論理は必要か?

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アングラ系の掲示板や私書箱を見るのが大好きである。そういうところではかしこまったフィルターを通さない、人々のナマの感触を覗くことができて、実に興味深い。最初のうちは「ここって何てカゲキなとこなんだろう、すげー」と思い、そういう場所を見ている自分までもがなんだか「強くなったような感」を持ったりもしていたのだが、最近ではそんなこともなく、淡々と見ていられる。

そこではインターネットにおける匿名性(かなりあやふやではあるが)というヤツに守られて、ほぼ「なんでもあり状態」になっている。この「なんでもあり状況」において、人は果たしてどのような行動に出ることであろうか。普段は決して言えないことも言っていいよ、となったたき、私やあなたは果たしてどんなスゴい爆弾発言をするものだろうか。

1年近くそうしたところを眺めてわかってきたことは、「何を言ってもいいよ」と言われても、たいしてスゴいものは出てこない、ということだ。その手の掲示板を賑わす話題は、実は街中や日常のそこここで流れているものとなんら変りばえのしないものなんである。

皇室や政治家の悪口、チャイルドポルノ、芸能人の誹謗中傷、あのアイドルは実はヤリマンだ説、被差別部落・在日韓国朝鮮人に対する差別ネタ、新興宗教(創価学会含む)ネタ、丸見えオマンコ、ニュースやワイドショーを賑わす事件について、犯人や被害者のプライバシー情報、偏差値信仰に基づく見下し、反発、ケンカ。せいぜいがそんなもんである。スゴいと言えばスゴいのかもしれないが、普通と言えば普通である。

なかでも興味深いのは、人々の中に驚くほど偏差値信仰というのが根強く染み込んでいる点だ。パソコンやインターネットという環境から、人間の幅が概して「若い人」に限られるからかも知れないが、それにしても興味深い。さまざまな権威を否定してみせるアナーキーな人々が、東大生を名乗る掲示板荒らしに過剰とも思える反発をみせたりする。またこの手の掲示板でやりとりされるケンカでは、得てして「自分が如何にアカデミズムに通じているか」をアピールすることで相手の優位に立とうとする傾向がとても強く、この点も興味深い。

そのモノサシとしてよく使用されるのが「論理的」という概念である。「もっと論理的に話せ」「おまえの論理は破綻してるよ」「そんなに頭がいいんなら、俺の間違いを論理的に指摘してみせろ」等々。ダークでアングラな話題や画像が飛び交う中で、そこだけやけに学級会っぽく浮き上がっている。面白い。


俺自身は「論理」というのはよくわからない。大学で「論理学」という授業があったが履修しなかった。辞書を引くのもめんどくさいが、おそらく「矛盾や破綻のない考え方や筋道立て」とかいった意味であろうか。少なくとも俺は、そんな感じでこの言葉を使っている。できればその頭に「誰にでもわかるような」がつけばいいとは思うのだが、実際はそうでもない気がするのではずしておく。ここから下で俺が使う「論理的」はだいたいそんな感じの意味だと捉えてもらえればうれしい。

さて他人とコミュニケーションを取る場合、たとえそれがケンカだとしても、果たして「論理的であるかどうか」は必要なことなのだろうか。学者同士の会議ならいざ知らず、我々の日常レベルにおけるコミュニケーションで必要なことだろうか。俺にはなぜか、そうは思えないのだ。相手に自分の言いたいことを伝えるとき、それがいいものであれ悪いものであれ、つまり「君が好きだ」であれ「ブッ殺すぞコラァ」であれ、論理的であるかどうかはあまり関係ないのではないかと考えている。

それでは必要なものとは何か。俺はそれに「説得力」という名前をつけている。この考え方は「週刊プロ」や「ゴング」といったプロレス・ジャーナリズムから頂いた。例えばプロレスにおいて勝つためには、どういう技を出せばいいだろうか。多くの人は「より大きなダメージを与える、破壊力のある技」と考えがちだが、これは間違いである。プロレスにおける破壊力は、コミュニケーションにおける「論理性」とよく似ている。どちらも大事なことに違いはないが、一番ではない。

プロレスの勝負に決着をつけるのは、破壊力ではなく説得力である。なるべくプロレスを知らない人にもわかるように説明するので、頑張ってついてきて欲しい。技の破壊力というのは、言い換えればサイエンス、科学である。きちんと計測することができ、数値で表わすことができるものである。例えばある技の瞬間最大衝撃度が1.0tあって、相手選手の耐えられる力が1.2tまでだったとしたら、この技を出しても効き目がない、とか。そいういう厳密な科学である。

ところが実際のプロレスはそんな風には進まない。勝負はいかに「説得力」のある技を決めるか、これにかかっている。いろんな技を繰り出し、相手がフラフラになっているとする。しかしそこで、ビンタ一発で相手は倒れてくれない。倒れても、カウント3のフォールをとることはできない。例えそれで勝っても、客は納得しない。たぶん、試合後は座布団が飛び交うことだろう(両国ならね)。それではプロレス的に正しい決着のつけかたとはどんなものか。


幻のチャンピオンベルトを賭けた世紀の一戦。アミーゴマスク対デビルアミーゴ、時間無制限一本勝負。試合は予想通り壮絶な死闘となった。隠し持ったセンヌキやイスを使い、悪逆非道を繰り返すデビルアミーゴ。その度に不屈の闘志で立ち上がるアミーゴマスク。勝負を焦ったデビルアミーゴはイチかバチか、ロープ最上段からのデビルスペシャルを敢行する。ああ危ない!しかしアミーゴマスクはこれを読んでおり、素早く体をかわす。デビルスペシャル失敗、自爆。デビルアミーゴはフラフラだ。

すかさずアミーゴマスク、得意の決めポーズをとって「覚悟しろ、デビルアミーゴ!!」と絶叫アピール。会場一気にヒートアップ。そうだ、ここが勝負どころだ。チャンスだ。一気に決めろ。アミーゴマスクはおもむろにある独特の体勢に入る。ペーペーの駆け出しならともかく、大概の選手は自分の得意技、決め技みたいのを持っている。客もそれを知っている。「おお、あれは必殺のアミーゴスペシャルの体勢じゃないのか!?」「引退した伝説のレスラー、ゴッドアミーゴから直伝されたスペシャルホールドだ!」客はいよいよ盛り上がる。

アミーゴマスク、満を持してアミーゴスペシャルを敢行。決まった。ワーッ。デビルアミーゴ、ピクリとも動かない。すかさずフォール、1、2、3。カンカンカンカン。ウォーッ。会場総立ちでアミーゴコール。意識を取り戻したデビルアミーゴ。「やられたぜ。あそこでデビルスペシャルをかわすとはな。しかし今度は負けねえぜ!!」「望むところだ。いつでも受けてたってやる!! 」両者固い握手。「おおいいぞ二人とも、次の試合も絶対見に行くぜ!!」…書き手の趣味でかなりオールドファッションドな描写になったが、概してこれがプロレスの醍醐味である。本質である。

誤解のないように言っておくが、プロレスが八百長だからいいとか悪いとか、そういうつもりはさらさらない。ただ実際のプロレスが、こんな感じで進むのは間違いのないところである。そしてここで重要なのは、彼の必殺技、はからずもフィニッシュホールドという言葉もあるが、この技の「説得力」なのだ。

死力を尽くして闘った相手にとどめを刺すとき、ビンタ一発では客もやられる側も納得しない。選手たちが持つフィニッシュホールドには、それぞれのレスラー人生におけるもろもろが込められており、常にその技を鍛え、磨き、研ぎ澄ませているのである。同じ技でも、他のヤツ使うのとは意味が違う。全身全霊を懸けて繰り出す技だからこそ、相手も観念して倒れ、客も納得し、決着がつくのだ。

これを破壊力(あるいは科学、論理で置き換えてもいい)で考えるとどうなるだろうか。デビルアミーゴはフラフラである。彼が倒れるまでに必要な破壊力と残りの体力を考えると、実はビンタ一発の方が「正しい」かもしれない。大技というのは出す側も体力を消耗するし、はずす可能性を考えるとリスクもある。しかしそんな試合、誰が見たがる?面白がる?金を払う?勝負どころで、デビルアミーゴはフラフラだ。チャンスだ。一気に決めろ。客も盛り上がっている。そこでアミーゴマスクはスタスタと相手に近づき、ヌルいビンタを一発。デビルアミーゴ卒倒。カウント1、2、3。カンカンカンカン。客大ブーイング。金返せー。座布団が飛ぶ飛ぶ(両国なら、ね)。

確かにこんな試合、誰も金払って見たいとは思わん。なにも世の中ゼニカネばかりではないが、じゃあだからと言って、そんな試合にあなたはどんな価値を見出すことができるだろうか。試合としてはつまらない。金払うにも値しない。客も喜ばない。勝った方もうれしくないし、負けた方も大して悔しくない。ただ残るのは「科学的に正しい」ということだけなのではあるまいか。繰り返すが、科学を論理、あるいは破壊力と置き換えてもいい。科学的に正しい、というのは、得てしてつまらんものなのである。それはちょうど「頭を叩けば頭が痛い」というのと同じ、ただ当たり前のことで、それ以上でも以下でもなんでもない。実につまらん。

もっともここ10年くらいはプロレスならぬ「格闘技」という名のもとに、こうした興行が盛んに行われている。UWF以降、スポーツ性を強く打ち出した、つまり「ショーマンシップ(ニアリーイコールで八百長)」を抜きにした「格闘技」がそれなりに人気を博しているのは事実だ。しかしこれ、ぶっちゃけた話が「マニア向け」である。プロレスや格闘のことを何にも知らない女の子を連れていっても退屈されるだけだろう。関節技を主体としたグランドの攻防に「通」は興奮するが、素人はただ睨み合ってるようにしか見えない。こうした「格闘技」は、普通のプロレスに飽き足らなくなった一部のマニアに答える形で出てきたものである。ということはつまり、ほとんどの人にとってはつまらない、心を動かさないものなのだ。


話を口ゲンカに戻そう。相手や自分の発言が「論理的」であるかどうかは、厳密には必要のないことである。それが求められるのは、正確・精緻・精密さを求められる学術研究の上でだけ、つまり「マニアの世界」においてだけなのだ。「相対性理論」は確かに科学における偉大な発見だろうが、だからといって我々の日常レベルにおいては何一つ影響を及ぼさない。「光よりより速いものは存在しない」と言われたって「ふーん、それで?」である。そして肝心なことは、掲示板上における口ゲンカを含むもろもろのコミュニケーションは、間違いなく我々の「日常」、ということだ。

人に何かを伝えたい、言いたい。それはつまり相手の心を動かしたいということだ。いわゆる「感動」ともちょっと違うのだが、例えば「あ、そこのボールペン取って」でもいい。とにかく相手をいろんな意味で動かさなきゃならんのである。この「動き」が場合によっては「ボールペンを取ってくれる」だろうし、「ああなんてこの人は頭がいいんだ。僕にはかなわないや」という屈服でも「わかりました。結婚しましょう」というプロポーズの受諾でもいい。どれも本質的には同じである。

コミュニケーションにおける能動的なアクション、つまり言ったり書いたり話したりすること、これらは必ず何らかの目的を以って行われる。「ボールペンを持ってこさせたい」「こいつに負けを認めさせたい」「結婚を承知させたい」。みんな同じである。そして人の心を動かすためには、論理よりも説得力の方がずっと効果の上がるものなのだ。

それは人の心というものが、本質的に論理とは相容れないものだからだと思う。「心」は「情」と言い換えてもいい。人を動かすのは精密な論理なんかじゃなく、心に直で踏み込む「説得力」なのだ。だから「お前の論理は破綻してるよ」な〜んていう掲示板のケンカが得てして泥沼に終わるのも、この辺のところがお互いわかってないからだと思う。

ただ、論理というのはある程度訓練すれば、大抵の人が身につけることができる。それこそ大学で「論理学」なんて授業を真面目に受ければ。それは数学や理科に近いもので、足し算がわからない人もきちんと学べば基本的に誰でも理解できるものだ。でも説得力というのは言って見りゃ「絵の才能」みたいなもので、一朝一夕で身につくものではないし、本人の才能みたいなとこにも深く関わっているものでもある。だから「論理よりも説得力の方が大事」と言うことはできるが「じゃあどうすれば説得力が身につくか」というのは俺にもわからない。もしうまい方法を見つけたら、カルチャースクールでも作って一儲けしようと考えている。

よくは知らないが、アドルフ・ヒトラーという人はこの「説得力」を強く持っていたんだと思う。もともとこういう能力は、政治家という仕事には必要不可欠なものだ。「人民の人民による人民のための政治」みたいに短く、簡潔な言葉でグッとハートを掴む、そういうコピーライター的な能力が。いつまでもダラダラとしゃべくった挙げ句、結局は「何も言ってない」なんてこと、よく聞く話じゃありませんか。いやここで安易な日本政治批判をやるつもりはありませんけど。お互い気をつけたいッスね。


「説得力」ありましたか?


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