ついにイースター音楽祭を締めくくるパルジファルの日となった。朝7時すぎにホテルの朝食をとってから、ゆっくりとチェックアウトし、9時37分ミュンヘン発の列車でザルツに戻る。このところの快晴で緑一色の草原と残雪に輝く山々のコントラストが眩しい。途中、教会に人々が集まってイースターを祝している風景が望まれたが、この時期の車窓は何よりも生命の息吹を感じさせてくれる。
今日の開演は昨日のミュンヘンよりも1時間早い16時なので、15時には出かける。パルジファルで始まったイースターも今日の最終公演で幕となる訳だから、アバドもきっと感慨深い演奏を聴かせるに違いないと期待が高ぶる。そんなためか祝祭劇場には熱気が漲っていた。
昨年、フィルハーモニーでのコンチェルタンテでも用いられた巨大なグロッケン(鐘)はオーケストラピットではなく、ステージ左側の袖に設置されていた。グロッケンは4つの音程を出すために大小4個の構成になっているが、暗闇で威容を放つ姿には絶対的な力が秘められているようだ。
ちなみにプログラム売場で貰ったチラシにはグロッケンのことが記載されていた。パルジファル初演以来、聖杯場面への転換に用いられるグロッケンは技術的妥協のもとで奏でられて来たという。本格的にグロッケンを具現化したのはアバドが始めてというのも驚きだが、アバドの助手でもあるヘンリック・シェーファーが考え出したというのも驚きだ。チベット寺院などで見られるアジア風の鐘から着想を得たという深い傘構造は、古典的な教会の鐘に比べて軽くできるメリットがあり、暗く深い響きを生み出せるとのこと。ちなみにシェーファーは先日のコントラプンクテでシャローン・アンサンブルを指揮したヴィオラ奏者だが、改めてその発想力に感心した。
●第1幕
期待を集めてアバドの登場。最初から凄い拍手だ。前奏曲の開始とともに次第に深い瞑想へと誘われていく。12月のコンチェルタンテの時とちがって、オーケストラピットからの響きは透明感を増し室内楽的な緊密さのように伝わってくる。フィルハーモニーと祝祭大劇場とでは音響空間の違いは当然としても、祝祭大劇場のほうがより楽劇に相応しい音場を提供していると感じた。
前奏曲の途中から次第に明るくなった幕には黒い液体が滴り落ちてくる映像が映し出されるが、これはアンフォルタスの血を示していて、早くも痛ましい雰囲気にさせられる。そして幕が上がったステージには横一杯に紗幕が多層状に張られている。全体に靄(もや)が掛かった雰囲気を演出していて、それを通してグルネマンツが微かに浮かび上がってくる。森の木々は左右に林立する柱上のシルエットで描かれており、このステージを見る限り、ロバート・ウィルソンの手法をそのまま映し出したかのようだ。もっとも人物の振り付けでウィルソン流でないことに気づくが、総じてパルジファルの朝の厳粛さを表現するにはシンプルな静止の世界が相応しい。
平土間5列目右ブロックの席からはアバドを横から望めるが、彼の指揮棒は実に流麗に空を舞い、オーケストラはぴったりとアバドの呼吸に一致している。彼にしなやかなタクトさばきは、アバド自身が完全に超越した境地に達しているかのようであり、その強固までに自身に溢れた指揮姿が何とも頼もしくて力強い。
さてグルネマンツはハンス・チャマーが演じるが、ファウストの情景で気になった語尾にかけての子音は心配した程でも無く先ずは安堵する。彼のグルネマンツも中々感動的で、アバド&ベルリンフィルの透明で敬虔な音作りに溶け込んでいる。とはいうものの昨日のモルの素晴らしさを思うと、今日のパルジファルにモルが出演してくれたならとの思いが拭い切れない。
クンドリーの登場は昨日のコンヴィチュニ演出のような奇抜さは無いものの、ウルマーナの存在感が光っていた。続くドーメンのアンフォルタスの痛ましさは真に迫るものがあった。12月のコンチェルタンテでは黒い服に棒立ちの状態だったのが、担架に運ばれての演技となると、リアルさが一挙に盛り上がるといった感じだ。それにしてもドーメンのキャラクターがアンフォルタスの迷いと嘆きをくっきりと浮き彫りしており、これほど存在感のあるアンフォルタスを見せられると、全ては彼への同情への伏線として求心力が増していく感じがした。
パルジファルの登場は、奇しくも昨日に見たコンヴィチュニの演出と同様に意表をつく共通点があった。すなわちコンヴィチュニ演出では、パルジファルがターザンのように蔓(つる)にぶら下がってステージ右上から左下へと落下していく登場であったが、シュタイン演出では白鳥が右上から左下へ落下していく振り付けであった。両演出は共にホルンが驚きを示す箇所でタイミング良く行われるのが効果的だった。
トーマス・モーザーのパルジファルは、昨日のジョン・カイズほど粗野ではなくとも、大胆さを感じさせることがあっても、ヘルデンさを湛えているところに魅力を感じた。パルジファルとも関連のあるローエングリンでもコンヴィチュニ演出の奇抜さでも神々しさをしっかりと表現していたことから、第3幕のパルジファルに期待を掛ける。
さて聖杯寺院への場面転換では、紗幕を通して見えるシルエット状の木々を左から右へ移動させることで、グルネマンツとパルジファルの歩みを描く。同時にステージ左から横長の板が移動してきて、舞台を覆う。この間に場面転換が行われるが、あのグロッケンの響きは超重低音であっても明確な音程を響かせている。さすがにその効果は凄いが、第1幕では押さえ気味に響かせていた。
場面転換も終わって現れた聖堂は左右に巨大な壁を配した構造になっている。それぞれの壁は対象系に3段構造の小部屋で仕切られていて、少年達や聖杯騎士達が配されていた。合唱を壁全体で響かせる手法はヴェルニッケ演出のボリス・ゴドノフを思い起こさせるが、このパルジファルではシェーンベルク合唱団の透明で厳粛な響きを引き出すのに効果を発揮していた。特に最上段の層に並んだテルツ少年合唱は天上からの合唱を演出していたが、舞台裏ではなく見える箇所からの合唱にすることによって神秘性というよりもある種の現実の世界を感じさせる。
このことは第1幕前半部がウィルソン風の暗いアートグラフィックから転じて、聖杯場面でデッカー風に明るくしたことにも関連しているように思える。すなわち、混沌とした暗闇の儀式ではなく、あえて聖杯場面を明るく照らし出すことによって、神秘的な宗教的雰囲気というよりも、パルジファルの衝撃から同情に至るまでを明晰に描こうとしているのではないかと。面白いことに、昨日のコンヴィチュニ演出でも共通点があった。それは聖金曜日の奇跡において、客席を次第に明るく照らし出すという手法で、暗から明に転じることで、聴き手にも衝撃もしくは啓示を感じ取って欲しいと言っているように感じた。
話を本日のパルジファルに戻し、聖杯場面においてはワーグナーの指示した通りの演出がなされた。すなわち聖杯は具体的に示され、天上から差し込む光によって赤く輝く。最近流行の読み替えや奇抜な演出とは無縁であるかのように、あくまで頑な型を示す。このオーソドックスさには、パルジファルは普通のオペラでは無く舞台神聖祝典劇と考えたワーグナーに忠実であろうとする意思すら感じられる。
この時のアバドの指揮ぶりも、合唱が厳粛に歌う場面では両手を広げて、完全に神聖な趣であるし、聴衆もミサに参加しているのだという特別な思いにさせられる。香のけむりが客席に充満し、その焦げ臭さとともに儀式に参加しているというリアルさが伝わってくるためか、身動きも出来ないまま1時間半の第1幕があっという間に過ぎ去っていった。
なお聖杯場面の途中、ステージにマイクが用いられていたようで、これがハウリングしたようなクリック性のノイズがスピーカーから流れ、グルネマンツが驚きながら歌うという場面があったが、トラブルには至らなかった。
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