視力が低下しない勉強法?

視力が低下しない勉強法?

 近くばかりを見るから,視力が落ちると言われる.それも一理あるとは思う.が, 果してそれだけなのか? 受験勉強と言う,一見,極めて大切に思える作業が原因で 目を悪くしている現状もある.                          然し,全ての人間が目を悪くする訳ではない.単純に近くを見るばかりが原因とも 思えぬ.脳に過剰な負担を掛けると,目はそれ以上の情報を拒絶する作用があると, 考える俺様である.                               例えば,多くの人間が,ものを記憶することが,自分の意思で出来ると思い込んで 勉強している訳である.例えば,記憶術をマスターすることで,効率的に果たせると 錯覚を起こす….                                俺様も,遠い昔の学生時代に,記憶術の本を買って試してみたことがある.最近, その本の著者が通信教育で,記憶術を教えている….ヤロウ…,未だにあんなもので メシ食っていやがるのか….等と苦笑したり….                  確かに記憶術は,その場凌ぎに即席にものを覚えるにはいい.一夜漬けの即効性は あると思う.然し,それが消えない記憶となるか否かは別問題である.三十年以上が 経過して,あの時の記憶術で記憶しているものは一つもない….           大体,その記憶術自体を忘れている.ただ,そんなものがあったと言う漠然とした 記憶があるだけである.つまり,何が自分の記憶に残るかは,自分で選択出来ない. 逆に忘れることも自由にはならぬ.                       『覚えようとしても覚えられない,忘れようとしても忘れられない』これは,機能が 元々そういうもので,頭がいいとか悪いとか言うレベルで考えるべき問題ではない. 勉強の出発点が間違っている.                          つまり,懸命に覚えようとして勉強するのであるが,すべては一時的な記憶として 必要な事柄ばかりである.受験が終わってしまうえば,大方が雲散霧消してしまう. そんなものの為に目を悪くする必要があるのか?                  例えば,受験勉強と言うのは,学校に入るためだけに必要な情報ではあるが,その 人間が基本的に生きる上で必要とされる情報ではない.狭き門を目指して努力をする 必要が本当にあるのかどうか?                          社会人になって,学生時代に勉強したことが,どれだけ記憶に残っているのか?  振り返れば,ほとんど何も残ってはいないのが多くのケースである.目を悪くして, 猛勉強した結果がこれである.                          幾ら勉強しても,使われない情報は,どんどん失われる仕組みなのである.こんな もののために,何で目を悪くしなければならぬのか? 例えば,近視になることは, 本当に何の弊害もないのか?                           それでも難しい国家試験に合格する必要があり,首尾よくこれを果して,例えば, 医者になったり,弁護士になったりする訳である.そうなれたことは,目を悪くして 懸命に勉強したお陰だと言える.                         だが,果して本当にそうなのか? 医者になろうが弁護士になろうが,それだけで 本当に成功出来る人間がどれだけいるのか? 医者も弁護士も,名前ばかりで,腕は サッパリ…と言う者も少なくない.                        何処かで道を間違えた結果,『悪徳』と言う余計な名詞を頂くまでに出世する者も 珍しくない.限定された環境に入り込んで,選択肢が極めて少ない状況に置かれて, 否応なく,競争に追い込まれてしまう.                      落ちこぼれたらお終いだ.然し,誰かが落ちこぼれるのだ.そうならないために, 必死に走り抜けようとする….では…,本当に落ちこぼれる人間が出るのだろうか? 学校は,落ちこぼれる人間を想定している.                    ただ,卒業させてしまえば責任はないのである.卒業と言う名の掃き捨てで,その 存在を無視してしまう.進学なり就職なりで,行く先の決まった者は,一応の体裁が 整うが….そうならなかった者は….                       自分の進路が,学生時代に全て決まるものではない.無論,生まれた時から,その 進路が決まっている,極端に言えば,皇族のような存在もいる.然し,本当の進路が 決まる時期が,ずっと遅い人間だっている.                    この俺様などは五十を過ぎて,未だに進路が決まらぬ.ナニ? それは? 本物の 落ちこぼれだぁ? やっかましいわいっ! そんな落ちこぼれの書いたもの読んでる テメェごときに言われる筋合いはねぇっ!                     絶対的な視点に立てば,それぞれの人間には,それぞれの固有の世界がある訳で, 競争の必要など,何処にもないのが本質である.それぞれが違った人間なのだから, 違った道があるのが当然なのだ.                         基本的に見据えるのは,自分自身の道なのである.これは見いだすことが難しい. だから,外界で騒がれる価値観に翻弄される.自分の道を打ち捨てて,他人の作った 道に群がるから競争が起きる.                          目を悪くしてまで勉強に打ち込んでしまう….これは,もはや自分の進路を外れた 世界に迷い込んでいると考えるべきなのだ.あるいは,自分の本来の進路を外れたと 思い込んだ時に目を悪くしたりする….                      気がつかぬ内に,様々な心理的な重圧を受けて目を悪くしてしまう.思うようには 成績は上がらない….覚えられない錯覚から,余計に焦る.更に多くの時間を勉強に 費やしてしまう….                               積極的に,遠い未来の自分自身の進路を描いて,意欲的に進んで勉強する人間は, 案外,目が正常である.結局,一時的に保持される記憶の領域は限られている.後は 反射的に想起される領域に引き渡してしまえばいい.                着実に,自分の未来の進路に繋がる情報は,早く反射の領域に到達する.例えば, 俺様の学生時代,商人の小伜ドモは,どいつもこいつも算盤が得意であった.俺様は 彼らの足元にも及ばなかった….                         こいつらは,積極的に家業を継ぐ気持ちがあった.卒業後の進路も決まっていた. 算盤をはじくような商人の道に何の興味もなかった俺様には,算盤は幾ら努力しても 直接には無縁の世界であった.                          ものを覚える上に必要なのは,身について生きる上で使われる知恵である.これは 自然に浸透するのを待つしかない.覚えようとする努力の大半は無駄である.自然な 浸透に期待する姿勢が望まれる….                        本当に覚えられるかどうかは,自分では解らないのだ.試しに英単語を覚えようと 必死にブツブツ言いながら,遠くを見てみるがいい.恐らくものはよく見えない…. 目は心の内側を見ているのだ.                          つまり,懸命に勉強して覚えようとするとき,目は外を向いていない….近くすら 見ていない.目は英単語を焼き付けようと,必死に頭の中に狙いを付けている.本を 目で読んでいるのではなく,頭の中に焼き付けようとする.             心の中を見ている状態は,網膜に映る外界ではなく,その手前を見ていることだ. ピントをずっと手前に意図的に引き寄せる形で緊張が持続する….これが定着して, やがて近視になってしまう….無論,俺様の世迷言に過ぎない.           例えば,速読の練習が,視力回復に効果があるとされる.同じ距離で本を読むのに 何故,そうなのか? 結局,速読は,文字そのものに,しっかりピントを合わせて, 内容を把握しようとしない.頭が空っぽ状態である.                ただ,速読が現実にどんな効果を生むのか? 俺様は,これを見極めてはいない. 漠然とながら,既にある知識と本の内容の照合と言う作業が主体になるのだろうと, 感じられる.                                  今まで読んだこともない哲学書を速読して内容が把握出来るとは思えない.記憶の 本質を見ても,何が記憶に残るかは自分では決められないのだ.どうして,こんなに つまらぬことが記憶に残るのか? そんな不審もある.               人間は,本能的に未来に対する準備をしながら生きている.であるから,基本的に 自分が今,何をしているのかを,本当の意味では理解していない.その時,自分が, 何故それに関心を持つのか? 理由は解らぬ.                   ただ,結果的に後から振り返ると,その時その時の関心が,連鎖的な繋がりを得て 新たな未来を開いて来た経緯が見えるばかりである.次に来るものが何であるのかを 理解していないのだ.                              記憶は,常に未来に必要な情報を本能的に察知して,それを必然的に蓄えている. 自分の未来が見えもしないクセに,今これを覚えなければ,自分は落ちこぼれる…. などと気負い込む必要は何処にもない.                      覚える努力は一切やめる必要がある.自然に浸透することに期待して,単純に目を 活字に置く必要があるのだ.何度繰り返しても,覚えられないのは当たり前,自然に 浸透するには時間が掛かる.                           ある種の物体が一定以上の電圧に達したとき,突然電流が流れるように,記憶も, 一定の繰り返しと言うパワーを与える必要がある.勉強に飽きないためには,無理に 頭を使わないことだ.単純作業に徹することである.                大人が,『若いうちに勉強しておかないと,歳を取ってからでは遅いぞ』などと, 勉強に駆り立てたりするのだが,決してそんなことはないのだ.人間は,常に新しい 環境に適応する存在であることを忘れてはいけない.                若いうちに限定されたら,俺様は,到底,コンピュータの世界には,適応できない ことになってしまう.だが,俺様の若い頃には,電卓すらなかった….新たな関心を 持ったその時こそが,常に出発点なのだ.年齢に関係はない.            五十を過ぎた俺様でも,改めてWindows 95のマスターを自らに課せば,それなりに 適応は出来て来たのだ.必要なのは,やろうとすることに,常に,意欲的,積極的に 取り組む姿勢だけである.                            過去の習慣の中に埋没して,新しい世界に適応する必要を感じなければ,そのまま 生き続ければいい.若くても,自らの関心に積極的,意欲的になれなければ,新たな 適応能力は発揮出来ない.                            一般に,歳を取ると,物覚えが悪くなると考えられるのは,習慣の中で,生活して 新しい刺激に反応しなくなる傾向があるからだ.俺様とて,今のクソガキ共の歌など 分かりゃしねぇ.覚える必要もねぇ.                       これは,クソガキ共に軍歌の良さが解らねぇのと何ら変わりはねぇ.自分が関心を 持った世界で,常に新たな適応能力を発揮する,自分自身の存在理由に関わる意味の 挑戦的な意欲を持続させればいい.                        今までやったこともない領域への関心を抱いて勉強を開始するとき,どうしても, 心理的な抵抗に遭遇する.解らぬことばかりで堂々巡りする.理解も,一足飛びには やって来ない….疲れも出る….                         例えば,それで眠くなるとすれば,それは,頭が領域確保のためにフォーマットを 行っているのだと思えばいい.中断して,目を閉じて,何も考えずじっとするなどが 効果的である.眠れ…よい子よ….永遠に….** 悪魔 **         

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