「MS地獄」における考察のあり方について

MS針の山地獄にもどる


拙稿「打倒、GUNDAM MILLENNIUM!!」で宣言した通り、俺のガンダム考察における態度は「ペダンチック」である。要はエンターテイメントであり、面白ければそれでいい、というものだ。

それではガンダムにおける「面白さ」とはなにか。それは「夢が膨らむか」「ワクワクするか」「想像力が刺激されるか」ということだと思っている。俺が考察ごっこしてるのは「よりガンダムを楽しみたい」からだし、そのためにもし学問的な正しさが足を引っ張るなら、余裕でブッチである。

だがこれは、学問的な正しさをおろそかにする、という意味ではない。さしあたって第1義ではない、というだけで、基本的にはやっぱり「正しい」あるいは「正しいっぽい」方が、ガンダム的には「面白い」ことになる。ガンダムの魅力は、それこそ十人十色だろうが、そこに「リアルさ」が大きな位置を占めていることは間違いないからだ。

しかしセンチネルで明らかになった通り、このガンダムにおける「リアルさ」というのが実は曖昧で千差万別で、従って実にやっかいな問題なのだ。まじめに突き詰めれば、ガンダムにおけるリアルというのは言葉だけで実体の伴わないものであることがわかる。

その辺の見極め、バランス感覚、センスが俺に任されているのであり、そこに「俺が考察する」意義があると信じている。安易な「俺ガンダム」を展開することへの嫌悪は俺も持っているが、それが「優れた考察」になるか「クソバカの俺ガンダム」になるかは、見ている人が決めることだと思う。本人はただ、誠意を以って(そのつもりで)、なるべくストイックに進めていくしかない。


ガンダム研究において常に問題となるのが、資料となるガンダム本のいい加減さである。多くのガンダム本が、過去の出版物の丸写しで作られており、多くの写し間違いや、ひどい場合には内容が退化する、というケースすら珍しくない。

これはあまたのガンダム本が複数の手によって出版されていることによる。複数の送り手の間で、厳密な意思統一がなされていないのだ。従って、本によって別の記述があったり、矛盾が発生したりする。また20年という長いガンダムの歴史の中で、ガンダム本の書き手が世代交代し、過去の優れた考察を知らないまま「オレ説」が展開されてしまうこともある。「知らない」ということは決して罪ではないが、「知ろうともしない」まま商業出版に携わることは、かなり問題があると思う。

こうした矛盾をいかにして解決するか。片一方を完全に無視してしまう、という手もあるが、それでは考察の楽しみは生まれない。なるべくならどちらも尊重し、その間をつく考察をひり出したいものだ。

俺は今まで、原則的に「多数決」で決めてきた。2種類の記述がある場合、より多くのガンダム本に書かれている方を尊重している。例えばスーファミやプレステで新しいガンダムゲームが出れば、商品価値としてゲームオリジナルのMSやMAが登場することは珍しくない。どころか、むしろそれが求められているフシさえ見られる。ゲームの作り手はともかく、受け手の全てがそれをほんとうに望んでいるかどうかははななだ疑問だが、事実上そういうことになっている。

ここで問題なのだが、そのゲームにしか登場しないMSを「宇宙世紀に実在した」と俺が判断するか否か。俺オフィシャルに含めるか否か。これはひとえに、そのMSが「他の媒体でも登場するか」どうかにかかっている。つまりゲーム以外のアニメなり、コミックなり、OVAなり、プラモなりで再録されたかどうかがポイントとなる。それはつまり、俺だけでなく他のガンダムクリエイターがそのMSを認めたことになるからである。作った本人だけでなく、同業他社のライバルが認めた存在ならば、それなりに認める余地があるだろうからだ。

が、気をつけなければいけないのが近年顕著なメディアミックス戦略商法。例えばあるゲームに新しいMSが登場したとする。で、そのゲームがコミック化されたり小説化されたりする訳だが、これを以って「複数の媒体に載った」と言えるのかどうか。残念ながら、いやちっとも残念ではないのだが、答えはノーだ。なぜならそれは同一の資本、同一の送り手によるものであり、ひどい言葉を使えば「やらせ」「八百長」だからだ。

自分達が作った「オリジナルMS」をオフィシャルにしたい。みんなに認めてもらいたい。そんな野望はプロもアマチュアも、イフリートもゼータシグマガンダムもさして変るまい。ただ恐ろしいのは、バックに資本のついたイフリートは、これをモチーフとした小説、ゲーム攻略本、コミック、MSカタログ本などの大量投入によってそれを「オフィシャル化」できるということだ。いやなにもイフリートがキライだから言ってる訳じゃない。キライだけど。

ただ言いたいのは、情報を発信した人間というのが必ずどっかに存在しているということである。情報というのは、それが街の噂であれ、NHKのニュースであれみのもんたの午後は○○思いっきりテレビであれ、ボウフラやワキガのようにどこからともなく湧いてくるものではない、ということだ。

情報は必ず「誰か」が発信したものであり、その「誰か」さんは、その情報を発信することで「得をしている」はずなんである。必ず。なんらかの形で。だから賢い受け手としては、その情報を「誰が」送り出したものなのか、そしてそいつはそのことで「どういう得」をしているのか、その構造を見極めなければならない。そうしなければ、その情報を安心して使うことはできない。


オフィシャルとアンオフィシャルというのは、ガンダム業界において非常にナイーブでナーバスな問題である。そもそもオフィシャルの定義がはっきりしないからだ。多くは「サンライズ公式設定」にその拠り所を求めるのだろうが、俺は決してそうはしない。というのも、サンライズ公式設定の多くが、元々市井のガンダムファン達が考えたものを「追認」していったものの集合体だからである。

もちろんサンライズの側から提示され、そのままになっているものもある。数的には、その方が多いだろう。だが俺は「より多くのガンダムファンが支持するもの」にこそ、真のオフィシャルがあると信じる。だから「サンライズが認めてくれそうな」考察よりは、「みんなが認めてくれそうな」説を提示したいと思う。


こうした「俺説」がバラ撒かれ、ガンダム世界が野放図に拡散していくことに眉をひそめる向きもあるだろう。だが俺は、それはそれで構わないと思う。要は「より多くの人に支持してもらえるか」である。最初っからピンポイントで高いレベルに到達できるほど、俺は天才ちゃんではないのだ。

より高い考察に至るためには、それだけクズのようなダメダメ考察が死屍累々と築かれねばならないのではなかろうか。高い山ほど、そのすそ野も広いのである。例外的にすそ野が狭くて高い山ってのもあるが、そういう山は見ていて不安定で、なんだか危なっかしく見えるのも事実だ。

自分の考察が山のてっぺんに置かれようが、てっぺんを支える土台になろうが、それは大した問題ではない。決めるのは不特定多数のみなさんなんだから、どっちみち俺一人がどうこうできる訳ではない。大事なのはクズだろうとダイヤだろうと、とりあえず場に投げ出してみるということだ。そうしたクズが集まって、いつしか高い山ができればそれでいいじゃん。


以上、思いつくままに並べてみたが、大体こんな感じである。あんまりまとまってなくて申し訳ない。ただネット上に棲息する一ガンダムファンとしては、このような投げっぱなしジャーマンしかできないのだ。「面白い」と思ってくれればそれでうれしいし、「その説、乗ったぁ!」ならもっとうれしい。パクってくれれば最高だ。少しでも多くの人に納得してもらえるような、そんな「俺ガンダム」を展開していきたいものである。

(1999/2/24)


MS針の山地獄にもどる