傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 46 [ 2006年8月 ]


Lake Michigan
Photo by Ariyo

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2006年8月4日(金曜日)

今月に入っても効率良くお仕事は舞い込んできている。

オレのような単価の安いミュージシャンは、数で稼がねば暮らしていけないからありがたい。しかし、余暇にHPの日記を書くのが精一杯の生活サイクルからは早く抜け出したいと思いながら、もう何年も経つので、このまま発展せず人生が終わってしまうのではないだろうかと、時折妙な危機感に苛まれる。

昨日の昼間に来週のイベントのリハーサルがあり、夜はそのままロザへ出勤したので眠くて仕方がない。週明けに女性ボーカルのデロレスからデュオの打診をされていたが、以後連絡がなかったので今日はずっと寝ていた。そして気が付けば、携帯にメッセージのマーク・・・。

『今日の入り時間の打ち合わせをしたいから、至急電話ちょうだいネ』

うっ!やっぱりあんにゃ・・・。

インディアナ州のカジノ内にあるココ・テイラーの店までは、金曜の夕方だということを考えると2時間は掛かりそうだ。そのままずるずると床を這い出し、シャワーを浴びると少しは目が覚めた。よっしゃぁ、勢い勢いと、いつもの出勤準備の流れに身を任せ、運転席に座ったときには、やけっぱちのやる気と空腹感が生じていた。マクドかウエンディーズでチキンサンドでも買って、小旅行の楽しみにとしよう。

いざ出陣とマキシちゃんが動き出すと、聞き慣れない異音がする。ペタペタぁ?車を降りてタイヤを確認すると、左後輪がぺっちゃんこではないか!昨夜は何の異常もなかったのに、釘でも踏んでいたのか、まるでポパイの唇のようである。オレは一瞬、人生が終わったような惚けた顔をしていたに違いない。

携帯電話の時間を確認すると、近所に在る馴染みの修理屋はまだ開いているはずだった。ラグジュアリーなマキシちゃんをバタつかせて、車輪のリムが傷付かぬよう恐怖の5ブロックを走り、真っ青な顔で店へ飛び込んだ。

事情を酌んだ修理屋のオヤジは、手の空いている従業員にテキパキと指示を出す。オレはチキンサンドどころではなく、時間厳守の観念に縛られる悲しい性(さが)を曝け出し、その場で駆け足をしていた。そして結局、釘や刺さった異物、穴などの空気が漏れた原因は見付からなかった。

『空気入れといたから当分は大丈夫だとは思うけど、後輪の2本は大分古いから早く新しいのと取替えた方が良いよ』

なす術を失ったオヤジの声が、急にのんびりと聞こえてくる。

出勤前に失われた数十分は、一体なんだったのだろう。オレの一食分が失せただけなのか?あの喪失感や焦燥感に引っ掻かれた神経の傷は、デロレスとの演奏が始まる頃にはすっかり癒えていた。それでも白髪を一本増やしたような記憶は残る。

オレが演奏できなかったとしても、ただそんな一日があっただけで、人生が変わるはずもない。大陸的な、もっとどっしりと構えた生き方がしたいと思いながらも、取り敢えず懸念を払拭するために、明日早速タイヤを買いに行こうと考え始めていた。


2006年8月5日(土曜日)

貴重な昼の睡眠時間を削ってタイヤを2本購入する。その勢いでテレビまで買った。旅行代理店のNのお下がりの27インチ型が調子悪かったからだ。彼が購入した頃からは十数年も経っているので、充分、減価償却はされている。

量販店Wは配送してもらえないので、後輩のTに手伝いを頼むと、夜仕事があるので昼は寝ていてダメですと断わられた。予想通りだったので気も悪くならず、独りで運べる限界の24インチのフラット型にする。神話かも知れないが、やはり日本製がよろしい。そして、真新しい電化製品は気持ちがよろしい。

夜はSOBでロザ。海外公演などのフェスティバルが続いていて、少なくとも一セット目の流れは完成度が高くなっている。

オレの大ファンだという男性が、ロザ特製のアリヨポスターを持ってきてサインを求めた。気持ちが良くならないわけはない。彼の名前をカタカナでニコニコと記していると、複雑な期待の言葉を投げ掛けられた。

『もうね、次のデトロイト・ジュニアはアリヨしかいない!』

デトロイトのファンの方には申し訳ないし、デトロイトをご存知ない方には、さっぱり理解できないでしょうが、軽ぅうくサカムケのできたような、極小の落ち込みをした。


2006年8月6日(日曜日)

『今夜は綺麗な満月だなぁ』とルリーが言う。『まだ満月には3.4日あるよ』とオレが応えると、側にいたカルロスが『真ん丸じゃないもんな』と付け足した。『そうかい、えへへへ』とルリーは静かに笑う。

南の郊外のカントリークラブ・ヒルの野外常設ステージでのイベント。ルリー・ベルとカルロス・ジョンソンをゲストに迎えるので、SOBがメインと思いきや、地元のソウルバンドの前座だった。

珍しいことに、ウチの丸山さんを含め、登場した3人のギタリスト全員が、ピックを使わない指弾き奏者である。早弾きのグルーブに難はあるものの、弦へ指を直に当てるだけに、独特の粘っこい味を出す。その中でもルリーの音は出色で、神々しい純粋性が滲んでいた。多少歪んでいても丸く見え、否定されても、決して動じているとは思えない。内面をストレートに表出できる稀有なブルースマンである。

オレたちの演奏中も、次から次へと来場してくる若い黒人たち。彼らの目当てのバンド名は聞いたことがなかったけれど、相当な人気らしい。そんな客席の反応を『俺たちの演奏、ウケてたよな』とビリーは評価するが、オレはまったく逆の印象だった。今のブルースは、アメリカの白人層とヨーロッパ、日本の一部のファンに支えられている気がする。

女性客の甲高い叫び声が絶えない会場を離れながら、天上に昇りつつある月をもう一度眺めてみた。ルリーが見えるようには、どうしても満月にならない。天才の幼児性が疎ましくも羨ましく感じた。


2006年8月7日(月曜日)

メジャーの役者も出演する有名な劇場 "Steppenwolf Theatre" でイベント。

"Blues/Hip-Hop Intersection" というタイトルにはおよそ相応しくない、健全そうなお客さま方がほとんどで、500席ほどのチケット($20)は売り切れだった。 

SOBの大将ビリーと、シカゴ公共テレビのプロデューサー、シルビア・アーウィングがホストのこの催しは、黒人音楽の系譜を簡単に紹介しながら、ラップとブルースが交互に登場し、時には混ざり合う。バンドはSOBのみで、若いラッパーたちとDJ、新進の黒人R&B女性ボーカルら、総勢30名ほどが出演した。

先週のリハーサルからオレは違和感を感じていた。若いヒップホップ・ミュージシャンたちにブルースを語るビリーにも、その歌詞にブルースやブルースが内包している要素を取り込もうとする彼らにも、オレはどこか冷めた気持ちで対していた。

DJがサポートするレコード音はビートものの極致であって、当然ラップとはマッチする。ところがビリーはベースにフレーズを出させて、彼らのバックアップをSOBに求めた。ただでさえ弱いウチのリズム陣に適うはずもなく、オレは頑強に『合わない!』と否定した。確かに「合う」「合わない」は主観だろうが、そのラインがオレとメンバーでは大きくズレる。オレからすれば考えが「甘い」(2006年8月6日参照)のだ。

実験的な試みは評価されても良いとは思うが、オレを含めてろくにヒップホップを知らない大人たちが、彼らに近付いていって受け入れられるとは思えない。いつか友人がいっていた「リアリティ」が違う気がするのだ。

若い黒人の今の生活や考えなど、オレの周りのミュージシャンからは窺い知れない。世代や音楽的嗜好のみならず、活動の場さえ相容れない。では何を共通項にして一緒に演奏できるのだろうか。それは単純に演奏の質、つまりこちらの演奏をカッコイイ、魅力あると思わせ、引っ張っていけるだけの技量・技術であるはずだ。音楽としてのブルースに、ましてやSOBにそれを求めるのは無理なことだし、その一点で言えば、他に優れたミュージシャンは一杯いる。

そしてシルビアに連れてこられた若者たちからは、危うさが感じられなかった。みんな良い子たちなのだ。別に良い子がヒップホップを唄ったって悪い訳ではないし、彼らの「今」はリアリティに溢れた歌詞ばかりだ。それでもタイトルにある"Blues/Hip-Hop Intersection" が、オレには浮いて感じられた。

進行表は分刻みでSOBは舞台にくぎ付け。ビリーの役者じみた台詞はシルビアによって決められていた。万人が観るNHKの演出のようだ。

結局オレたちは一曲のみラップのバックを務め、あとは継ぎはぎだらけで交互に出演する変則な構成となる。最後は簡単な12小節のシャッフルに、各々のラッパーがフリーで歌詞をはめたのが、唯一、若者からのブルースへのアプローチだったかも知れない。

搬出後の駐車場で、良い子たちの中でも一番やんちゃそうだったグループ、"Beat Monstas" に囲まれ彼らのCDを渡された。

『ありがとう、機会があれば日本のレコード会社に送るよ。雑誌で紹介してもらえるかも知れないし』
『紹介されなくても構わない、聴いてもらえるだけで嬉しいから』

ビート・モンスタスは、良い子ぶっていただけなのかも知れない。CDから流れる彼らの唄は、充分やんちゃな黒人のリアリティが詰まっている。オレは自分が付焼き刃のラップファンになりそうな気配がした。


2006年8月9日(水曜日)

ジェネシスの休憩中、明日からのフランスツアーの行程をビリーに訊ねた。

『飛行機は何時でしょか?』
『うっ、知らん・・・』
『パリまで直行ですよね、そこからどこへ行くのでしょうか?』
『RKnPDVニョン』
『はぁ?』
『qBEQc6Sニャン』
『へろっ?』
『何とかニャンかニョンだ』
『パリからどれくらい掛かるんでしょうか?』
『・・・』
『きっと空港からまた何時間も車に揺られるんでしょうね』
『そうだろうな』
『・・・』
『・・・』
『明日は午後6時3分の便だとマネージャーからメールが入ってましたが、どこのエアラインでしょうか?』
『ぐぐっ、ちゃんと調べてメールしとくから早く帰れ!』
『へい、へい』


2006年8月13日(日曜日)

おフランスから戻る。

"Chedigny" という名前をいまだ正確には発音できないが、ジェネシスでビリーが言ったのと違うことは分る。

パリ、シャルル・ド・ゴール空港でドルをユーロに換金した一行は、再び同じ空港に戻るまで一銭も遣わなかった。それは "Chedigny" がエッライ田舎で、土産どころか、日用品を売る店すらないところだったからだ。

それにしても、人口400人の村の教会前広場に数千人が集うフェスは壮観である。週末の3日間、遠くは250キロ離れたパリからも人がやって来るそうだ。そして若者が多い。夏のイベントとして定着しているのか、村の子供が目立った。

本格的フランス料理の炊き出しや送り迎えなどは、ボランティアのおばさんたちが活躍する。まるで地域の婦人会で、英語が話せない分、気持ちの良い笑顔で応対していた。

4カ所に別れてホームステイすることを知り、『ええぇっっ、人ん家泊まんのぉ』と面喰らっていたメンバーも、そこいらのホテルより居心地の良い寝床と暖かいもてなしを受け、各々満足していたようだ。何よりも、フランス中部の田舎の家庭生活を体験できたのが嬉しい。

オレとニックは、4ヘクタールの土地に瀟洒な二階建てのアニーおばさんのお宅で世話になる。

二人の娘を嫁がせたアニーは2年前に幼稚園の先生を定年退職し、連れ合いとも分かれて気侭な一人暮しをしている。55才から年金生活の送れるフランスの社会制度も素晴らしいが、田舎ののどかさが彼女たちの精神的充足を一層感じさせのるのかも知れない。

道路から玄関前へと続く50メートル程のあぜ道の両側には、梨、桃、ぶどうなどの樹木が植えられ、朝の食卓には庭で採れた甘い野イチゴやトマトが盛られた。クリーム抜きのシューは上品な大人の味がする。

アニーのたてる珈琲は香高く、ミルクをたくさん混ぜても薄まらない。そのカフェオーレを手に、裏のテラスの椅子に座ってタバコを燻(くゆ)らせていると、遠くに子連れの鹿が葉を食(は)んでいるのが見えた。

『あの鹿の出てきた林の手前までが私の地所なのよ。本当はあっちの方まで手に入れたかったけど』
『これだけ広かったら充分でしょ?』
『でも、朝早くにトラクターが作業するときは喧しいの』

彼女が指差す数百メートル先も、周りに隣家が見当たらないので土地区分の見当が付かない。

ミシシッピー出身のニックは故郷を思い出すと言うが、アメリカ南部とは違った風情が感じられる。同じ田舎でも、道や建物、畑など、人が住んだ歴史の長さと色が異なるのだ。どちらからも異邦人のオレだからこそ見える、文化の隔たりかも知れない。
 
僅か二泊だったのに一週間も滞在したかのような錯覚に陥ったのは、毎日訪れて来たアニーの妹や友人、娘夫婦たちとの歓談が楽しかったからだろう。フェスでみんなはオレとニックに一生懸命な声援を送っていたらしい。彼女たちの英語が不自由な分、互いに相手を理解しようという姿勢が敬意を深める。

笑顔の絶えない女主人は、面倒見の良い学生下宿のおばさんのようで、いつかシカゴや日本に招待したいと思わせた。ニックも同じ気持ちだったらしく、分かれの時には何枚も写真を撮っていた。

小型バスに4時間揺られてパリの空港へ戻った時には、当分海外ツアーのない予定をみんなが自覚していて、一抹の寂しさが漂っていた。荷物をチェックインした後、気持ちを切り替えて、さぁ土産探しだ、世界に名立たる観光都市パリの国際空港の土産物売り場は広大なはずだと、勇んで出発サテライト(ゲート)内へ入ってみると、免税店は数カ所の、それも小さな出張ワゴンしかない。先月、イタリアからの乗り継ぎのフランクフルトの空港でもそうだったが、アメリカ行きの便は、ショッピング・モールのない端へ追いやられているようだ。

おまけに、ロンドンでテロ未遂の摘発があったばかりで、ペットボトルの水やジェル、歯磨き粉まで機内へは持ち込めない厳重なセキュリティである。結局メンバーたちは、搭乗口横に一店だけあった出店に群がった。

エッフェル塔や凱旋門のミニチュアを手に取っては戻して、オレは故郷京都の吉田神社の節分祭を思い出していた。夜店の輪投げでもらえる景品と変わりがない。

パリと刻印されたスプーンやエッフェル塔などを両手に満たし、レジに並んでいるニックの後ろに、オレもスプーンをひとつだけ持って立つ。ふと彼の背中を見つめながら、ニックは"Chedigny"村の名前を覚えているのだろうかと考えていた。


2006年8月20日(日曜日)

カゥボーイで有名なワイオミング州のパインデールでブルースフェス(2003年6月22日参照)のSOB衆。

昨日のトリの「ブルース・トラベラーズ」には驚いた。ベースとギターが異様にカッコ良く上手なのだ。特に白人ベースが完全パンクの風貌なのにグルーブがソウルフルで、出す音の粒の一つ一つが鮮明に抜け出てくる。白だ黒だと言うこと自体が無意味なのは当然だが、ここまでくると溜め息さえ出る。曲や唄は別にして、同業者としてアメリカの一線ミュージシャンの質を思い知らされた。

そして我らはオオトリのココ・テイラー前の演奏。ココのギターのシュンを含め、日本人3名(丸山、シュンが一曲ずつ唄も披露)を同じ日に観る地元観客にはどう映ったであろうか。『日本人なのにブルース演奏するって凄いね』と耳にする、『なのに』がいつまでも引っかかるのだ。「ブルトラ」のベースを『白人』で『パンクの風貌なのに』と記すオレも同様か。

楽屋を兼ねたテントでは、暖かいケータリングのもてなしに皆が群がる。SOBの太鼓のモーズが白いクロスの掛けられたテーブルに陣取り、フェスのパンフを見ながら出演者の名前を、誰に聞かせるともなく読み上げていた。彼が何故いちいち口に出しているのかは分からない。

『んん、ブルース・トラベラーズ、ああ、昨日出ていた人気バンドか、なんの某?こいつは聞いたことある名前だぞ。今日はと、ココ・テイラーにウチと、ブギウギ○×こいつはあれだな、それからと、ん?ギター・ジャム・・・こりゃ誰だぁ?おいアリヨ、ギター・ジャムって奴知ってるかい?』

おっさん、それはギタリストのセッションのことで、人の名前やバンド名ではないんですが。

***お詫びと弁解
8月末に愛しのiMacが突然クラッシュしました。修理へ持って行く時間がなく、ようやく視てもらったと思ったら『新しいの買った方がお得よ』と言われ Mac Miniを購入。ところがマックミニのOSでは旧マックのファイルを開くことができず、したがってメールアドレスも含め日記の下書きが復旧せず、現場20 数本に週二日の子守り(日勤ですが私にとっては夜勤に等しい)で身動きできない日々が続いておりました。ところが先日友人から『ネットの世界では2ヶ月更新されないと「お気に入り」から外されるよ』と脅されたので、手帳を繰りながら過去を思い出し(それ日記とちゃうやん!)一念発起して頑張りますので、またご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。
 
有吉須美人/アリヨ 10月31日記


2006年8月22日(火曜日)

ミシガン湖のクルーズ船「オデッセイ」でSOBの宴会仕事。

こんな豪華な船上パーティなのに、どうしてオレたちは自前の音響機材を持ち込まねばならないのだろう?タキシード姿の給仕係に上層階級の人々。スーツ姿で気取ったSOBの真ん前には、ギシギシ軋(きし)ませた三脚がフラフラになりながら安手のスピーカーを支えている。絢爛豪華な食卓に、汚い大きな箱がいつ倒れてもおかしくない。

しかしシカゴに延べ十年以上住んでいて初めて湖上へ出た。そこから眺めるダウンタウンの夜景は瑰麗(かいれい)であり、その反面、漆黒に揺れて炎の浮かぶ水面は寂しい。反対側へ目を遣ると、船内からはただの闇でしかなかった。

食事付きパーティに付きものの「客が会話できる程度の音量」をオレは楽しんでいたが、軽音楽ではない演奏をBGMに、人々は$250も会費を払って満足していたように思えない。『素晴らしかったよ』と一番声を掛けてくれたのは給仕係たちだった。そして、そっちの方が嬉しかったりする。


2006年8月27日(日曜日)

朝から子守りをして、夜はキングストン・マインズでオーナーの誕生会のホストバンドをSOBで、明け方の3時半まで。オレ、いつ寝るの?

残り一セットの午前2時過ぎ、そこそこの広さのトイレへ入ると、小柄なにぃちゃんが部屋の中央で下を向きながらフラフラしている。酔っていてズボンのチャックが上げられないらしい。肩を軽く叩き『大丈夫?』と声を掛けたら、"Whatyou want ?"(表音のまま)と返された。何が欲しいって言われても・・・。


2006年8月28日(月曜日)

アーティスに顔を見せるのが久し振りだったためか、アフリカ系では色黒のサックスのSをアフリカ系では色白のビリーは、最初誰だか認識していなかったようだ。大将はようやく納得して言い訳のように付け足した。

『お前、少し日焼けしたんじゃねぇのか?』
『してねぇよ!』

あんにゃ、黒人同士でもこんな会話・・・。