映画は静かに見るべきか?

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けっこう前になるが、大井武蔵野館で映画を見てきた時のこと。カルト・ワールドカップという企画上映で「金星人地球を征服す」「アタック・オブ・キラートマト完全版」「シンドバッド 虎の目大冒険」の3本立てであった。大井武蔵野館はウチから最も近い映画館だし、安くていろいろ変った映画がかかるのでしばしば利用させてもらっている。特に「金星人」と「キラートマト」は日本での最終上映ということで、立ち見が出るほどの盛況であった。俺は連れと2人、幸いにも座席をキープすることが出来たので楽は楽だったが、6時間近くも座りっぱなしというのはそれはそれでおケツの皮が痛いもんだ。

「金星人」「キラートマト」「シンドバット」という順番で見たのだが、どれも初見ながらそれぞれそれなりに楽しめた。「金星人」は有名な「金星ガニ」というクリーチャーが一応お目当てと言えばお目当て。確かに特撮は現代の水準から見れば情けなくなるくらいショボいのだが、1956年の映画である。ジュラシック・パークのようにいかないのは当然だと思う。人間は不完全で弱いものだからこそ努力する。だから素晴らしい、というラストの結論は、俺自身はとても共感できるものであった。

「キラートマト」はひとことで言うと、映研のマニア同士が集まってバカ騒ぎをやってみたような感じ。オタク向けのパロディ満載というか、こういうパニック映画のバカバカしさを偏向レンズで肥大させて笑っちゃおう、という映画である。どちらかというと、個人的な好みではなかった。

「シンドバット」は、これが一番楽しめたのだが、真面目に作っているからこそ余計に浮かび上がってしょうがない「変」が妙なおかしさを醸し出す映画であった。ストップモーションアニメでカクカク動くモンスター達は、CGにまだ生理的違和感を覚える俺にはほほえましくも暖かく楽しめる。映画の世界に素直にのめり込んで見れば別になんということもない映画で終わってしまうかも知れないが、少し冷静に構えてみると何ともいえないおかしみが溢れて来るのだ。そういう意味で、実に味わい深い映画であった。

俺は映画マニアじゃない。かの「映画秘宝」に作文載せてもらったこともあるけれど、実は映画のことなんて何にも知らないのだ。見ている本数だってそんなに多い訳ではない。もちろん嫌いじゃないけれど、例えば「一日中映画を見ていても退屈しない」なんて人の話を聞くと、ああ俺はそこまでの深い愛はねえなあとつくづく思わされる。だから映画マニアの常識というか、そういう体質を持っていないのは確かだ。

だからだろうか、その日の映画館の雰囲気にはとても違和感を覚えさせられた。というのも、映画館のあちこちから笑い声が上がるからである。いや別にそれ自体は変なことではない。ロードショーでもコメディ映画だったりしたら、あちこちで笑い声があがったり、場内が爆笑の渦に巻き込まれるのもごく日常の風景である。でもそういうのとはちょっと違う笑いである。

「プッ」とか「クックック」というような、思わず出てしまった笑いではない。「ハハハ」とか「アハハ」という、かなりエンジンの暖まった笑いが予備動作もなしにいきなり飛び出すのである。人間というのは、普通いきなりそう爆笑できるものではない。それは近代社会における普通の人の日常が、なるべく笑わずにお澄ましして過ごすよう出来ているからだ。だからこそ笑いには価値があり、笑わせるプロには金銭や地位という形で報酬が与えられるのだから。

なのにそこには、いきなり大爆笑する人がいた。そう多くではないが、少なくとも4〜5人はいたようだ。気をつけて耳を澄ますと、同じ人が何度も笑っていることが声の質から判断できる。この人達、なんか変だ。何でだろう。何でいきなりそんな大声で笑えるんだろう。以下は俺の推論に過ぎないが、多分こういうことではないか。映画館の中には、はじめっから笑うつもりで来た客が少数ながら存在した、と。彼らは家を出た時から、いやこの映画を見に行こうと決めたその時から、ずっとそうやって大笑いの準備をしてきた連中なのではあるまいか。

連中は映画を見るのではなく、映画で笑うことが目的なので、映画のどのシーンでも笑ってしまう。面白かろうとなかろうと、どうでもいい。しゃべっても笑う。黙っても笑う。映画の内容はヌキにして、そこが笑うポイントかどうかなんてほとんど関係無しに「アハハ」「ワハハ」という大笑いがポンポン飛び出す。彼らが笑っているのはその映画が面白いからではなく、その映画が「面白い」ことになっているからなのだ。

映画館で笑ったり拍手すること自体は何の問題もないと思う。面白けりゃゲラゲラ笑うし、悲しかったらボロボロ泣く。怖けりゃおびえる。映画館というのも一応公共の場所であり、多くの他人がいる中で大声を出したりするのは、一般的な常識から言えばいちおうはマナー違反であろう。でもそれが許されるのは、あくまで映画を見た上でのリアクションだからだと思う。

でも彼らの笑いはそうではなかった。彼らは映画を見て笑っていたのではなかった。リアクションではなく、能動的なアクションだった。俺はそう直感した。そしてそれはほとんど間違っていなかったと思う。そして俺は腹を立てた。すんげームカついてしまったのだ。

彼らはなぜ笑っていたのか?たぶんこういうことだと思う。「私はこういうカルトでマニアで通好みの映画を知ってて、愛好してて、見て笑うことができますよ、つまり私はセンスのいい、オシャレでナウくてカッコいい翔んでるトレンディー人間なんですよ」ということをその場にいる人達にアッピールしていたのではないだろうか。これはあくまで予想だが、たぶん間違ってないと思う。

映画を自己アピールのアイテムとして使用するのは悪だろうか?モテたい勝ちたい上に立ちたい。そういう気持ちは否定できない。俺の中にもそれはある。これは突き詰めれば生きとし生けることの根本に直結している問題だから、それ自体は悪とは言い難い。ただその気持ちを表現したやり方そのものが、決してベストのものであったとは言い難いだろう。現に我々は、それがカッコ悪い事を知っている。だからもうちょっと、ベターな方法を知って欲しいもんである。俺が腹を立てたのは、やつらの「モテたいテクニック」の未熟さに対してだった、と言えるかもしれない。そういう意味では、腹を立てた俺こそ修行が足らんのかもしれんが。

でもやっぱ、それって映画に対して失礼だと思う。映画がほんとうに面白かったんならいくら笑っても構わない。でもその映画が「笑えるという評判だから」「秘宝にそう書いてあったから」「それがカルトでカッコいいから」という理由で、ただそれだけであらかじめ笑う準備をして映画館に足を運ぶのはあんまりじゃないか。そこまで準備してるんなら、別にもう映画なんか見なくたっておんなじじゃないか。それじゃいいともの客と一緒だ。ADの合図に合わせて、笑って見せてるに過ぎない。それで人間と言えるのか。生きてるって言えるのか。おなかを押すと口から水を吹き出すアヒルのおもちゃと、まったくおんなじじゃないか。

こういうのって、言いにくいけど例えば「映画秘宝」とかその手の本にも責任の一端があるんじゃないかと思う。俺は「秘宝」に恩も義理もあるのだけれど、それとは別のところで、こういう本が作り出してしまった罪というのがあるのではなかろうか。カルトなものが好きだからって、別段偉いわけでもカッコいい訳でもない。どんな映画でも、どんな映画が好きな人でも、当たり前だけど人間は自由で平等なんだろ?ひらたく等価値でおんなじなんだろ?だからこそ、だからこそ俺達は、こうしていつまでたっても諦めずにジタバタあがいてるんじゃねえのか?

本当にその映画が面白かったら、心ゆくまで笑っていいと思う。例えそれが周りの迷惑だったとしても、それが良い映画に対する敬意の表わし方だと思う。でもそうでないとしたら、それ以外の理由で発生した笑いだったとしたら、それは直ちに侮辱に変ると思うし、やっぱり周りにも迷惑だ。だから今度見つけたら殴ってやろうと思う。覚悟しとけ。


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