Salzburg Festspiele 2003

Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791)
LA CLEMENZA DI TITO


Opera seria in zwei Akten KV 621
Text nach Pietro Metastasio von Caterino Mazzola
Neuinszenierung

Felsenreitschule
Samstag, 9. August, 18.30 Uhr

Dirigent; Nikolaus Harnoncourt
Inszenierung; Martin Kusej

Buhne; Jens Kilian
Kostume; Bettina Walter
Licht; Reinhard Traub
Choreinstudierung; Rupert Huber
Dramaturgie; Regula Rapp, Marion Tiedtke

Tito Vespasiano; Michael Schade
Vitellia; Dorothea Roschmann
Servilia; Barbara Bonney
Sesto; Vesselina Kasarova
Annio; Elina Garanca
Publio; Luca Pisaroni

Konzertvereinigung Wiener Staatsopernchor
Wiener Philharmoniker
Cembalo; Herbert Tachezi
Bassettklarinette; Peter Schmidl
Bassetthorn; Andreas Wieser







・7月26日から始まった音楽祭も既に「後宮」「ホフマン」「ティート」など新演出が出揃い、とりわけホフマンへの評価が高く、次いでティートが斬新な演出ながらも演奏と歌手が素晴らしいとのこと。昨年のクセイ演出ドン・ジョバンニも刺激的だっただけに大いに期待するところです。

それにしてもこの暑さは堪りません。先ほどのゴウラリの燃焼度に脱水ぎみ。ベーム・ザールのロビーで喉を潤しました。日の当たらないところに安らぎを覚えるばかりです。ちなみに反対側の小劇場のロビーはヴェルニッケ追悼の写真と舞台セットのミニチュアが展示されており、ボリス・ゴドノフなどの名舞台が懐かしいです。

さて座席は昨日のムーティ&ウィーンホーフムジークカペレとほぼ同じパルケット中央ブロックの最前列でした。コンサートマスターはホーネック、その隣りが昨日と同様にザイフェルトが。シュミードルのバセット・クラリネットにヴィーザーのバセット・ホルンが聴けるのも楽しみです。

ステージはフェルゼンライトの横長パノラマを目一杯使ったもので、壁を3つの層に分割し、正面1段目がやや大きめの皇帝の部屋。左右に矩形の小部屋を無数に配したスケールの大きなものでした。舞台の大きさにバランスさせるためなのでしょうか、オーケストラも小劇場で演奏するモーツァルトよりも規模が大きいと感じます。アーノンクールが登場し、序曲が始まるかと思った瞬間、2段目の層の中央にシャーデ演じる皇帝ティートが現れ、電話を掛け始めるシーン。呼び出し音が大きく聞こえるものの、誰も出ない為、ティートが落胆する場面が印象的でした。ここから序曲の開始となりました。

昨年のドン・ジョバンニではパルマ−女性下着の広告から始まりましたが、今年も意表をつく出だしとなりますが、この意表にアーノンクール&ウィーンフィルの素晴らしいサウンドが妙にマッチしていました。やや遅いテンポ運びながらも、古楽スタイルの推進力とパンチの効いたアンサンブルはさすがです。オペルン・チューリヒを振ったティートのCDでも聴かれるような粋の良さを随所に感じられました。

第1幕はヴィテッリア(レッシュマン)とセスト(カサロヴァ)の2重唱から、場面は2段目の左手の部屋で、日常生活を営む設定で開始されました。レッシュマンはやや太ってきたようですが、妖艶に下着を着替えるシーンが昨年のドン・ジョバンニの趣向を思わせました。ボーイッシュなカサロヴァがレッシュマンと抱き合いセクシーな場面を展開するものの、違和感はなく、美しいモーツァルトの響きととてもマッチしていました。ちなみに今年は男性の下着姿も多数登場するはクセイのこだわりなのでしょうか。第3番のデュエットで登場するアンニオ役のギャランカは今日のヴィオッティ指揮のモーツァルト・マチネでも歌っていますからダブルヘッダーでの登場。しかも明日のマチネも歌うという活躍ぶりに目を見張ります。一方、アンニオの恋人セルヴィリアはバーバラ・ボニーで、彼女の透明なソプラノは何時聞いても魅力的。以上の4人が織り成すドラマは主に2層目、3層目の小部屋を左右上下に場所を変えて展開。これに対して1層目中央の皇帝の部屋ではティートが物思いに更けるのようにベッドにずっと座っていました。まるでティートの周辺を巡る出来事をお見通しだと言わんばかりにも感じます。

昨年のドン・ジョバンニでは回転する小部屋で時間の流れを渡り歩くようなイメージを想起させてくれましたが、今回は平面的に広がる巨大壁のポジションに登場人物をマッピングさせることで意味付けがあるのではと思わせる箇所がありました。第1幕も大詰めの10番ヴィテッリア、アンニオ、プブリオの3重唱がそれです。それぞれをステージ右側の3層の各層に分かれて歌わせることで、3人それぞれの思いが相容れない複雑さを視覚的にも表現しているといえるでしょう。これとは対照的な場面は、第2幕18番のセスト、プブリオ、ティートの3重唱でした。ステージ左側2層目の小部屋に3人を集中させることで、セストの罪をめぐるドラマトゥルギーを高める効果があったように感じます。

他にも演出上の効果を狙った見せ場があり、第1幕終了間際の宮殿への放火はステージ左側の2層目の部屋から炎の塊を噴出させる方法が取られました。一瞬の熱気が席まで押し寄せてきたのには驚きました。何でも消防署もバックアップしての演出だとかで、フェルゼンライトシューレならではのスケールを感じます。第1幕4番の威勢の良い行進曲の時には、1層目中央の皇帝の部屋はあたかも博物館であるかのような設定でした。思い思いの格好をした観光客がティートの部屋に入ってきて回りを見物。あげくの果ては物思いに更けるティートも展示物と勘違いされて、観光客がカメラでティートを撮るという有様。ローマの群集を現代の観光客に置き換えた奇抜さですが、これが次の5番の合唱と上手く繋がっていくのには驚きました。クセイ演出の上手さを感じるところです。演出で最も難解と思われる箇所はオペラもフィナーレのティートが全てを許す場面でした。3層の各層の小部屋に並べられたテーブルの左右に男女が座っているシーン。テーブルには彼らの子供と思われる男の子が上半身を裸にされて寝かされるという演出です。しかも子供はティートの髪型とそっくりで、首をテーブルから垂れるように観客の方へ向けるという不自然さ。小部屋の全てで全く同じ動作の男女と子供で徹底的に空間を利用した増幅効果を狙ったものでしょうか。しかも男女は不適な笑みを湛えたパロディックさ。いずれにしても意味不明の演出ですが、皇帝ティートの慈悲をローマ市民たちが肯定しているようには見えませんでした。もう一つ謎めいた箇所はティートの表情でした。時折異常なまでに顔を引きつることがあり、多分にティートの心理劇を感じました。コンヴィチュニーのように分かりやすい心理描写といったものではなく、やはりティートには謎が残ります。音楽だけだと純粋なほどに明瞭な展開ですが、クセイの舞台は見るほどに考え込むばかりです。以上のように興味深いドラマ作りでしたが、歌を始め音楽面はさすがに素晴らしい限り。特にカサロヴァの素晴らしさは大きな喝采を呼んでいました。





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