からあげカレーとは何か?

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世の中に「からあげカレー」というメニューはない。

確かにそういうメニューはある。存在している。しかしあるのは大体、街の弁当屋とか、イイかげんな食堂とか、どちらかというと食事よりも「エサ」に近い食い物を売る店だ。もしあなたが誰かにご馳走してもらうとして、入った店のメニューにからあげカレーがあったら、きっと失望するに違いない。からあげカレーとはそういう食い物である。

ちょっと想像すればわかってもらえると思うが、「からあげカレー」を出す店には必ずメニューに「カレー」がある。それだけではない。「からあげカレー」を出す店にはこれまた必ず「からあげ弁当」や「からあげ定食」がある。カレーとからあげがメニューにあって、初めて出てくる食い物である。

「からあげカレー」がメニューにあるのに、カレーやからあげ弁当を売ってない店、というのは存在しない。あったら是非教えて欲しい。多少勇気を出して断言するが、もしそんな店があったらフルチンで残飯食いながら逆立ちして日本一周してやる。それくらいあり得ない話である。

「カツカレー」というメニューはある。それはある。メニューに「カツ」や「カレー」がなくても、「カツカレー」だけはある店、というのは現実には想像しにくいが理論上ありうる。それはカツカレーがそういうメニューだからだ。例えば「カツカレーが旨い店」とか「カツカレーが名物の店」というのは容易に成立するし、現に存在する。

しかし「からあげカレーの旨い店」はどうか。「からあげカレーが名物の店」というのはどうだろうか。これまた断言したいが、そういう店は存在しない。理論上あり得ない。それはなぜかというと、からあげカレーというのがそういう食い物だからだ。

ウチのメニューにゃカレーがある。ウチのメニューにゃからあげ弁当もある。しかしもうちょっとメニューを増やしたいな。見た目だけでもバリエーション豊かなカンジが欲しいな。こういう経営者側の、需要と浅知恵から生みだされるのが、今話題にしている「からあげカレー」なのである。

同様の路線として「ハンバーグカレー」「ウインナーカレー」「コロッケカレー」が挙げられるだろう。しかしここがまた重要で、故にからあげカレーをナメて欲しくないのだが、例えばファミレスに行ってみて欲しい。ファミレスのメニューを思い返してみて欲しい。そこにはほら、しばしば「ハンバーグカレー」なるものが存在しちゃあいませんか? ファミレスだよ? 高級な食事の代名詞ともいえるファミレスでだよ? もちろんからあげカレーはファミレスにいない。ある訳がない。この時点でハンバーグカレーは、カツカレーほどではないにしろ一定の社会的地位を持った存在と認識せざるを得ないのである。

続いてウインナーカレー。結論から言って論外である。ウインナーなんてどこでもあるじゃんよ。そこいらで買ってくりゃいいだけのもんじゃんよ。そういう話をしてるんじゃないんだよ今は! からあげってのはちゃんと鶏肉をどうにかして、油で揚げて、調理しなけりゃいかんもんだろ? キチンとチキンを調理するんだろ? それがわざわざカレーに入ってたりするから、俺らは今こんなとこに集まって話をしてるんじゃないのか? そうだろ? なにもワンセンテンス使って俎上に載せるまでもない。ウインナーカレーは「論外」である。

敢えて。あーえーてー近いという言い方をすることができるのは「コロッケカレー」なのかも知れない。それは認めよう。からあげカレーのこの、独特の存在感に唯一対抗・比肩しうる存在が、あーえーてーだけど敢えていうならコロッケカレーに相当するのだろう。ギリギリ「コロッケ弁当」というのもアリはアリだしね。それはそうだしね。

しかしやっぱりココはこだわりたい。我、君に問う。コロッケでメシが食えるか? すりつぶしたジャガイモの塊でごはんが進むか? ジャガイモというのは、それ自体で主食の役割を担えるモンだ。さらにいえば、周りについているのは「パン粉」である。ジャガイモ、パン、さらに飯。2つまでならやきそばパンを持ち出してオッケーにもできよう。しかしさすがに3つはキツかった。やっぱそりゃ無理だよ。そういうことにしておこうよ。

これでもまだ、しつこく食い下がる輩にはこう言っておきたい。お前がコロッケでメシを食ってるのは、はっきり言わしてもらう、それはソースをどぼどぼかけているからだ。生のコロッケだけでメシを進められるか? ロックンロールが前進するか? ゴマ化されちゃいかんよ。お前のメシを進ませてるのはコロッケではなく、ウスターソースなんだってば。そこんとこ気づくように。ゴマ化されちゃいかんよ。

さて、という訳で、からあげカレーは独特の存在なのである。あなたの会社の近くにある弁当屋で、今日もひっそり咲いているからあげカレーの花。これは「主に弁当屋」「カレー」「からあげ弁当」「メニュー増やしたい」「手間増やしたくない」「安くあげたい」こうした諸々の要素が複雑に絡み合って、初めて成立する食い物なのである。からあげカレーの、足元に危うさを秘めた存在の独自性というものが、あなたにもご理解いただけたでしょうか。

さて。ここまで読んでいただいた方は「ああこの人、からあげカレーが大好きなんだな」などと、もしかしたら思われたのかもしれません。ええ実は、そんなこと全然ないんです。からあげは死ぬほど好きだしカレーもまあまあ好きなんですが、からあげカレーが好きかというと、特にそんなことはないんです。

かといって「大好きなからあげやカレーを汚す、からあげカレーというあいまいな存在許すまじ!」とか思ってる訳でもないんです。気が向いたら食います。けっこう喜んで食います。まあ個人的には、カレーにからあげって「合わない」と思います。例えばトンカツなんかと比べても、やっぱあんまり合わないと思います。食っててなんか「ちぐはぐ」な感じがするのは否めません。でもそれも「からあげカレーってえのはそういう味、そういう食い物」と納得すれば、けっこう大丈夫だったりします。

存在自体が、言ってみりゃ「余りもの」で廃物利用されて誕生した「からあげカレー」というメニュー。俺的に、特に好きでも嫌いでも、うまいともマズいとも思っていない。どこまでも中途半端で、ヌルい食い物だ。キレもコクもアクもない。揚げ物にカレー、かなりクドいはずなのだが、存在はなぜかウスい。

だからと言って、だからと言って「私はからあげカレーのように生きたい」とか思うはずもない。逆に「私はからあげカレーのようにはなりたくない」とかも、もちろん思わない。からあげカレーはからあげカレーで、ただただそこに存在するだけだ。そっから人間である我々が、なんらかのストーリーや意味を見出し、勝手に感動したりケナしたりするのはバカバカしいと思う。愚かなことだと思う。

よーく考えたら、そういうコトってよくある話である。からあげカレーはただ存在するだけで、それが別になにかする訳でもした訳でもないのに、人間の側でかってに「なにか」を見つけ出して、あれこれ言ったりわめいたり、挙げ句ただそこにあるだけの「からあげカレー」に万歳三唱したり、逆に廃絶運動しちゃったりすることがあるのである。そういう時、俺はからあげカレーがかわいそうだと思う。たぶん迷惑に思ってるんだと思う。いやからあげカレーは食い物だから、ものを思ったりはしないだろうが。

なんでこういうことが起こるかというと、我々が普段使っている言葉に、ある種のマジックが含まれているからなんだろう。言葉というのはモノを表現するものだが、これが便利なことに「モノを喩える」ということができてしまうのである。ここに問題の芽が含まれている。喩えというのはただモノを喩えてるいるだけで、話をわかりやすく噛み砕いて説明するために使われているだけで、なにもその喩えそのものが本質的な意味をつかんでいたり真理が含まれてたりする訳では決してない。

でも我々はしばしば、なんだかそういうことがあるような気がしてしまうのだ。例え話がいつのまにか、モノの本質や真実を表わしているかのような錯覚を持ってしまうのだ。これはなんでかっていうと、たぶん我々は「楽がしたい」からなんだと思う。楽がしたいとどうなるか。「考えるのが面倒くさく」なるのである。で、簡単な答えや結論というのを、なーんとなく求めてしまっているからだろう。

で、さっきも言った通り「喩え」というのはしょせん、話を進め易くするために便宜的に使っているものだから、だから当たり前のことだけど「ものすごくわかりやすい」のである。簡単なのである。そこに「簡単でわかりやすい結論を、日常的に求めている我々」というのがやってくる。両者が出会う。結果は目にみえている。「そーか、わかった! それってそーいうことだったんだね!」 かくて我らは間違うのである。

からあげカレーはからあげカレーで、ただそこにあるだけだ。その存在はすんごく独特なものだけれど、だからといって別にどうということはない。いいとも悪いとも言えない。そこにあるだけなんである。そっからヘンにねじまげた結論を導きだそうとするのは、からあげカレーに失礼というものだ。俺はからあげカレーが好きでも嫌いでもなんでもないが、だからといってからあげカレーにわざわざ失礼な真似をしようとは思わない。気が向いたら買って、食べるだけである。


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