とりあえずインフルエンザには気をつけよう。

おたくを憐れむ歌に戻る


彼女の先輩が亡くなった。インフルエンザをこじらしての肺炎、26歳。大学院で認知心理学をやっていて、去年初めて国際的に論文を発表したばかりだそうな。まさにこれからという時で、本当に惜しまれる。でも本当は、いつ死んだって「何も今じゃなくても」なんだよな。俺みたいにプーでぶらぶらしていても、今死んだら「ほんと、これからだったのに」と言われるのだろうか。「社会の穀潰しが一人死んでよかった」と言ってほしいな。

先ごろ、人の死についていろいろ考える機会があった。でもそこから出た俺の結論は「何も言わないのが一番マシ」ということだった。だからその通りにしてきたし、これからもずっとそうするつもりだった。でも今回の件で、前に考えたことが思わずこぼれて、そう、言葉がこぼれてしまったのだ。これは俺の弱さだと思う。或いは「黙ること」で耐えてきた彼の死の衝撃が、ようやくどこかに着地出来たのかも知れない。やっぱり、人の死について何か言葉を費やすことはある程度必要なのだろうか。もちろんそれはダメ人間のやることなのだが、俺はまだまだ修行が足らんのだ。


3ヶ月程前、親友の親友がガンで死んだ。28だった。その時つくづく思った。通夜とか葬式とか線香とか「お悔やみ申し上げます」とか、そういったものは全て「生き残っている人たち」のためにあるんだと。通夜や葬式にあれほど煩雑な手続きがあるのは、家族や関係者に忙しい思いをさせて悲しみや衝撃を中和する意味がある、というのは割と知られているが、ここで言うのはもう少し踏み込んだところだ。

死んだら当人は全て終わりだ。その後があるかどうかは知らんけど、わからん以上現時点では「何もない」のと同じことだ。当人の死後、行われたり飛び交ったりするもろもろのことどもは、全て当人以外のために存在することなのだ。

だとしたら「惜しい人を亡くした」とか「いい人だった」とか「冥福をお祈りします」とか「静かに眠って下さい」とかそんなものは全部、当人にとってみれば「大きなお世話」ではなかろうか。全ては生きている人のため、もっと意地悪く言えば、生きている人同士が、互いに「いい人」と思われたいがために周りに行うアピールではないだろうか。

そんなことを考えて、「死」についていろいろ言葉を費やすのが本当にイヤになってしまった。本当に死んだ人の事を考えるなら、黙っているのが一番だ。考えたことは全部自分の中にしまって、ずっとそのままにしようと思った。

これは彼の人柄がそうさせたのだと思う。彼は最後の最後まで、彼であることを貫いた。強烈に、力強く、死ぬまで生き続けた。だから彼の死に、なんの感想もお悔やみも言わなかった。そんなことをしたら、負けを認めることになる。

ちくしょう、カッコよく死にやがって。悔しいなあ。少しでもいいから、あんたを悔しがらせてやりてえ。何にも言わないよ。あんたが死んだって、こっちはいろいろと忙しいんだ。ガンダム見たり、バーチャしたりさ。俺のジャッキー、すげえ強くなったよ。あんたのカゲにも、もう負けないよ。ボコボコにエクセレント勝ちしてやる。

だからさあ、もっかいやろうよバーチャ。スーファミのテニスもやろうよ、江古田のあの家で。今度ストーンズ来るんだぜ、また見に行こうよ。ライブもやってよ、差し入れ持ってくからさあ。でももういいや。死んじゃったんだもん。でもまあありがと。すげえ面白かったよ。ま、焦げた骨っころに言ってもしょうがねえことだけどな。そうだろ。


おたくを憐れむ歌に戻る