視力訓練の意味について考える

視力訓練の意味について考える

 ところで…,俺様が視力訓練での射撃で使用する標的は視力表である.これならば 狭い場所で遠くを見る効果と,視力を計る指標を兼ねる….最近,訓練を怠る傾向が 続いて0.7の視力に自信をなくしている….^_^;                 かなり視力が回復した実感を得ている俺様ではあるが,室内での視力が悪い印象が 顕著である.例えば,屋外で遠くのテレビのアンテナなどが,クッキリ見えることと 比較すると,この室内の視力の悪さは何なのか?                  もしかすると,俺様は遠視になってしまったのか? などと疑問を持ったりする. 実は,一時期,ピントがよく合う状態が長く続いたことがあった.然し,歓迎すべき 筈の,その状態が苦痛だった….                         それは,さながら度の強い眼鏡を掛けて行動しているような違和感が伴い,俺様は めまいのような症状を感じた.眼鏡を掛けていれば外せばいい.然し,裸眼の視力で そうなってはどうすることも出来ない.                      俺様は,『まだ,こんなに見えなくていい…』と,自分に言い聞かせた.どうやら 体自体が,或いは脳自体がピントがピッタリ合った状態に適応出来ない….近視は, 単純に近くを見る目に適応したのではない….                   何らかの理由で,ピントがピッタリ合った状態に適応出来ないとする俺様の仮説は ここで実証された? それ故にこそ,眼鏡を掛けてよく見えるようになった状態に, 脳が適応出来ずに,更にピントをずらして調整する….               眼鏡を掛けてピントがよく合った状態とは,裸眼で同じ視力を出せる人間の視力と 全く同じ能力を発揮出来る訳ではなく,情報の欠落が起きると言われる.見えている 錯覚があって,通常はこれに気がつかない….                   両サイドに見えているものが認識されない傾向があるという….目の中心部分で, 捉えている映像のみが認識されているに過ぎないと言う.俺様自身も,車の運転中に よく急ブレーキを体験した.                           突然の飛びだしに遭遇すれば,それは必然的なものだが,後から考えて,どうして 気がつかなかったのか? いずれも事故に至らなかったが,反省点としては,何故, もっと前に気づかなかったか? そんな疑問が残る….               見えていることと,それが認識出来ていることとは,必ずしも一致しない.網膜に 映っていても,その情報が脳に伝わっていない….極端な話では,視覚障害者の中に 見えている情報に基づいて行動出来ない人がいる.                 水たまりがあると分かってはいるのだが,それを避ける行動が伴わない.見えるが 見えたことが役に立たない.眼鏡を掛けた目には,あるいは,ごく軽い状態で,同じ 現象が起きている可能性もある….                        視力検査では,単純に視力表のマークが識別出来ればいい.聞かれたことに答える 簡単な検査である.見えている試験にはなるが,その認識が,正しく行動に結びつく 能力なのかどうかは判別できない….                       基本的に,裸眼での視力が弱ければ,それに伴う弱点は,例え,眼鏡を掛けようと 継続されていると考えるべきなのだ.裸眼視力1.0と同じ視力が発揮出来ていると 考えるべきではない.                              その意味では,眼鏡を掛けた人間は,見えていると感じている程には見えていない 現実を自覚する必要である.俺様も,裸眼視力で正常に見えている人間とは,同じに 見えていないと自覚して運転を行う.                       久しぶりに俺様の運転する車に乗った知人が,『お前も歳を取ったなぁ….随分, 運転がおとなしくなったんしゃねぇか?』と言った….『正直なところ,乗るのが, 怖かったもんなぁ…前は…』とも….                       テレビで,時折,交差点に設置したカメラが捉えた事故瞬間の映像が紹介される. 右折しようと,中途半端に止まった車に,かなりの時間差を置いて,ノーブレーキで 衝突する車がある.                               まるで危険に対する反射神経が働いていないかのような瞬間である.俺様の関心は 事故当事者が眼鏡を掛けているか否かにあるのだが…,そういう点までは明らかには されない….                                  視力訓練を行う意味も,裸眼での視力を回復させることだけが目的ではない.真の 目的は,よく見える状態に適応出来る脳と体に回復させるところにある.然し,この 訓練の方法は,今の俺様には解らぬ….                      例え,普段は,ピントがぼやけた状態であろうとも,意識的に見ようとしたものに 視点を固定させた時に,ピントが合うことを目指すことを考えておくことが必要だ. 目を細めずに自然に見て,まばたきを繰り返す.                  案外,まばたきはピント調整に効果的な力を発揮する.ピント調整をしない眼鏡を 掛けた目のまばたきの回数は,非常に少ないとも言われる.事実,視力訓練の中で, 頻繁にまばたきをすると疲れを感じた俺様である.                 視力訓練の結果,見ているものにピントが合うようになるのは必然である.ただ, 普段,ぼやけて見えている状態まで,一気に回復させられる訳ではない.それこそは 人体に潜む英知が防御反応を発揮していると考えるべきである.           必要もない時に,周囲がぼやけて見えるのは,目に安らぎが与えられているとは, 感じられないだろうか? 少なくとも,眼鏡を外した生活に慣れると,自然に,そう 感じられるようになる.                             視力訓練と言えば,四六時中,ピント合わせの為に努力することではなく,時には 意識的に目を閉じて,目の緊張を和らげることも必要である.それは,同時に脳をも 休めることに繋がる….                             頭は使えば使うほど良くなるとは,真っ赤な嘘で? 必要以上に酷使するからこそ 脳は休んでしまう.脳の疲れこそが目を悪くする….それ故に細かい情報の受入れを 拒絶するに違いないのだ….                           心理的ショックで,目の前が真っ暗になる現象も本当に起きる.ショックから体を 守ろうとする働きがそうさせる.脳はそれ以上の情報の受入れを拒絶するのである. その意味で,受験勉強は一益なしの百害だけである.** 悪魔 **      

 ・視力が低下しない勉強法?
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