── Dreaming
──
気が付くと知らない場所に立っていた。
──見渡す限りのすすき野原。
右に左に視線を送り、ついでに後ろを振り返り360度見回して、紅尾はひとりごちた。
「……どこだよココは……?」
見覚えのない場所だった。
すすき野原なら生まれ育った土地にもあったが、それにしては見慣れた山の影がない。第一、見渡す限りをすすきで覆われた、こんな『地平線の拝める野原』なんて場所が、自分の故郷にあるはずがない。生まれてこの方そんな場所を、訪れた記憶も紅尾にはなかった。
それでも。
まだ穂が開く前なのだろう、初秋の日の光を受けて銀色に輝くすすきが、吹く風に揺れている、その光景を、眺めながら。
そうして、これだけのすすきがありながら風の音しかしないのを、いささか不思議にも思いながら。
──いい、景色だなぁ。
涼やかな風に髪をなびかせて、のほほんとそんなことをとりあえず思うのが、紅尾だ。
最初の、そして最大の疑問に意識を向けたのは、ひとしきり景色を堪能した後だった。
(にしても、なんでこんなトコにいるんだ?)
そもそも自分はどうやってここに来たのか。確かについ先程まで、自分の部屋にいたはずなのだ。
(えーと確か……もナニも。部屋にいて、清流がいて、桜里が来てて、紅茶淹れてそれから……)
何か手がかりはないかと自分の記憶を辿りはじめた、その紅尾の思考に。
背後からちいさな声が割り込んだ。
「おねえちゃん、だれ……?」
「うわっ!?」
驚いて振り向けば、そこに、6〜7歳だろう華奢な男の子が立っていた。
「あーびっくりした」
自分以外に誰かがいるとは思わなかった。いや、いるはずがなかった。さっき360度を見渡して、すすき以外に何もないのを確認したばかりだったから。
「キミは、誰?」
少しかがんで、子供の目線に降りて訊ねた紅尾に、けれど子供は答えを返さない。
「おねえちゃん、だれ? なんでここにいるの? ずっとここに、いた……?」
とりあえず自分の名を、教えるべきかそうでないのか、相手の存在を確かめようと、紅尾が瞳を凝らしたその時。
『……紅尾……?』
吹き過ぎる風に乗って、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
それは最初、とてもかすかで。風の音に紛れるように遠く近く響いたから、誰の声かも判然としなくて。だから紅尾は一瞬、目の前の少年がそれを言ったのかと、思ったのだけれど。
『紅尾!』
『紅尾さん、紅尾さんってば!』
再び響いた声は2種類で、そうしてとても聞き慣れたもので。
「……なんだ、桜里と清流じゃないか」
かがんだ姿勢から立ち上がり、空を見上げて呟いた途端、景色が光に包まれた。
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「紅尾、これ紅尾!」
「紅尾さん、紅尾さんっ!」
「…………う…………ん?」
呼ばれてやっと気が付いた。
右側から桜里。清流の声は顔の前から。胃のあたりが何だか重いのは、清流が乗っかっているから、であるらしい。なんだか後頭部が痛むのは、一体どういうワケだろう?
「いてて……。清流。どうしたんだ?」
問いかけながら体を起こすと、即座に桜里と清流に切り替えされた。
「どうした、じゃと? こちらが訊きたいわそんなこと」
「そうですよっ。ポットに入った紅茶とティーカップ、トレイに載せて運んできて、あー眠ぃ、って言いながらそこに座ったなと思ったら、いっきなりゴン! ですよ紅尾さん」
後頭部から床に倒れ込んだ、のだそうだ。
道理でアタマが痛いはずだった。
「びっくりしましたよまったくもー」
「……いきなりぶっ倒れたぁ?」
言われた紅尾の方が驚いた。
確かに今日は睡眠不足ではあったけれど、それでも、いくら眠くてもいきなり失神入眠は、生まれてこのカタしたことがない。
「そんなに眠かったワケでも、ないのになぁ」
たんこぶが出来たらしい後頭部を撫でながら紅尾がひとりごちると、横から紅尾の顔を覗き込んで、桜里が感慨深げに言った。
「珍しいこともあるものじゃ。何やら寝言も言っておったが。夢でも見たかあの一瞬で?」
「寝言? どんな……?」
「言ってましたよ、『びっくりした』とか『キミは誰』とか。ねえ桜里さま」
「そうそう。……そういえば、倒れる前にも妙なことを言うたぞえ?」
「倒れる前にも?」
首を傾げた紅尾である。
倒れた後なら寝言で通るが──確かにその『寝言』は紅尾があのすすき野原で言った台詞だったし──その前、となると事情が違う。
「そういえばそうでしたね。何だっけ……何か、誰かに呼ばれたみたいにフッって窓の外見て、それから『え?』って、やっぱり誰かに呼ばれたみたいに、返事、してました」
「返事…………」
清流に言われて記憶を辿ると、さほど考えるまでもなく、答えに行き当たった。
「……どうしてこんなとこにいるんだろう。こんな、だれも、いない、ところに……」
「紅尾?」
「紅尾さん?」
記憶を辿って、甦った言葉を音にして、紅尾はまだ夢の中にいるような顔で呟いた。
「思い……出した。あの、声……。あれに、呼ばれた、んだ。私……」
「紅尾っ」
「紅尾さんっ!!」
途切れ途切れに囁く自分の声を、そして焦ったように自分を呼ぶ桜里と清流の声を、紅尾は、どこか遠いところで別の誰かが漏らすそれのように、聴いた。
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目覚めた場所は再びのすすき野原だった。
どうやらまたぞろ『呼ばれた』らしい。
「さて。私を呼んだのはダレなんだか?」
9割の確率でその答えを推測しながら、目当ての人物を捜し出そうとすすき野原を見渡して、呟いた紅尾の声に、
「なるほど、呼ばれた、というのはここへ、であったのか」
「で、紅尾さんを呼んだのは、誰なんです?」
馴染んだ声が重なった。
「桜里、清流……どうして?」
──どうやって、ここに来たのか。
紅尾の疑問に、桜里と清流は笑顔で答える。
「そなたの辿った路を追うた。我らは人ではないゆえに、人の夢に入り込むのも得意での」
「そうそう。紅尾さんが呼ばれた後を追いかけるくらい、結構簡単だったりするんですよ」
「はー。なーるほど」
頷いた紅尾に笑顔を向けて、先程したのと同じ質問を、また、清流が口にする。
「で、紅尾さんを呼んだひとは……?」
呼んだのは誰で、どこにいるのか。
「さあ。どこにいるんだかねぇ? 私も知らないんだけど。でもま、きっと……」
──探すまでも、ないだろう。
風にそよぐ一面のすすきを見渡して、紅尾は言う。
それを訝しげに見上げる清流の横で、「それにしても」とぽつり、桜里が囁いた。
「それにしても、静かよの。」
「ええ。それが不思議で仕方なかったんですけどね。でも、私には、これが……」
この静けさが、自分がここに呼ばれた理由、のような、気がする。と。
遠い地平を見つめて紅尾が言った、その言葉尻を捉えるように、肩越しにそっと背後に視線を送りながら、桜里と清流が呟いた。
「……来た、ようじゃの」
「ですね。」
「ああ、来ましたか」
言われて紅尾が振り返る。
「やあ。また会ったね」
同じく振り向いた桜の精霊と地気の化身を左右に従え、微笑った紅尾の、正面に。
……先程の少年が、立っていた。
細い体。色の薄い髪、瞳。確かにそこに立っているのに、少年の印象は、風に紛れて消えそうに、淡い。そうして。
「おねえちゃんたち、だれ? どうやってここにきたの。ここにはボクしかいないはずなのに。……それとも、ずっと、ここにいた?」
──ずっと、ここに、いてくれた?
──ここに。自分しかいないこの場所に?
少年の言葉は、何故だかそんな風に紅尾達には聞こえて。
その瞬間、理解したのだ、紅尾達は。
紅尾がここに来た、その理由を。
少しかがんで、目線を少年にあわせて、紅尾は少年に言葉を返す。
「いいや。ずっといたワケじゃない。私は呼ばれて来たんだ、この場所へ。そうして私を呼んだのは、多分……キミだ。そうだね?」
「え…………? 呼んだ? ボクがおねえちゃんを……?」
目を見開いた少年に、紅尾が笑みを返す。
「うん。聞こえたよ、キミの声。
『……どうしてこんなとこにいるんだろう。こんな、だれも、いない、ところに……』
そんな風に、泣いてたね」
「ボクが泣いてたから……だから、来てくれたの? ボクの声に、応えて?」
「……そういうことに、なるんだろうね」
紅尾が寝不足だったからだろうか。そこに桜里と清流がいたから? それとも、それだけ少年の想いが強かったから、だろうか。
ともかくも、少年の『声』は紅尾に届いた。
──だから、誰か、ここに来て。
──だから、ボクを、ひとりにしないで。
その『声』に呼ばれて紅尾はここに来たのだ。
「…………ありがとう」
少年が呟いた瞬間、見渡す限りのすすき野原が、風に吹き飛ぶ砂絵のように、消えた。
残ったのは、一株のすすき。そうして、見渡す限りの、草もない荒れ地。
突然の変化に、けれど誰一人動じずに。
消えた景色。残ったすすき。そして少年。
淋しいと泣いた子供の正体を……薄々感付いていたそれを、そうして紅尾も清流も桜里も、確信に変える。
「……ああ、やはりか。」
「そういうこと、だったんですね」
「ええ。だから音がなかったんでしょう」
紅尾の言葉は溜息混じりで。
「ありがとう、おねえちゃんたち! ね、ずっとここにいてくれる? ボクと一緒にいてくれる?」
腕を掴んで言い募る少年に、紅尾はそっと答えを返した。
「キミには悪いけど、それは出来ない。ここは私の場所じゃ、ないから」
──ここは、キミの、夢、だから。
噛んで含めるような紅尾の言葉に、少年の顔には落胆の表情が浮かぶ。
「いて、くれないんだ。ボクはまた、ひとりになるんだ……。ボクはここから動けないのに。周りに仲間は、いないのに……」
その、声に。
かすかな笑みを含んだ桜里の声が重なった。
「莫迦を申すな」
「バカって何だよ!」
弾かれたように、少年が顔を上げる。
「莫迦だから莫迦って言ったんだよ」
言葉を繋いだのは清流だった。
顔を赤くして少年が叫ぶ。
「ボクのどこがバカなんだよ! ひとりはヤだからだれかに……このおねえちゃんに、そばにいてほしいって思って何が悪いんだよ!」
「そうやってひとりだひとりだって泣いてるのが、莫迦だって言ったんだよ」
「なっ……!」
清流の言葉には容赦がなかった。声音がどこか冷ややかなのも、このもののけにしては珍しい。
「こらこら清流。子供相手にあんまりキツいコト言うんじゃないよ」
苦笑混じりの紅尾の言葉をすら、遮って。
「冗談じゃありませんよ! そんな勝手な理由で紅尾さんを巻き添えにされてたまるもんですか!」
言い募る清流は、心の底から怒っていたのだ。ひとりだと泣く少年に。仲間がいないと、泣く、彼に。
仲間がいないと言うなら清流もそうだった。同じもののけはここにはいない。それを言うなら桜里もだ。ここには山桜は桜里ひとり。紅尾だって、自分で望んでのことではあっても、ひとり故郷を離れてここにいる。
それでも。
「周りを見ろよ! 目、開けろよ! お前の足下にあるのはなんだよ、右は、左は? 目の前にはなにがある!? お前の『仲間』はいないけど、お前はひとりじゃないだろう!」
清流の言葉に、少年は目を見開いて足元を見る。
足下で、枯れ葉が乾いた音を立てた。
「……え……?」
驚いて少年は顔を上げた。右に、左に目を向ける。右には花をつけた萩。左には今にも枯れそうな朝顔。そして正面には、色の変わり始めた葉をまとった、桜たち。
見渡す限りのすすき野原が消え、荒れ地が消えて、今、少年を取り巻く本当の景色が見えた。
「…………え?」
ここは、どこ。
息を飲む少年に、答えて桜里がちいさく微笑う。
「これがそなたが『本当に』いる場所じゃ。何のことはない、妾の住まう公園ではないか」
「ボクが、本当に、いる、場所? あなたのいる、公園?」
「そう。ここがキミのいる場所。これがキミを取り巻く本当の環境」
──確かにすすきは他にはないけど。
桜里の言葉を引き継いで、穏やかに囁いた紅尾の言葉に。
さらに続けて、清流が。
「確かにすすきは他にないけど、でも、ここにはみんないるだろ」
だからひとりだなんて泣くなと呟く。
「…………そっか。なんだ、ひとりじゃないんだ」
──ただ、すすきがいないだけで。
「……なんだ、そうか……。ありがとう」
教えてくれてありがとう。
と、ちいさく笑った少年に。
「判ればいいんだよ判れば。」
珍しく怒鳴った照れもあるのか、そっぽを向いたまま、清流が、言った。
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目覚めた紅尾は、そのまま公園に向かった。
もちろん桜里も清流も一緒である。
「あー、これかぁ、あの子」
──そういえば今年ここに一株だけ生えてきてたんだっけ。
ひとりごちながら、紅尾は隣に立つ桜里と清流を見る。
「で、どうです、まだ淋しがってます?」
見返した桜里と清流は、その顔に笑みを浮かべていた。
「いいや。もうそうでもないようじゃ」
「でもまだ、同じ種族がいないのを少しだけ物足りなく思ってるみたいですけどね」
「ああ……まあでもそれは、しょうがないよね」
「まあ、な」
「そういうことですよね」
そう言って苦笑した紅尾達の耳に、風に乗ってかすかな声が届いた。
『……大丈夫だよ。
大丈夫だよ。みんないるから。ひとりじゃないから。
それでもどうしても淋しくなって、仲間に会いたくてしょうがなくなったら……そしたら、少しだけ、あの草原を夢に見るから。
だから、大丈夫。ありがとう』
「だ、そうです。紅尾さん、桜里さま」
「ああ、よかったな」
「そおじゃのお」
仲間がいなくて淋しいと泣いていた、子供の姿をしたすすきの精霊は、どうやら今、笑っている、らしい。
その言葉を受け取った人間ひとりと精霊ふたりは、風にそよぐすすきを見つめて、笑みを含んだ吐息を漏らした。
仲間達からひとり離れて、ぽつんと一株育ったすすきは、周りを色んな仲間に囲まれ、風に吹かれて揺れながら、それでも時々、淋しくなって、同じ種族に想いを馳せる。
そうして時々、本当に淋しくなると、種族に備わる記憶を辿って、同じ種族に囲まれた懐かしい知らない場所の夢を見る。
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