おたく論壇

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ここ数年、マスメディアにおいておたくの側から発言する人が増えてきた。単に忌み嫌われていただけの存在であったおたくに対し、世間がそれなりに受け入れる環境が整ってきたということだと思う。発言権と比例しておたく人口が増えた、とは思わない。おたくとそうでない人の境界線があいまいになってきたのは確かだけど、「明らかにおたく」の人がそれほど増えているんでしょうか。割合そのものはそんなに変化してないんでしょう。ただ「新生児」が一定の比率で生まれてきているのに対し、「死ぬ=やめる」人が減っていることで総体としての数が増えているだけだと思うのですが。

とまれ、おたくやおたくカルチャー、カッコ笑い、について語られることがそれほどタブー視されなくなったようです。いいことか悪いことかはわからない。いいこともあるし、弊害もあるから。ただ、おたくに関して「何が問題なのか」という論点が前よりはっきりしてきたのは有り難いことか。

あいまいな定義で申し訳ないが、おたくっていうのはアニメとかプラモデルとか特撮ヒーローとかマンガとかオモチャとかそういう「子ども向けのもの」をいつまでも愛好している人たちのことで、おたくをヘイトする論拠もそういう態度に対して「いつまでそんな子どものものに夢中になってるんだ、いいかげんに大人になりなさい」ってところにあったと思う。

そういう周りからの「大人になれ」攻撃にさらされたせいか、或いは自らの内なる魂の叫びか、おそらくその両方が入り交じって、おたく自身も「大人になんなきゃいけないのかなぁ」という問題意識を抱えながら、批判や差別に耐えてきた。ま、その結果足を洗っちゃった人たちも多かっただろうけど、それでもどうしてもやめられないまま、形の上だけでは大人になっちゃった人も出てきたってことだ。

今「おたく論壇」で活躍してらっしゃる、大塚英志とか岡田斗志夫とか宮台真司とか切通理作とか香山リカとか、まぁよう知らんけどその辺の方々、それぞれ意見や立場は違うだろうけど、みんな大体30歳以上40歳以下の同世代というのが俺には興味深い。多分あの辺からが「おたくをやめないでおこうと思えばやめないでいられた」世代なんじゃないだろうか。それ以上の世代はおたくをやめるか、規模を縮小して継続せざるを得なかったんだけど、好景気とか高度消費社会とかに支えれられて「そのまま年齢を重ねることができちゃった」んだと思う。ここでは彼らを、おたく第1世代と仮称してみる。

第1世代たちもやっぱり「大人になれ」攻撃にされされてきた。それはもう、人類史上初めて「おたくでありつづけようとした」人たちなんだから、周りからの攻撃はただならぬものであったと推察できる。でも皮肉なことに、彼らはそのおかげで人類史上最も切実に「大人になる問題で悩まなければならない人たち」「大人になるかどうかで悩んだ人たち」となってしまったのではないだろうか。

おたくに対して「大人になれ」なんて偉そうに説教する人たちも、実はその「大人」というものがどういうものなのかはっきりとわかっていた訳じゃないのだ。自分が大人でるあるつもりでも、その辺の論拠は実はもんのすごくあいまいで不確かなものだったのだ。「おたく」と自分たち「大人」を分ける境界線というのは、単に「子供向けのものをやっているかどうか」というまことに無邪気で頼りないものだった。

攻撃した本人たちは、自分の言った「大人」というものについてはあいまいなままだったけれど、攻撃されたおたくたちは真剣に大人というものについて考えるようになった。それはやっぱり「おたくがやめられない」と同じくらいに「大人にならなきゃいけないのかも知れない」という葛藤があったからだと思う。こういう人たちは過去にもいたと思うんだけど、彼らはその深刻さにおいて類を見ないものであったし、個人レベルではなく「一つの潮流を作るぐらいの規模でたくさん存在する」ようになったのが、第1世代の画期的なところなのだ。

「おたくをやめなきゃいけないのか」と「大人にならなきゃいけないのか」という葛藤は、やがて「本当に大人にならなきゃいけないのか」そして「じゃあ、そのならなきゃいけないという大人ってものは一体どんなものなのか」という問いにたどり着く。周りが自分に対して要求する、そして今自分がなろうとしている「大人」って一体何でしょう?

よく言われていることだけど、「通過儀礼」という考え方がある。有名なのはバンジージャンプとか、割礼とか、元服とか。要するに「大人になるために、みんなが必ずやらなきゃいけない儀式」だ。通過儀礼についてまじめに考えられるようになったのは、ここ最近(100年ほど)のことだけど、それは世の中から通過儀礼が消え始めてからだと思う。産業革命以降、「近代」という世の中の仕組みが始まった訳だけど、この近代と通過儀礼はお互いの相性が悪くて、通過儀礼はどんどん消えていっちゃったんだな。

消えていく途中はみんなそんなこと気にしてなかった。なくなりかけていることにすら気づかないことが多かったし、気づいても別にそんなもん要らんと思ってた。でもいざなくなっちゃうと、すごく困ったことになっちゃったんだなこれが。みんなトシだけはくってる。20とか30とか、もうみんないい年齢だ。でもそれで本当に「大人」になれたかどうか、という確信が持てない。処女や童貞を捨てても、自立して自活しても、ケッコンして子どもを育てても、それだけで本当に「大人」と言えるのか。無邪気に信じてるうちはいいんだけど、一旦考えはじめるともうわからない。

通過儀礼がONだった昔は、それをやればよかった。本人も「ああ、俺は大人になったんだな」という素直な確信が持てたし、周りも「やったかどうか」で相手を大人扱いするか子ども扱いするか決めることが出来た。みんなそれなりに自信持ってふるまい、生きていくことができたのだ。もちろん、それだって本当に突き詰めて突き詰めて考えればあやふやな問題だったのだけど、そこまで突き詰める必要がないくらい、或いは個人レベル程度ではそこまで突き詰めることが非常に困難となるくらい、通過儀礼はこの問題をうまくクリアそしてカバーできていたのだ。

でも通過儀礼がなくなってしまった現在、この「大人になれたかどうか問題」は社会共通の大きな悩みになってしまった。自分が一人前のちゃんとした人間なんだろうか、誰も確信が持てないのだ。持てないとどうなるか。ま、別に死にゃあしないんだけど、いつも心に不安を抱えたまま一生を過ごすことになる。明日にも飢え死にしそうな人にはどうでもいい問題だが、ある程度生活に充足している人間(或いは社会、=私たち)にとっては、深刻な問題なのだ。「何事にも意味を見出せない空虚感」「どうしても癒されない近代人特有の孤独」といった問題も、ここと近いところにある。いずれも近代特有の問題で、これといった解決策は今のところない。

少し話はずれる。おなかが空いて死にそうな人がいるのに、さみしいとかむなしいとかいうことで悩むのは贅沢だ、という意見がある。私はこういう考え方は実にくだらないと思う。こういう人は、飢え死にしそうな人に向かって「生まれてすぐ死んじゃった人もいるんだよ。生まれる前に死んじゃった人もいる。これまで生きて来れただけでありがたいと思いなさい。おなかが空いて死にそうなんていうのは贅沢な悩みだからがまんしなさい」な〜んてことを言えちゃうんでしょうか。私ゃ言えませんねぇ。

AさんとBさんの不幸の度合いを計って比べるなんてできっこないし、意味のないことだ。不幸だけじゃなく、幸福もそうなのだが。不幸や悩みの深刻さを決めることが出来るのは、悩んでいる本人しかできない。「○○に比べればマシ」という考え方は短期的な処世術にはなるだろうが、本質的な解決には決してならないし、ましてや他人に説教かます材料としてはあまりに弱すぎる。だいぶ話がずれたが、「心の問題」というのは少なくとも私たちにとって深刻な問題なのであり、取り組まなきゃいけないものなのだ。と、いうことで「おたくと大人」に戻ります。

おたく第1世代たちは「大人にならなきゃいけないのか」という葛藤から、真剣にこれに取り組んだ。いろいろと難しい本を読んだり勉強したりもした。彼らの葛藤は親や兄弟や親戚や友達や先生といった身近な存在から攻撃が原動力で、極めて個人的な、言葉を変えれば自分のために始めたことだったのだ。でもそれはおたく特有の問題ではなく、世の中みんなに共通する大事な問題だったのだ。結果としてそうしたおたくの人たちは、はからずもこの手の問題の最先端にいることになってしまった。

おたくであり続けるための理論武装、みたいなところから始まった彼らの葛藤が、おおげさに言えば深刻な社会問題の鍵を握るようになったのはとても皮肉なことで、実に面白いと思う。まさに大逆転と言おうか、あいまいな根拠から「大人になれ」なんて説教された第1世代は、そこから必死で身を守ろうとした。目をつぶって無我夢中でもがいた結果、気がついたら周りを追い抜いてしっかりした「大人」に対する態度を確立できていたのだ。一番ダメだと思われていたクズどもが、ある日突然救世主になるのだから、これは痛快なことに違いない。まして、おたくの側にいて迫害された経験があるならなおさらだ。

おたくたちは葛藤した挙げ句、それぞれ自分なりの結論や方向性を見つけていった。それぞれの意見はバラバラだけど、現在おたく論壇で活躍されていらっしゃる「おたく論客」の皆さんはおおよそこうした経緯を辿って来ているのではないだろうか。や、「違う」って言われたらそれまでなんですけどね。さて、私は今27歳。自分なりの定義づけをさせてもらえば、周囲と戦って一定の地位を勝ち取った第1世代に続く、第2世代だ。10代のおたくたち第3世代に比べれば、それなりに周囲と戦った経緯がある。

それでも第1世代の戦果を「座りしままに食」ってきた側面は否定できない。血みどろの闘争をしてこなかった分、闘争に対する士気、確信が今一つ持てないのだ。「やっぱりおたくってクズなのかな」と気弱になってしまうこともある。第1世代は一定の戦果を挙げた。それは「おたく」の存在を、否定的にしろ肯定的にしろ世間に認知させたことだ。「そういうやつらがいるらしい」ということを、頭の片隅にでも知らしめたことだ。これはもう、アームストロング船長ばりに「偉大な一歩」だったことは間違いない。

それに続く我々第2世代はどうなのだろうか。いや、何もここで「何かするべきだ」とは言わないんです。自分で何かアクション起す気もさらさらないし。ただね、一歩引いた傍観者として、そして同時に渦中にいる一おたくとして、今後どうなっていくのか興味があるんですよ。我々「第2世代」は今後、結果としてどういう役割を果たすことになるんでしょう、ってね。ま、あと10年も経ちゃ少しは見えてくると思うんですけど。今は少なくとも、そん時になって「より楽しめるように」おたくはやめないでおこう、って思うだけです。10年後、ガンダムが世間レベルで「ON」かどうかはわからんが、私のモビルスーツへの愛は永遠だからなぁ。ま、大丈夫でしょ。

つーことで、今回は終わり。爆発オチに近いけど、終わるったら終わるのっ。ここまで読んだ人、あんたもヒマだねえ。ま、せいぜい笑ってもらえたら幸いなんですけど、本人は意外とまじめなもんで、笑うときゃ見えないところでやってくださいね。それでは。


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