くるい・きちがい考

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最近の映画やテレビ、漫画なんかを見ていると、サイコキラーとかシリアルキラーとかって精神異常の殺人者や犯罪者がよく出てくる。小難しいこと言わせてもらうと、イデオロギー対立がなくなった1990年代、最後に残った便利な悪役は、もうキチガイさん達しかいないんだろうなという感じがする。

だからそりゃあもう「安易」としかいいようのないくらい、物語の中に出てくる悪役はキチガイさんばかりだ。はじめっから危険なキチガイとして描かれているんならまだマシな方で、最初の方はまっとうで頭のキレる人物に見えてても、最後に主人公に追いつめられると急に「フヒヒヒヒみんな死んじゃえ」みたいなことを言い出して「狂」を前面に押し出してきたりする。そういう悪役が出てくる話は、観ててとっても白けてしまう。なーんだつまんねえの、ちぇっという感じだ。

キチガイさんは別に好きでも嫌いでもないし、どっちかというと「興味がある」方ではある。ただ物語に登場するキチガイさんたちは、どうも本当のキチガイとは違って、言ってみりゃ「ポンニツ(拙ファイル参照)のキチガイさん」になっちゃってるような気がするのだ。

ま、それはしょせん物語の中だからいいっちゃあいいのかも知れないが、そうすることで我々の中に「特定のキチガイさんイメージ」が刷り込まれ、例えば報道において描かれる「キチガイさん像」までポンニツになってしまってはいかんと思うのである。それは現実の世の中にいるキチガイさん達の人権が云々という話ではなくて、純粋に間違った情報や認識というのはよくないことだと思うからだ、どんなことに対しても。


物語の中でキチガイさんが悪を演じるのはいい。いいんだけど、話の展開として「なぜその人はキチガイになったのか?」の辺りがきっちり描かれているようなモノはほとんどない。たいがいは「コイツは悪だ」→「なぜ?」→「だってキチガイだもん」というところで終わってしまっている。そいつが「悪」である理由として、安易に「狂」が使われているだけだ。

じゃあなんでそいつは「狂」なの? という問いには誰も答えてくれないし、そんなことはチャッチャと流して主人公はヒロインと再会の喜びや愛なんぞを確かめあったりしているのだ。ベラ入れたりしつつ。スタッフロールも上がってきてるし。その辺が俺にはどうも不満で、いつも小首を傾げてハテナマークをピッコンピッコンさせながら映画館を出たりしているのである。

特にホラーなんかでそう思うんだけどホラ、最近多いじゃん? サイコホラーってやつ。心理学だか精神ナンタラとかの要素を取り入れてみましたあ、あとオカルトもぅ、みたいな話。いや別にそれ自体は嫌いじゃないんだけどさあ、やっぱホラーなんだから怖くなりたいじゃん? 怖い気持ちになりたいじゃん? でも得てしてその手のホラーって「世の中にはこういうキチガイ殺人鬼が実はすぐ隣にいるかもしんないだよねー。そう考えるとチョー怖いよねー」という方向でしか怖がらせてくれないのだ。俺はその辺がどうも不満なのである。

せっかくキチガイ殺人鬼出して怖がらせようとしてるんだったら、もっとイイ方法があると思うんだよね。それはつまり「実は自分も狂ってて、だからさっきまで大暴れしてたキチガイ殺人鬼と自分には、大した違いがないんだ」という方向。「いつ自分だってああいうキチガイ殺人鬼になるかもしれないし、人は殺さないだけで自分はもはや既にキチガイなのかもしれない」という方向である。俺はこっちの方が断然怖いと思う。


こないだ池袋の東急ハンズ前で大暴れしたキチガイさんがいたが、なんでも高校生が5人いて、2人が後ろから刺されたらしいのだけれど、その刺された2人と刺されなかった3人はどこが違うかというと、背中にリュックを背負っていたか否か、ということらしい。つまりリュックを背負ってる人は刺されずに済み、背負ってなかった2人が刺されたという訳だ。

俺はこういう話、すごく興味深く思うのだ。繁華街のど真ん中で、目に映る人をかたっぱしから刺したり殴ったりしてまわる人というのは、もちろんまっとうな精神状態ではない。一時的にしろ継続的にしろ、キチガイさんには違いないだろう。だがそのキチガイさんも「リュックを背負ってる人は後から刺してもダメージは低いだろう、どうせ刺すならリュックを背負ってない2人だ」という程度には認識・判断し、それを実行するだけの能力を持っていたことになる。

キチガイとバカは違う。ここでいうバカとは要するに「判断の下手なヤツ」くらいでいいのだが、池袋で暴れた人は、実に冷静で的確な判断を下しているのである。対象をよく認識し、それに基づいて判断し、実行しているのだ。これは我々が普段やっていること、やろうとしていることと何ら変りはない。ただその目的が「大量殺戮もしくは傷害」という、ちょっとユニークな方向性なだけである。

不謹慎は百も承知だが、「人を殺したい」という目的に沿って考えれば、「リュックのない人を選んで刺す」というのはまぎれも無く「正しい判断」なんである。まあ、ここでのキチガイも軽く定義すれば「そういうことを自分の目的として設定してしまうところ」になるんですけどね。

こういうキチガイ殺人鬼さんたちにしばしば共通するのは、こうした冷静な判断だ。例えば酒鬼薔薇くんとかもそうだけど、ちゃんっっと弱い子供を狙ってるよね。屈強そうな大人を対象にはしてないよね。きっちり選んできてるよね。そしてそれは、もちろん目的そのものは間違っていることだけれども、その手段としては実に正しい方法を選択している。論理的で、科学的で、筋が通ったことをしている。クールでクレバーでクリアーでコンストラクティブだ。俺にはこの辺が、とても興味深く思えるのだ。


で、さっきも言ったけどこうした「なるべく正しい情報を認識→分析→判断→実行」というプロセスは、特にキチガイじゃない人たちだって毎日々々行っていることなんである。そういう意味では、キチガイの人たちだってべつに「特殊な人」ではないのだ。

キチガイさんというのは、キチガイじゃない人と比べて「なにもかも違っている」訳じゃない。同じような部分はたくさんあるし、むしろほとんど変わらないと言ってもいいかもしれない。ただちょっと、ほんのちょっと多数派から「ズレ」ている、という程度のもんにすぎないのだ。

さらにいえば、その「ズレ」というのを全く持たない人というのはこれまた存在しない訳で、ありとあらゆる観点から見ても全て平均値を叩き出すような人がもしいるとしたら、それはそれでやっぱり「特殊な人」として分類されるに違いない。ちょっと言葉遊びみたいになってるが、やっぱりそれはそうだろう。キチガイさんがキチガイさん足らしめているのは、ただその「ズレ方」にあるだけなんだと思う。

だからキチガイさんを「特殊な人」と決めつけて、どっか自分の周りから遠いところへ追いやって安心しちゃってるのは、あんまり健全じゃないことであるなあ、と思う次第である。そんなことやってると、たぶんいつか足元すくわれるよ。すぐ隣のキチガイさんに。あるいは自分の中に住んでるキチガイさん的要素に。「あなたの隣にもキチガイさんがいるかもしれないよ……」というエンディングの脅しは、つまりそこでいう「隣」とは「普段気づかない、気づかないフリをしている」自分の内側ということだからだ。

キチガイさんを遠くに追いやって安心してのうのうと暮らすよりは、「俺は今キチガイか? 俺は大丈夫か? 俺はオッケーか?」という問いを常につねに繰り返していく方が、そりゃしんどいし楽じゃないだろうけど、そっちの方が間違うことは少ないように思う。俺はできれば、間違いを少なくしたいのだ。


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