OSTERFESTSPIELE
SALZBURG 2002
Berliner Philharmonisches Orchester
Montag, 1. April, Groses Festspielhaus 16.30 Uhr

Richard Wagner
PARSIFAL
Oper in drei Akten

Musikalische Leitung Claudio Abbado
Inszenierung Peter Stein
Buhnenbild Gianni Dessi
Kostume Anna Maria Heinreich
Licht Joachim Barth
Amfortas Albert Dohmen
Titurel Markus Hollop
Gurnemanz Hans Tschammer
Parsifal Thomas Moser
Klingsor Eike Wilm Schulte
Kundry Violeta Urmana
Erster Gralsritter Franz Supper
Zweiter Gralsritter Bernd Hofmann
Stimme von oben Elena Zhidkova
Blumenmadchen Caroline Stein
Christine Buffle
Heidi Zehnder
Gesa Hoppe
Karin Sus
Elena Zhidkova
Berliner Philharmoniker
Prager Philharmonischer Chor
Arnold Schoenberg Chor
Tolzer Knabenchor

ついにイースター音楽祭を締めくくるパルジファルの日となった。朝7時すぎにホテルの朝食をとってから、ゆっくりとチェックアウトし、9時37分ミュンヘン発の列車でザルツに戻る。このところの快晴で緑一色の草原と残雪に輝く山々のコントラストが眩しい。途中、教会に人々が集まってイースターを祝している風景が望まれたが、この時期の車窓は何よりも生命の息吹を感じさせてくれる。

今日の開演は昨日のミュンヘンよりも1時間早い16時なので、15時には出かける。パルジファルで始まったイースターも今日の最終公演で幕となる訳だから、アバドもきっと感慨深い演奏を聴かせるに違いないと期待が高ぶる。そんなためか祝祭劇場には熱気が漲っていた。

昨年、フィルハーモニーでのコンチェルタンテでも用いられた巨大なグロッケン(鐘)はオーケストラピットではなく、ステージ左側の袖に設置されていた。グロッケンは4つの音程を出すために大小4個の構成になっているが、暗闇で威容を放つ姿には絶対的な力が秘められているようだ。

ちなみにプログラム売場で貰ったチラシにはグロッケンのことが記載されていた。パルジファル初演以来、聖杯場面への転換に用いられるグロッケンは技術的妥協のもとで奏でられて来たという。本格的にグロッケンを具現化したのはアバドが始めてというのも驚きだが、アバドの助手でもあるヘンリック・シェーファーが考え出したというのも驚きだ。チベット寺院などで見られるアジア風の鐘から着想を得たという深い傘構造は、古典的な教会の鐘に比べて軽くできるメリットがあり、暗く深い響きを生み出せるとのこと。ちなみにシェーファーは先日のコントラプンクテでシャローン・アンサンブルを指揮したヴィオラ奏者だが、改めてその発想力に感心した。



●第1幕

期待を集めてアバドの登場。最初から凄い拍手だ。前奏曲の開始とともに次第に深い瞑想へと誘われていく。12月のコンチェルタンテの時とちがって、オーケストラピットからの響きは透明感を増し室内楽的な緊密さのように伝わってくる。フィルハーモニーと祝祭大劇場とでは音響空間の違いは当然としても、祝祭大劇場のほうがより楽劇に相応しい音場を提供していると感じた。

前奏曲の途中から次第に明るくなった幕には黒い液体が滴り落ちてくる映像が映し出されるが、これはアンフォルタスの血を示していて、早くも痛ましい雰囲気にさせられる。そして幕が上がったステージには横一杯に紗幕が多層状に張られている。全体に靄(もや)が掛かった雰囲気を演出していて、それを通してグルネマンツが微かに浮かび上がってくる。森の木々は左右に林立する柱上のシルエットで描かれており、このステージを見る限り、ロバート・ウィルソンの手法をそのまま映し出したかのようだ。もっとも人物の振り付けでウィルソン流でないことに気づくが、総じてパルジファルの朝の厳粛さを表現するにはシンプルな静止の世界が相応しい。

平土間5列目右ブロックの席からはアバドを横から望めるが、彼の指揮棒は実に流麗に空を舞い、オーケストラはぴったりとアバドの呼吸に一致している。彼にしなやかなタクトさばきは、アバド自身が完全に超越した境地に達しているかのようであり、その強固までに自身に溢れた指揮姿が何とも頼もしくて力強い。



さてグルネマンツはハンス・チャマーが演じるが、ファウストの情景で気になった語尾にかけての子音は心配した程でも無く先ずは安堵する。彼のグルネマンツも中々感動的で、アバド&ベルリンフィルの透明で敬虔な音作りに溶け込んでいる。とはいうものの昨日のモルの素晴らしさを思うと、今日のパルジファルにモルが出演してくれたならとの思いが拭い切れない。

クンドリーの登場は昨日のコンヴィチュニ演出のような奇抜さは無いものの、ウルマーナの存在感が光っていた。続くドーメンのアンフォルタスの痛ましさは真に迫るものがあった。12月のコンチェルタンテでは黒い服に棒立ちの状態だったのが、担架に運ばれての演技となると、リアルさが一挙に盛り上がるといった感じだ。それにしてもドーメンのキャラクターがアンフォルタスの迷いと嘆きをくっきりと浮き彫りしており、これほど存在感のあるアンフォルタスを見せられると、全ては彼への同情への伏線として求心力が増していく感じがした。

パルジファルの登場は、奇しくも昨日に見たコンヴィチュニの演出と同様に意表をつく共通点があった。すなわちコンヴィチュニ演出では、パルジファルがターザンのように蔓(つる)にぶら下がってステージ右上から左下へと落下していく登場であったが、シュタイン演出では白鳥が右上から左下へ落下していく振り付けであった。両演出は共にホルンが驚きを示す箇所でタイミング良く行われるのが効果的だった。

トーマス・モーザーのパルジファルは、昨日のジョン・カイズほど粗野ではなくとも、大胆さを感じさせることがあっても、ヘルデンさを湛えているところに魅力を感じた。パルジファルとも関連のあるローエングリンでもコンヴィチュニ演出の奇抜さでも神々しさをしっかりと表現していたことから、第3幕のパルジファルに期待を掛ける。

さて聖杯寺院への場面転換では、紗幕を通して見えるシルエット状の木々を左から右へ移動させることで、グルネマンツとパルジファルの歩みを描く。同時にステージ左から横長の板が移動してきて、舞台を覆う。この間に場面転換が行われるが、あのグロッケンの響きは超重低音であっても明確な音程を響かせている。さすがにその効果は凄いが、第1幕では押さえ気味に響かせていた。

場面転換も終わって現れた聖堂は左右に巨大な壁を配した構造になっている。それぞれの壁は対象系に3段構造の小部屋で仕切られていて、少年達や聖杯騎士達が配されていた。合唱を壁全体で響かせる手法はヴェルニッケ演出のボリス・ゴドノフを思い起こさせるが、このパルジファルではシェーンベルク合唱団の透明で厳粛な響きを引き出すのに効果を発揮していた。特に最上段の層に並んだテルツ少年合唱は天上からの合唱を演出していたが、舞台裏ではなく見える箇所からの合唱にすることによって神秘性というよりもある種の現実の世界を感じさせる。

このことは第1幕前半部がウィルソン風の暗いアートグラフィックから転じて、聖杯場面でデッカー風に明るくしたことにも関連しているように思える。すなわち、混沌とした暗闇の儀式ではなく、あえて聖杯場面を明るく照らし出すことによって、神秘的な宗教的雰囲気というよりも、パルジファルの衝撃から同情に至るまでを明晰に描こうとしているのではないかと。面白いことに、昨日のコンヴィチュニ演出でも共通点があった。それは聖金曜日の奇跡において、客席を次第に明るく照らし出すという手法で、暗から明に転じることで、聴き手にも衝撃もしくは啓示を感じ取って欲しいと言っているように感じた。

話を本日のパルジファルに戻し、聖杯場面においてはワーグナーの指示した通りの演出がなされた。すなわち聖杯は具体的に示され、天上から差し込む光によって赤く輝く。最近流行の読み替えや奇抜な演出とは無縁であるかのように、あくまで頑な型を示す。このオーソドックスさには、パルジファルは普通のオペラでは無く舞台神聖祝典劇と考えたワーグナーに忠実であろうとする意思すら感じられる。

この時のアバドの指揮ぶりも、合唱が厳粛に歌う場面では両手を広げて、完全に神聖な趣であるし、聴衆もミサに参加しているのだという特別な思いにさせられる。香のけむりが客席に充満し、その焦げ臭さとともに儀式に参加しているというリアルさが伝わってくるためか、身動きも出来ないまま1時間半の第1幕があっという間に過ぎ去っていった。

なお聖杯場面の途中、ステージにマイクが用いられていたようで、これがハウリングしたようなクリック性のノイズがスピーカーから流れ、グルネマンツが驚きながら歌うという場面があったが、トラブルには至らなかった。


●第2幕

第2幕は冒頭からシュタイン独特のステージに魅了された。左上部のみ外に開放された空間が広がる他は全て闇の世界。とても長い階段が右に長く下りてくる構図は、シュタインがブーレーズと組んだウェールズ・オペラの「ペレアスとメリザンド」の基本形でもあるし、何よりも上部の開口部はアバドと組んだヴォツェックの部分分割舞台を想起させる。
ステージ右下にはアンテナが回転しているが、これはクリングゾールの聖杯略奪に向けての情報収集を象徴しているためだろうか。昨日のコンヴィチュニ演出ではクリングゾールとアンフォルタスの表裏一体化のアイデアを思わせたが、聖杯を軸にアンフォルタスとクリングゾールが対の関係にあることを、このアンテナは物語っているように思える。

花園の場面では暗闇のセットと入れ替わりに床全体が傾斜し始め、緑の植え込みが迷路状に彩られた庭園が出現する。カラフルな乙女達が舞う様はやはり美しく幻想的。昨日のミュンヘンほどエロスはなくとも、心が沸き立つ。そしてウルマーナのクンドリーの登場。ここからが彼女の本領発揮ということで、マイヤーほど目立たなくとも、劇に溶け込むその歌と演技は素晴らしい。トーマスのパルジファルも次第に白熱してくる。クリングゾールから放たれた槍の場面も、空間に描かれた十字架がとても象徴的にクローズアップし、十字架の重みを感じさせられた。

12月のコンチェルタンテでは第2幕により大きな音楽的興奮を覚えたが、やはりステージがあると、音楽というよりも劇にのめり込ませる集中力と緊張が常に漲っていることを実感する。そういえば12月のコンチェルタンテではライトモチーフがまるで空間を走るが如く耳に印象的に入ってきたのだが、不思議とライトモチーフを意識させない。それでいて劇と音楽のバランスが過不足なく満たされている充足感が得られた。

第2幕もフィナーレから80小節遡ったクンドリーのUnd ftoehest du von hier und・・・の箇所からは強力な弦のトレモロが大地から沸き起こるかのような迫力を示し、パルジファルの輝かしさがひときわ冴え渡る。まさに最大限、劇に集中させるアンサンブルの妙に感心させられた。



●第3幕

モンサルヴァートの夜明け青くシンプルな空間が広がるステージ設定で始まった。第1幕同様、靄のかかった幻想的な情景で、グルネマンツとクンドリーの場面を経て、パルジファルが銀色の面を被った姿で登場する。ここからはグルネマンツの敬虔な語りに感動することとなる。チャマーのグルネマンツも貫禄があって素晴らしいが、ここはやはりクルト・モルか、当初予定されていたポルガーに歌って欲しかった。ポルガーはティーレマン&ベルリン・ドイツで感動のグルネマンツを演じたが、彼も言葉には尽ないほど素晴らしかった。それでもアバド&ベルリンフィルの贅肉を落とした清楚な響きが全体を包み込んでいく。

聖杯儀式への場面では、再びあのグロッケンが7小節に渡って鳴り響く。Langsam のテンポはややスピードを落として、たっぷりと。さらに44小節後に響く時は第1幕の時よりも大音響で。衝撃に覚醒させられるような効果といえば良いだろうか。場面転換も第1幕と同じで、あの明るい聖堂に今度はアンフォルタスとティトゥレルの棺が運ばれるといったリアルな演出が続く。

ここで特筆すべきは、やはりアルベルト・ドーメンのアンフォルタスだった。第1幕も素晴らしかったが、その恐るべき痛ましさは客席に向かって押し寄せてくる凄さ。演技力の上手さでは片付けられない切実さ。これほど心に食い込んでくるアンフォルタスを見たのは本当に初めてだ。それゆえにパルジファルによる救済が実にリアルに語りかけているように感じられた。もやは神秘的、宗教的というパルジファルのイメージを超越したかのような衝撃で、新境地に悟りを得たような思いと表現すればよいだろうか。

ワーグナーが意図したように、これはオペラでは無く、舞台神聖祝典劇だという意味に符合するように思えた。極論すればシュタイン演出を媒体としていながらも、聴き手が見ている対象はもやは舞台セットや演出ではなく、パルジファルが開眼した境地(コンセプト)であり、これに協調できたことにひたすら感動するということ。この鍵を開いてくれたのが小生の場合、アンフォルタスであった。

その意味において、アバド&ベルリンフィルの演奏も一種の触媒の役目を成していて、その演奏に過剰な思い入れが無いことがプラスになっていたと感じる。過剰な思い入れとは表現過多とでも表現すべきであろうか、ようするにアバド&ベルリンフィルの演奏には誇張を押さえたシンプルさを基本にしていて、その純度の高い透明感が、舞台神聖祝典劇をすっきりと照らし出していたと思う。

実のところ昨日のミュンヘン・オペラも日本公演などとは比較にならない程素晴らしく、音の重厚感や透明感はベルリンフィルに引けを取らないものであった。けれどもアバド&ベルリンフィルからは何処か言葉では表現しにくい魅力と感動が伝わってきたの上記の理由ではないかと考える。

結果的に12月の演奏会形式に比べてステージがあることで、アバドの指揮も劇に徹した音作りで、パルジファルという精神的昇華にはベルリンフィルの透明感溢れる演奏が効果的であったと思う。さらに12月の演奏会形式ではテンポ運びに変化をつけて、音楽的な効果を高めていたところがあったが、今回は終始一貫、中庸のテンポで、ドラマを優先して進めていたのも効果的だった。淡々としていながらも舞台神聖祝典劇が自ずと聴き手に啓示させれたのではないだろうか。

小生は正直なところパルジファルの演出はロバート・ウィルソンのように殆どコンチェルタンテに近いものが好みだ。そういう意味において聖杯の場面は明るすぎると感じたほどであったが、実際にこのように啓蒙を受けたことで、今回の上演は、パルジファルの既成観念云々の次元を超越した高みに達した上演だったと思う。夏のエディンバラ音楽祭で再び、今度はグスタフ・マーラー・ユーゲントでアバド&シュタインのステージを確かめてみたい。







ウィーンの楽友協会から2001年5月6月の案内が届いた。A4サイズ3ページに渡り、アバドが取り上げられている。ベルリンフィルとの最後のコンサートに焦点が向けられ、4月に行われるBPO定期、ムジークフェライン公演に関することに加え、アバドとウィーンの関わりなどの足跡が紹介されている。
(2002年4月15日)

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