傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 23 [ 2004年9月 ]


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2004年9月11日(土曜日)

シカゴから西へ80キロほど遠出をして、とうもろこし畑に沈む夕陽を観賞した。帰り路、移動遊園地を見掛ける。メリーゴーランド、各種コースター、バイキング船、フリーフォールなど、規模は小さいが各々が本格的で、まだ暖かな初秋の夜に電飾が煌めく。ポップコーン、コーンドッグの屋台、ぬいぐるみが景品の的当てなど、異国のカーニバルに心時めかずにはいられない。中でも圧巻は観覧車。半径が小さいためか、高速で何周もしていた。


2004年9月13日(月曜日).

最新CDの売り上げが百万枚をこえるラップスター、TWISTA(トゥイスタ)のボディガードをしていたブッチ(Arthur "Butch" Dixon)が、ツアー中の交通事故で逝ってしまってから一週間になる。

最初そのニュースを聞いてもピンとこなかった。『ウイリー・ディクソンの息子で柄のでかい』と言われてようやく思い出す。上手くはないが雰囲気のあるピアノを弾く、身長2メートル近い巨漢の男で、席を代わってやったとき、オレのピアノ椅子が壊れないかと心配した記憶がある。あいつならミュージシャンよりボディガードの方が似合っていた。

ブッチの追悼式が、なぜ死後一週間も経った今日になったのかは分からない。ディクソン家族とSOBは親しい間柄らしいので、言葉を交わしたこともない、オレの名前もきっと知らないまま逝ってしまった人間の追悼式に、機材を運び入れ、何時間も演奏しなければならないのは仕方ない。セッティングを終え参列名簿に記帳をして、棺に横たわる彼の前で神妙に手を合わせて顔を拝んだ。

むむむ・・・昨年の今頃、シャーリー・ディクソンの追悼式で、棺の前で片膝をつき、いつまでも動かないでいた大柄の男がいた。(2003年8月13日参照)それは兄のブチだったに違いない。

去年のシャーリーの追悼式と同じ会場、同じ配置・・・そしてオレは同じ位置で、同じ視点から祭壇を眺めて演奏していた。母親マリーさんの2年続く同じ喪失感は、他人からは到底推し量れない。目の前で唄うココ・テイラーを見つめながら、指から次第に力が抜けていくのを感じていたが、時の過ぎゆくままにしていた。

その後アーティスに移動してレギュラーのライブを終え、機材を片付けていると、ドラムのモーズが客と妙にはしゃいでいるのが目に止まった。オレと丸山さんは各々の機材を片したあと、アンタのドラムセットの解体を手伝うんだから、手を休めずにはしゃいでくれる?と近寄ると、彼は破顔で『キーをくれっ、キーをオレにちょーだい!』と客に叫んでいる。モーズの相手は、表に停まっている白のストレッチ・リムジン(胴体の長い高級送迎車)の運転手らしい。仕事帰りに空で乗り付けたようだった。

ラップスターとは違って、オレたちにはまだ手の届かない白い高級リムジン。あれで乗り付けるのがスターの証し・・・ってモーズ、車のキーを貰ってどうするの?リムジンは、運転手を雇って後部座席に乗るモンでしょ。


2004年9月16日(木曜日)

オレのところへ午前中に電話を掛けてくる者はセールスに違いない。寝入ったばかりの10時頃に起こされ少し頭痛がしたので、熟睡しているところを起こされた思いっきり不機嫌なしわがれ声を意識して作り、おまけに時間差まで入れてやった。

「・・・・・・」
「ハロォウ」
「・・・・・・ハ、ロォ・・・」
「ミスター・スミトですか?」

案の定セールス女性特有の無機質な明るい声で、知り合いなら絶対に呼ばないオレの名前で訊ねてきた。それでも、何か公的機関(役所や銀行)からのお知らせなら無下にはできないので、様子を窺わねばならない。もっともその筋からの通知は郵便と決まっているのだが。

「ミスター・スミトォ?」
「・・・・・・イャ(ガチャッ!)ァ、アッ・・・」

切るなっ!


2004年9月17日(金曜日)

オレのところへ昼過ぎに電話を掛けてくる者はセールスである可能性が非常に高い。

「はろぅ」
「ハロー?ミスター・スミトォ?私はSBC(地域の電話会社)のクリスティーヌと言います今契約されている電話のパックがよりお得になるキャンペーンの説明に電話致しましたインターネット回線も・・・」

わぁあー、昨日と全く同じ声。今日はこっちの返事も待たずに話し始めてる。おまけに途切れない。こういうときは聞こえない振り、聞こえない振り。

「・・・はろぅ」
「それでですね月になんと$25も安上がりに・・・」
「・・・はろぅ」
「・・・あっ、ミスター・スミトォ?」
「・・・はろぅ」
「・・・(ガチャッ)」


2004年9月21日(火曜日)

ビザ延長申請に必要な英語資料をネットで探してて、オレがプロデュースし難産の末、春にP-VINEより発売されたビリー・ブランチとカルロス・ジョンソンの共作アルバムのレビューを発見した。

作品は、制作意図や苦労などとは独立して評価されるべきだし、文化なんて数値に表れない感性の構築であり、聴く側の習熟度や立場、嗜好に左右されやすいことは当然だ。だから、逐一その点数に一喜一憂するのは感情として理解できても、苦言に際しては常に謙虚な姿勢で襟を糺し拝聴せねばならない。

かのレビュー筆者A氏が付けた三ツ星の点数は、氏のご慧眼からは過分な点数だったのかも知れない。傾聴すべきご高説は多々あるが、特に氏は純粋なブルースファン(purist)であるらしく、制作は磨き過ぎ(too polished)と述べられた。

ふむふむ、いろいろご教授賜り更なる精進へ向けての参考に致しまする・・・ん!?アルバムクレジット・・・ドラムのブレディをトップに、次が音響係りのジャックぅ?そしてビリーが最後っケツ。あっ、オレとベースの江口の名前が抜けてる!ジャケット裏にエー語で「プロデューサーはアリヨ」と大書してあるのに、こいつ見えへんかったんかぁ?その替わりに音響屋の名前を入れるか・・・。

腹が立つよりも馬鹿らしくなってきた。A氏のような生っ粋・純粋・高潔ブルースファンは、日本人が目に入らないらしく、CD本に載せられた写真を見てクレジットに名前を載せなかったに違いない。いや、日本人の制作自体が気に入らなかったに違いない。2年前のスイス・ルツェルンであったブルースフェスでは、パンフレットの表紙に使われたSOBのプロモーション写真からオレと丸山さんの顔が削除されていた。自称、「純正ブルースファン」は、音を楽しむ「音楽ファン」ではないらしい。

オレと江口の煽りを食ってかキーボードのルーズベルトの名前もなかった。写真の彼は純粋アフリカ系アメリカ人の顔だったにもかかわらず・・・。


2004年9月24日(金曜日)

『ユァー・サウンズ・グゥ』

キングストン・マインズのトイレで手を洗っていると、30才代に見える白人の大男に声を掛けられた。『ありがとう』と応えると『日本のどこから来たんですか?』と訊ねる。挨拶のあと「どの地域から来た」といきなり質問するのは、『サウンズ・グゥ』は切っ掛けに過ぎず、どこから来たかを知りたかったはずで、本人も滞在したことがある日本の話がしたいに違いない。

にもかかわらず、営業用の笑顔だったのが素になり『京都です』と続けると、『オー、素晴らしい所ですね』と言っただけで、彼からはすぐに話を広げる気配が感じられない。自分の見立て違いが気に入らず、ついこちらから『日本へはいらっしゃったことがあるんですか?』と訊ねてしまった。丁度二人が並んでトイレから出るときだったため、『大阪に2年いました』と応えた彼の表情は窺えない。「2年の滞在」に反応して思わず日本語で話していた。

『日本語は話せますか?』
『チョットダケ』
『大阪では何をしていたんですか?』
『バレーボール、プレイシテマシタ』
『えっ、どこの実業団で?』
『ゾージルシ』
『象印!?』

象印バレー部は何年も前に廃部になっているはずだ。日本の企業・経営者は、運動部を宣伝の道具としてしか考えないところが多く、成績が落ちて利用価値が無くなったり、企業本体の収益が落ちるとまっ先に切り捨ててしまう。ヒューさんと名乗った彼がどれだけ活躍したかは分からない、なぜ2年間だったのかも分からない。しかし、日本では人気スポーツの一つでもあるバレーボールの、俗に言う「外国人助っ人」(排他的で嫌なフレーズだが)の一人として実業団に在籍していたのは、彼が素晴らしい運動能力の持ち主であることを表している。もしかしたら、イタリアのプロリーグにも在籍していたかも知れないが、米国ではマイナースポーツのため、遠い異国に活路を見い出し、わずか2年でも日本で暮らしたのは、子供の頃からのバレーボールに夢を見続けたからだろう。

話ながらも立ち止まらず自席へと向かう彼に、どことなく話を切り上げたがっているように感じたので、短い挨拶をしてそのまま別れてしまった。

ヒューさんがオレに話し掛けたのは、たまたまトイレの洗面で横に並んだからだ。しかし、今となって大切なことを訊き忘れたと残念に思っている。彼の日本の印象はどんなだっただろう。生活様式や言葉、習慣の違い、実業団での実際など、苦労も多かったに違いない。就職した企業の海外駐在のような生活保障もなく、夢の続きに身を置きたいがため自ら不安定な外国暮しを選択した。自分の知らない職業スポーツの世界ではあるが、いまだ夢果たせず、異国で汲々として不安定な生活を送っているオレとは、同質の思いがあったに違いない。

引退の早いスポーツ界とは異なり、音楽の世界は死ぬ真際までしがみつくことも可能な業界なのが、取り敢えずは救いである。それでも演る場がなく、生活が立ち行かなくなれば仕方がない。そして今日、去年の始めに数カ月間マインズのレギュラーを共にしたスラム・アレンが、終に夢破れてニューヨークへ戻って行った。


2004年9月27日(月曜日)

週末から今日まで多くの同胞が観に来てくれた。札幌"Heaven Studio"の一行を始め、ビザ延長申請資料の英訳を手伝ってくれたオレゴン大学院生のIさん、イリノイ州立大学を卒業したばかりのYとその友人、横浜から来ていた役者・歌手・タレントの卵Y、拙日記の愛読者っぽい千葉からのNさん、その他シカゴ在住の日本人ミュージシャンたち。

シカゴのブルースクラブで邦人が群れるのは異な感じがするが、昨今は店も客たちも、演奏者を含めたクラブ内の日本人を見慣れていて、オレでさえ意識することは少なくなった。逆に言えば、ブルースはシカゴの大切な観光資源であり、市民も訪れる人たちも店内の多様な民族・人種・国籍の違いを当然だと受け止めているのだろう。もっとも、観光客の立ち寄らない黒人街では別であるが、クラブ内の暖かいもてなしは変わりない。

今晩のアーティスでは横浜のY、千葉のNさんとギタリストのFくんの顔が見えた。各々バラで来ていたが、最後はモーズのドラムセット解体をみんなが手伝ってくれて、オレと丸山さんは少し楽をした。Fくんはシカゴ在住で、去年の初めにべーシストのチャールズから紹介された。挨拶がしっかりできる礼儀正しい人で、気が付けばリンゼイ・アレキサンダーのバンドのレギュラーとなり、ギターも熟(こな)れて上手になっていったのに、今月一杯でシカゴを引き上げてしまう。いろんな事情があるのだろうが、シカゴに夢を抱いてやって来た人との別れは、普段それほど行き来する仲ではなかったがどこか惜別に等しい感慨を覚える。

早朝の便で帰国する若いYを空港まで送る途中、Nさんを宿に落としてあげた。ひとりでブルース三昧にやってくる人は経費節約のため、ダウンタウンの「東京ホテル」に泊まることが多いが、この方は高級感の漂う「House Of Blues HOTEL」御宿泊であった。アメリカ人の友人の狭いStudio(ワンルームマンション)の居候をしていて散々気を遣いまくったYが羨ましがる。

そういうYは既に日本の某映画に出演していて、パンフレットに顔写真まで載せてもらっていた。大手レコード会社やタレント事務所からの誘いに迷っているという彼のことを業界人に伝えたら、「それにしても金の匂いのするやつですねー」と返信してきた。『へぇー、そんなもんなんっすかねぇ・・・』と他人事のYは、チャンスの誘いすらなく、夢ばかりを追って老いていく若者が圧倒的多数である認識に欠ける。何ごとにも計算高い人間ばかりの世の中にあって希有の感覚で、人なつこさと共に無垢なところが彼の魅力なのかも知れない。

デルタ航空のゲート前では、チェックインの時間が迫っているのにYが車から降りようとしない。どこが気に入られたのか、『アリヨさんともっと話していたい』とだだをこねる。ようやく降りたと思ったら、助手席のドアを開けたまま路に膝をつき、上半身だけを乗り入れてきた。

あのなぁ、オレはお前の・・・

Yを蹴り出して車を走らせたバックミラーには、長身の若者が万歳をしながら飛び跳ねる姿がいつまでも映っていた。


2004年9月28日(火曜日)

迂闊なことに満月の出は日の入り時間とほぼ等しいことに思い至らなかった(2004年5月5日参照)。そりゃ太陽が月を照らす真正面の位置におらんと満月にもならんわな。もっとも、本当の満月(地球から観た月の顔が完全に照らし出されること)はわずか1分ほどらしい。そして迂闊なことに今日は満月だった。

慌ててケーブルテレビのお天気専門局で確認すると日の入りは6時37分。壁時計は6時3分を指している。音速で仕度をして北へ向かうフリーウエイのエデン線に乗り入れる。アメリカ人はサービス残業をする人が少なく、午後7時近くになれば帰宅ラッシュはほぼ解消されていた。

30分程で高台(2001年12月9日参照)に到着すると、厚着をした家族や毛布持参の老齢のカップルが既に数組陣取っていた。飲み物が肘掛けに置ける折り畳み椅子に座る者もいる。みんな湖上から昇りくる満月の幽玄な妖姿を知っているのだ。

空いているベンチに腰を下ろし、コンフォーターで身を包んでそのときを待つ。低いところを雲の集団が足早に南へ流れていくので、果たして東の水平線が鮮明なのかどうか分からない。テレビのお天気レーダーでは、対岸のずっと向こうにあるデトロイト付近まで晴れ渡っていたはずだが、月の出が拝めなければここで粘ってもしょうがない。目の前の雲にしても、東へ流れてくれればよいものを、ずっと視界を塞ぐように横切るだけで、時おり見せる雲の間に月が現れるのを期するより為ん方ないのか。

神々しく眩い輝きを放ながら満月が現れたのは、日の入りより1時間近くも経った時だった。昇ったかどうかすら判明しなかったので、水平線は厚い雲で覆われていたのだろう。気が付けば水平線のわずか上に立ち篭める雲の一部が既にぼんやりと明るい。突然、カーテンの隙間から朝日が差し込むような光が漏れ出した。満月の明るさにたじろぎながら、月の出は見られずとも粘って良かったと、何か払い戻しを受けた気になっていた。

雲の隨(まにま)に一瞬姿を見せては隠れてしまうお月様も、何度かそれを繰り返し、ほんの数秒ではあったが終に全貌を曝(さら)け出した。垂れ込めた雲の艶かしい月影と待たされた上でのチラリズムには、仄かなエロスさえ感じられた。


2004年9月29日(水曜日)

大型スーパーのジュエルのアジアン・コーナー、といっても怪しげな寿司パックや指で押しても元に戻らない大福のパック(2001年12月18日参照)など、主に日本食関係が陳列されていて、その他にも関連の調味料・食材などがある。いつものように素通りしようとしたら『ねぇ、ちょっと』と声を掛けられた。振り向くと、真っ赤な縁取りの眼鏡に真っ赤な口紅を塗ったとても小柄な老婆が、袋を手にオレを見上げている。『これは中華野菜が入っているの?』手に取ってみると、予め調理用に刻まれた野菜がパックにされていた。

『さぁ・・・ナッパ(こっちは白菜がナッパと呼ばれている)は見えますが中華野菜と呼べるかどうかは分かりません。人参やキャベツも入っているようですし』
『チョップ・スイを作ろうと思うの』
『ゴメンなさい、ボクはチョップ・スイの作り方を知らないんです』
『でも、これでチョップ・スイは作れるかしら?』
『チョップ・スイって中華料理でしょう?ボクは日本人だから知らないんですよ』
『でも私はチョップ・スイを作りたいの』
『申し訳ないけど、ほとんどの日本人はチョップ・スイの作り方を知らないと思いますよ』
『あらっ、あなた日本の方だったの?東洋人はみんな同じに見えるから、おホホホ・・・』

気の毒だがチョップ・スイの作り方なんて見当も付かないから仕方がない。コーナーのカウンター内で怪しげな寿司を作りながら、オレたちのやり取りを盗み見している韓国人経営者も知らないに決まっている。

90才近くに思える老婆が作る中華は、一体どんな味がするのだろうか?きっと満足に歩き回ることのできない彼女の夫と一緒に食べるのだろう。彼がチョップスイを食べたいと我侭を言ったのかも知れない。

アメリカ人の独立心は年を取っても衰えない。老人の自立や社会参加は望ましいし、その意味では社会全体がコンセンサス(合意)を持って受け入れている。車などトロトロ運転どころか、指示器も出さずふらふらと車線を変える危険な行為も多いが、お年寄りと分かれば我慢できる。ただ真紅の縁眼鏡の老婆を見て、やがては老いる自分の両親を想いなんとも言えない寂寥を感じた。 


2004年9月30日(木曜日)

月初めはもっと時間の余裕があったはずなのに、どうしてこう忙しいときに限って髪の毛を切りに行きたいのだろう。午前中には起きて郊外へ出向いていた。立たせるために短くして、趣を変えようと赤っぽい色に染めてみた。そして鏡の中には赤毛ザルが一頭いた。

思ったことをちゃんと説明できず、心の内に不満を溜めては態度で示すことしかできない人間は、周りの忖度(そんたく)なしには他と交わることが難しい。エディ・テイラーJr.はその態度も微妙だったので、オレがあれだけ皆に進言していたにもかかわらず状況は変わらなかったようだ。

毎週木曜日のジャムのホストにエディが相当の不満を持っていたのは、随分前から知っていた。その原因は彼のペースで演奏できないことに尽きる。仕切りはロザのマネージャーでドラマーのトニーだし、ベースの江口が帰国して代わりにレギュラーになったスリーピー(彼の本名をまだ誰も知らない)は、ステージ上の音量バランスが分からず音がでかい。シロタップのロブが上がればそれはもう極みで、エディがそっとギターを置いて降りることさえあった。

オレにしても、かつてエディにチューニングやコードの間違いを指摘しては鬱陶しがられたことがある。彼のようなブルース一家で純粋培養された人間は、今まで散々周りの年寄りブルースマンから威張り付けられ、ようやく一人前(一人立ち)になったと思ったのに、他人からあーだこーだ指図されると反発してしまうようだ。見透かされているようで怖いのかも知れない。寡黙なのではなく内弁慶で、それは逃げているだけなのだが、「どうせ言っても分ってくれない」という諦観が災いし、ますます自分の世界に閉じこもってしまっていた。村を出ると虚勢を張るか文句をぶつぶつ言いながら直ぐに家に帰ってしまう、典型的なウエスト・サイドの黒人である。まだ30才という若さなのに、頑固な年寄りブルースマンと化したエディを甘やかすのにオレも疲れたので放っておいたら、終に辞めることになった。

形骸化したトラディッショナル・ブルースを音楽として捉えるかどうかは別にして、現実に日本人や白人が同じステージで演奏しているのだから、ある程度の敬意が互いに必要なことは言うまでもない。

昔オレたちが憧れたブルースの本質(核)は、「今」の若い黒人たちが「今」の言葉で「今」の生活・心情をリアルに伝える、ラップやヒップホップに移行してしまっているのを多くの人が知っている。ブルース・ミュージックとなったブルース・シーンだからこそ、真面目にブルースを追求している若い黒人が希有なだけにエディには期待していたが、頑固だった父親の名を背負った二世ブルースマンの悲哀がそこにあった。

同じ二世でも若い頃から評価されたエリートのルリー・ベルとは違い、その生き方と共にギターも不器用で唄も下手だが、彼は一生懸命練習してきたのだろう。この数年間でもフレーズやオリジナルなどのレパートリーが増えたし、腎臓移植後は生への期待から少し明るくなっていた。それでもストイックで切ない唄声は変わらず、思うことがあっても首を振るだけで口を開くことは少なかった。

周囲からの期待と自信、ブルースしかできない不安と憤り、人としての尊厳とボーカリスト、ギタリストとしての誇り、理解されない苛立ちなど、混在する心の内はブルースそのものなのだ。ブルース創世記の起源となった「行き場のない魂の憂鬱」のすべてがエディから感じられた。

ブルース文化を継承できる本家筋(つまりは黒人であることに過ぎないが)の、現存する数人のひとりの彼と一緒に演奏する機会がなくなったのは寂しい。その一方で、木曜日が気を使わず音楽としての演奏を楽しめる環境に変わりつつあることを喜んでいる。

オレとトニーとスリーピーは表看板を挿げ替えて、これからも毎週木曜日のロザ・ジャムのホストを続けていく。