For Dear

 

 

 ドアチャイムの音に呼ばれて紅尾がアパートのドアを開けると、そこに見慣れぬ人影が立っていた。
 穏やかな笑みを浮かべた初老の女性。
 間違っても新聞の購読依頼ではないし、もちろん宅配便の配達員でもなければ、生保の勧誘でもどこぞの宗教の布教に励む『誰かを救ってあげたい』人でも、ないようだ。
 緩く結い上げた白髪混じりの髪がいかにも上品。ごく淡い色合いの灰色混じりの紫の着物に白地に銀の帯を合わせて、薄黄緑の帯締めで、ともすればぼやけてしまう全体の色調を引き締めていた。
「こんにちは」
「はあ、こんにちは。えーと、あの……?」
 記憶を隅まで探ってみても見覚えのないその女性が、見た目通りの穏やかなアルトで挨拶するのに、とりあえず紅尾が言葉を返すと
「突然お邪魔して申し訳ありません。でも、こちらに桜里さまがおいでだと伺ったので」
 本当に、申し訳なさそうに言って、その女性は小首を傾げた。
「……ああ。桜里のお知り合い、ですか」
 桜里は、桜の精霊である。
 その知り合い、と、いうことは。
 つまり彼女も人ではないのだ。
 それでも一瞬考えて
 ──で、どういう?
 と訊こうとしたのは、
 ──相手を警戒したから。
 ではなくて、何のことはない、己の住まいの広さを鑑みて、『人口密度』というものが紅尾の脳裏をちらとかすめたからである。
 ついでに言えば、目の前の女性が桜里や清流のように人間と親しく付き合う趣味を持ち合わせているのかどうかも、アヤシイ。
(さ〜て、中へ招き入れるか、それとも桜里を呼んだ方がいいか……?)
 逡巡の理由は、ただ、それだけ。
 こういう人外の存在が見た目通りではない性質を保持していることもあるのだと、もちろん紅尾とて知っている。だが、伝聞形式だった先程の女性の言葉は、彼女が桜里を囲んで立つ桜の精霊達とも知り合いであることを──それも不在の桜里の行き先を教えてもらえるくらいには、だ──告げていた。
 言葉の端でそれだけの情報を読み取って、その上で紅尾は言葉を続けかねていたのだ。
 が。
 背後から響いた声が、その一瞬の静寂をものの見事に破ってのけた。
「あーっ、さわさんじゃないですか!」
「おお、久しいの、さわ。何をしておる。ほれ、遠慮はいらぬゆえ、上がるがよいぞ」
 声の主は紅尾の同居もののけ・清流と、マイカップまで持ち込んですっかりここを別宅にしている感すらある桜の精霊・桜里だ。
(おいおい、ここは誰の家だ?)
 紅尾の頬がわずかにひきつる。
 だが、
「清流さん、桜里さま……いくらなんでもその言いようは、あまりにこの方に失礼では」
 頬に手を当てて静かにたしなめる目の前の女性に、紅尾の好感度は一気にアップした。
「いえ、どうぞ。ご遠慮なさらず」
 すっと身を引いて、『さわ』と呼ばれたその女性を、ドアの内側に招き入れる。
「ありがとうございます。それでは失礼いたします」
 深く頭を下げて草履を脱ぐさわに、紅尾は後ろ手でドアを閉め、鍵をかけながら、
「お茶にしますか、それとも? 紅茶でもコーヒーでも、お好きなものを差し上げられますが」
 と問いかけた。

 

 

「突然お邪魔して申し訳ありません。ですが、今日をおいてはわたくし、ご挨拶に伺えませんので……」
 桜里達と同じものを、との答えを受けて家の主から手渡されたコーヒーを、ひとくち含んでから、さわは静かに頭を下げた。
「いや別に構いませんよ。一向に。慣れてますから、桜里や清流のお陰で」
 あっさり言い切って桜里と清流に目線を向け、ふたりの表情にまるで変化がないのを呆れ顔で確認してから、更に紅尾は続ける「それよりも……」
「それよりも、今日でなければだめ、ということは……」
 紅尾の質問に、先回りしてさわが答えた。
「ええ、私、そろそろ花をつけますの」
 木々や草花が最もその生命力を増すのは、花をつける時なのだと、春に桜里が言っていた。
 力が弱くて普段人形を取れない精霊達は、だからその頃にだけ人形を取ることが出来るのだとも。
 そこまで聞いて、ふと紅尾の心に疑問が浮かぶ。
 とても単純で、とても基本的な疑問。
「あの……さわさんって、何の精霊なんですか」
 問われたさわは一瞬きょとんと紅尾を見返して、
「……ああ……そういえば、まだ私、名乗っておりませんでしたねぇ」
 ふわん、とした声で囁いた。
「お初にお目にかかります。私、さわ、と申します。縁あって桜里さまの知己を得ました、紫陽花の精霊でございます」
「あ、ご丁寧にどうも。篠宮紅尾です」
 深々と頭を下げあうふたりを眺めて、清流と桜里がクスクス笑った。
「紅尾さん、さわさんはね、長沢さんとこの庭の紫陽花なんですよ」
「長沢……?」
「そうじゃ。ほれ、ここから区立の小学校へ行くまでにT字路があるであろう。その角の家じゃ」
「ああ、あの!」
 清流と桜里の補足説明を受けて、やっと紅尾は『長沢家の紫陽花』を思い出した。
 去年、他のどの紫陽花よりも早く咲いて、他のどの紫陽花よりもゆっくり、そして鮮やかに色を移し、なおかつ紅尾の知る紫陽花のなかで最も遅くまで花をつけていた、大きな紫陽花の木が、あった。
 それが長沢家の紫陽花──つまり、さわだ。
「あなただったんですか、あの紫陽花。花期が長くて色も綺麗で、私、しょっちゅう散歩がてら眺めに行ってたんですよ」
 紅尾が笑顔で告げると、
「まあ、そうだったんですか。ありがとうございます。今年も明日から花を咲かせますから、また是非おいで下さいな」
 さわも微笑って答えを返した。
 その言葉尻を捉えて、桜里が呟く。
「しかし、明日からとはまた、急ぐのお?」
「……そういえば、そうですね」
 顔を見合わせて清流も。
「言われてみればそうだ……。それに、去年と比べてもちょっと早いですよね」
 つい昨日見たさわの蕾は、まだ咲くには少しばかり硬かったはずだ。
 紅尾も加わって、不思議そうに自分を見つめる三人組を、真っ直ぐ見返してさわが言った。
「ええ、そうなのですけれど、でも……あの人が、明日、帰ってきますから……」
 だから、最初の一枝から順に咲いて、その人を迎えてあげたい。自分を植え育てたその人を。大事な大事なその人を。あの人のためだけに、自分は咲くのだから。
 そう言って。
 歌うように囁くさわの顔は、とてもとても嬉しそうで、そして同時に切なくて。
(どうして、そんな顔をするんですか)
 訊けないままに、紅尾は──そして桜里も清流も──黙り込んでしまう。
 コーヒーの香り漂う紅尾のアパートを、ひととき沈黙が包み込んだ。

 

 

 チーチチチ
 窓の外で一声小鳥が鳴いた。
 それが合図だったかのように、コトン、とさわがカップを置いた。
「長々とお邪魔してしまいましたね。そろそろお暇いたします」
「え、もうですか?」
 それほど長居をしているわけではない。外はまだまだ明るいし、第一さわが訪ねてきてからまだ半時間と経ってはいないのに。
 驚いた紅尾が見つめると、またふわりと笑ってさわが答えた。
「ええ。今年は、いつもの年より綺麗に咲いてあげたいんです」
 だから、少しでも綺麗な花を咲かせるために、時間と力を注ぎたいのだ、と。
 囁くさわの笑顔はやはりどこか切ない。
「そう、ですか……」
 答えを受けてうなづいた清流の言葉も、どこか歯切れが悪かった。
 そんな清流にもう一度笑いかけ、
「それではお暇いたします。私が花をつけたら、清流さんも紅尾さんも桜里さまも、どうぞ見に来てやってくださいな」
 言って、着物の裾を乱すことなく静かに立ち上がったさわを。
「さわ」
 呼び止めて桜里が見上げる。
 呼ばれたさわが振り返る。
 見送るためにさわに続いて歩き出していた紅尾も、その声に足を止めた。
 清流は黙ってふたりを見比べている。
 囁くように、桜里が訊いた。
「さわ……ゆくのか?」
「いいえ。」
 暇乞いをしながら返されたさわの言葉は、その表面だけをなぞれば、奇異だ。
 けれどきっぱりとさわは答えた。
「いいえ。あの人の目を楽しませるのが私の役目ですから。桜里さま」
 それが本当のところで何を意味するのか、紅尾は知らない。
 けれど、さわの答えを聞いて吐息を漏らした桜の精ももののけもも、きっと何かを知っているのだろうから。
 それだけ判れば、それでいいから。
 後は桜里と清流に訊けばよいことだから。
 だから、紅尾はこの不思議なやりとりをその場で追求することはせず、黙ってさわを見送ったのだ。
 そうして、アパートの階段を下りたさわが、角を曲がって見えなくなるまで待ってから。
 自宅に戻ったその部屋の主は、人外の友人達に、静かな声で問いかけた。
「さて。教えてもらえますか、桜里、清流? さっきのやりとり、あれは、何です」
「…………確かめたかったんです」
 しばらくの逡巡の後、先に口を開いたのは清流だった。
「何を?」
「さわさんが……いったり、しないかどうか」
「いったり、ってのは清流。言う、なのか、行くなのか、それとも他の字を当てるのか?」
 紅尾の問いかけに、答えたのは桜里。
「逝く……じゃ。紅尾。逝去の逝。」
「逝くって……それはどういう……」
「言葉通りの意味じゃ」
 溜息とともにこぼされた桜里の言葉を、清流がすくい上げ、繋ぐ。
「紅尾さん……。さわさんのご主人様は──さわさんが『あの人』と呼んだ人は、長沢さんの奥さんで、それで……」
「そうして、彼女にとっては、今年がおそらく最後の夏なのじゃ」
「最後の、夏……」
「そうじゃ。病名が何かは知らぬ。さわも、知っておるのだろうが、言わぬ。聞く必要はないと、妾も清流も思うておる。じゃが、さわが言うには、その奥方はもうあまり長くは生きられぬのだそうだ」
 医師が渋るのを、どうしてもと帰宅を望む本人が押し切って、そうして戻ってくるのだという。
 ──理由は、言われなくても判った。
「ああ、だから、さわさんは……」
 だから彼女は言ったのだ。今年はいつもの年より綺麗に咲きたいと。毎年毎年『あの人』のために、心を尽くして咲くけれど、今年は、今年こそは、いつにも増して綺麗な花をつけたいと。
 そしてだからこそ訊いたのだろう桜里が。
 さわに向かって、『逝くのか』と。
 返された答えは、『否』。
 昂然と顔を上げ、穏やかな笑みすら浮かべてさわはきっぱりと言い切った。
 『あの人』の目を楽しませるのが自分の役目だと。
 『あの人』が自分のそばにいる間も、いなくなってからも、ずっと。
 後を追ってしまえば楽だろう。
 けれどそれでは主の愛した紫陽花は、二度と咲かなくなってしまう。
 だから。
 だから、自ら望んで枯れることはしない。
 そう、さわは言い切ったのだ。
 それほどまでに主を想う、紫陽花。
 それが、さわだった。
 他の紫陽花がどうだか知らない。
 けれど、彼女に限っては。
 早く咲くのも主のため。長く咲くのも主のため。色を日に日に変えてゆくのも、ただ、主のためだけに。

 

「会いに行きましょうね、紅尾さん、桜里さま。花を咲かせたさわさんに」
「そうじゃな」
「僕、花をつけたさわさん見るの初めてだから、楽しみだな」
「ああ、そうだったな」
 噛み締めるように、三人が囁く。
 そうして。
「……コーヒー、冷めちゃいましたね。淹れ直しましょうか」
 言って立ち上がった紅尾が、誰に問いかけるでもなく、ぽつりと言った。
「誰が言ったんだろうな……紫陽花が、移り気だ、なんて」

 

 

 ──長沢家の紫陽花は、今年もただひとりのために咲く。

 

 

 

 

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あとがき

紅尾達の第3段です。
いわずもがなの『季節モノ』です。
『移り気』の代名詞のように使われる紫陽花ですが、実際彼等がそれを聞いたらどう思うんだろう?
と、そんなことをつらつら考えていたら、こんな話が出来てしまいました。