さよならふじーさん

おたくを憐れむ歌に戻る


今日は2020年の5月5日。ふじーさんが2019年5月19日に亡くなって、もうすぐ1年になる。いま世の中は新型コロナで大変なことになっていて、私も仕事がなくなって家でぼーっとする日々である。ふじーさんが亡くなった時はがっくり落ち込んで、なにか文章にまとめようなんて気にもおこらなかった。でも同時に、いつか気力が戻ってきたら、ちゃんと書きものとして残さなければという気持ちももっていた。一周忌を目前にして、またコロナでヒマな今だからこそ、えいやっと気合いを入れて、ふじーさんとちゃんとお別れをしたいと思う。

1997年、23年前。新卒で入った会社をすぐに辞めてしまった私は、ぼんやり無為な日々を過ごしていた。ちょうど今と似てるかも知れない。目を覚ましても何もせず、腹がへったら何か食べ、眠くなるまで起きている。理想的にみえるかもしれないが、それはそれでなかなかツラい生活である。

世の中はウィンドウズ95が発売され、パソコンとインターネットがオタクのものからちょっとオタクな人のものへと移りつつあった。幸い貯金だけはあった私は、30万円のパソコンと10万円のプリンター(当時!)を買い、長いながーいインターネット生活を開始したのである。

あの頃のインターネットの楽しさといったら! 年寄りの昔話になって申し訳ないが本当に楽しかった。自由さ。開放感。出会い。驚き。スリル。ドキドキワクワク。夢中になった。そして自分もこの中にいたい、居場所を作りたい、ホームページを作りたい! と思った。そのとき色んな個人ホームページを参考にしたが、その中のひとつがふじーひろしさんの「そこはか通信」なのであった(注:リンク先はふじーさんの死後、有志によって保存されたサイトです、以下も同様です)。

 

「そこはか通信」は雑誌なんかで紹介されるような有名ホームページで、一番人気だったのが「勝手邦題」であった(実際ふじーさんが亡くなった時も、「勝手邦題のひと」という紹介が多かった)。外国映画のタイトルを勝手に邦訳して遊ぼうという投稿企画で、そのアイデア自体もすばらしいが、人気になった理由はそれだけではない。他の人に真似できない、ふじーさんならではの運営手腕あってのことであった。

勝手邦題にはボツがないのである。どんなしょーもないネタでも、不謹慎なネタでも、寒くてハズしたものでも、投稿されたものはすべて掲載する。これがどれだけすごいことか。せっかく自分で運営するホームページ、ちょっとでも面白くしたい、評判をよくしたいと思うのは当然である。それなのにつまらんネタも載せる。曰く「自らも異端者なのだから、他人をボツになどできようはずもない」ということだったらしいが、理屈としてはそうでも中々実行できるものではない。懐である。器である。

そして投稿にはふじーさんのコメントがつく。これが面白い。いいネタはコメントで更に面白くなり、そうでもないネタでもふじーさんの見事なコメントで、うまくオチがついたりする。投稿された邦題よりもコメントの方が面白いことだってある。だから安心して読める。信頼と実績。人気がでるのは当然だろう。

(余談だが、ふじーさん自身もコメントにはかなり力を入れていたのではないかと推察される。勝手放題が有名になり、多くのネタが投稿されるようになると、更新が遅れるようになっていった。理由はいろいろあるだろうが、コメントに苦しんでいたという部分もあったのではなかろうか。ここにはそんな苦悩が透けて見える。)

博覧強記のひとであった。20年前はまだウィキペディアもまとめサイトもなく、ググれば簡単に知ったかぶれる時代ではなかった。思えば本当にその人がもっている知識量だけで勝負できた、最後の時代だったかも知れない。ふじーさんは映画関連だけでなく、SF・漫画・文学その他おたくサブカルからそうでないものまで何でもよくご存じで、しかもそれらを面白く昇華させてコメントするのだから、まー常人にできることではない。

 知識や文才だけでなく、その人柄も大きかったと思う。不特定多数の人間が投稿してくるので、中には失礼だったり独りよがりだったりするものもある。でもふじーさんは滅多に怒らなかった。不機嫌さを表に出さなかった。まったくなかったとは言わないが、大抵はやんわりたしなめたり、優しく受け止めて流すようなことが多かった。だからみんな安心して投稿できたのだと思う。熱心なふじーファンだった私には、その底になにか大きな諦念というか、突き放すようなものがあったように思うが、この辺は異論あるかもしれない。

幅 広い知識、コメントをつける文才、そして人柄人徳。これらを兼ね備えたふじーさんだからこそ、勝手邦題はあれほどの人気サイトになり得たのだろう。ただ単に「洋題を和訳して遊ぼう」というアイデアだけならば、あそこまでにはならなかったに違いない。

(余談その2。その後ふじーさんはtwitterで勝手放題botを始めた。ご主人様が亡くなった今でもbotは健気にネタをツイートし続けている。しかしbotはみんなが投稿したネタだけで、ふじーさんのコメントはない。私としてはふじーさんのコメント込みで勝手邦題という気もするので、ちょっと淋しい)

さて勝手邦題も楽しかったが、私が一番好きだったのはそこはかとないものであった。ホームページのタイトルにもなっているが、私はここにふじーさんらしさがよく出ていたのではないかと思っている。ぜひリンクをたどって読んで欲しい。世の中の本流からちょっとはずれたもの、後回しにされちゃうもの、多くの人に気にとめられないもの。でもどこか心に引っかかるもの。ふじーさんはこうした「そこはか」を愛で、慈しみ、また自らもそのようにあろうとした。実際その通りの人であった。

例えば「そこはか通信」には、 アクセスカウンターがなかった。当時の個人ホームページの多くが「ようこそ! あなたは○○人目の訪問者です!」というのをやっていたし、私もやっていたし、だって個人ホームページなんて多かれ少なかれ自己顕示欲が結晶化したようなもんなんだからそれは当然なんだけど、「そこはか通信」にはなかった。それはひとつには彼がとてもシャイな人だったから、そして同時に矜持を強くもっていたからではなかったか。「そこはか」は一見弱々しそうだが、そこはかであり続けることはハードでタフなことなのだ。全投稿掲載もそうだが、優しい言葉づかいとは裏腹に芯の強い、自分に厳しい人だったと思う。

( ……ちょっと褒めすぎたかしら。本人照れるかしら。まあどうせ死んでるんだからいいじゃないの。悔しかったら生き返ってみろっての。ただ、別に追悼だからサービスで盛っている訳ではない。むしろ20年以上ずっと思っていた、でもこうして言葉にすると恥ずかしいからちゃんと本人には言えなかったことを、遅ればせながらこうして書いているのである。生きてる間に言えばよかった。本人に聞いて欲しかった。なんで死んじゃったんだよ。世の中コロナでこんなに面白いよ。10万円もらえるよ。)

そして掲示板! tcup(ティーカップ)が提供する無料レンタル掲示板! ふじーさんの幅広い交遊関係と、そのコメント力が存分に発揮されたのはここではなかったか。日々さまざまな人が集い、ボケて、突っ込まれて、ふじーさんが愛をもって受けたり流したりする。いやー楽しかった。ここで縁がつながり、それが何だかんだで現在まで、という方は多かろう。

彼の死後どなたかが、ふじーさんは深夜ラジオのDJだったとおっしゃっていたとか。私もふじーさんは、ふじーひろしというひとつのメディアだったと思う。メディアのmedはミディアムとかの「中」とか「間」という意味で、何かと何かをつなげるみたいな語源らしい。そういう意味でふじーさんは正にメディアだった。彼を通していろんな人がつながっていったのだ。それはふじーさんの人柄だからこそなし得たことだったと思う。

2000年代に入り、個人ホームページの時代は終わっていく。「そこはか通信」も更新頻度が落ち、私もホームページを更新しなくなり、世の中はweb2.0だ、これからはブログだ、eコマースだなんてことを言い始めた。googleっていう検索サイトが早くて便利だぞ、という感じになってきた。そしてmixiである。パソコンとネットはちょっとオタクな人から普通の人へ、メモ帳でhtmlを書く人からもうちょっとお手軽でお気楽な時代へと移行していったのである。 

mixiでのふじーさんは、なぜかあまり印象がない。私がリアルで忙しい時期だったからか、あるいはふじーさんのスタイルとmixiがあまり噛み合わなかったのか、そもそもmixi時代がそんなに長くなかったのかも知れない。この辺はちょっとわからない。

(余談その3。これを書くにあたって久しぶりにmixiにログインし、ふじーさんのページを見てみた。「ログインは3日以上前」という表記がさびしかった。ところでふじーさんのマイミクである美奈さんという方が、ふじーさんを紹介している文章がとてもステキだったのでここに無断転載させてほしい。美奈さんごめんなさい。『「分かっていないのに、怒る」ひとや「分かっていないのに、微笑む」ひと、あるいは「分かっていて、怒る」ひとが多いこの世の中。 ふじーさんは「分かっていて微笑む」人。そこがすごい。』ほんとそうだと思います。美奈さんすごいです。)

そしてtwitterが始まった。twitterはメディアとしてのふじーさんに、とてもよくハマっていたと思う。誰かが面白いことをいえば、ふじーさんはばんばんリツイートした。場合によってはひとことつけくわえたり、そこでまた話が広がっっていったり。あの頃のtcup掲示板かそれ以上に、教養とコメント力と人柄、ふじーさんのすごいところが、存分に発揮されていたように思う。

私もふじーさん経由で、いろいろツイートをバズらせてもらった。彼の広い交遊関係ひいては人徳のおかげである。いまの私のタイムラインにも、ふじーさん経由でつながった方が多々おり、つくづく彼は優れたメディア、よき媒体だったのだなあと思う。そして惜しむらくは唯一無二の。あんなことできる人、そうそういないよね。

数年前より、ふじーさんは入院するようになった。しばらくtwitterで音信不通になり、数日たつと「ちょっと入院してました〜」と復帰する。というようなことが、ちょこちょこ起こるようになっていた。戻ってからのふじーさんは相変わらず、瀬戸内寂聴やちんこの皮の話なんかをしていたが、音信不通はしばしば起こり、その期間も長引くようになっていった。

プライベートはほとんど知らない。ただネット上でバカ話をするだけである。まったく知らない訳ではないし、薄々は気づいていたけれども、その辺は知らんぷりしていた。なによりシャイで矜持のある人だったから。

そして2019年5月。何度目かの音信不通になり、「今度のはちょっと長いな」と心配していたところ、ご友人からの「今夜が峠かも」というお知らせが入ってきた。驚いたけど驚かなかった。ああやっぱりという気持ちだった。わりと覚悟していた。その数時間後、ふじーさんは亡くなった。われわれは彼の死について精一杯ふざけて、茶化して、不謹慎な冗談を言った。それが彼をいちばん喜ばせると確信していたから。絶対に間違いなかったから。

ずうっとの昔のオフ会で、2回ほどお会いしたことがあるが、ほとんど記憶はない。でもネット上では20年以上、特にtwitterではほとんど毎日のように、ずっとコミュニケーションをとっていた。思えば不思議な関係である。だから亡くなった時の喪失感は大きかった。私はその前年に母、前々年に父を亡くしているが、それよりも辛かった。だって実家の親なんて年に数回も話さないけど、twitter上のふじーさんは日常の一部だったからね。

今でもやっぱりさびしいし、何か面白いことが起きる度に「ああこれふじーさんなら何て言うかなあ」などと思ってしまう(たぶんふじーさんは「わしゃナンシー関か!」ってなると思う)。しかし1年もたてばそういう気持ちも薄れていくし、ふじーさんのいない世界にすっかり慣れてしまって、やがて覚えいたことだけを覚えているようになる。悲しい。悲しいけど仕方がない。でも悲しい。 

亡くなったのは5月19日だが、ふじーさんが最後にツイートしたのは5月5日である。『「死にそうで死なない」がワタシの特技なのでだいじょうぶです』。これが最後である。だいじょうぶじゃなかった。人間・藤井浩の命日は19日だが、ネット上で長く愛されたふじーひろしの命日は、実は5日なのではないかという気もする。だから何としても今日中に、これを上げてしまいたかった。

そしてどうしても、これはtwitterでもなくブログでもなく、ホームページのhtmlでやりたかった。私とふじーさんの出会いはこれだったから。これでつながっていたと思うから。そしてアップロードしたら、あまり大げさにせず、放置しておきたいと思う。ふじーさんが愛した「そこはかとないもの」のように、そっと、そこはかと。ふじーさん、気がついたら読んでくださいね。コメントもよろしくね、すっごい面白いやつでね!



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