2000年10月の私淑言

 


2000. 10. 28 ナニゴトも経験。

26日の私淑言にあーんなコトを書いたが。
今頃になってアレを書いたのにはワケがある。
三つ子の魂に刻み込んだあの言葉を胸に生きてきたワタシだが、やはり心の中では煙草を吸ってみたいと思っていた。何も知らない子供ではなく、いい加減大人になって味覚も感じ方も変わっただろう自分が、煙草に対してどんな感想を抱くのかに興味があったのだ。
つまり、26日の私淑言は、長い前フリだったワケである。

で。もう先週のことになるのだが、会社の友人に煙草(バージニアスリム・メンソール)を一本もらって、教えを請いつつ吸ってみた。
さすがに分別もついているし前の記憶もいまだ鮮やかなのでいきなり力一杯吸い込むような阿呆なことはせず、ゆっくり煙を吸い込んで、ちゃんと肺にも入れてみた。
──吸えないコトもない。別段煙くも苦くも不味くもない。同様に、好きだともわざわざ買ってまで吸おうとも思わなかった。
「こんなもんか」と思っただけで、友人に礼を言ってその場は終わりになったのだ。
が。
帰宅して、夕食をとる段になって、愕然とした。
なんとなれば。
自分の料理が不味いのだ。
自慢じゃないが、でもってあまり人に食べさせたこともないから自分の料理が他人にとって美味しいのかどうか定かではないのだが、生まれてこのかた自分の作るモノは少なくとも自分の口には大概あってきた私である。しかもその日のメインメニューは前夜から仕込んでおいた煮物で、味がしみて美味くなることこそあれ不味くなることはまず考えられないものだった。
それが、だ。御飯の味が薄い。緑茶にも妙な味が混じる。煮物に至っては味が薄いどころかコレが己の料理かと疑うほど違った味に感じたのだ。
冗談ではない。作るのも好きなら食べることも好きな私の、楽しみがこれでは半減する。
ストレスから煙草を吸い始めた人も多いと聞くが、これでは私のストレスは、減るより先に増えかねない。
しみじみと、思った。
「常用は、しない。」

というワケで。
これがきっかけで私がヘビースモーカーになってしまわないかと心配しながら、それでも私の好奇心を満たすことに協力してくれたH嬢。あなたの心配は杞憂です。
でも、聞けばメンソールと普通の煙草ではまた味が違うという話。
次に試すとしたら、マルボロ赤だな。(←おや?)

 


2000. 10. 26 我が祖父の教へ給ひしこと

私は煙草を吸わない。
吸えない、のではなく、吸わない、のである。
俗に『三つ子の魂百まで』という。
幼い頃に形成された基本的な人格は死ぬまで変わらないのだ、と。
本当かどうかは知らないが、少なくとも私には、確実にひとつ、あてはまることがあった。
それが、煙草、なのだ。

5歳の時に亡くなった父方の祖父がまだまだ余裕で健在だった頃のことだから、私はせいぜい3歳かそこらだったはずである。仕事のある父や学校のある兄はともかく、何故か母も側にはいなくて、その時私は祖父と二人きりだった。
いつものように祖父が煙草を取り出す。火を付けて一口吸い込み、満足気に煙を吐く。
一連の動作を見ながら、私は思った……いや、常々思っていた、と言ってもいい。
──おいしいのだろうか?
祖父を見つめてまっすぐ訊いた。
「おじいちゃん、たばこって、どんなあじ?」
美味しいか、と訊かれるのとは違って、Yes・Noでは答えられない。我ながら巧妙な訊き方をしたものである。
そう。白状しよう。吸ってみたかったのだ。私は、一度、煙草というモノを。
祖父は困ったに違いない。煙草の味を子供に問われて、納得するように説明するのは多分、至難の業だったろう。
だからだろうか。茶目っ気もあっただろうか。ともかくも、答えて祖父は私に言った。
「吸ってみるか?」
この時点でおそらく祖父には油断があった。孫娘を甘く見ていた。祖父は私が断ると思ったのだろうし、そうでなくても口にくわえてなめて終わり、と思ったのかもしれない。
が、どっこい私は好奇心もあれば、尚悪いことに喫煙という行為の正しい手順も知っていた。
「うんっ!」それは元気にうなづいて喜び勇んで煙草をくわえ、力一杯吸い込んだ。
結果は推して知るべしである。
死ぬかと思うほど咳き込んだ。
祖父はおそらく「二度と吸わせるものか」と思ったに違いないが、私も心に固く誓った。
「二度と吸うもんかこんなもの!」
以来、兄が煙草を覚えても友人達が喫煙するようになっても、私が煙草を口にすることはなかった。興味はあっても、あの経験が染みついて手を伸ばす気になれなかったのである。
三つ子の魂百まで、とはよく言ったモノだ。

 


2000. 10. 24

たなぼたで首相になったあの御仁、またぞろ失言暴言大魔王ぶりを発揮したらしい。
イギリスはブレア首相に、「日本人拉致問題の解決策として北朝鮮に、拉致された人達を行方不明者としてバンコクや北京に移し、そこにいた、ということにできないか、と持ちかけたことがある」のだと、言ったのだそうだ。
この提案をしたのは97年の訪朝の際だそうだが、それを今イギリス首相に漏らしたとかそんなこと以前に、内容自体に問題大アリである。
きっぱりはっきり言わせてもらおう。
アホかっっ!!(怒)
拉致された人は、家族はどうでもいいのか。
濡れ衣着せられたタイや中国だっていい迷惑だ。
アメリカのオルブライトおばさんが金正日と会談したり、ヨーロッパで国交回復しようかと話が持ち上がっていたりするのに焦っているのかもしれないが。
外務省すっとばして親書送ろうとしたこともあるとかないとか。
「首相というのは激務だから」とか何とか言ってかばう方々もいるようではあるが。
自分のやってることの意味、言ってることの持つ意味も判らないようなオヤジが国のトップにいるなんざ、恥以外のナニモノでもないと思うのだがいかがだろうか。

 


2000. 10. 21

プロ野球の日本シリーズがはじまった。
王監督率いるダイエーホークスと長嶋監督率いる読売ジャイアンツ。
いわゆるON対決である。
ある一定年齢以上の方々に絶大な人気を誇るお二方。
ジャイアンツのV9時代を担った、今世紀の日本プロ野球界を代表する方々として間違いなく名前の挙がるお二人が、監督としてこの世紀末、日本一をかけて戦う。
良い試合で、魅せていただきたい。どうせなら7戦全部使って。
などと思うのは、親や兄貴の影響でしっかりジャイアンツファンになってしまったワタシのたわごとだろうか(笑)。

 


2000. 10. 18 笑撃を、あなたに。

書評と日記が楽しみでいつも訪問させていただいている大矢博子様の『なまもの!』で、腹筋のいい運動になりそうなくらい笑えるモノが紹介されていた。

せっかくなので、笑撃をおすそわけ。

どうぞここ(↓)へ飛んで、『校歌』を見て頂きたい。
福島県立清陵情報高等学校

でもって、更なる笑撃を味わいたい方、是非、ここ(↓)へ飛んで、おなじく宗左近氏の手になる市川市の「市川賛歌」を。

ただし、笑いすぎて腹筋が痛くなっても当方一切責任は負いませんのであしからず。

まあ、依頼した手前、出来上がったモノには何も言えなかったのだろう、とは、思うが。
市川市といい福島県立清陵情報高校といい、よく、受理、したなあ、アレを。

 


2000. 10. 15

本日のN○K特集『世紀を越えて』。テーマはロボット、だった。
人と同じように動き、考える機械を夢見て、ずいぶんと技術は進歩している。
本田技研が14年かけて開発した二足歩行ロボットは、階段を上り、握手をする。ピアノを演奏するロボットは人の倍の速さで鍵盤を叩く。産業ロボットの働きは、いわずもがなだ。
特定のことに関して、ロボットは人より優れた働きをする。
また、アイボは犬の仕草を真似、主人に応じた反応を覚える。病院を慰問したロボットに、人に心を開かない自閉症の子供達が心を開いたそうだ。
それでも。
百万の一般常識を教えても、コンピューターはまだ人と会話できない。二足歩行ロボットはドアを開けて通り抜ける動作一つに20歩を要する。ピアノを弾くロボットは卵を割れない。音声を認識できても、カメラを通して得られた情報を、その輪郭を、奥行きを、色を、識別できるロボットはまだないそうだ。

ロボット開発の過程は、人、について考える過程でもある。
ものを見る。音を聞く。香りをかぐ。触れる。味わう。歩く。走る。笑う。泣く。怒る。愛おしみ、憎み、考え、学び、記憶し、想像する。
それらすべてをひとつの身体で行う、人、という存在。その不思議。
いつかその垣根を越えて、人と同じように動き考えるロボットが現れる、のだろうか。
その日が、来た時。
その時人の隣にいるのが、アトムやC3POのような『友人』たちで、あるといい。

 


2000. 10. 13

というわけで、電話を買い換えた。
前の電話は旧・テレビと同じくブラックボディだったが、今度の電話も今のテレビと同じでシルバーボディだ。同じになった理由は、好きだから、というよりは、選択肢が少ないから。
なにしろ、電話コーナーのほとんどを、子機つき電話が占めているのである。
私には子機などあるだけ邪魔なので、数少ない子機のない電話から選ぶとこうなるのだ。
新しい電話は、旧機のいた場所に、多少色的には浮きながらも、今、おさまっている。
とりあえず、これで一安心。
これからよろしく、新機くん。今までありがとう、旧機くん。
家電の移り変わりに、自分の過ごしてきた時間を、ふと思う。

 


2000. 10. 11

5月にテレビが昇天したが、今度はどうやら電話に寿命が来ているらしい。
留守録がうまく機能しない。どころかテープを銜えこんで離さない。だけならまだしも延々テープをちょこ、ちょこと送ったり、巻き戻したり、止まってみたり。
仕方がないのでテープを犠牲にしてとりあえず取り出したのだが。
ずっと一緒だったこの電話とも、お別れの時が来たのだろうか。

 


2000. 10. 10 思い出すことなど

10月10日は旧・体育の日、だが、『晴れの特異日』で、私の地元では毎年この日に神祭を行っていた。休みにあわせて、だったから、多分今年からは10月第2月曜日か、その前、になるのだろう。

祭りの日には色々と想い出があるのだが、後々思い出して一番笑えるのは兄絡みの一件だ。

私が学生だった頃、その秋祭りにあわせて帰省したことがあった。
私の地元の祭りは、朝から準備は必要ではあるが、本番は昼過ぎからである。だから私は当日も、少しくらい寝坊しても大丈夫だと踏んでいた。のだが。
朝も早よから兄貴が階段を上がってくる音がした。案の定部屋の戸が開く。
そうして、自分が手伝いに借り出されて早朝から叩き起こされたのが余程癪だったのか、と思いながら、布団をはぎ取られる前に起きあがった私に向かって、兄は開口一番こう言った。
「オイ、早く起きて支度しろよ。アケビ、取りに行くぞ。」
「はぁっ!?」
私が耳を疑ったのはアタリマエ、だろうと今でも思う。何故アケビ。それも祭りの朝に。
それでも仕方ないのでベッドから出て階段を下り、台所で母に訊いてみた。
「ねー、おかーさん。なんでお兄、アケビ取りに行くなんて言ってんの。つーかなんでこんな日にアケビ取りに行かにゃーならんの。あたしゃアケビそんな好きじゃないよー」
母の答えは簡単明瞭。
「アンタが好きか嫌いかなんてどーでもいいのよ。奥方がね、一家揃って、アケビ、見たことないんだって」
「……ああ、そーかい」
つまりは、そーゆーコトなのだ。ちなみにその義姉はどうしてもはずせない用があって、祭りには来ていなかった。
「…………だったら1人で行けよー、にーちゃんー」
溜息混じりの私の抗議は兄貴の笑顔に粉砕された。
「イヤだよ。1人でアケビ取ってくるなんて。空しいぢゃないですかアナタ♪」
早い話が恥ずかしくて、でもって淋しかったワケだね、にーちゃん。
かくて兄妹二人、祭りの朝なんてケッタイな時間に、アケビを求めて河原や山を散策することになったのである。
1時間ほど探して回って、取ったアケビは10数個。
後に聞いたところによると、兄が嬉々として持ち帰ったそのアケビを、義姉たちは、見るなり「こ、怖いっ……」と怯えて触れることすら出来なかったそうだ。
ま、確かに熟れてぱっくり割れたアケビは、怖いと言われればそうかもしれない(苦笑)。
その話を兄から電話で聞いた後、私と母が爆笑したことは、今でも兄たちには秘密である。

 


2000. 10. 6

午後1時30分、平成12年鳥取県西部地震発生。マグニチュードは7.3。境港市、日野市では震度6強を記録したそうだ。
阪神大震災以来の大きな揺れに、約100人の方が負傷し、約600棟の家屋が損壊した。
死者がいなかったことも、規模の割に被害は小さかったことも、不幸中の幸いだけれど。
それでも、被害を受けた方にとってそれが『被害』であることに代わりはなく、喪われたものがあることもまた、確実なことで。
いつの日にか関東を襲うだろう強震を思いながら、今は被災者の方々に一日も早く『日常』が戻ることを祈るばかりである。

 


2000. 10. 4

通勤に使っている地下鉄が先月末に全線開通して、山手線の内側を南北に貫くようになった。
しばらくは別に混み具合も変わらなかったのだが、最近はちょっと事情が違う。
夜8時を過ぎても社内が比較的混んでいる。
どうやら全線開通直後に利用者数の変化がなかったのは、社会人や学生の多くが半年期限の定期を使っていたから、で、あるようだ。
それでも他の路線よりは空いているのだろうけれど、ひろびろスペースの静かな車内が既に懐かしくなりつつあったりする(苦笑)。

そういえば。
年内開業予定の地下鉄『大江戸線』。
改行予定日は、平成12年12月12日、であるそうだ。
やるだろうとは思っていたが、やっぱりか(笑)。

 


2000. 10. 3

東西ドイツ統一から10年。
ニュースでは記念式典の様子を放送していたらしいのだが、見逃してしまった。
11年前の初冬、ベルリンの壁の上に立ち、『自由の歌』を歌った人々は、10年前の今日、世界中が見守る中で静かに長い分断の歴史に幕を閉じた。
だが、大学のドイツ人教授はその日、祝日だとばかりに騒いでいる他学科の学生を横目に、淡々と通常通りの授業を進めたという。
何故、と訊ねた学生に、彼はこう答えたそうだ。
「今日はお祭りじゃない」
それまであったこと、そこから始まること。『一つの国』になる期待、『二つのドイツ』だったことに起因する格差への不安。
複雑な想いを抱えたまま、ドイツがひとつになってから、10年目の秋である。

 


2000. 10. 1

シドニーオリンピック、閉幕。
17日間繰り広げられた熱戦の狭間には、感動も悔し涙もあれば、ドーピングの落とし穴で泣いた選手もいたけれど。
たくさんの感動と興奮を、このオリンピックがくれたことは間違いのないことで。
スポーツがくれる『感動』という名の光と、商業主義の影とをはらんだまま、夏期オリンピックは4年後の2004年、発祥の地アテネに還る。

 


 

 

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