1990年6月8日
この日いよいよ遥なるイタリアへの旅が始まった。高鳴る不安よりも前日までの旅で疲れてるので早く眠りたかった。誰も知らないがサッカーに取り付かれた連中の集まりが、何故か非常に安らぎを与えてくれる。そして、決定的なのはこれが大手ツアーだったと言うこと。文句を言えば添乗員が何かとやってくれる、戦わずして道が開けているのだった。だが、この旅が僕のそして我々に大いに不満をもたらしていくのに、そう時間はかからなかった。
機内には、泣き止まない子供がいた。親子3人でのサッカー観戦だろうが回りの連中もこればっかっりは、辛いものがあった。寝れないのだ。本当に良く泣きやがる。この同じ時間に、ミラノで開幕戦が始まってる。ディエゴは、4年前の輝きを保ってるか?早く見たい。
イタリアのローマの飛行場は工事中で、訳の分からないままローマ郊外のホテルに着いた。気候も暖かく時間がたっぷり有るのが嬉しい。イタリアだ!
1990年6月9日
例のエクソシスト事件の寝不足が残る中、いよいよ生観戦の始まり始まり。僕の人生の節目になるワールドカップ第1戦は、地元イタリアとオーストリアだった。その会場のスタジオオリンピコが素晴らしく、その雰囲気がたまらない。本場のサッカーだ。これがサッカー場なのだ。冷静を装ってもダメだ。試合を見れないのだ。我々のツアーの席はホーム、イタリアのゴール裏。ここは正しくはサポーター席のはず。我々が座るべき所ではないのだ。我々日本人観光団は、圧倒されっぱなしで無言。それがイヤだった。1人でも良し、4人くらいがベストで多くても6人が限界だと思う。団体で見るのって僕の趣味じゃないみたい。当然そのグループごとで見方感じ方も違うはず。それが自然だと思うしそれで良いと思う。このツアーでの団体で見るのは1日にしていやになってしまった。僕はサッカーを見たいし感じたい。それが解りあえる奴と見たいのだ。
試合が終わってチャーターバスに乗って帰るのだが、グループごとで選手の名前、戦い方など話してる。会場の雰囲気だけで試合に入れなかった自分にちょっと疑問。感動を試合で受けたいのだ。明日は、待ちに待ったセレソンだ。これを見るためにイタリアに来たのだから。
19990年6月10日
僕のサッカーの父セレソンのゲームだ。朝からもう気持ちが高ぶってしまう。泊まってるホテルがローマ郊外だったのでチャーターバスでテルミニ駅まで行き、電車でトリノに向かう。車中の自由席で幸田夫妻と席を並べ話した。これが盛り上がる。でも電車が動いてない時間が多いのが気になりはじめる。夜の9時からのゲームだが、もう8時なのにトリノについてない。結局9時にトリノ駅に着く。国営電車が遅刻したのだ。後日3カ月位してこの電車賃が戻ってきたのだが、時間は戻ってこない。セレソンを見に来て、ゲームの最初から見れないとは、どうい事か!許さない、絶対に。これで俺はキレタ。トリノの駅から会場までチャーターバスで各コースごとなのだが、関係ない。1番前のバスに乗り込む。勿論誰も知らない。早く行け!
会場に着いたが駐車場まで行こうとする。止めろ。降ろせ。やっと止まった所から会場までダッシュ。途中に駐車場のコースを決めるパイロンが並んでいてそれらを繋いでるアームがあったのだが、蹴り上げて走る。何本蹴り上げただろう。これが後に噂になった「SASAの暴走事件」だ。壊してしまったアームすみませんでした。それで、冷静にコースを選べば入り口に向かうべきなのに何故か競技場に向かって走ったので、障害物があったのが判ったのがその夜の事。興奮してたんですよねー。でも、僕の後には何十人の人間が付いて走っていたことか。やっと競技場に到着。1階席に向かうが席は2階だった。まるでUターンの如く戻る。入ってくる人と出て行く人で入り口は混乱だ。
やっと席に辿り着く。0-0だ。良かった。このツアーでセレソンはこの1試合だけなので、気持ちだけが急ぐ。カレッカの2得点ブロリンのゴールと中身があったゲームだったけど、気持ちが入り過ぎて余裕が無さ過ぎた。セレソンのユニホームを見たら力抜けたなー。
ゲームが終わった。競技場の外はブラジリアンのお祭りだ。サンバカーニバルの始まり。思い出の品としてペナントを買うことにした。幸田はユニフォームフェチだから、今だったら驚くだろうな。「えー、ペナントですか?」声が聞こえてきそうだ。でも、僕の部屋には、このペナントが今でもある。この夜を忘れないように。
次はいよいよサルディニア島の話しです。ではまた。
![]()