声音だけは優しく告げた。
 かつてここにいた人。今、ここにいる人。一度はここを訪れた、4人にとってとても縁の深い人たち。
 そのどれもが、ここにあってもおかしくないもので、けれど『今』ここにあるのはとても不自然で。
 目まぐるしく変わる光景に眩暈を覚える。
 蓮川も、光流も、瞬も。
 ただ忍だけが、瞼を伏せたまま、どこに視線を合わせるでもないその瞳に冷えた色を漂わせた。
「…………そろそろ終わりにしたらどうだ? そっちがどんな姿を取っても、俺たちが迷うことは、ないんだから」
 忍の言葉に呼応するように、彼のすぐ隣の空間が歪む。
 陽炎のように。水の中から外を見るように。ガラスの向こうの景色のように。
 そして、次の瞬間。
 その光景を言葉もなく見守る4人の前に、今度は見慣れた──見慣れすぎるほどに見慣れた顔が、現れた。
「……忍先輩……なんて、そんなはずないか」
「ああ。ありゃあ、あの、どこぞの宇宙人の落とし物だ」
「忍先輩そっくりの人形で、チョコで出来てて、ここを破壊して回ったんだよね……」
 それも、かつてここに確かに在ったモノ。
 そうしてそれは。
「俺が壊したんだったよな」
 ──宇宙人の持ち込んだ重火器で。
 けれど今はその武器はないから。
「それなら……」
 音もなく半歩、忍が足を進める。その、右手が、密やかに握り拳を形作っているのを、蓮川と瞬は見る。
 けれど忍の右手が人形に届くより、光流の右手が人形を吹っ飛ばす方が早かった。
「感謝しろよ。コイツの手にかかってたら、お前、オレなんかよりもっとキッツイことされてたぜ?」
 それはもう、光流や蓮川や瞬が「もうやめろ」と止めたくなるくらいのことを、多分。
 後半は言葉にしないまま光流が拳を下げ、3人は静かに『彼』を見下ろす。
 残るひとりは、ただ口元をそれとは判らない程度に歪ませて……。
「だから言ったろ、迷わねぇって」
 光流が不敵に笑う。
「どう、これでもまだ『誰か』になる?」
 言い終えた瞬の口はへの字だ。
「まだ『誰か』になるって言うんなら……さあ、次は、誰だよ?」
 蓮川の声にも、棘がある。
 険しい瞳で言い放った蓮川の声に連動するように、4人の見守る前で、『彼』はゆっくりと立ち上がった。
「やっとオリジナルの姿を見せる気に……」
 呟きかけた忍の声が、途中で止まる。
 ──立ち上がった『彼』は、漆黒の詰め襟に、身を包んで、いた。
「…………そんな…………」
 途切れた忍の言葉の代わりに、掠れた声で蓮川がうなるように声を漏らす。
 その制服に見覚えがあった。
 その姿に、顔に確かに見覚えがあった。
 かつてここにいた人の──影。
 校長の親友だったと聞いた。空間を越え、50年の時を越えて、ただ『また会おう』という友との約束を果たす、それだけのために現れた。どうせなら楽しんでゆけばいいのに、という言葉にも淡い笑みを返して、「逢えればよかったから」と寮祭をろくに見ることもなく行ってしまった、その、人の。
「そんなことって……」
「ふざけるのも大概にしとけよ」
「温厚な俺でもさすがにこれはちょっと」
 瞬が驚いて目を見開く。光流の眉間にしわが寄る。忍の笑みが冷たく冴えて深くなった。
 そうして、蓮川が。
「いい加減に、しろよな……」
 低い声で囁いて、蓮川が一歩を踏み出す。
 4人ともが、本気で思っていた。
 ──バカにするな。
 自分たちをバカにするな。大事な彼らをバカにするな。逝ったあの人を、バカにするな。
 ポルターガイストを引き起こしているうちはまだ良かった。ガスの栓を閉めるのも照明を落とすのも窓を叩くのも扉を閉めるのも開けるのも、まだ許せた。けれど。
「古沢先輩もフレッドも今はいない。正くんも麗奈もあんなこと言わない。チョコ人形はあの宇宙人が持って帰ったし、お前が今姿借りてるその人は、もしもまだここにいても、お前みたいなことは絶対しない!
 お前は何がやりたいんだよ!? 何かしたいんなら人の姿なんて借りてないで、自分の姿で出て来いよ!」
 蓮川の声に、言葉に、剣幕に、『彼』の顔がわずかに歪む。呼応するように『彼』の姿もゆらりと揺らいだ。
 涙目になって肩で息をしている蓮川の、後を引き継いだのは忍。
「出てきたらどうだ? 出てきて自分の姿と言葉で言いたいことを言ったらどうだ。ウチの寮長はこんな時でも優しいから、スジを通せば聞いてくれるぞ。
 その気がないなら……引きずり出す。」
 言葉はただ穏やかで、それでも声は冷えていて。そうしてとっておきの爆弾を最後に落とすのが、忍だ。
 幽霊を金縛りにした彼である。やって出来ないことはないと、蓮川も瞬も光流も思った。
 3人はただ沈黙を守っている。
 忍も『彼』を見つめたまま。
 そうして深呼吸を3度繰り返すほどの時間が過ぎた頃……。
 『彼』の姿がふっと揺らいで、一瞬、消えた。
「………………ごめんなさい。」
 やっと聞き取れるほどの言葉を紡いで再び現れたその幽霊は、やはり詰め襟の制服に身を包んではいたけれど、校長の親友とは似ても似つかない、気弱な光を宿すどこか幼い顔立ちを、していた。
 そして。
 バンッ!!
「やっと開いたぞこのドアっ!」
「おい大丈夫かお前ら!?」
「蓮川、瞬、光流先輩忍先輩!」
「何だコイツか今夜の騒ぎの犯人はーっ?」
 途端に周囲のドアが開き、上下の階からも住人が駆けてきて、緑林寮に喧噪が戻った。

 

 

 羨ましかったのだと、『彼』は言った。
 入学直前に事故に遭って、亡くなって、けれど楽しみにしていた学園生活と寮生活を経験してみたくて。
 そうしてその思いが高じて、『こんな姿』になったのだと。
 いつも緑林寮の住人を見ていて、羨ましくて、自分もそこに加わってみたくて。それでも自分にとって未知の『寮母』という存在にどうしても気後れして、だから人も少なくて寮母もいない今がそのチャンスだと思ったと。
「だからってアレはやりすぎだろー?」
 蓮川がそうぼやいて口をとがらせると、その肩に手を置いて、光流が。
「そうそう。やりすぎやりすぎ。スカなんて、あーんな啖呵切りながら、ちょっと涙目になってたもんなぁ、さっき。」
 と。にやりと笑えば、瞬が
「そーそー、なーんかカワイかったよね♪」
 とそんな風にからかって、駄目押しのように忍。
「ま、それが蓮川のイイトコロ、なんじゃ? でもやめた方がいいな。コイツを泣かせると、妻子もあるくせに今でも立派にブラコンな保険医が飛んでくるぞ」
「…………ちょっと! 何好き勝手言ってるんですかっ、光流先輩も瞬も忍先輩も!」
 ネタにされている蓮川は、顔を真っ赤にして反論を試みる。
 その空間に、小さな呟きがぽつりと落ちた。
「………………いいなぁ」
 瞬間、音が途切れる。
 蓮川も瞬も、光流も忍も、声の主に視線を向けた。
 どれだけの想いが、そこにはあるのだろう。
 さすがの忍も、光流も瞬も、何も言えない。
 ただ蓮川だけが、口をへの字に曲げ顔をしかめて『彼』から視線を背けて。
 そうして、言った。
「……出てくれば、いいだろ、別に。キミだってここに、住んでる……んだから。
 ……あっ、ただし今日みたいな派手なポルターガイストはごめんだからなっ!」
 弾けるように『彼』が顔を上げる。
「…………いいの…………?」
 おそるおそる問い返す『彼』に、
「まーねー、いーんじゃない? どうせいるのは前からだしさ、あんまり派手なことしなきゃ。寮長のお許しも出たことだし?」
「まっ、オレらは3年で、もーすぐ卒業だから、かんけーねーしなー。」
 瞬と光流が、そう答えて笑う。
 無言の忍は、無言のままで、友人たちの言葉を肯定していた。
「……ありがとう」
 『彼』が、笑う。ふんわりと。
 その笑顔に、蓮川たちが心を温められた、その時。
 忍が、またしても、爆弾を落とした。
「じゃ、とりあえず彼の相手は蓮川に一任ってことで。頑張れよ寮長。」
「……はぁあああっ!? なんでそうなるんですか忍先輩っ!?」
「当然だろう。出てこいと言ったのはお前だぞ。自分の言葉には責任を持たなくちゃな」
 微笑む忍を見つめながら、蓮川と光流と瞬は、「手塚忍だけは、やっぱり敵に回しちゃイケナイ」と、今更ながらに心に刻み込んだとか、そうでなかったとか。

 

 後日この一件の詳細を聞いた緑都学園の生徒は、緑林寮の住人であるとないとに関わらず、同じ言葉を呟いたそうだ。
「手塚忍の血の色はやっぱり緑だ」
 と。




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パロディ『ここはグリーンウッド』、これで完結です。
お楽しみ頂けましたかどうか?
感想、お聞かせいただけると茶寮主は心の底から喜びます。マジで。