'97ザルツブルク音楽祭旅行記歌劇『ペレアスとメリザンド』
■#2695 芸術劇場
97/ 9/13 0: 6 (ID:DAT19113@biglobe.ne.jp) ●8月10日(日) さて開演が18時なので、17時過ぎにはホテルを出なくては。タキシードに着替えるのにちょっと時間が掛かるので、16:30に準備開始。午前中のオスロ・フィルが終わって、昼食後ホテルに戻ったのが15時過ぎ。という訳で、くつろげるのはほんの少しだけ。のんびりしているようで結構忙しいです。 今日は待望のアップショウのメリザンドが聴ける!最近発売のドビュッシー歌曲集のような瑞々しい歌声を今夜のオペラに期待しながらホテルを出ました。 開演30分前に祝祭劇場に着きました。やはりオペラとなるとマチネーに比べ劇場前はとても華やか。ビュッフェでオープンサンド(50シリング)とコーヒー(28シリング)で少し休憩。早速プログラム(100シリング)を買います。かなり立派で1cm以上の分厚さ。広告はほとんど無く、舞台美術のイラストと文字がびっしりです。ただ英語の記述はわずか5ページだけなのが残念です。表紙の中に小さなチラシが!・・・一瞬ドッキとしました。キャスティング変更を恐る恐る見ると、ジュヌヴィエーヴがヤルト・ファン・ネスからナディーネ・デニツェに変更。確かネスは「グラン・マカブル」でも歌うので、この役をキャンセルしたのでしょう。アップショウとロイドのキャンセルで無くて良かった。まずは一安心。 ♪ Claude Debussy,
"PELLEAS ET MELISANDE" 本日の指揮者は総監督モルティエお気に入りのカンブルランです。実は彼の指揮は今回初めて聴きます。あと「教会ミサ」と「ルーチョ・シッラ」も彼の指揮です。カンブルランは1948年フランス生まれで、パリ・コンセルヴァトーレで学んだそうです。1976年パリでシェロー演出の「ホフマン物語」を指揮してデビューし、ブーレーズのインターコンテンポラリの客演指揮も続けています。グラインドボーン/ウィーン/ミラノ・スカラ/METなどでオペラを振って、今はフランクフルト・オペラの音楽監督。ザルツブルクでは「聖セバスチャン」「ルーチョ・シッラ」「オベロン」「放蕩児の遍歴」を指揮して話題になったそうです。なお「ペレアス」は既に3つのプロダクションを指揮しています。 ●第1幕 本日の公演は字幕付きです。舞台の一番上にとても細い電光掲示板が左右に設置され、右が英語、左がドイツ語です。でも小さな字で、とても読みずらいです。座席はパルテレ・ミッテ1列の19番で、指揮者のちょうど真後ろ、いわゆるカブリツキです。オーケストラと舞台から座席が丸見えなので緊張します。もちろん居眠りは厳禁。カンブルランが登場してオペラが始まりましたが、この座席はとんでもないポジョションだと判明。長身のカンブルランが邪魔で舞台のちょうど真ん中が死角になって見えません。おまけに大きなポーズで指揮棒を振り回すので、目障りこの上なし。しまった!と気がついてもやむを得ません。登場人物が舞台中央に来ないのを祈るだけです。 幕が上がると、ザルツブルク特有の横長舞台が幻想の世界として登場しました。青白く光る背景に床から天井まで延びた黒い帯が何本もシルエットとして左右に動いています。これは森の木々を示しており、これらが動くことで、ゴローが彷徨っている様子を描写しています。メリザンドが冠を落とした泉があるはずですが、そのような具体的事物はありません。 右側に横たわるメリザンド!とても美しい。さすが最前列は表情のすみずみまで良く見えます。ちなみにメリザンドはロングヘアのはずですが、アップショウはショートカットのまま、おまけに黒に染めてオールバックです。???第3幕の窓から髪を垂らす場面はどうやって演出するのかなと疑問に思いつつ、アップショウの可憐な歌に聴き惚れていました。衣装は白っぽくて裾の長いペラペラの布を羽織っただけ。この古代ギリシャ風の衣装は最後まで同じです。 ドビュッシーの音楽はとても美しくて叙情的ですね。特に間奏曲のなんともいえない雰囲気やヴァイオリンとフルートのソロも堪らなく美しい。ウィルソンの舞台も音楽に合わせて落ち着いた色調でシンプルです。シンプルなのは舞台だけでなく歌手の演技も同様。極力動きを抑えて、ほとんど静止した状態の演出です。ただ照明効果は変幻自在、音楽に合わせてさりげなく観客に語りかけてきます。 アップショウの手の動きとか顔の向きさらには指の動きまでも演出されていて、日本の弥勒菩薩が指を丸くしているポーズとか、能の演出に似ています。両腕を左下に伸ばして右側に体を反らすポーズなど空間の流れを意識しているのでしょうか。何か意味がありそうですが、良く分かりませんでした。一方のゴローとペレアスなどは直立不動です。ヴィーラント・ワーグナーの象徴主義が復活したみたいです。 ペレアスとメリザンドが出会う場面は背景に横と縦に細長い格子が掛けられ、舞台にアクセントを与えます。ちょうど海辺を眺めている場面です。そしていつの間にか細長い薄い幕が舞台一杯に現れ、風にたなびいています。メリザンドも風に流れるようにゆらゆら。ペレアスとはフェンスのような幕で仕切られていましたが、いつの間にか一緒になっています。この場面も音楽と歌と舞台がぴったりと合っていて夢のような情景でした。 ●第2幕 第1幕と同様に徹底した簡素な舞台。ここでも具体性を一切排除して抽象表現に徹していました。青白い照明を基調として、森の中の泉にてペレアスとメリザンドの戯れの場面。ここでは指輪を泉に落としてしまうのですが、まず泉は有りません。さて指輪ですが、これは舞台の背景に白く輝く照明で、大きなリングが映し出されました。照明効果をうまく用いた斬新さが衝撃的でした。このような背景の照明演出はともすれば邪魔になることありますが、ウィルソンの手法は徹底したシンプルさなので、そのような心配は不要。もっと効果を出して欲しいと思うくらい禁欲的ですらありました。 ここで休憩に入ります。第1、第2幕通しだと結構長くて疲れました。幻想的な舞台ですが、単調気味なのが辛いところです。劇場の外はまだ明るく、涼しくなっています。ちょうど指揮者のウェルザー・メストさんもご家族と一緒に聴きに来られていました。リフレッシュしたところで開演ブザーです。 ●第3幕 いよいよ最大の見せ場、窓辺での髪の歌! ここでは舞台右側に細長い塔のオブジェがあり、高いところがとても小さなベランダになっていて、このベランダが3段の階段になっています。これは宙に浮いていて地上には降りられません。舞台左側の大分離れたところにも3段ほどの階段があり、ベランダのと対を成しているようです。メリザンドがオブジェの出口からベランダに立ちました。ショートカットの髪でこの場面をどう表現したか?それは髪ではなく、衣装のとても長い裾をオブジェの階段に沿いながら垂れ流しているのです。なるほど徹底した抽象表現です。それとここでのアップショウは素晴らしかった。いままで余りにも静止したような演技で、顔の表情も終始「能面」でしたが、ここでやっと人間らしさメリザンドらしさを感じました。あのドビュッシー歌曲集で聴くような生彩さを聴けました。(ちなみに彼女のメリザンド役は今回が初めてです。) さてゴローがペレアスを城の地下に誘う場面。舞台の下半分だけ使い、薄暗く狭い地下洞窟を表現。洞穴は床に映し出された丸いリング。第2幕で映ったメリザンドの落としたリングとは対照的に暗黒を感じさせました。 続く地上の出口へ抜出る場面。ここは真っ黒なスクリーンの上半分にくり抜かれた長方形の舞台が用いられています。すなわち暗黒の地下から地上に出た明るさと爽快感を対象表現。ブーレーズ指揮シュタイン演出の「ペレアス」に類似する手法です。 第3幕で面白いと思った演出をひとつ・・・嫉妬に燃えるゴローは息子イニョルドを肩車に乗せてメリザンドの窓を覗かせる場面。イニョルドは舞台左側を見るのですが、窓は見ているのとは逆の右側のスクリーンに小さな四角形で映し出されました。うーむ、ウィルソンという人は謎掛けが好きなのかな?でもこれの意味は見破れました。要するにイニョルドはゴローの嫉妬に脅えて、窓なんか見たくないと言っているのですね。 ●第4幕 印象に残る場面はイニョルドがボールを岩の中に無くしてしまい、羊の群れが通過する場面。ここではエジプト風の冠を被った羊飼いが大きなシルエットで通過しました。幻想的な照明の中に一抹の不気味さが漂った演出です。そしてそのままペレアスとメリザンドの最後の出会い。背景は真っ青に変わり、イニョルドが持ち上げられなかった大きな岩が宙に浮かび上がっていきます。まるで円盤のように。そして二人の美しい歌の高まりに応じて、白く吹き上がるような光線が床から空に向かって放射。眩しい光線に二人はシルエットと化し、恍惚の極みに達します。そして突然のゴローの登場、ついにペレアスの死です。ドラマは急展開し、単調ながらもこのオペラのクライマックスです。 ●第5幕 この幕は終始暗い舞台でした。ベッドに横たわるメリザンドを中心にゴローの葛藤が、そしてアルケルの優しさが印象に残ります。ただこの幕の演出は単純で、照明演出もそれ程ではありません。見ていて息苦しさを感じてしまいました。アルケルがメリザンドの生んだ子を抱えるのはジェスチャーで表現。そしてメリザンドの死が近づいた時、部屋に入ってくる待女たちはシルエットです。これは前幕でのペレアスが殺される前に羊飼いがシルエットとして登場しているのに呼応しています。音楽にライトモチーフがあるように、このようなシルエットや照明などの演出もストーリーを暗示するライトモチーフの役目を持っていそうです。 カーテンコールではアップショウとロイドの拍手が凄かった。アップショウは素晴らしい歌唱を聴かせてくれましたが、演出に縛られて何となく固い感じを受けました。本来ならアップショウの笑顔や自然さが歌と演技を豊かなものにしてくれるのですが、ウィルソンの演出は必ずしもアップショウの持ち味の良さを生かし切れていないようで、残念でした。一方のアルケル役のロイドはさすがの貫禄で、深みのある歌と演技でした。彼は黒いガウンのような衣装をまとい、杖をついた老王として登場しますが、ロイドの人間味あるれる演技と歌にはとても安らぎに満ちており、深い感銘を受けました。 カンブルランのインタビューをたまたま読んだのですが、それによるとドビュッシー音楽の特徴はとても小さな数小節のフレーズの集合であり、ラヴェルやツェムリンスキーなどとは本質的に異なるそうです。雰囲気だけの印象派ではなく、むしろベートーヴェンに近い。各フレーズは明瞭に演奏されるべきで、フレーズの意味を掴めるまで透明感を高める必要があると述べられていました。 さてそのカンブルラン/フィルハーモニアの演奏ですが、ドビュッシーの美しさを十分感じとれましたが、音楽の叙情性や起伏がいまひとつでした。これは演出にも責任があると思います。美しく幻想的ですが余りにも象徴的で禁欲的である為、見ているのが少し辛かったのです。だから音楽も単調に聞こえたのかも知れません。カンブルランの深い解釈までは聞き取ることができなくて残念です。 ブーレーズ/シュタイン/ウェールズ・オペラによる「ペレアス」(LD)はオペラを見るという意味では断然面白いのに対して、今回の公演は観客にかなりの修業(歩み寄り)を求めています。フランス語をすみずみまで理解して、「ペレアス」の象徴(Symbolismus) や普遍性を読み取らなければ悟りに至らないような演出でした。私には少しレベルが高すぎたようです。 なお本公演は国立パリ・オペラ座との共同制作で、既に今年2月のパリで初演されています。同じ舞台がこの秋パリで再演される予定です。ただしザルツブルクの横幅30mの舞台を他の劇場で上演する場合は、舞台装置の両サイドをカットするのかもしれませんね。 tujimoto メインページへ戻る |