傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 28 [ 2005年2月 ]


Baby Hand
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2005年2月1日(水曜日)

『もしもし、アリサと話したいんですが』

惜しい!2音かすっている。

『はぁっ?誰と話したいって?』
『アリィサ・・・』
『アリィサぁ?お前が掛けた電話番号は何番?』
『・・・』
『お前が何番に電話してるか聞いてるんだけど』
『・・・プツッ』

明らかに若い黒人の声だった。好きな子と話したかったのだろう。ガールフレンドかも知れないし、約束していて電話したら出たのが家人で、不機嫌そうに『はぁ?』と言われ少し慌ててしまって、小さな声で『アリィサ』と答え・・・いや、切羽詰まった声に聞こえたから、振られかけていて何とか繋ぎ止めたいとの思いで携帯(アメリカは携帯と家の番号に違いがない)に掛けたら、意外なことに男の声で応答され恐縮してしまい、発音からどんな人種かと想像するにも至らず・・・いやいや、ひょっとしたら何かヘマを犯し拘置されて、見知らぬ恋人と同棲している母親に助けを請うために・・・。

午前3時37分の間違い電話。どうせオレにはあんたらの昼下がりの時間だから、何時だと思ってるんだと目くじらを立てることはないけれど。


2005年2月3日(木曜日)

我が家に新しいご主人さまが降誕して以来、家人共々睡眠が充分に取れない。眠ったのは多分午前11時半を過ぎていたが、午後3時半には目覚めねばならず、フラフラの態(てい)で夕方のパーティ仕事へ出掛けた。終了後、大慌てで機材を搬出すると直でロザへ出向く。

パーティでは床に置いたグラスを蹴飛ばして中身ごと粉砕し、混み合った搬出時に客のおばさんとぶつかり踏ん張り切れず、反動で別のおばさんに体重をほとんど預けるほど寄り掛かる。

ロザでは再び床に置いたコップをコーラごと蹴飛ばし、入れ直した満杯のコーラを再々度蹴飛ばして辺をコーラ塗れにした。

故里の京都では節分の今日、子供の頃遊んだ吉田神社は節分祭で賑わったに違いない。帰りたい・・・。


2005年2月4日(金曜日)

髪の毛を久し振りに赤から黒へ染め直してツンツン頭に散髪、日本のパン屋さんに寄ってからミツワで買い出し。それからタバコを1カートン買いガソリンを満タンにし、$10の洗車でマキシもすっかり上品なお嬢様に変身。昨日のダブルのギャラすべてを遣い果たし所持金は$2になってしまった。でも、なんかすがすがしい。


2005年2月5日(土曜日)

気温が8℃と暖かなせいか、SOBのロザは演奏が始まる前から人で満杯だった。

それでもオレの気持ちが沈んでいたのは、シカゴのブルースクラブで唯一設置されているロザのアコースティック・ピアノ、それもグランドピアノのピックアップ・マイクが壊れていて、充分な音量を出すことがかなわなかったからだ。おまけに調律は、もはや素人のオレの手に負える程度の狂いではなく、かといって数曲弾けばすでに狂ってしまう状態では、トニーに調律師を手配せよとも頼み難い。

結局オレが体裁を取り繕うのだが、然して効果が上がらないのは分っている。自分で出す音への責任感といった念が、無下なる行為を繰り返させているに過ぎない。もとより観客はピアノの常態を知っている訳ではないので、ズレが分からないほどのピッチに調整できるならまだしも、『調律していたはずなのに、何だこの調子はずれの音は』と、口には出さずとも心で思うに違いない。

だから少し早出をして、オレがあがいてる姿を晒したくはなかったのに、店に着いたときには席がほとんど埋まるほどの客で混み合っていた。

音響を兼ねるギターのロブやトニーと2本のボーカルマイクを突っ込み、ピアノの蓋を低い位置にして上からカバーを掛け、何とか音量を稼げる工夫をしたが、モニター・スピーカーからのピアノ音はやはり頼りなかった。こんなときは細かい技術よりも音の力を重視せざるを得ないので、叩くだけの演奏になってしまう。それは、ただでさえ怪しい調律を、より歪めてしまうことを意味していた。

ところが意外なことに、調律の狂いを超えた感情が音を独占してしまった。普段にも増して叩き付ける指先はしっかりと鍵盤を捉え、客席には力強いフレーズが鳴り響いたようだ。不満の鬱積はエネルギーの蓄積を促すのだろう。音に転化された怒りの発露は、ときに「熱い音」として伝わるものかも知れない。

1セットを終え、店の混雑を嫌い入り口付近まで避難したオレに客のひとりが声を掛けた。音響の不備でピアノの音量が出ないのだがと問うと、初老の彼は一瞬怪訝な表情を見せたが、その声にはオレを安心させるような穏やかさがあった。

『私はこの隅に立っていたんだが、みんなの音の隙間を縫って響いてくる君のピアノは、一音一音が鮮明に聴こえて素晴らしい演奏だったよ』

側にいた別の男性も話を継いだ。

『オレはアンタの演奏を何度も聴いたことがあるが、今日はその中でも特別熱いよ』

彼らがどれほどの音楽ファンで、どれほどブルースに詳しいかはどうでも良いことだ。お愛想が多いアメリカ人でも、個別に話してくる人は、正直に思ったことを言っているのを知っている。促された拍手など当てにはできない。客席で掛けられる声の多さ、その質こそが、その日の自分の演奏がどう伝わったかを知る目安になるのだ。こんな沈んだ日こそ彼らの言葉は励みになる。

旦那さんを連れて観に来てくれた新婚のMM嬢は、その愛らしい笑顔でオレを励ましてくれた。帰国子女で再びシカゴへ戻った彼女は、まだ20代前半なのに如才ない応接で周りの人を明るくさせる。昨年数カ月間滞在していたギターのK太(2004年7月1日参照)は彼女の兄だが、MM嬢が姉に見えるほどしっかり者の印象が強い。だから、この新婚さんと同じテーブルに座っていると、大人しい旦那さんよりも、知らず知らずの内に彼女の方へ顔が向きがちなのを意識して困ってしまう。

ライブは決してひとりの演奏で成り立つものではない。観客の熱気、楽しむ様子、親しい者との休憩中の会話など、人々との共同で成立する「場」なのだ。

土曜日のため終演がいつもより1時間延長された27時(午前3時)前、満員御礼へのご祝儀協議が成功裏に終わったのだろう、ビリーは週末ギャラに$××を上積みした。それに加え、先々週のパーティギャラ(2005年1月29日参照)も、現金を入れた大袈裟な封筒で分配する。

確かに他のバンドリーダーと比べ、ビリーは固定メンバーへの待遇を考えている(2004年5月2日参照)に違いない。ただあまりにも得意面で、これ見よがしに『エブリィバディ・ハッピー?』と言われるとどこか白けてしまい、オレは素直に返事することができなかった。


2005年2月6日(日曜日)

もうね、スーパーボール。昨日が遅かったから夕方の5時に起きるのは辛かったけど、やっぱり贔屓チームはなくとも毎年観なきゃね。でも、日本人の「判官贔屓」か黒人好きかどうか知らないけれど、中学生の頃から黒人の多いチーム、黒人がとっても活躍するチームを応援してたんですよ、ワタシ。だから、走って投げれる黒人QBマクナブを擁するフィラデルフィア・イーグルスを、プレイオフからずっと応援してたわけです。

でね、結果的には負けましたよ。それも惜敗に相応しい、討ち死に的な最期でね。でも何故か感動がなかったんです。例えばメジャーリーグのボストンが優勝したとき(2004年10月28日参照)のような熱いものが、どこか欠けていたんです。

放映が保守的なFOXテレビってことで、コマーシャルにやたらと国威発揚を促すようなものが流れたり、国のために戦っている兵士を讃え、それも自由と民主主義を守る口実で先手を打って戦争を仕掛けている人々を讃えて、各軍代表の音楽隊を集めて国歌斉唱させて・・・。

アフガンやイラクの兵舎からも中継していましたが、司会のマイケル・ダグラスってイラク戦争には反対していたはずでしょ?断れなかったんですかね?結局2大政党っていっても同じなんでしょう。そういやパパブッシュとクリントンは並んで登場していました。

いえね、よその国に住ませてもらっていながら、こんなこと書くのはなにかと思うんですが、こないだ或アメリカ人に『アメリカの戦争政策を、君や日本に住んでいる君の家族はどう思っている?』って訊かれたんですよ。失礼ながらって、そりゃ正直に答えましたよ。それでね、もうひとり日本人がいたんですが、同じ質問をされましてね。『僕はそのことについて家族と話したことはないが、アメリカ人以外はほとんど反対してるんじゃないですか?』ってその方は答えられたんですよ。

つまりね、メジャーリーグやスーパーボールなんかの素晴らしいスポーツを含め、音楽にしろ映画にしろ、アメリカって、世界に誇れる文化をたくさん持っているじゃないですか。まぁ、矮小なワタシもその末席でちょこちょこ蠢(うごめ)いているわけですが、スーパーボールのような世界中に放映される試合にもかかわらず、このように露骨な演出が必要だったのかと思うわけです。

それで冒頭からいきなり興醒めしましてね。ハーフタイム・ショウでポール・マッカートニーが懐かしいビートルズをメドレーで演奏したのも、なんだかなと感じたのですが、所詮その程度の関心事だったのでしょう。3点差で残り1分を切り、マクナブのパスがインターセプトされてからチャンネルを変えてしまいました。

一昨年のシカゴ・カブスの試合(2003年10月15日参照)のときのように、応援してるチームが負けても感動をもらえるときはあるのですが、今日はまったくダメでした。

世の中にはいろんな考えの人がいますが、そんな人々すべてと一緒に楽しめるような方向を求めるのではなく、同じ考えを持たないと楽しませないってことなんでしょうか?行きつくのは、同じ考えを持たないと生活させない、生きられないって世界かも知れません。あっ、中東でアメリカはそれ実践してますね。

日本もそういう国にしたい人が増えている気がして、とっても心配なんです。


2005年2月7日(月曜日)

アメリカ人は誰もが子供好きに思える。たとえ見知らぬ他人であっても、移民で開拓者の血脈が新しい家族の誕生を心から祝福させるのかも知れない。

ひとり息子の生誕(2004年12月2日参照)祝いに、「ベビー・シャワー・パーティ」なるものがアーティスで催された。普通「ベビー・シャワー」は出産前の祝いで、それも女性だけのパーティである場合が多い。

とにかく祝う会を開きたいからと、女性シンガーのデロレス(これまでデロリスと表記していたが、音では「イ」と「エ」が聞き分けにくく、最近スペルの間違いに気が付いたので訂正する)がオーナーと相談して日取りも決めてくれていた。カウンターの前列にはプレゼントの山と、幾重もの紙幣をピンで刺したクマのぬいぐるみが、パーティに華を添えている。父としては誕生から2ヵ月以上も経つので少し面映いが、みんなの気持ちが嬉しいのでありがたく神輿に乗らせてもらった。
 
先週デロレスは、バディ・ガイのキーボード、マーティと打ち合わせをしていたらしく、ビリー・ホリデーの"GOD BLESS THE CHILD"を熱唱してくれる。我が子の祝福の唄だけど自分に対して唄われているようで心が震えた。

世の中は厳しいから 負けないで強く生きなさい
ママやパパは頑張ってきた
でも何も心配することはない
だって あなたもあなた自身を持っているから

こんな内容だったと思う。「世の中は平和であなたは恵まれているから、何も心配しないで眠りなさい」という「サマータイム」に比べると、親でさえ頼らず自分を信じて頑張れと唄うビリー・ホリデーの曲には、彼女の悲しい境遇が映し出されていた。いや、「サマータイム」こそ不幸な現実を逆説的に説明している。共通するのは小さな命への深い愛情だ。

希美人が、争いや貧困のない平和な世の中にすくすくと育つことを、親として心から望んでいる。


2005年2月8日(火曜日)

「今回あなたの芸能・スポーツ・学術関係のビザ延長手続きを終えたことで、これまでの膨大な資料が永住権申請に役立ちます。この機を逃すと、永住権申請の時に、新らしい資料を再び提出せねばならず、逆にいえば今が申請のチャンスです」といった内容の手紙を担当の弁護士から受け取っていた。午前10時に面会予約を入れる。就寝してから2-4時間経った頃に出向かねばならないのはとても辛い。

ダウンタウンの駐車場料金は、最初の一時間ですでに$20以上とバカ高いので、久し振りにCTA(シカゴ交通局の電車ー200円ほど)を利用する。遅れてはいけないと少し早く出過ぎたため、オフィスのある巨大ビルに着いたのは約束より30分以上も前だった。中途半端に暖かい(0℃前後)から薄着で外を歩いてしまい身体が冷えたので、目に入ったダンキン・ドーナッツでコーヒーとドーナッツを注文する。

ひと気のない2階席から忙しいオフィス街を眺める。まだ商店の開いていないこの時間を行き交う人々の一日の始まりは仕事の始まりで、ビル群の窓に映るデスクに向かった人影を見ていると、授業の一時間目だとか、バイトの一時間目を思い出し、朝の何ともいえない地道な一歩の息苦しさに目眩がした。

砂糖菓子に砂糖を追加したような甘い塊を、味の薄いコーヒーでくちゅくちゅ食べ終える。コーヒーカップには蓋が付いており、冷めないように、こぼれないように、飲み口のところだけに穴を開けるよう配慮されている。ところが吸い口が小さいので、猫舌のオレは熱いコーヒーが少しずつしか飲めない。

禁煙の厳粛な弁護士事務所に入る前に、外でタバコを吸おうと立ち上がった。書類カバンも持っていたし、蓋がなければ決してぞんざいには暖かいカップを持たなかっただろう。カップを持った左手に激痛が走る。人差し指から薬指までが、ねっとりとコーヒー色になっていた。

アソシエイト(いわゆる平弁護士)の料金が、去年の9月には時間当たり$140だったのに11月の請求では$170になっていたので、それを指摘すると彼は15分ほど席を外した。この料金交渉に費やされる時間も課金されるに違いない。戻ってくると『実は自分の料金を知らなかったのですが、値上がりしているのも知りませんでした。その上、$170/時間ではなく$160/時間だそうです。訂正して払い戻します』と申し訳なさそうに説明した。

続けてパートナー(いわゆる幹部弁護士)が現れ、この場だけの親愛の情を見せてくれる。まずは軽い世間話しで、道に迷ったか大渋滞に巻き込まれた高級リムジンのメーターを気にする小心者にさせてくれた。こいつの料金は一体どれほど値上がりしているのだと、次回の請求が密かな楽しみでもある。

パートナーは、オレが4年前の担当弁護士(中国の大学に招聘されてしまった)からレクチャーされた情報を重複したあと、『それでグラミー賞かアカデミー賞はいつ頃取るつもりなのかね?』と満点を要求した。その横ではアソシエイトが(この膨大な資料を何とか膨らませて、傍証を固めるように申請するつもりだったのに)とほぞを噛んでいる風に見えた。移民局から信頼の厚いこの巨大弁護士事務所では、個人の弁護能力よりも事務所の名前がモノをいう。だからこのパートナーの一言は重い。手紙で「永住権・・・今が申請のチャンスです」と誘ったアソシエイトこそ大恥である。

それよりもオレにすれば、朝早くダウンタウンにまで出掛けコーヒーで火傷をし、現在のビザを地道に毎年更新していきましょうという結論に達したのは合点がいかない。

誰か早くオレにグラミー賞を取らせてくれ!


2005年2月10日(木曜日)

ロザから戻った未明(午前3時過ぎ)の廊下から、ドタンバタンという音と共に若い女性の悲鳴が聞こえてきた。それまでは遠くで誰かの騒ぐ声がしていたが、それが外かアパートの中かは判別できなかったし、悲鳴かどうかも分からなかった。ところが、今度ははっきりと"Oh My God !Oh My God !"(どうしましょう、大変だわ)と叫んでいるのが聞こえる。 

"Help"ではなかったので、こちらにもかかわるような差し迫った状態、たとえば暴漢や物取りの類いではないだろうし、火事なら警報機が作動するはずだ。事故かDV(家庭内暴力)で誰かが怪我をしたぐらいしか思い付かなかったが、用心してドアを開け顔を出してみた。廊下の角の向こうから『何があったんだ』と尋ねる男の声がする。隣の部屋の住人が騒ぎに起き出したのだろう。悲鳴源はしくしく泣きながら何かを訴えているようだが声は落ち、内容までは聞き取れなかった。

時間が時間だけに顔を出すのが憚られ、状況を把握する機を逸したので時おり外の様子を窺っていた。問題が大きければパトカーか救急車が到着するはずだ。

アパート内は何ごともなかったかのように静まり返っている。何度目かにカーテンを開けて外を見遣ったとき、広い庭を隔てた門扉の前に2台のパトカーが停まっているのが見えた。緊急灯が点いていないので、到着したことに気付かなかったのだ。やはり差し迫った一件ではなかったのだが、警官が呼ばれたことは事件性を含んでいる。

間もなく玄関から二人の警官と若い女性が姿を見せ、L字型の建物の内側に位置するウチのユニットと、直角に対面する2階の窓を窺い出した。まだ雪の残る庭に踏み入り、外壁を指差したり懐中電灯を照らしたり、何やら捜査しているように見える。誰かが彼女の部屋へ押し入ろうとしていたのか!?オレは意を決して部屋を出た。

廊下の角を曲がるとその先には、男女の警官二人が立っている。直ぐ側に韓国人の若い女性が二人、各々離れて床にへたり込んでる。一人は顔に手を当て、まだ泣いてる様子だった。

『叫び声が聞こえて一旦収まったんですが、あなた方の姿が見えて心配になって来ました。何があったんですか?』

何かの被害者に違いない彼女たちへ神妙に『ハァイ』と声を掛けたあと、眉をしかめてオレは尋ねてみた。

『この人ら従姉妹同士で同居してるんだけど、大げんかをして、過って廊下へ飛び出したらドアが閉まり、ロックアウト(鍵を持たずに閉め出されること)されたんですよ。ところが、マスターキーを持っているはずの管理人の部屋が分からないので困ってたんです。あなたご存知ないですか?』

少し疲れた表情で男の警官が答えた。ははぁ、なるほど。それで窓から何とか入れないかと表で調べていたのだ。いつもは無愛想な隣の男が警察へ電話をしてくれたに違いない。半年ほど前から予告なしに変わった、新しい管理人の部屋を誰も知らないのだ。

一階にある管理人の部屋を教えながら、午前3時38分に叩き起こされる英語の不自由なポーリッシュのオッサンには、えらい迷惑な話だと思った。ところが管理人なのにオッサンはマスターキーを持っていないらしく、庭で梯子を使って警官と何やらごそごそしている。何れにしてもその様子だと、間もなく韓国女性も部屋に戻れるのだろう。

去年、駐車場の端に停まっていた新車のBMWの窓ガラスが、全部割られてたのを思い出す。うわっ、車上強盗かと用心したが、そのときも結局、同居してる彼女が喧嘩して割り、警察沙汰になっただけだった。(2004年4月21日参照

この地域はいまだに安全で住み易い。


2005年2月11日(金曜日)

SOBのキングストン・マインズ初日。

マインズのステージ前は踊れるスペースになっていて(本当はダメだが店は黙認)、本来特等席であるはずの場所に座っている人は、大勢の客が踊り出すと目の前が遮られて堪らないに違いない。

オレの目の前では知った顔のRが、ちょっとグラマーなブロンド女性と踊っていた。彼女は少し酔っているのか、セクハラまがいにも思える男の露骨な手の動きや身体の接触を嫌がる風には見えない。Rは様子を窺いながら次第にエスカレートし、ついには彼女と密着して踊り出した。

元ボディ・ガードのボーカリストBeeは、二人の直ぐ側でその様子を怨めしそうに眺めている。かといって、時々女性が輪に加われと誘っても、首を横に振り断わるだけだ。派手で不似合いなサングラスの奥からBeeを睨み付けるRを、どうやら彼は恐れているようだった。Rのステージでときどき唄わせてもらっているのかも知れない。Rにすれば、自分の独占している女性が他の男を誘うなどとんでもない。しかしそれで怒れないことが、Rとブロンド女性の関係を語っていた。

ところが女性は手を伸ばして、しつこくBeeを誘う。その都度身体が離れるので、Rの表情が露骨に強ばっていくのが見えてとれる。ついに彼女は人をかき分け、直接Beeの手を取ろうと彼に近付いた。

Beeのあんなに素早い動きを今まで見たことがなかった。彼は一目散に店の奥へ走り去ってしまったのだ。不思議なことに女性もBeeを追った。BeeがRに気を遣っていることを、Rが理解しているかは分からない。しかしBeeの思惑は外れたに違いない。バカ踊りをする集団の中で、ひとり身体を揺らせて待っているRの元に、女性はその後ニ度と現れなかった。


2005年2月12日(土曜日)

家人が一階のランドリーで洗濯をしていると、管理人のオッサンが姿を見せて『205号室の人でしょ?ドアの鍵を換えたいんですけど、洗濯終わったら呼びに来てもらえます?私の部屋は105号室です』と言った。

このアパートはオーナーが替わって以来、充分な告知もないまま玄関の鍵交換や窓の総取り替えなど、住人にとっては非民主主義的と思える不便な変更が行われている。オーナーは旧東欧出身なので、無責任で官僚的な管理になるのは仕方がないのだろうか。

そこで彼女は、壊れてもいない鍵の取り替えを不思議に思いながらも、105号室を訪ねたらしい。しかしいくらノックしても出て来ないので、寝ているオレを仕方なく起こした。

おいおい、管理人。アンタの部屋は107号室やないか!

そしてまた奥様が107号室へ彼を呼びに行き、ウチの部屋に戻ろうとしたら『えっ!?こっちじゃないんですか?』と、騒ぎのあった部屋(2005年2月10日参照)を指したという。同じアジア系女性で見間違えたのだろうが、それであの日は結局、彼女たちは鍵をぶち壊して部屋に戻ったことを知った。しっかし管理人、マスターキー持たされていないみたいだが、自分の部屋の番号も覚えられへんにゃったらなぁ・・・。

SOBの番頭さんのモーズは良く気が回り、特に身内に対しては親切で優しい。しかしそれがすべて功を奏するかといえば逆も多い。

マインズ二日目の今日、オレたちの休憩時にモーズの大柄な彼女は、隣の部屋で演っているLes Getrexを観に席を外していた。テーブルには大きなカクテルグラスが置かれっぱなしになっている。それに気付いたモーズがグラスをどけ、下に敷かれたコースター代わりの小さな紙ナプキンをグラスの上にそっと置いて、オレに笑顔を向けた。

『埃がかかるといけないからね』

彼女は注文したばかりでほとんど口を付けなかったに違いない。モーズが置いた紙ナプキンの下には、カクテルの液体がなみなみと逆円錐に正座していた。ジュースや他のアルコールが注がれるグラスに比べて、カクテルグラスの口径は大きい。ナプキンの張力はその大きさに負けて、中心が少し下へ凹んだ。毛細管現象によってカクテル液は紙にじわじわと浸(し)み、張力を失わせ更に凹む。

モーズが彼女のために置いた親切の紙ナプキンは、彼がよそ見している僅か5秒でカクテル液の中に浸水していた。


2005年2月14日(月曜日).

完全休日の昨日は何もしないと決めひたすら寝た。午後11時に一旦起きてドミノのハワイアン・ピザ($14.15)を買って食べ、そしてまた寝たら今朝の7時半に目が覚める。暖かい雨で気温は10℃近い。

良く眠ったし午後からもまだ寝る時間は充分にあるので、ミツワへでも買い出しに出掛けようとして車に乗り込んだ午前9時半頃、たまにピアノ・トリオ(ポップスからジャズまで)を頼まれるベースのジミーから、携帯に緊急の仕事の連絡が入った。今日の昼過ぎからで、夜のアーティスには間に合うらしい。

でも、バレンタインデー用に老人ホーム2箇所って・・・。


2005年2月15日(火曜日)

古くて特徴のある曲ばっかりを選曲する"C-tones"でハウス・オブ・ブルースだから、ちょっと楽しみ。おまけに大きなパーティも入ってて、いつもより早出しなけりゃいけないけど、ギャラ倍額で楽しみ。

黒のスーツと黒のシャツでキメるから髭も剃ったし、あっ、そうそう、髭そりあとには「アフター・シェイブ・ローション」を付けなきゃ。オッサンの香りがいいんですよね、これ。女の子に絶大な不人気の臭い!町の散髪屋さん帰りや、風呂上がりに最高の爽やか気分になれるヘアー・トニックと共に、別名「オッサン臭」と呼ばれてます。

無精髭オッケーの時代になって以来、何日かに一度、髭が生えそろう前に剃るんですが、それゆえに、年に数えるほどしか付けられないんですよ、いまだに。でもなんか今日はどうでもいいやって気分で、それよりこっちの気分をどうにかしたいやって気分で、気分気分なんですが、大量に付けてしまいました。

重いキーボードを抱えてっと、自家製ロイヤル・ミルクティのボトルを下げてっと、駐車場へ・・・うっ、さっきまで降っていたみぞれがシャーベット状になってフロント・ガラスを覆っている。手を汚すのは嫌だけど、ワイパーを持ち上げてパタパタ払ってっと・・・。

その瞬間手が滑り、ワイパーは勢い良く窓に叩き付けられ、その反動で、大量のシャーベットが飛んできた。気温が高いため、シャーベットといってもかき氷の食べ残りほどの解け具合で、それは水を入れた風船爆弾が炸裂したかの如き衝撃がある。

よっぽど立ち位置が悪かったのか、汚いシャーベットは「アフター・シェイブ・ローション」の爽やかな臭いを打ち消すように、口から顎へかけてべっとりと張り付いていた。


2005年2月16日(水曜日)

仕事に向かう高速で、すぐ前を走る車の異変に気が付いた。左の前輪が見えるのだ。最初は左側に車線変更するのかと思ったが、運転席の位置はオレの位置と変わらず走っている。タイヤ軸の幅は前後同じだから、同じラインを走っていて、後ろから前の車の前輪が見えるはずはない。はて、後ろの車幅の方が狭い車なんてあったっけ?

アメ車だが年式は新しそうで、塗装も悪くない。しかし事故でフレーム自体が歪んでしまったのか、少し斜めを向きながら真直ぐ走っている。うっ、イリノイ・ナンバーではない。あんた、それでテキサスからやって来たのか・・・。


2005年2月20日(日曜日)

オレが加入する前のジミー・ロジャースのピアニスト、バレルハウス・チャックの自宅へお邪魔した。以前からピアノや音楽の基礎知識を教えて欲しいと頼まれていたが、憧れの彼にレッスンするなどおこがましい。遊びに行くからついでに演奏しましょうと誤魔化していた。

その名の通りチャックは、バレルハウス系ピアノでは世界でトップのピアニストだろう。リトルブラザー・モンゴメリーやサニーランド・スリムの直弟子で、オレたち「ごまかし組」とは違い、そのタッチひとつひとつ、音の粒ひとつひとつが本物の味を伝承しているのだ。しっかりと韻を踏んだピッチで唄える彼がもし黒人だったら、とっくに大スターとなっていたに違いない。オレの方こそ、その秘伝をご教授願いたいほどだった。

『ずっと前からこの日を待っていたんだ』

玄関で大仰に出迎える彼に、オレは少しはにかみを見せた。板の間の居間に置かれたアップライト・ピアノはスタインウェイの40年代物で、白黒のリトルブラザーが壁から見下ろしている。奥の小部屋には、ウーリッツアーのジューク・ボックスも顔を覗かせていた。その中には50-60年代のシカゴブルースのシングル盤が収められている。

簡単なリズムの種類とコードの成り立ち、マイナー・フレーズの応用などの授業を2時間ほど掛けて一通り終えると、チャックはオレに見せたいものがあるとベースメントへ誘った。

地下にはバス付きのベッドルームをはじめ、4つの小部屋が並んでいる。その天井・壁中に、マディからリトル・ウォルター、マジック・サム、スパン、ロバート・ジョンソン、B.B.まで、様々なブルースマンのプロモート写真やポスターがところ狭しと貼りめぐらされている。

『このタンス、誰のだか分かる?』
『ほらっ、このシャツ、この写真で彼が着てるのと一緒でしょ?』
『この腕時計も・・・クロスタイ(シャツの襟元だけのネクタイ)は10個あるんだよ』

リトルブラザーの遺品。生前本人から直接もらったり、遺族がチャックに持たせたものだそうだ。サニーランドの古いエレクトリック・キーボード(ウーリッツアーの70年代物)まである。

最後に通された部屋は、四方の壁際へ仕切られた棚にアルバムが横並びに奥へ詰め込まれ、ブルースの中古レコード屋と見紛(まが)ってしまった。

『リトル・ブラザーやサニーランドだけでなく、オーティス・スパンやスティーブ・ウインウッド(!?)もすべて揃っているよ』
『これはどーしたの?日本盤じゃない?』
『ああ、このマジック・サムは$100で買ったんだ』

ジャケットの帯の上部に大きくPの文字。P-VINE販売のものは他にもたくさん持っているようだ。面白半分で、その一枚一枚に記された定価を現在の相場に換算して教えてやると、チャックは地団駄を踏んだ。

それにしても、四半世紀前に¥2.200-300で売られていたものが海を渡って$100になっているなんて、少々複雑な気分になる。CDの値段は今もそんなに上がっていないし、中身はかつてのLP盤2枚分の収録分数が要求されるのだ。オレたちは昔の2倍働いて、ようやく当時と同じ印税を手にすることとなるのか・・・。

チャックのコレクション披露はその後も続いた。70年代ソウルに欠かせないオルガンが3種類に、各々のアタッチメントやペダル、アンプ類。この館の音楽関係でCDとCDプレイヤーを除けば、90年代以降製作の物はヤマハの88鍵キーボードと付随するアンプだけのようだ。

「音楽の理屈」を教えていて、彼が意外なほど何も知らないことに驚いた。それでも誰某の曲をそっくり弾きこなし、自分のものにしているのは、このマニアックなこだわりなのだろう。音感が鈍く不器用かも知れないが、チャックはこつこつとした作業でここに到った。ひとつひとつの音を拾い、あるいは実際に目で観察して、ゆっくりと確実に得ていったのだ。好きでなければそんな努力は到底続かない。

そっくりに弾くことの善し悪しは別として、オレにそのような苦労を厭わないこだわりはあるのだろうか?興味のない曲を譜面通りに弾かねばならないのが嫌で、クラシックの世界から自由な世界へ飛び込んだのは、面倒から逃げていたことに相違ない。こだわりはエネルギーとなるが、今のオレに蓄積しうるエネルギーが見当たらないところを見ると、音楽への愛情もその程度かと悄気(しょげ)てしまいそうになる。

暗くなった外へ出て、オレを見送る晴れやかなチャックを見ていると、その感情は一層強くなっていった。


2005年2月22日(火曜日)

日曜日のバレルハウス邸訪問で触発されたのか、宿題以外には蓋を開けたことがない仕事道具を部屋に広げてみた。床に直接キーボードを置いてヘッドフォンを付けただけだが、練習(面倒)嫌いのオレにとっては画期的な作業である。

オスカー・ピーターソンの譜面の或る一小節(!)を3時間反復する。そして腱鞘炎が復活しかけた・・・。あんスピードとグルーブ、10回に一回まぐれで弾けても実践では役にたたない。フレーズの熟(コナ)れが指に付く前に、本格的な腱鞘炎になってしまうわ。

ああ、若い頃ちゃんと勉強しとけば良かったとちょっぴり後悔する。


2005年2月23日(水曜日)

SOBのジェネシス。ニック大爆音でブレイクダウン一回も落ちず。終わり頃、「ヘルプ・ミー」でハープのジャマーが長蛇の列。ニックもハープを吹くので、オレがベースを弾く。久し振りのベースの立ち弾き(アーティスではキーボード位置で座って弾く)は楽しい。ニックのセッティングだとバカでかいアンプ(1.200W)でベースしか聴こえないけれど、気持ちイイので音は落とさなかった。ただしミュートをしっかりしてボトムの箱鳴りを抑える。

ふた月程前は「ワン・ダン・ドゥードル」で、ベースのゲストがいたのでニックにピアノを弾かせてやったら、丸山さんがオレにギターを渡したので、オーバー・ドライブかけっぱなしで弾いてやった。ギター位置に立って分ったけれど、ギター音で他の楽器が聴こえず。

みんな音がでか過ぎ!


2005年2月25日(金曜日)

先日17年振りに再会したマット・デュッコが、『アリヨの写真が載っている新聞を渡したいとずっと思っていたけど、こんなに時が経ってしまうとは思わなかった。まだ大切に保存してるから持ってくるよ』と言ってくれたので、彼が演奏するロザへ顔を出した。

1984年の初秋、エディ・ショウ&ウルフギャングに誘われてツアーへ出掛けた。マットは長い髪をしたヒッピー上がりの白人ドラマーで、今もその風体は変わらない。英語の拙いオレをメンバーは気遣ってくれたが、その中でも彼が一番気に掛けてくれていた。

ツアーはソルトレイク・シティとポートランドを周り、一直線にシカゴへ戻る酷い旅程だったが、途中、サンフランシスコでバンドを全員解雇したエディ・クリアウォーターのバックを急遽務めることになり、モンタナ州ビリングスやミネソタに立ち寄ったので程良い辛さの帰路となる。

初日のソルトレイクでは、シンフォニー・ホールでB.B.キングの前座をした。楽屋内のコンコースには、豪華なケータリング(宴会用料理)が大きなテーブル一杯に広げられている。サウンドチェックを終えたオレたちにエディが、『食べて良し』と告げたので、若いメンバーたちは蟻のように食べ物へ群がった。普通の賄(まかな)いで見掛ける紙の皿やプラスティックのフォーク類はない。銀色に輝く重いフォークとナイフを手に、絢爛たる盛り付けを遠慮なく崩し、陶器の皿を大盛りにして自分たちの楽屋へと引き上げる。

早くに会場入りしていたB.B.のメンバーの誰も手を付けないので、少し妙な気はしていた。今まさに食べようとしているところへ、関係者らしき人がドアから顔を覗かせる。『B.B.が来るまでは食べ物に・・・あっ!』オレたちは口を開けたまま手が止まっていた。

通達は行き届かなかったらしい。警備を含めコンサート・スタッフたちは、オレたちがご馳走を採り始めたのを切っ掛けに、みんなが食べ始めていた。普段B.B.のバンドメンバーたちは、王様がお取りになる前には決して手を付けないのだろうか?主催者の意図を酌まないオレたちの卑しさが際立っていた。

間もなくB.B.は到着したが、料理には目もくれず自分の楽屋でインタビューに応じている。エディは『紹介してやろう』と言ってオレを連れ、彼の楽屋へ入っていった。
5.6人の地元記者に囲まれて、B.B.はテーブルに置かれたラジカセをいじくっている。どうやら新曲をみんなに聴かせているようだが、テープの回転がおかしい。エディがお構いなしに記者たちを押し退け、お殿さまの御前にオレを引きずり出した。

『こいつが今度のオレのピアニストだ、いいぞぉ』
『ほう、おっ!?君は日本人かね?だったらこれをみてくれ、新品のSONYなんだが様子が変なんだ』

記者たちの視線が一斉に若い東洋人へ注がれた。(こいつぁ、一体何者だ、我々を押し退けてB.B.の前に現われたかとおもったら、頼まれごとをされるなんて・・・)

オレは多分、どこか自信たっぷりに前へずいっと身体を乗り出し、「どれっ」ってな風でラジカセからカセット・テープを取り出したのだろう。新品のソニーのモーターがおかしくなるはずがない。当時は、長時間録音用テープの弛(たる)みが原因で、回転むらのできることが多かった。B.B.の新録テープを手に取って見ると、案の定「120分用」と記されている。透明の小さな窓から覗いているテープは片側がだらしなく弛んでいて、もう一方はぎしっときつく巻かれているようだった。帝が行く先々で人々に聴かせるため、早送り・巻戻しを何度もおこなったに違いない。

カセットをトントンと軽く叩いて刺激を与え、手動でテープを丁寧に巻いてラジカセに戻すと巻き戻した。頭が出たところで再生ボタンを押すと、B.B.の音が美しく流れ出す。一同が驚嘆の声・・・いや、みんな知っていて遠慮したに違いない。しかし、B.B.はオレがカセットを叩いて直したと勘違いした。

『君は魔法をかけたのかね?』

と驚いている。オレは得々と説明した。失敗を恐れぬ「若さ」というものが羨ましい。今ならきっと魔法をかける前に、ダメだったときの言い訳を考えていただろう。オレの肩に手を回しているエディも得意そうだった。

翌日のクラブ・ゼファーでのライブには、メンバーを引き連れB.B.が遊びに来てくれた。エディがB.B.を紹介すると、それまで踊ることに夢中だった客のほとんどがステージ前へ殺到してくる。おお、いよいよB.B.と共演か!?

大きなダイアモンドの指輪が光る手に、ブランデー・グラスを持った神様が降臨されて来た。B.B.が唄ったと思った瞬間、オレの横から小太りのオヤジが現れ「どけ」と催促する。気が付けばメンバー全員が交代し始めていた。

ピアノ脇からキングとその一味の演奏を指を銜えて見つめていた。オレだってそれくらい弾けるぞと思いながら見つめていた。楽しみを奪われた悔しさではなく、立場の違いを思い知らされただけだ。だから、B.B.が唄い終わって、みんなが彼を取り囲んでもオレは側に近付かなかった。ところが気が付くと、垣根の中からB.B.が顔を出しオレを指差している。拗ねた子供は、機嫌をさっと直して彼に飛びつき握手をした。

数年後に別のバンドでB.B.の前座をしたとき、楽屋ですれ違って『君は日本人のピアニストだろ?覚えているよ』と言われた。彼の気配りは有名だ。ホントに覚えていたかどうかは分からないし、日本公演も含めその後何度か前座をしたが、いつも誰かに取り囲まれていて、すれ違うことさえなかったので確かめようがない。この10年は生のB.B.も観ていない。

オレでさえ、シンフォニー・ホールの楽屋でB.B.と一緒に写真を撮ったことなど、すっかり忘れていた。その写真を87年にマットがオハイオの地元へ帰ったとき、彼に対する取材で使用したらしい。18年間もオレに渡そうと保存していてくれたマットに言葉がなかった。

暗いロザの店内で渡された古びた新聞の一面には、B.B.と共に若々しいオレが写っているのが分かる。トニーを始めロザママや従業員など、みんなに見せて自慢した。明るいところで写真説明の囲みを読むと『Blues:音楽の世界で印象の強い名前の人々と共にポーズをとるマット』と記され、そのあとに各々の名前が加えられていた。

『B.B.King, Arroyo Sumoto and Eddie Shaw』

んっ、誰さん?アロヨ・スモトって・・・。


2005年2月28日(月曜日)

季節外れの雪・・・ううう、最近穏やかな気候が続いていたので、もう春だと勝手に思っていたが暦はまだ2月。あとひと月はいつ厳寒のシカゴに戻ってもおかしくない。いや、寒いのはいいけれど、雪が鬱陶しい。先ず車に積もった雪払いにのために出宅を早めねばならないし、何よりも運転に疲れる。アホに巻き込まれないように、他の車の動向を推測せねばならないのが疲れる。そして車は道に撒かれた塩で真っ白に汚れてしまう。

昨日ネットで調べ物をしていて脱線し、あるサイトのコラムを読み耽り寝不足。おまけに感銘を受けた作者様へ、十数年前に将棋の谷川先生へ送って以来、生涯3度目のファンレタをメールしてしまった。本名で送るのが恥ずかしく、ペンネームとシカゴ在住、専門職の者と記す。

オレは本来ファンレターを貰う立場にあるのだが、ファンレターより専門に対する問い合わせが多い気がしてメール先を記していない。ファンレターを貰えば嬉しいし励みになるのだが、もし悪口でも書かれていたら数日は気が滅入りそうなので、このサイトの管理人様もフィルターをかけて、オレに気を遣わせまいと配慮してくださっているに違いない。一体どれほどの悪口が届いているのかと気にはなるが、知るのも怖いし、自分のサイトのメール先を明記している方の度量には恐れ入るばかりだ。