January 2003



テオルボ(キタローネ)の為の音楽/佐藤豊彦


2003年1月31日(金)19時/東京オペラシティ近江楽堂
本来はコンティヌオ楽器として作られたテオルボの為に作られた不思議な響きのソロ曲集
 演奏と解説: 佐藤豊彦
(プログラム)
 ジョバンニ・カプスベルガー(1575頃〜1650頃)
  アルペジオ風トッカータ
  パッサカリア
  トッカータ第7番
  コラショーネ
 
 アレッサンドロ・ピッチニーニ(1566〜1638頃)
  トッカータ第10番
  ガリアルダ第3番
  コレンテ第10番
  トッカータ第6番
  ロマネスカのアリアによるフォリア
  チャコーナ

 〜休憩〜
 
 ロベール・ド・ヴィゼー(1660頃〜1725頃)
  組曲二短調
   リュリー氏の「ヴェルサイユの洞窟」〜リュリー氏の「アルミーデの嘆き」
   〜クーラント〜パッサカリア
  組曲イ短調
   拍子の無い前奏曲〜アルマンド「国王ルイ14世」〜クーラント
   〜サラバンド〜ガヴォット〜シャコンヌ
  スペインのフォリア
 
 カスタルニ:コレンテ(アンコール)


かつては連日連夜多くのコンサートがバッティングしていた東京も、最近はコンサートが無い日も増えてきたように感じます。逆にコンサートに行きたいと思う演目が重なることもあり、今日は行って見たいコンサートが4つもありました。ひとつはJTアートでの室内楽、ふたつめは門前仲町でのアペルギス「レシタシオン」全曲、3つ目が文化会館での高橋裕・室内楽展、4つ目が近江楽堂でのテオルボの為の音楽でした。JTのコンサートは当日券は殆ど皆無のためパスし、レシタシオンは会場が遠いのでパス。結局一番便利なオペラシティでの古楽としました。4演目から1演目を選択するのは実に忍びないものですが、佐藤豊彦によるテオルボ演奏はとても素晴らしく、この選択で正解でした。

テオルボのソロ作品に焦点を当てたプログラムは、珍しい作品の数々とともに興味深い内容でした。テオルボは本来イタリアで生まれキタローネと呼ばれている通奏低音楽器で、後にフランスに渡ってテオルボと名付けられたそうです。こういった由来、語源なども含めた佐藤氏による解説も面白く、ともかく音響の良い近江楽堂の静かな環境の中、テオルボが奏でる響きは独特でした。

リュートを大型にした胴体に長い鞘を持ち、2段に組まれたガット弦の数々。その響きはとても柔らかく、中音域に伸びた充実した響きは典雅そのもの。短い弦の繊細さから長い弦の低音まで、幅広い表情を持ったテオルボはリュートよりも表現能力が高いのではと想わせるほどで、通奏低音に留まらず、古の作曲家がソロを書いたというのも頷けるように思えます。

前半のプログラムはドイツ人作曲家のカプスベルガーに始まり、ピッチニーニの端正なフランス風まで、テオルボ1本で多彩な響きを堪能。特に前半のフィナーレのチャコーナは早く華やかなパッセージで盛り上がりを見せました。ガット弦は空気の状態により張り具合がすぐに変わるため、楽曲毎に調弦を必要としていました。リュートに比べて圧倒的に弦の数の多い為か、調弦の頻繁さは半端なものではありませんでした。

後半はルイ14世のギター教師でもあったド・ヴィゼーの作品に焦点を当てたもので、二つの組曲とスペインのフォリアという多彩さでした。特に組曲二短調ではリュリのオペラから序曲をテオルボ用に引用し、クーラント、パッサカリアなど舞踏のリズムも魅力的でした。組曲イ短調も前奏曲の冒頭の強烈な響きが印象的で、シャコンヌの激しい音の流れもテオルボ独特の響きでインパクトある作風に仕上がっていました。そしてスペインのフォリアでは重音を多様したシンフォニックさが魅力で、テオルボの大きな胴から流れる響きは迫力満点でした。

会場にて販売されていたCDも幾つかあり、テオルボが収録されたCDはロベール・ド・ヴィゼー作品集の1枚でした。バロック・リュートとバロック・ギターによる組曲二短調も収録されており、テオルボ作品では「ヴェルサイユの洞窟」「アルミーデの嘆き」クーラント、パッサカイェ、スペインのフォリアなど本日のプログラムも含まれていています。リュート、ギターの響きに比べさすがにテオルボは重心が安定した響きで、音の粒立ちの良さとともにリュートの王様の如く立派で深遠な趣にさせてくれます。




レニングラード国立「ムソルグスキー記念」バレエ
『竹取物語』〜月から来た姫〜全2幕


2003年1月26日(日)13時/オーチャード・ホール
 作曲=S.カロシュ
 台本=竹取物語よりY.ワシリコフ、V.イフチェンコ編
 演出振付=N.ボヤルチコフ、G.コフトゥン
 美術=R.イワノフ
 衣裳デザイン=I.サフィロノワ
(キャスト)
 かぐや姫  :イリーナ・ペレン
 帝     :ミハイル・シヴァコフ
 竹取の翁  :デニス・トルマチョフ
 竹の精   :オリガ・ステパノワ
 5人の求婚者:アンドレイ・マスロボエフ
        デニス・モロゾフ
        アントン・チュマノフ
        マルト・シェミウノフ
        マクシム・ポドショーノフ
 天井の楽士達:タチアナ・クレンコワ、ユリア・アヴェロチキナ
        ナタリア・ニキチナ、マリア・リヒテル
        アリア・レジニチェンコ
        アントン・チェスノコフ、ミハイル・ヴァンシコフ
        アレクセイ・マラーホフ、ワシリー・グルシク
        パヴェル・グズミン        
 ソプラノ  :ナタリア・ミロノワ(歌劇場ソリスト)
 指揮    :セルゲイ・ホリコフ
 管弦楽=レニングラード国立歌劇場管弦楽団



・今回のレニングラード国立バレエ来日、最大の話題は2002年10月にサンクトペテルブルクで初演された「竹取物語」日本初演です。このバレエは竹取物語をベースにしたもので、オリジナルに加えて天上の楽士達を登場させたりなどのアレンジがあるものの、日本的要素と西欧的要素を上手くミックスした内容は極めて詩情溢れる内容に仕上がっていました。オリジナル以上に作品の持つ意味がとてもリアルに語りかけてくるようでした。

第1幕の構成は、竹取の翁の場面、かぐや姫の発見、帝の狩、、5人の求婚者、天上の鐘の秘密までで、第2幕は姫の秘密、鐘の謎解き、かぐや姫との別れとなっていました。第1幕が55分、第2幕が30分という短さでしたが、全く気の緩むことのない集中度に満ちた展開で、しみじみとした情緒、沸き立つ躍動、悲哀といった世界をバレエでこれほど表現していることに驚かされました。





ステージはシンプルな美しさに溢れ、大きな月を基本としたセットがとても幻想的でした。帝の宮殿では同じく真ん丸い太陽が黄金色に輝き、月と見事なコントラストしていて実に象徴的です。冒頭、川のせせらぎでは背景にシルエットとなった山並みと夕日の淡い光が印象的でした。ステージ前面は川に見立てた青い照明で、竹を象徴したダンサー達も登場し、極めてシンボライズされた振り付けでした。かぐや姫のイリーナ・ペレンはとても可憐で、その踊りは物語の情感をシンプルに描き尽くす素晴らしさ。帝も実に凛々しく、全てがアートであり、カロシュの音楽とともに大いに惹き込まれてしまいます。

音楽は第1幕、冒頭からリゲティのルクス・エテルナを彷彿とさせる神秘的宇宙を醸し出し、鈴の音、木琴など高音域の響きとシンセサイザーを利用した音の広がりが威力を発揮していました。物語の始めはカオス状態であり、ドラマ展開に応じて様々の響きが生み出されるといった柔軟性ある作風でした。特に、日本の響き、雅楽や民謡なども取り入れられており、和洋の見事な融合は、プッチーニの蝶々夫人よりも完成度の高さを見せているのではと思うほど。




アンサンブルに歌を取り入れているのも効果的なアプローチで、歌劇場ソプラノのミロノワがオーケストラ・ピット内にて、歌うヴォカリーズはとても心に響く美しさでした。オペラと違って、具体的な言葉は一切歌われないものの、ステージとともにかぐや姫や帝の心情が痛く伝わってました。もはやバレエだけというのではなく、総合的にひとつの作品に結晶している美しさは例え様もありません。

さらにカロシュが作曲した音楽は色んな要素をミックスしながらも、登場人物に明確なライト・モチーフを割り当てて、情感の豊かさ、雄弁さを生み出していました。特に帝が登場するときの音楽はホルンなどブラスが上昇音形を朗々を奏で、パーカッションの地震とともに荘厳さを描写。第2幕の天上の使者たちとの戦いの場面のスペクタクルさはバレエでも最大の絵巻でした。そしてかぐや姫と帝の出会いの場面、月と太陽の出会いでもあり、感動的でした。フィナーレではかぐや姫が月へ昇っていく場面も、避けられぬ別れとしてスピーディに展開し、その悲哀感もひとしおでした。まさに物の哀れという日本的感覚なのかも知れませんが、これは欧米でも理解される普遍性であると感じました。

レニングラードバレエ日本公演では全国で46回上演されるそうですが、竹取物語が昨日と今日の2公演だけというのはとても勿体無いように思います。もう1度見てみたくなるほどの魅力に溢れていました。




NHK交響楽団定期演奏会


2003年1月25日(土)14時/NHKホール
(演奏)
 イルジ・コウト(指揮)
 スーザン・オーウェン(ブリュンヒルデ)
 アルフォンス・エーベルツ(ジークフリート)
 フルーデ・ウルセン(ヴォータン)
(プログラム)
 ワーグナー:「ニーベルングの指輪」抜粋
  ワルキューレより第2幕の序奏、第3幕第3場
  ジークフリートより第2幕第2場、第3幕の序奏、第3幕のフィナーレ
  神々のたそがれより第1幕夜明け、第3幕第2場、ジークフリートの葬送行進曲
           第3幕のフィナーレ


イルジ・コウトの指揮は大分以前にドイッチェ・オーパー・ベルリンで2度ほど聞いたことがありました。フリードリヒ演出のジークフリートと演奏会形式一夜版のニーベルングの指輪でした。そして今日、N響定期で久しぶりにリング抜粋が聴けるということでとても楽しみでした。プログラムは前半にワルキューレとジークフリートを。後半は黄昏に集中したもので、前半はやや断片的だったのに対して、後半は有名な夜明けと葬送をまじえて纏まった内容に仕上がっていました。

コウトの指揮は何時もながらオーソドックスなもので、演奏も自然な響きで、楽劇の場面を彷彿とさせるものでした。歌手は昨年のアルブレヒト&読響による一連のワーグナー・プログラムに比べるとやや物足りない面はあるものの、ワーグナーの素晴らしさを楽しませてくれました。

オーウェンのブリュンヒルデは3幕フィナーレの" O Siegfried! Herrlicher! Hort der Welt! Leben der Erde! Lachender Held!" の箇所が苦しく、いずれも語尾の掛けて、高音域への伸びが不足していて残念なところでした。ウルセンのヴォータンの告別をはじめヴァーラの場面をはじめ無難に展開するものの、ジュネーブで聞いたアルベルト・ドーメンのヴォータンに比べると、もっとキャラクターを前面に出したアプローチがあって欲しいところでした。ジークフリートを歌ったエーベルツは今年春のドレスデン・リングにも出演するとのことで大いに楽しみです。





新日本フィルハーモニー交響楽団オーチャード・シリーズ


2003年1月24日(金)19:30/オーチャード・ホール
 指揮:井上道義
(プログラム)
 マーラー:交響曲第9番ニ長調


NJPのオーチャード・シリーズも今日で終わりとなり何となく寂しく感じます。このシリーズの会員となったのも、開演が19:30と時間的に余裕であることと、オーチャードが会社帰りの途中にあるという便利さからでした。来月からはサントリー定期に移行し、早速小澤征爾のプログラムとなる訳ですが、今日は井上道義による待望のマーラー9番。今週月曜の読響定期にてアルブレヒトの圧倒的なマーラー5番に引き続き、1週間で2度のマーラーは嬉しい限りです。ちなみに今日は開演まで時間を持て余し、タワーレコードにて1時間以上もCDを物色していましたが、最近はギーレンのマーラーを始め、シャイー&コンセルトヘボウの「子供の不思議な角笛」など興味が尽きません。

さて、NJPの演奏は冒頭から透明なアンサンブルで井上の落ち着いたテンポ運びにより、マーラーの寂寞とした情感に浸りきることができました。特にオーチャードの特徴としてステージ上の響きに奥行き感がある特性からか、弦と木管、金管など楽器の距離が水墨画のような濃淡を音にしたような感じが魅力的でした。

ステージレイアウト上では、第1、第2ヴァイオリンをそれぞれ左右に広げた配置が効果的でした。この作品では、第1と第2Vnは交互にパッセージを歌う箇所が多々あり、これらは時に同じ音色、音程の違いによる情感の色合いの変化など興味深いところがあります。特に顕著だったのは、終楽章アダージョの34小節目にて第1から第2Vnにバトンタッチする箇所は、第1Vnの高音部のテンションの高まりから第2Vnのヴィオラのような厚味のある響きに変わり、思わず溜息がでるほど印象的でした。

また悲愴感を湛えた弦に対して、金管群が色んなパッセージを投げかける箇所は厭世的な情景を抱かせる場面に良く現れますが、1楽章、108小節の4本のホルンがとても絶妙に響き、一挙に神妙な気分にさせてくれたのも見事でした。逆に2楽章の早いテンポのホルンのトリルなどアンサンブルの苦しい箇所も見受けられましたが、全般に透明感溢れるすっきりさがマーラーをレントゲンで見るような明晰さが発散するマーラーではなく、求心力に惹きつけられる演奏を可能にしていたのではと思います。

そしてフィナーレの情感溢れる弦の響き。各声部が絶妙に重なり合う響きに包み込まれる包容力に身を任せて聞き入るばかりでした。ファゴットの下降する陰鬱さも弦合奏の歌により肯定の世界へ導かれるかのように、全てが浄化していくようなアプローチでした。7時から休憩なしにほぼ2時間を費やした演奏は全く時間を感じない集中力に満ちていて、先週のマーラー5番の興奮とは違った味わい深さがありました。



タマール・イヴェーリ/ソプラノ・リサイタル
ピアノ:ジャンニ・クリスチャック


2003年1月23日(木)19時/紀尾井ホール
(プログラム)
 ジョルダーニ :カロ・ミオ・ベン
 グルック   :「パリーデとエレーナ」より”おお、私のいとしい人よ”
 スカルラッティ:「ピッロとデメトリオ」より”すみれ”
 カッチーニ  :うるわしのアマリッリ
 マンジャヴァリアーニ:あなたは私の太陽
 トスティ   :かわいい口もと
 〜休憩〜
 ヴェルディ  :「運命の力」より”神よ平和を与えたまえ”
 ヴェルディ  :「海賊」より”あの人はまだ帰ってこない”
 ヴェルディ  :「仮面舞踏会」より”死にましょう、でもその前にお願い”
 プッチーニ  :「トゥーランドット」より”お聞きください、王子さま”
 プッチーニ  :「トスカ」より”歌に生き、愛に生き”
 レオンカヴァッロ:「道化師」より鳥の歌”大空を晴れやかに”
(アンコール)
 プッチーニ  :「ジャンニ・スキッキ」より”私のおとうさん”
 ホアキン・ニン:踊り




今日は出張先から直接、紀尾井ホールへ向いタマール・イヴェーリを聞いてきました。チケットを買ったのは大分前で、チケットの公演日表示は昨年5/22日でした。体調不調につき公演日が今日まで延期され、チケットの払い戻しをしない限り、チケットに表示された席もそのまま確保されていた訳です。ちなみにバルコニ1列の1番とステージに近い席でしたが、ステージと同じ高さから聞こえる彼女の歌声はとてもクリアーで美しいものでした。先日のクーラと共演したオテロでは素晴らしいデズデモナを聞かせてくれましたが、今日も期待を遥かに上回る出来栄えで、驚嘆しました。

プログラムは前半にジョルダーニ、グルックを始めとして、オペラの起源に関与したジュリオ・カッチーニまで遡り、さらに20世紀のマンジャヴァリアーニまで披露する意欲的なもの。後半はヴェルディ、プッチーニにレオンカヴァッロといったイヴェーリ得意のレパートリーで大いに沸かせる内容となっていました。

彼女は歌手としては比較的小柄ですが、その声量は豊かで実に魅力的です。冒頭のジョルダーニでは、"Caro mio ben"が早くも強靭で艶やかなソプラノで響き渡り、一挙に惹きつけられました。その声質は微妙なニュアンスのヴェールを纏っていて、陰影に富む歌声は、まるでシュトゥッツマンの如くで、リリックからドラマチックまで描き分ける手腕にも驚かされました。ともかく伸びのある歌声はホールを共振させるほどの力強さと柔軟さを兼ね備えているといって良いでしょう。

グルックのアリアはトロイのパリスとヘレネを題材としているところが興味あるところで、グルックの持ち味を最大限に歌い尽くす力量にも驚嘆しました。同じフォルテでも冒頭のジョルダーニの時とは違って、歌の場面、状況に応じて歌の響きに変化があり、聞いていてぞくぞくする程でした。

スカルラッティとカッチーニは古楽演奏会では聞くチャンスはあるものの、今日のようなオペラのアリアを主体としたリサイタルで聞くのは珍しいところです。そしていずれの2曲も冒頭の2曲とはコントラストするように、ヴィブラートの掛け方、抑揚全てにわたって変化があり、その情感の豊かさも格別でした。彼女のレパートリーの広さを痛感するばかりですが、特にカッチーニの古歌は心の内なる世界を言葉でもって朗唱するかのように、聞くものを捉えて離しませんでした。彼女を歌を聴いていて、音楽の根源は、心の言葉が詩となり、詩から自然と歌が生まれるというプロセスが見えるようでした。カッチーニの情感に浸ったあとは、気分を一転し、軽やかなマンジャヴァリアーニとトスティで前半を締め、全く無駄のない、引き締まったリサイタル運びにも彼女の才能を感じるところです。

後半のプログラムは悲劇のヒロインを演じるアリアの数々で彩られており、死に直面する女性の悲しみや力強さを最大限に描こうという意欲が感じられました。しかも音楽に急緩急の繰り返しがあるように、先ず「運命の力」のアリアでテンションの高さを示し、続いて「海賊」のアリアで緊張を解きほぐすかのように、テンションの強弱に応じたアリアを交互に並べるプログラミングにも上手さを感じます。

特に「運命の力」のアリアではオーケストラを彷彿とさせるクリスチャックのピアノと彼女のドラマチック・ソプラノがリサイタルを超えてオペラハウスに居るかのようなリアルさで迫りました。また歌に応じたテンポ取りが絶妙で、大いに高揚させてくれました。これには彼女の歌声自体にシンフォニックさを持っているのではと感じるほどでした。アメーリア、リュー、トスカの有名なアリアが続いても、全く気が緩むことも無く、その役柄心境になりきれる技術も素晴らしいものです。そしてネッダのアリアではリサイタルを締めくくるに相応しい強靭な歌声が響き渡り大きな喝采へ。アンコールではラウレッタの瑞々しいアリアとホアキンのスペイン情緒を満喫。特にホアキンは惜しみなく美声を響かせた迫力に圧倒されるばかりでした。なおイヴェーリは今年のザルツブルク音楽祭の「ティート」ではボニー、カサロヴァ、ギャランカとも共演するとのことで大いに楽しみです。




読売日本交響楽団・定期演奏会


2003年1月20日(月)19時/サントリーホール
 指揮=ゲルト・アルブレヒト
 バリトン=河野克典
(プログラム)
 マーラー:リュッケルトの詩による5つの歌曲から
 マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調


今年最初の読響定期はマーラーのリュッケルトの詩と交響曲5番という嬉しいプログラムした。特にマーラー5番はライブ、CDを問わず名演奏が多いだけに、アルブレヒトの指揮に期待したいものです。

冒頭のリュッケルトは河野の透明感漂うバリトンがことのほか素晴らしく、オーケストラの絶妙なアンサンブルと溶け合う美しさは格別でした。1曲目、Ich atmet einen linden Duftでは、第2節のクラリネットがバリトンにほのかな色彩感を与え、第3曲でも木管、ハープ、ホルンの音の層が透けて見えるほど純度の高いアンサンブルでした。次第にマーラーの心境に同化していくのが分かるようです。そして第4曲では静寂の中、Um Mitternachtで挟まれた5つの節を聞くつれ、諦念に没頭していく心境が痛く伝わってきました。ともかく恐ろしいほどに透明度の高いリートと演奏に吸い込まれていくような集中度を感じた次第。

前半のリュッケルトで引き締まった心境は15分の休憩後も持続していて、マーラーの5番に極度の集中力でもって臨むことが出来ました。これも上手いプログラミングだと感心しますが、ともかくアルブレヒトの完璧なまでに掌握した指揮ぶりは圧倒的で、冒頭からフィナーレまで気が緩むことなく集中できた名演奏となりました。1楽章を開始するトランペットの持続的に流れるパッセージに始まり、激しいトゥッテに至るまで、ゆるぎない緊密さは見事でした。

マーラー5番はアバド&ベルリンフィルのCDを良く聴いているせいか、1楽章34小節目からのヴァイオリンをはじめとする弦の歌わせ方にクレッシェンド、デクレッシェンド、アクセントの譜面を如何に表現しているかに興味が引かれます。アバドはこの箇所を譜面を深く読み取り、マーラーが記した記号を息づかいに至るまで描ききっていますが、アルブレヒトのそれはアバドほどの読みではないにしても、音の流れを重視した自然さが滲み出ていました。それに読響の弦にも厚味があり、何かドイツのオーケストラがマーラーを演奏しているようにも聞こえました。そして152小節目のトランペットに誘導される練習番号7からの嵐の如く音の放流。前半のリュッケルトでも感じられた透明感をそのままに重厚なサウンドで流れ行くエネルギーには目も眩むばかりの迫力でした。1楽章の素晴らしさに呼応するかのように、2楽章もまた深く味わい深い低弦が魅力的で、ヴァイオリンのピチカートの粒立ちの良さ、木管、金管、打全てが自然に調和しつつもマーラーの魅力を放ち続ける素晴らしさ。マーラーの5番で、2楽章がこれほどの重心を持った演奏を聴くのも初めてなくらいに充実していました。

3楽章は前半の二つの楽章の緊張を解きほぐすに相応しい軽快さに溢れた演奏で、夏の自然を想わせるマーラー独特の響き、練習番号10の神妙なトゥッティで引き締まる箇所、マンドリンを想わせるようなヴァイオリンのピチカートなど、いずれも素晴らしいアンサンブルで耳を楽しませてくれました。4楽章のアダージェットのハープと弦が織り成す美しさは勿論のこと、4楽章の最後からパウゼを置かずに5楽章へ入ってくタイミングの絶妙さ。第1ホルン、ファゴット、オーボエと続くパッセージでアダージェットが夢であったかのように目覚める心境にさせてくれました。フィナーレではアンサンブルも厚味を増して、驀進していくフーガは現実味を帯びた明るさで、驀進していく推進力に満ちていました。アルブレヒトの指揮はどこまでも自然であって、誇張がなく、しかもフィナーレに掛けてのクライマックス作りも実にエキサイティング。終結部における畳み掛けは息つく暇もないほどの高揚感でした。久々に凄いマーラーを聴いたという実感です。




マグダレナ・コジェナー/メゾ・ソプラノ・リサイタル


ピアノ:マルコム・マルティノー
2003年1月17日(金)19時/東京オペラシティ・コンサートホール
(プログラム)
 マルティヌー   :歌曲集「新シュパリーチェク」H.288
            愛する娘は金持ち/捨てられた恋人/あこがれ
            知りたがりの娘/陽気な娘/悲しい若者/願い/高い塔
 ラヴェル     :歌曲集「博物誌」
            くじゃく/こおろぎ/白鳥/かわせみ/ほろほろ鳥
 クチシカ     :歌曲集「北国の夜」op.14
            あほうどり/白鳥/子守歌/北国の岩礁で
 〜休憩〜
 ヤナーチェク   :歌曲集「歌によるモラヴィア民俗詩」より
            あの人の馬/花束/あの人の絵姿/別れ/変わらぬ愛
 ドヴォルザーク  :4つの歌曲「民謡調で」op.73 B.146
            おやすみ/草刈る娘/嘆き/栗毛の馬
 ショスタコーヴィチ:歌曲集「風刺」〜過去の情景op.109
            批評家へ/春の目覚め/子孫/思い違い/
            クロイツェル・ソナタ



1/5のトッパンホールで聞かせた類稀なる素晴らしいコジェナーは今日もまた格別の詩を聞かせてくれました。選ばれた作品は普段余り耳にしない珍しいものも織り交ぜられ、プログラミングの緻密さも見事でした。ともかく終始、緊張感と集中力が途切れない燃焼度の高さでした。今日の座席は平土間最前列中央で、ちょうどま正面にコジェナーが歌っているということもあって、彼女の微妙なニュアンスまでもがストレートに伝わってきました。

前半はマルティヌー、ラヴェルにクチシカという多彩さで、特にラベルの作品は鳥を題材、擬人化した詩が選ばれており、コジェナーの表現力の幅にも驚かされました。この作品はピアノパートも実に印象的で、コジェナーの起伏に絶妙にマッチしていました。続くクチシカも「あほうどり」「白鳥」など鳥のテーマが続きますが、趣向は一転し、コジェナーの音色の変化も実に見事。低い音域で歌われるパッセージもあり、彼女の深い低音も迫力一杯に響かせた詩はとてもインパクトがありました。マルティヌーとラベルのテンションが多様に変化するメリハリさとすれば、クチシカの作品は落ち着いた佇まいで、ゆったりと流れるテンポに魅力を感じました。こういった作品の持ち味を最大限に描写できるコジェナーは歌手である以上に詩人ではないかと思うほどでした。

後半もヤナーチェク、ドヴォルザーク、ショスタコーヴィチという変化に富み、全く時間を感じさせない集中力でした。前半から色んな国々の言葉を題材にしながらも、いずれも母国語かと思うほど見事な歌いぶりで、表情を含めて完成度の高には改めて驚嘆です。特にショスタコーヴィチの迫力は凄いものでした。ピアノもよりダイナミックな作風となり、切れ込みの深さ、心を揺さぶる力強さなど圧倒されるばかり。クロイツェル・ソナタに至ってはピアノの放流とコジェナの力強い歌声がとても印象的でした。

プログラム全体を通して喜怒哀楽などの表現力は勿論のこと、彼女の作品に対する理解と集中度は並大抵ではないと痛感するばかりでした。コジェナは再びミンコフスキーの指揮で宗教曲やオペラを聞いてみたいものです。





ポーランド国立歌劇場『オテロ』


2003年1月12日(日)17:00/東京文化会館
指揮     :ヤツェク・カスプシク
演出     :マリウシュ・トレリンスキ
舞台美術   :ボリス・フォルティン・クドリチカ
衣裳     :マグダレーナ・テスラフスカ、パヴェル・グラバルチク
振り付け   :エミル・ヴェゾロフスキ
合唱指揮   :ボグダン・ゴラ
オテロ    :ホセ・クーラ
デズデモナ  :タマール・イヴェーリ
ヤーゴ    :アダム・クルシェフスキ
カッシオ   :リシャード・ミンケヴィツ
エミリア   :アンナ・ルバンスカ
ロドリーゴ  :クジシトフ・シミート
ロドヴィーコ :ラファル・シヴェク
モンターノ  :チェスラフ・ガルカ
伝令     :リシャード・モリカ




昨日のトゥーランドットに引き続き、ポーランド国立のオテロへ行ってきました。久々のオテロでしたが、期待を遥かに上回る素晴らしい出来栄えに圧倒されてしまいました。ホセ・クーラの迫真のオテロ、タマール・イヴェーリのデズデモナの素晴らしさをはじめ、成功の鍵はトレリンスキの演出にあったと思います。ステージは終始暗めで、ドラマの悲劇を掘り下げた解釈は単にオペラといよりもシェークスピアの世界をより現代的にリアルに描くといった意気込みに溢れていました。それゆえに歌と音楽という世俗オペラを超越し、より演劇的、ギリシャ悲劇的に迫る芸術性の高いプロダクションが具現化されていると言って良いでしょう。

第1幕、冒頭から群集たちが暗闇の中、懐中電灯を光らせ、その逆光に見るものに異様な緊張感を与えていました。ムスバッハ演出のルーチョ・シッラでも同様の手法が用いられていましたが、嵐の暗闇に閃光とともに早くも悲劇の始まりに突入していく印象を受けました。ステージ中央には巨大な柱が立っており、これが下に降りてくるという仕掛で、その中からオテロが登場するといった設定でした。最初、合唱がやや弱いと感じましたが、4声部をグループとして空間的に配置するといった工夫が行われており、ソプラノからバスまでの合唱が空間を飛び交う広がりにスケール感を与えていました。このようにシンプルな演出が功を奏し、視覚的聴覚的にもすっきりとしたまとまりとパワーが生み出されていました。それにオーケストレーションに合わせて、松明を持ったダンサーが現れ、その跳躍も音のパッセージと一体化させるなど極めて有機度の高い演出アプローチを感じませます。メリーゴーランドを登場させたり回転体のオブジェに運命の歯車を感じさせるなど、テンションに合わせた見せ場作りも面白いところでした。

第2幕では何と言ってもアダム・クルシェフスキのヤーゴが凄みがあり、暗闇に現れる悪魔の十字架が何とも不気味で迫力がありました。ステージ右側は下に傾斜する坂になっており、オテロが上から降りてくる場面も印象的で、オテロが降りる階段の一歩一歩がヤーゴの策略へ陥ることを示唆しているようで、運命的展開をシンプルなステージに感じられるところ。転じてデズデモナが登場する時のマンドリンの合唱の場面では、中央の植え込みが明るく照らされ、天使を想わせる女性達とデズデモナが白く輝き、周囲のる暗黒とのコントラストが鮮やかでした。それに舞台左袖に蠢くオテロ、中央のデズデモナ、右手から見守るヤーゴを結ぶ空間配置も実に象徴的でした。
有名なハンカチの場面では、ハンカチが宙に浮くという手法が用いられ、ロバート・ウィルソン風を想わせるなど、これも実に象徴的な扱いでした。このように象徴主義をベースにしていながらも、登場人物は極めてドラマチックに演出され、無駄を一切省いた世界からは、ドラマのコアが浮かび上がってくるという見事さでした。


それにしても第2幕は異常な緊張感の高まりで、ヴェルディすら忘れてドラマそのものに没頭する求心力に満ちていました。オテロが完全にヤーゴの術中に陥った場面では背景の暗黒に右高くから左に直線的に伸びる雷のデザインが象徴的で、ドラマは悲劇へまっしぐらという印象です。舞台セットには随所に直線的デザインが登場しますが、そのシンプルさとあいまって極めて力強く直線的ドラマ展開にも結びつき、とても引き締まった展開に効果を発揮しているように思えます。

第3幕、正面に階段を配しただけのシンプルさにも関わらず、ペーターシュタインのように部分分割ステージ的にスリット窓を設けてオテロがヤーゴとカッシオのやりとりを観察するなどの演出に効果的な手法が用いられていました。ヴェネチアからの使者の場面では合唱を赤にカラーリングするなど、今までの黒(オテロ、ヤーゴ)と白(デズデモナ)という主観性に赤という客観性を加えている点に興味が惹かれました。また3幕では大使の到着を告げる金管が印象的で、幕を追うごとに白熱してきたオーケストラも重圧感一杯のアンサンブルを展開し凄い迫力となりました。


そして第4幕は、ステージ左の高みから右下へ傾斜するデザインのセットで、中央に祭壇のように青く輝くベッド、右手にこれもロバート・ウィルソンの舞台に良く出てきそうな蝋燭。ステージ右手の上部に3つのスリット窓が二組あるだけのシンプルさ。
イヴェーリの歌う「柳の歌」も実に感動的でした。彼女の声には透き通った美しさだけでなく、芯の強さがあり、オテロに対するデズデモナにある種の力強さを感じた次第です。蝋燭の前でデズデモナが「アヴェ・マリア」を歌った時には、背景に彼女の影が大きくバックステージに写り、これも見事な視覚効果を生み出していました。移ろうような不安定なシルエットにデズデモナの不安、悲しみが二重写しの効果となっている訳です。同様に左手の高みからオテロが降りてくる場面は、第2幕で右手高みから階段を降りてきたシーンと左右反転のコントラストになっていて、時系列的に既に2幕の時点でヤーゴの罠にはまった場面を想起させる効果が面白いところです。

オテロも蝋燭のところに立ったとき、背景に移ろう大きなシルエットが出来、彼が手で蝋燭を消しさる場面が象徴的でした。さらに右手背景の壁には黒の血が滴り落ちるという演出で、滴る音まで聞こえてくるという演出には凄みを感じました。ちょうどシュタイン演出のパルジファルでも冒頭にステージスクリーンに血が滴る場面がありましたが、それ以上に積極的な演出手法でした。ともかくクーラのオテロはトレリンスキの演出とオーケストラとの三位一体となっており、クーラの単にオペラ歌手という以上にドラマを描くという劇性に強いインパクトを受けました。そういえば今日の公演では有名な歌いどころでも拍手すら出来ないという緊迫感に満ち溢れ、ワーグナーの楽劇を想わせるような途切れることのない集中力が見事でした。昨日のトゥーランドット以上にコンセプトを明確に打ち出したオテロは歌手達をもドラマに集中させる効果があり、久々に素晴らしいオテロに出会えたという感じです。ともかくポーランド国立歌劇場が単にマイナーな劇場ではなく、強烈な個性を放っていることに驚くばかりです。





ポーランド国立歌劇場『トゥーランドット』


2003年1月11日(土)18時/東京文化会館
指揮      :ヤツェク・カスプシク
演出      :マレック・ヴァイス・グジェシンスキ
舞台美術    :アンジェイ・クロイツ・マイェフスキ
振付      :エミル・ヴェゾロフスキ
合唱指揮    :ボグダン・ゴラ
トゥーランドット:エヴァ・マルトン
皇帝アルトゥム :ボグダン・ポプロツキ
ティムール   :ラファル・シヴェク
カラフ     :ヤネス・ロトリッチ
リュウ     :イザベラ・クォシンスカ
ピン      :アルトゥール・ルチンスキ
ポン      :リシャード・ヴロブレフスキ
パン      :クジシトフ・シミート
役人      :ズビクニエフ・マチアス




トゥーランドットは昨年夏のゲルギエフ&ウィーンフィルによる演奏が巨大なステージとともに圧倒的に強烈だった為か、今日の文化会館でのステージはインパクトにおいて及ぶべくも無いことは明らかでした。とはいうものの、狭い画角を高さ方向にセットを広げることで、スペクタクルさを表現していました。遥か奥に聳えるドラキュラ城のような光景が印象的で、中国というよりも中部ヨーロッパというイメージでした。それに人民達の出で立ちも19世紀の労働者のようなイメージで、赤に統一された中国風デザインの兵士達とコントラストを成していました。

歌手ではロトリッチのカラフが声の伸びが素晴らしく、むかしウィーンで聞いたロトリッチのカラフを彷彿とさせる出来栄えでした。あの時はイーグレンがトゥーランドット姫で、メルクルの指揮の迫力が凄かったです。そしてエヴァ・マルトンのトゥーランドット、実に貫禄満点で、キャリアの凄さが滲み出ていました。かつての鋭い切れ味は薄らいだものの、カラフと盛り上がる箇所はさすが。クォシンスカのリュウも随分と感動的でした。それにしてもステージのセットや人物の動かし方など平面的で単調であったのには工夫があればと思うばかりでした。明日のオテロも楽しみです。





マグダレナ・コジェナー/メゾ・ソプラノ・リサイタル


ピアノ:マルコム・マルティノー
2003年1月10日(金)19時/トッパンホール
(プログラム)
 エベン     :6つの愛の歌
 ドゥシーク   :愛の嘆き
 レースラー   :幼い頃の恋/去っていった人へ
 ヴォジーシェク :別れの涙/かわいい小鳩
 ドヴォルジャーク:4つの歌 作品2 B.124
 〜休憩〜
 ブリテン    :子守歌のお守り 作品41
 デュパルク   :旅への誘い/悲しき歌
 ラヴェル    :2つのヘブライの歌
 マーラー    :歌曲集「子供の不思議な角笛」より
          ラインの伝説/原光/高い知性への讃歌




コジェナーは昨年に二つのオペラでメリザンドとツェルリーナ、コンサートでは「エジプト王タモス」とフォーレのレクイエムと多彩に楽しむことが出来ました。リサイタルでは今日が始めてでしたが、さすがに期待通りに素晴らしい歌の数々を聞かせてくれました。プログラム前半はボヘミアの普段余り耳にしない作曲家たちの作品でしたが、隠れた名曲の数々といった風に、いずれも素晴らしく詩情に溢れ、郷愁感もひとしおでした。

コジェナとマルティノーのピアノが織り成す詩は時に高揚し、悲しみ、熱い熱情を湛え、じっくりと聞き入るばかりでした。冒頭の歌われたエベンの6つの歌は曲毎にチェコ、英、ドイツ、イタリア、フランスの言葉による作品ながらも、全体の統一感が保たれていることに驚嘆。前半のクライマックスはドヴォルザークの4つの歌で、それは心を打つ素晴らしいもので、マルティノーの詩情豊かなピアノとコジェナの潤いのある美声がマッチしていました。

後半はブリテンのインパクトある子守歌に始まり、デュパルクの詩に心を奪われ、ヘブライの独特の響きによるラヴェルを経て、マーラーの角笛という構成で、リートとして見事な出来栄えでした。ともかくトッパンホールを声量豊かなにコジェナの詩が溢れんばかりに響き、インパクト十分でした。それに彼女には知的感ただようセンスを感じました。

昨年パリ・コミックでのメリザンドではコジェナの長い金髪に長身のドレス姿がとても鮮やかでしたが、今日は金髪を結ったヘアスタイルで衣裳も地味な雰囲気でした。ザルツブルクのドン・ジョバンニではハンプソンなど長身歌手に囲まれていたせいか、それほど大きいと感じなかったコジェナもトッパンではオッターのように長身だったのが印象的でした。さて来週のオペラシティでのリサイタルもまた別のプログラムということで、そちらも大いに楽しみです。





チョン・ミョンフン&東京フィル・定期演奏会


2003年1月8日(水)19:00/サントリーホール
(プログラム)
 ブラームス  :ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77
 ベルリオーズ :幻想交響曲作品14
 ビゼー    :カルメン前奏曲(アンコール)
 指揮 :チョン・ミョンフン
 ヴァイオリン: 樫本大進


今年はベルリオーズ・イヤーということで沢山彼の作品を聴いてみたいところです。CDではシャルル・ミュンシュ&バイエルンによる大作レクイエムを年初めに何度も聞き込み、改めて壮大なスケールを楽しんだばかりでした。そして今日のミュンフンの幻想交響曲。さすがに全体を緊張感一杯に聞かせる手腕は素晴らしく、冒頭1楽章の後半からの加速感、2楽章の舞踏会、3楽章の荒涼感。4楽章以降の息もつかせぬ迫力など申し分ない演奏でした。前半のブラームスもゆったりと落ち着いた味わいが素晴らしく、2楽章のオーボエで始まる郷愁もひとしお。樫本の素晴らしく響くヴァイオリンとあいまって優れた演奏でした。幻想の鳴り止まぬ喝采に、何とカルメン前奏曲がアンコールされ、その畳み込むような快速感もとてもスリリングでした。




ステファニ・ボンファデッリ&レナート・ブルゾン


2003年1月7日(火)18:30/オーチャードホール
(プログラム)
 ボンファデッリ&ブルゾン
  「椿姫」より「ヴァレリー嬢ですね?」
  ブルゾン
  「椿姫」より「プロヴァンスの海と陸」
  ボンファデッリ
  「椿姫」より「過ぎ去った日々よ」
  ボンファデッリ&ブルゾン
  「ランメルモールのルチア」より「恐れに色を失うならば」
  ボンファデッリ
  「ランメルモールのルチア」より「狂乱の場」
   〜休憩〜
  ボンファデッリ
   日本歌曲「さくら」
  ブルゾン
   山田耕筰「荒城の月」
  大前研一
   モーツァルト「クラリネット協奏曲K622」から
  ボンファデッリ&ブルゾン
   「リゴレット」より「娘よ!父さん!」
  ブルゾン
   「リゴレット」より「悪魔め、鬼め」
  ボンファデッリ
   「ロメオとジュリエット」よりアリア(アンコール)
  ブルゾン
   ガスダルドン「禁じられた音楽」(アンコール)
(演奏)
 指揮 :小松長生
 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団



今年2回目のコンサートはボンファデッリ&ブルゾンのジョイント・コンサートでした。ステージは草花でデコレーションされとても華やかな雰囲気でした。そしてボンファデッリとブルゾン二人一緒に登場するとさらに華やいだ気分となり、椿姫の名場面が歌われていくという豪華さ。座席は12列目でしたがステージが拡張されている為、実質上5列目のやや左側で、ほぼ真正面に二人の歌手を望めるというベストポジションでした。それにしてもブルゾンの「プロヴァンスと海と陸」は何時聞いても貫禄十分で、冒頭から素晴らしさ全開といった感じ。ボンファデッリも椿姫のみならずルチアの狂乱の場で類稀なる素晴らしいソプラノを聞かせてくれました。並んで演奏したフルートとのデュオも印象的でした。照明も多彩に変化し、狂乱の場の最後では照明を落とし、状況を巧みに表現していました。

後半はボンファデッリもブルゾンも日本の着物姿で登場し、雰囲気はさらに鮮やかなものとなりました。特にボンファデッリの美しさは眩しいほどに輝き、日本歌曲も素晴らしい限りでした。リゴレットでは彼女の衣裳はピンクの斬新なデザインに代わり、これも雰囲気満点の中、快調に響きわたるオーケストラともに大い沸き立つ演奏でした。個人的には前半のトラヴィアータよりもリゴレットや仮面舞踏会のアリアなども沢山聞いてみたいと思いました。それほどリゴレットは躍動的でした。それにブルゾンのアリアの気迫の凄さは真に迫るものがありました。3月のコジ・ファン・トゥッテではデスピーナがボンファデッリの予定ですので、これも大いに楽しみです。



アンサンブル・ビクトリア『レクイエム』


2003年1月5日(日)14:00/トッパンホール
(プログラム)
オルランドゥス・ラッスス Orlandus Lassus(1532〜1594)
哀歌 聖土曜日のための LAMENTATIO Sabbato sancto ad matutinum
T(PRIMA)
U(SECUNDA)
V(TERTIA)

グレゴリオ・アレグリ Gregorio Allegri(1548〜1652)
神よわれをあわれみたまえ Miserere mei, Deus
 
〜休憩〜

トマス・ルイス・デ・ビクトリア Tomas Lusi de Victoria(1548〜1611)
死者のための聖務曲集 レクイエムより OFFICIUM DEFUNCTORUM REQUIEM
わが魂は萎え

TAEDET ANIMAM MEAM
入祭唱

Introitus
あわれみの讃歌

Kyrie
昇階唱

Graduale
奉納唱

Offertorium
感謝の讃歌

Sanbctus

平和の讃歌

Agnus Dei

聖体拝領唱

Communio

悲しみのうちに引き戻され

Versa est in luctum

我を解き放ちたまえ

Libera me

(演奏) アンサンブル・ビクトリア



今年最初のコンサート通いはアンサンブル・ビクトリアでした。滅多に聞くことの少ないビクトリアのレクイエムが聴けるということで、トッパンホールに馳せ参じました。自由席ということで早めにホールに着いたものの、会場は2割くらいの閑散さでした。本日演奏するアンサンブル・ビクトリアは女声5名、男声5名からなる団体でルネサンス〜バロック期を研究し、音声生理学に基づくアプローチが特徴だそうです。

プログラムは前半にラッスス、アレグリ、後半にアンサンブルが名を取っているビクトリアのレクイエムという多彩さでした。まずラッススはポリフォニーを駆使したシャンソンというイメージを抱いていましたが、神妙なラメントも心に訴えるものがあります。ただし声部のポリフォニックさは複雑であり、音に対する精度が極度に求められます。アレグリのミゼレ−レではステージに6名、一階席中央通路右側に4名が配置して空間的に掛け合う歌の響きが印象的でした。

後半のビクトリアのレクイエムではアンサンブルも前半以上の安定し、充実の響きを生み出し、大きく流れる音楽に感動しました。前半のラッススに比べてもビクトリアの作曲技法のシンプルさが本質的に荘厳で敬虔な神秘の世界を作り出すことは明らかです。冒頭のRequiemの響きに誘導され、湧き出すヴォーカルの自然さ。時折不協和の響きが色合いを放ち、光が差す光景までもがソプラノの高音部を通して見えてくるのは、あのポリーニ・プロジェクトでのジェズアルドのマドリガーレでも体験した神秘と共通するところです。ちなみにビクトリアのミサは二つあるそうですが、本日演奏されたのは1603年のもので、2003年の始め演奏することでちょうど400年の節目となるそうです。1605年のレクイエムはCDにてムジカ・フィクタ(MUSICA FICTA)の名演に感動しております。それにしてもビクトリアは熱く心に迫るものがあります。アンコールは同じくビクトリアのミサからアニュス・デイとアヴェ・マリアでした。


ムジカ・フィクタ(MUSICA FICTA)によるビクトリアのレクイエム(1605)。アンサンブルは14名のヴォーカルで、今日の演奏に比べるとハーモニーの厚味が感じられ、何よりも教会の中での深い響きの荘厳さが素晴らしい。その意味でも今日の演奏もトッパンホールというよりは教会、聖堂で聞きたいところであった。








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