偏差値教育は問題があるか?

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教育の改革が叫ばれて久しい。「心の教育」だとか「ゆとりの教育」などがもてはやされている。素晴らしいことだと思う。本当にそんなものが実現できるかどうかはともかくとして、そういった目標を掲げていくこと自体は、決して間違っていないと思う。

ただその種のニュースを見るにつけ、少し俺の心にひっかかるものがある。こうした新しい動きや改革の出発点として、多く「偏差値教育」の反省が挙げられているところだ。

俺は小学校5年生から塾に通いはじめた。中学受験を念頭においた学習塾だ。週に3〜4日は塾に通い、補習などもあって、終電で帰ることもしばしばあった。たいがいは10時半ごろ帰宅し、家族とは違った時間にチンした夕食を一人でとっていた。

中学に入ってからは、もうほとんど塾だった。受験を控えた中3の時は、毎日塾に通っていたはずである。日曜・祝日も関係なし。今思うと、むしろ塾の先生に敬意を払いたくなるが、それはまあいい。

こうした教育や受験のあり方が、極論すれは酒鬼薔薇くんを生み出したかような論調を見かけると、なんだかとっても悲しくなる。受験や偏差値のシステムを批判することには、一定の意義があることは認める。なんらかの問題があったのには間違いない。もっとも人間のやることに完璧なんてことはないのだから、どんなシステムを作ったところで欠陥はあるとは思うのだが、それにしても。

受験勉強に問題があり、それが欠陥のあるシステムだったとしたなら。その中にどっぷり浸かり、そのメインストリートを走ってきた俺らはいったいどうなるのだろう。受験システムを批判するのはいいが、それではまるで我々が、間違ったシステムの下で生産された、欠陥品のようではないか。

「兎追いし彼の山」という訳にはいかなかったけれど、「宇宙人と戦いし彼のゲーセン」はあった。「竹馬の友」はいなかったけれど、「居残り補習の友」はいた。それらを「貧しい」と決め付けられる人間がどこにいるのか。農家のミカンやスイカを盗み食いした想い出話を懐かしく語りたがるジジイがよくいるが、万引きした駄菓子を友達とウキウキしながらほおばった想い出はダメなのか。だってしょうがないじゃないか。山も海も川も、俺の周りにはなかったんだもの。

だから俺達はちっとも可哀相じゃない。ジジイどもがそうであったように、俺らだって豊かで実りある子供時代を送ってきたのだ。アイテムが違うだけで、その本質に大きな違いはないと思う。

むしろそんなことすら理解できずに、未だに「自然の豊かさ」に憧憬を抱くことしかできないジジイどもを哀れに思う。またそんな戯れ言を本気で信じて、子供に「自然との触れあい」を提供しようとする若い親を哀れだと思う。アウトドアキャンプごっこのような一面的な「自然との触れあい」で、なにが生まれるというのか。風俗嬢に本気で恋している人の方がよっぽど純粋だと思う。

僕は偏差値どっぷりで育ちました。僕は欠陥品ですか? 面と向かって言ってください。


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