傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 9 [ 2003年7月 ]


Chicago Blues Festival 2003.
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2003年7月1日

ウィリー・ディクソン生誕88年を記念したライブが、チェスレコード・スタジオ跡でおこなわれ、ビリー抜きのSOBがジョン・プライマーを始めとする出演者のホストバンドを務める。ウィリーゆかりのココ・テイラーたちも駆けつけ、盛況な催しとなった。

深夜久しぶりに寄った、馴染みのメキシカンがバスボーイをする24時間営業のレストランで、初めて見るウエイトレスの後ろ姿に愕然となる・・・くっきりとした三段背 (お腹ではない!) になっていた。

ほんのちょっとで誕生日


2003年7月2日

ひっ、左手の親指様がぁ・・・

楽しい誕生日に仕事を早く終えてお祝をと思っていた矢先、昼過ぎのスタジオでとんだ不注意から、左手親指の先端を結構深く切ってしまった。肉はかろうじてくっ付いているので医者にいく程のことではないが、よりによってこんなときにと後悔すること頻(しき)り。しかし最小限の作業は進められた。カルロス・ジョンソンも頑張り、十時間以上ギターと格闘してくれる。お陰で帰りは翌朝3時に。

めでたい誕生日の明けようとする午前零時5分前、姿が見えなかったカルロスがスタッフと共にロウソクを立てたケーキを運んで来る。根を詰めたスタジオ作業、束の間の誕生パーティなんて思ってもみなかった。皆に助けてもらってばかりなのに、私事で気を遣ってもらい、申し訳なさで一杯になる。でも、ありがたいことです。

とんだ誕生日と思っていたが、終わってみれば充実した気持ちで家路に就くことができました。


2003年7月3日

ロザで一日遅れの誕生パーティを催してくれた。

30才を過ぎてからは自分の誕生日を特別に意識することがなくなった。自ら誕生日を口にすることはほとんどないし、その日は家族だけの催しとなる。ところがこちらでは誕生パーティによく遭遇する。ステージにメモが回ってきては「ハッピーバースディ」を何度弾いたことか。アメリカ人は、オレたちが子供の頃楽しみにしていた「お誕生会」を大人になっても続けているかの様だ。

SOBのメンバーは毎年、月曜のアーティスでクラブ主催の誕生パーティを催してもらっている。情報誌やチラシで宣伝されるため、ミュージシャンの誕生パーティは盛況だ。
見知らぬ客達も料理やケーキのおこぼれを与(あずか)り、誰某の誕生日は公に祝われることとなる。

しかし自己主張の苦手な日本人であるオレや丸山さんは、その機に乗じたことがない。
大体が自分から誕生日を宣伝し、祝ってもらおうというのは、何かを催促しているようで気が引けてしまう。本当に祝ってくれる人は、知らせずとも人の誕生日を知っているものだ。 

ところが今年のオレは七月二日が近付くと、気が付けば周りの人間に誕生日を知らせていた。HPにも日を記さず載せていた。今思うと皆に労って欲しかったのだろう。寝る間のないほど忙しい訳ではないが、仕事が詰まって疲れていた。オレが一番自分を労いたかったのかも知れない。かといってアーティスでチラシまで撒かれるようなパーティは、晴れがましすぎて祝われるどころではなくなってしまう。

昨夜のスタジオでのビックリパーティはP-VINEのC嬢が取り計らってくれたようだ。僅か5分間の誕生会ではあるが、突然だっただけにとても嬉しかった。今日はロザのオーナーであるママロザが宣言していたので気構えはできていた。ミラノ出身の彼女が作ったラザニアが客達に振る舞われ、ケーキの小片をオレが皆に配って廻る。演奏の合間のBGMはオレのCDが掛けっぱなしで、大きなスクリーンには、音を消したオレの出演ビデオが映されていた。

アーティスでのパーティのように特別盛況だった訳ではない。ほとんどの人が、店に来て初めて「アリヨの誕生パーティ」だと知らされる、通常のライブの一日だった。オレ自体友人知人にロザでパーティがあるとは知らせていない。晴れがましくもなく、閑散ともならず、程良いパーティが良い。来場した全ての人から祝いの言葉を掛けられ、一日遅れの誕生パーティは楽しく過ぎていった。

ロザのマネージャーで、元ルームメイトのトニーには先週伝えていた。何故もっと早くに言ってくれなかったのか、あと一週間あればいろいろ用意できたのにと叱られたが彼の意図は判っている。誕生日を間違えて、各情報誌のロザの宣伝枠に写真入りで「アリヨ誕生パーティ」と載せたことがあり往生したのだ。

「質素だが心の籠った」のがオレの好みである。

ただ誕生日当日に届いた僅かな祝いのメールがオレを悩ませている。祝って欲しいのに派手なのは嫌いという自己矛盾が、HPに日付けを省かせた。親は毎年祝ってくれるが、離れて暮らす弟妹からは何の音沙汰もない。普段から音信がないのでお互い様だが、HPを見ているはずの友人知人たちからも、いまだにメールは来ていない。

己の人望のなさを思い知る


2003年7月5日

誕生日に対する心のざわめきも鎮まった独立記念日の4日、郊外の大きなステーキハウス「紅花」 (ロッキー青木がオーナーのチェーン店) の寿司コーナーで、家人とささやかな誕生パーティの注文をする幸せな思案の最中 (さなか) 携帯電話が鳴った。

公の場所での通話エチケットに敏感な「常識ある社会人」を心掛けるオレは、携帯が鳴ると反射的に表に飛び出してしまう。静かな落ち付いた店でドタバタされる方が迷惑かも知れないが、イラチ (短気でせっかち) な性分なので仕方がない。「私は皆様にご迷惑が掛からないよう、外に出て通話致しますから」と上品な態度で示しながら、泰然と行動出来れば良かろうものの、それはそれで人 (にん) が違うと思ってしまう。

電話口では、マイケル・コールマンのマネージャーと称する女性が今晩の予定を尋ねていた。

2〜3ヶ月前から予定が決まる日本と違って、こちらでは前日や当日に仕事が舞い込むことは少なからずある。地元のクラブは、メインのミュージシャンでさえ前月の終わりに出演予定日を決めることがほとんどなので、サポートミュージシャンにとっては自分自身の予定が立て難い。

オレはビリーのスケジュールを基本として、空いている日に受けた最初の仕事を守るようにしているが、フリーのミュージシャンの中には金で動く者もいる。もっと良い仕事が舞い込むかも知れないと期待しながら、ギリギリまで予定を仮にすることもあるだろうし、実際、有名バンドのツアーに欠員が生じ、そのままレギュラーに成り上がる話も聞く。そして土壇場でのキャンセルと言う悪癖がこの業界には絶えないのである。

マイケルのマネージャーは、今から仕事をすることが可能かどうかのみを尋ねたが、経験上何の説明もない場合「裏切りのドタキャン」であることがほとんどだ。或いは予定していたサポートメンバーに不慮の何かがあったのかも知れないし、マイケルと誰かが直前に喧嘩別れしたのかも知れない。何れにしても、祝日のブルース (B.L.U.E.S.on Halsted) のライブ直前にメンバーを募っているのは可愛そうだと思ったが、ようやく自分への労いが始まる宴をドタキャンする訳にはいかない。丁重にお断りして宴に戻った。

2年前と比べ食生活が豊かになったと感慨深くなることもなく、「どれを食べよっかな」と目の前の大船盛りの寿司を啄みながら、「はて?仕事の依頼を、大船盛りを理由に断わったのか」とパラドックスに陥ってしまった。

ミュージシャンとはいえ働く者であることに変わりはない。世間でいう労働者である限り、自分の生活や権利を守るために、労働条件を改善していきたいと欲するのは当然のことである。不条理な「裏切り」は別として、金や条件の良いバンドに移籍しようとするミュージシャンの姿勢は、ドライなアメリカ人でなくとも理解できることではないだろうか。喰っていけないのならそれは単に趣味で、喰うためには音楽家でも職場は選んで当たり前という理屈も成り立つわなぁ。

本場でも数少なく、競争率の低いブルースピアニストであるオレは、ビリーのバンド以外にも依頼があるので、幸いにも生活はできている。しかし問題は、サポートミュージシャンが一つのバンドだけで生活することの困難さなのである。

リーダーがバックミュージシャンと同一金額であることは先ずないので、自分が月に最低必要な経費分の仕事しか取らないと、当然の様にバックは総体で小額となり、それだけでは生活出来ない。ビリーはレギュラーメンバー全員の生活のことも考えて仕事を取る努力を惜しまないが、世のリーダーすべてがそうとは限らない。ミュージシャンはいくらでもいるから、「空いてるヤツでも使ったらいいや」程度のリーダーの方が多い印象を受ける。

独立記念日といって国を挙げて祝う癖に、自国の権益を最優先して他の国の独立を妨げるのに吝 (やぶさ) かでないアメリカのリーダーは、異邦人のオレにとって、自分の利益を最優先して他人の権利を顧みない、一般のアメリカ人の個人主義の行きついた象徴としてしか映らない。

安物の打上花火の音があちこちから絶えまなく聞こえて来る。日頃大船盛りを喰うために励んでいるのに、大船盛りを喰うために仕事を断わったことを少しだけ後悔し始めていた。

夜遅く「紅花」より持ち帰った残りの寿司を食べようと袋を開けてみると、そこには「折り」ではなく、大きな分厚いハンバーガー一個が丁度すっぽり入る大きさの、透明なケース3個が不安定に納められていた。お陰で、その日二度目の楽しみにしていたタイ、ヒラメ、ハマチ、タコなどは身ぐるみ剥がされ、宇宙遊泳をしていた軍艦巻のトビコに塗 (まみ) れオレンジ一色になっていた。


2003年7月7日

今宵は七夕

ああ・・・オレも宿題はギリギリにならんとせんタイプやったわ。

今日のアーティスに某黒人教授が連れて来る予定の女性ボーカルのCDを、先週渡されていながら採譜を怠り、家を出る直前にパッパッと簡単にコード譜を採ってお茶を濁してしまった。CDはこの女性のオリジナルらしく、コンピューターの打ち込み(パソコンやリズムマシンを使って機械的に録音した)の曲はブラックコンテンポラリー、つまり若い黒人が好きそうな今風の音楽だった。

某教授(黒人文化・歴史の専門家でブルースにも造詣が深い)とSOBのマネージャー(だいたい彼女が教授に吹聴した)は、アリヨはピアニストだから完璧にコピーもするし、楽譜も書くし、バンドを引っぱれると信じてるからオレだけにCDを託した。優秀なスタジオミュージシャンと違(ちゃ)うのん、判らんかなぁ?音楽理論を知らんやつの前では「こんなことも知りまへんかぁー」とエラぶるくせに、詳しい人には「そうでございますか、ははぁー」と遜(へりくだ)る詐欺師、ペテン師と紙一重。

時間があればゆっくり音の一つ一つも採りましょうが、なんせ譜面にしたところで、通常のブルースバンドの面々は、?マークを顔一面に張り付けるだけで、こちらが恨まれること必至。実際に出た音が良かったらエエんやから、譜面読めようが理論知ってようが関係ないワイ!ブルースやんけ!・・・ごもっとも。

彼女と会って驚いた。褐色の肌、明るい茶色に染めた髪が映える、女優のハル・べリー似の美女。出番を待つ間もひっきりなしに男性客が声を掛けている。

休憩中に二人で打ち合わせたら案の定、カラオケ(完全コピー)でないと唄うのが恐いという。つまり、決められたフレーズが出てこないと、今どこを唄ってるか判らない人やった。もっと簡単にゆうと、「チャンー、チャ、チャッチャッ、チャン。はいぃー」がないと唄えない。「トンチテシャン。はい」がないと次に進めない。

せっかくお越し頂きましたが当方お門違いで、貴女様の伴奏をお引き受けすることはできませぬ、とは口が裂けても言えるはずがない。彼女には「声が素晴らしいから、演奏を気にしないで、自信を持って存分に唄ってね」と追従し、ビリー不在のバンドには簡単な循環コードを示しておいた。

彼女が唄い始めて再度驚く。いやーりっぱ、りっぱ、堂々とした唄いっぷり。最初は訝しがったメンバーも唄に引っ張られ、簡素化された曲を堅実にこなしていった。何はともあれ無事に終わって良かった、良かった。教授も満足そう。マネージャーも満足そう。

年に一度の七夕に出逢った歌姫は、オレを抱きしめてご帰還された。黒いミニのワンピースの後ろ姿が遠ざかるにつれ、少しずつ安堵の気持ちが沸き起こる。身長180cmのハル・ベリーは、体重も100kg以上ありそうだったから。


2003年7月9日

実家の近所、銀閣寺の「哲学の小径」でゲンジホタルが幽玄の世界に乱舞していたのは、蒸し暑くなる梅雨の時期だった。こちらでは夕立ちが二日ほど続いたら、アパートの庭にいた数匹のホタルの姿を全く見なくなってしまった。数cm大の霰が混じった夕立ちでは仕方ないか。夕立ちの後は涼しくなり、まるで高原のようだ。

アメリカで初めてホタルを見たのは85年の初夏のこと、ジミー・ロジャースとのワシントンD.C.からの帰り道、車がパンクをして立ち往生していた時だった。

人家も見えない田舎の高速道路に道灯があるはずもない。路肩に車を停め、星明かりを頼りにジャッキを車底に滑り込ませたが寸法が足らず、タイヤ交換を断念して往来する車を待っていた。午前2時頃のことだったので直ぐに車は現れず、もし来たとしても停まって助けてくれるとは限らない。皆は、懐中電灯さえ持ってないリーダーを責めていたようだが、それもすぐ諦観に変わり、辺りの静けさに同化していった。

オレは用意を怠ったジミーを恨むこともなく、妙にのんびりした気分で、道路から僅かに離れた林の方に足を向けていた。どす黒い闇の先に小川が流れているらしく、控えめな清流の響きが何も見えない恐怖心を相殺する。手探りに大きな樹木の幹を廻った瞬間、目の前に星空が降って来たのかと見間違うほどの、ホタルの群舞の中心に立っていた。

闇もなほ
ほたるの多く飛びちがひたる 
また ただ一つ二つなど 
ほのかにうち光りてゆくもをかし

京都で育ったオレは「趣」に敏感なのかも知れない、急いでメンバーを呼んだ。

「おお、ホタルかぁ」
「こんなホタルの乱舞は初めて見た」
「・・・・・・」
「さっ、行こうか」
(へっ?この趣にもっと浸らないいんですか?)

メンバーが佇んだのは僅か10秒、直ぐに車に戻って行った。皆は趣よりもタイヤが心配だったのだろう。

幸い停まってから30分程で助けの車は来てくれた。同じフェスティバルに出演していたレジェンダリィ・ブルースバンド(元マディー・ウォーターズのバックバンド)のツアーバンが偶然通りかかったのだ。

しかしオレは釈然とせず、何よりも彼らが呼んだ「ホタル」という響きが気に掛かっていた。清少納言の「夏の趣」などアメリカ人には理解できぬのか?人の魂が「ホタル」となり幽体離脱する日本の古典的価値観など、アフリカ系アメリカ人が好みのアニミズム(精霊信仰)そのものではないか。

"Firefly"と彼らは呼んだ。ハ、ハエ?「ホタル」は「火のハエ」なのか?ハエではさすがに趣きはないわな。生魂(いきだま)となって人に取り憑いたのがハエの一種やったら、そのまんまやん。

自分の不見識を悟り、"Fly"には「ハエ」の他「飛ぶ昆虫」の意味もあると知ったのはずっと後のことである。

*16日まで管理人さまのご都合により更新できません。

**と言うことです。スミマセン。 - 江戸川スリム


2003年7月16日

庭のホタル復活 夕闇に数えたら5匹いた

ビリーのいない月曜日のアーティスの仕事を初めて休み、束の間の夏期休暇をミシガン湖の東岸へ小旅行に出かけた。

シカゴを南下しミシガンのU字の底を這いながら湖に沿って北上する。夏の行楽シーズンとはいえウイークデーの州間高速道は車も少なく快適で、インディアナ州を抜けると間もなくミシガン州へ入る。ミシガン州は東部時間でシカゴよりも一時間の時差(当然早い)があり少し損した気分になってしまうが、帰りには逆に得をするので、行ったきりにならない限り実害はない。気が付けば65マイル/時だった法定速度が70マイル/時(時速約110km)になっていた。シカゴ周辺は55マイル/時なのでこの15マイル/時(時速約25km)の差は、何時間も運転していると結構大きい。何れにせよ交通規則を守ることが大人になってからのモットーであるオレは、パトカーが後ろに付いていても慌てたりしないのだ。

出発して約5時間、目的の港町「ラディントン」へ着いた。港町といっても一日一便対岸のウィスコンシンへ向け、今年で50周年を迎える大型カーフェリーが就航しているに過ぎない。また対岸といっても、琵琶湖の約85倍、日本の国土の6分の一弱のミシガン湖は広大で、船だと何時間掛かるか知れない。同じ入り江にはヨットやレジャーボートが係留され、カリフォルニアのような浮かれた華やかさがない分落ち着いて見える。清潔なビーチが北側に長く続き、そこには保養地のような静けさがあった。

インターネットで目星を付けたホテルを探して、両側にモーテルの並ぶメインストリートを行ったり来たりしていると数台のパトカーにすれ違った。安全運転を心掛けるオレは慌てることなく、極自然な素振りでシートベルトを装着し、彼らの視線の届かない脇道へ何気なく車を向けた。どうしてか犯罪者のような気構えになってしまう。自分が窮地に陥った時以外、官憲の姿を眼に入れたくないのは、やんちゃ坊主だった若い頃の習性に違いない。

最初にすれ違ったパトカーは半ブロック先でオレを待っていた。見覚えのある若い警官の視線はこちらに向けられているのがハッキリと分かった。しかし気のせいかも知れないとまた道を曲がってみる。恐る恐るバックミラーを覗いてみると、果たして、車天の青色灯をぐるぐるさせて彼のパトカーがくっ付いた。

遂にお縄か?へっ!オレは一体何をしたの?

愛車カローラのナンバーをどこかに照会した(であろう)後、官憲は大仰に車から降りてこちらに近寄ってきた。

「免許証と保険証、それから車の登録証を見せてください」

言葉は丁寧だが、公権力の強制力を示すには充分な台詞を吐く。オレは光速で言われたものすべてを手渡しながら、なんのお咎めでございましょう?と卑屈に問うてみた。

「最初にあなたとすれ違った時、シートベルトをしていなかったのが見えました」

くそっ!やっぱり・・・こいつ若いのに良く見ている。しかし観光に来て早々気分の滅入る羽目になってしまったものだと、パトカーに戻った官憲がオレの身分照会をしている間、自分の不運を呪っていた。

世界一民主的な国だと自称するアメリカで、その恩恵に与る国民は限られているのは誰もが知っているし、他の国に人権を押し付けるくせに、すべての国民の人権を尊重するものではないどころか、最近は差別を助長する傾向さえある。他国の悪を誇張すると、国内では自らの悪がましなものに見せられるのかも知れない。ましてやオレは他州住民、異邦人。官憲にとっては如何様にも料理できます。

やがて戻ったおまわりさんは「はいこれがあなたの登録証、はいこれが免許証、はいこれが保険証」と丁寧に、しかも勿体ぶって返してくれた。保険証を返す時など、テレビの宣伝で聞き飽きた台詞「本当にガイコ(保険会社名)で節約できましたか?」まで披露してくれた。笑(わろ)たらエエんか?エエんか?

あまりに勿体ぶられるので、最後に「はい反則切符」と言われるのではと油断できない。渡したものがすべて返されたのに、まだ手に何かを持って話している。

「お困りのことがありましたら、お気軽にご連絡ください」

おまわりさんの名刺。手書きの電話番号まで記されている。親切なのか?ええっ、親切でオレの車を停めたのか?オレの貴重な観光の15分間は、君の親切で浪費されたのか?名刺を渡して「何かあったら僕に言ってね」はカッコエエかも知れんけど、そのためにオレはドキドキして楽しい気分を一瞬でもぶち壊されたのか?

ネットで調べたホテルよりも良いホテルに泊ったし、部屋に付いたジェットバス・ジャクジーに入りながらミシガン湖も一望できたよ。広いプライベート・バルコニーのロッキングチェアーに揺られて、風呂上がりの冷たいコーラを飲みながら、目の前を優雅に過ぎゆく大型フェリーを見送り、古い灯台に飛び交うカモメを影にして真っ赤な夕焼けを暗くなるまで眺めもしたよ。隣接する州立公園の海岸に足を踏み入れると、京都・丹後や能登で聴いたのとは雲泥の差の、見事に澄んだ音色の「鳴き砂」の浜に感動もしたよ。晴れやかな気分で休暇を楽しめたのも、微罪を見逃してくれたあなたのお陰ですよ。

翌日の夕方ラディントンの小さな町を離れるまで、親切なおまわりさんの名刺をお守り代わりに車のダッシュボードに置いていたけど、君とは遂に再会することはなかったね。ってゆ〜か、その後パトカーを見ることさえなかった。


2003年7月19日

仕事に出掛ける前の僅かなひととき
部屋の灯りを消し 
大きな窓のカーテンを一杯に開けて
夕闇の庭に漂うホタルを眺めてる


2003年7月20日

ロザのマネージャー、トニーがお祝いにショウとディナーを招待してくれた。

お祝い?

去年の春、オレの就労ビザが下りた時に計画されていたことが、最近彼に初めての子供が生まれ、7/2のオレの誕生日と7/18のトニーの誕生日が近かったことを契機にようやく実現した。とにかく互いの家族の状況や気分、その他の要因で、トニーがこの日にしようと誘ってくれたのだから、こちらに異存があろうはずはない。

ショウは「ブルーマン・グループ」、1980年代後半にニューヨークで認められ、今ではニューヨーク、ボストン、シカゴ、ラスベガスの劇場で常設ステージを運営している。どこも盛況らしく入場料が $56.5(約¥6.500)にもかかわらず、日曜日ということも重なって500席程の劇場はほぼ埋まっていた。

舞台ではその名の通り顔を青く塗りたくった3人の男が、言葉を発っさず表情を変えず(眼は良く動く)にショウを繰り広げる。上手(舞台に向かって右手)の上段に据えられたバンド(ドラム、ギター、シンセサイザー)の音に合わせて様々な打楽器を叩いたり、ショートコントで笑わせたりと観客を飽きさせない。蛍光色をふんだんに使った演出にもかかわらず、艶かしくなりがちなロックショウの要素が薄いのは、「転換」の早さかも知れない。

もっとも感心したのは「間(ま)」の取り方だった。漫談などでは「オチ」の後、「どうです?今の面白いでしょう」と問いかけるような構えた「間」がある。例え面白くてもどこか気取っているようで、関西出身のオレの肌には合わない。ブルーマンは「間」を空ける所はくどくなり過ぎず、つめる所は一呼吸入れて次に進める。スラップスティックのようなドタバタ的要素もあるが、どのコーナーも緩急を付けながらスピーディにまとめていてテンポが良い。3人の「間合い」とタイミングが絶妙だった。

無声とはいっても、ときおり携帯電光掲示板やポスターを使って「投げかけ」・「まともな受け」・「ボケ」といった、古典的「トリオ」のパターンが見受けられた。その時はパロディ色が強くて語彙力以上の知識が必要となったが、全体の印象はドリフターズを精練させて関西(吉本興業の若手芸人)の「間」を与えたようなものか。テレビ局で使用しているカメラと大画面を用い、客席からは多角的に見える工夫も目新しい。

「ブルーマン・グループ」の本領ともいえる、打楽器の技術がしっかりしているので音楽的にも聴かせ所があり、途中の電光英語に所々付いていけず(知識人好みの単語が難しい上に、咀嚼していたら次を見逃す)中だるみした以外は、観客と一体化する大団円までの2時間余り、久しぶりに見応えのある「ライブ」を楽しむことが出来た。
これなら手法を少し変えるだけで日本でも充分興業出来るのではと、「吉本興業」の知り合いに持ちかけようかと考えたが、「任」ではないと思い直した。

というよりも、ここまで評判良いものを日本の業界が放っておく訳はない。家に戻ってヤフー・ジャパンで検索したら600件以上も出てきた。中にはショウの内容を詳しく種明かししている「うつけ」まである。そうそう、アジア人がよく「触られる」のはホントですよ。座席によってはあまりお洒落をしていくと泣くかも知れません・・・。そして、やっぱり日本のCMにも既に出ていた・・・。

しかし舞台両袖の上部にある小さな電光掲示板の、開演前の注意事項「No Photo」などと共に、「SATSUEI KINSHI」のローマ字が何度も流れていたのを気付いた人は少ないだろう。英語が苦手な人は電光板を読まんでしょう。読む人は「No Photo」位は理解するでしょう。これもパロディなのか?

あるネットによると、ニューヨークの「ブルーマン・グループ」プロデューサーは日本人らしいが、パンフを読む限りシカゴに日本人スタッフの名前はない。でも文字を使ったパロディの内容に、日本文化・中級編を知らねば笑えない箇所もあり、スタッフの中に日本通の人がいるのは確かなのだろう。

その後トニー夫妻に連れて行かれた高級イタリア料理は、食材が厳選されていてパスタやパンは全て自家製だったが、オレの望んだものがなかったのと「ブルーマン」の毒気でほとんど印象にない。

恐るべし「青男」


2003年7月23日

後輩の若いピアニストTからの電話で起こされる。電話が鳴ると、脳が働く前に体が勝手に受話器を取ってしまっているので辛い。「もしもし」を言う頃、怠惰な脳も微かに動き出す。

「あっ、寝てました?ミュージシャンに電話するのは12時以降が鉄則なので、今まで待って掛けました」

時計を見ると午前11時45分

「お前、まだ12時前やんけ・・・」
「ヘヘヘ・・・すみませんね。近くまで来たものですからどうしてるかなと思って」
「そやから寝てるって」
「今日仕事ですか?」
「いや2時からリハーサルが入ってるだけやけど」
(すっごく眠い・・・)
「じゃ、もう少し寝てなきゃいけませんね」
「ああ・・・」
「忙しいですか?」
「・・・あのなぁ・・・寝かせてくれ・・・」

もう少し会話があったようにも思うが定かではない。睡眠時間が不規則なのは困ったものだけど、寝たい時に眠るのをモットーにしているので仕方がない。

Eなどは心掛けていて先ず携帯に電話し、何度かのコールで応答がないと数時間後に家に掛ける。床(とこ)から離れた所に携帯が置いてあり、眠っていれば気が付かないのを知っているからだ。Nが連絡してくるのは夕方、仕事があればそろそろ起きねばならぬ頃を見計らっている。カルロスからは朝の9時頃、ミュージシャン以外の大抵の人が起きてしまった、世間的には至極常識的な時間が幾度もあった。稀に就寝前だったりするので「起こした?」と問われ、「まだ」と応えるしかない。

同僚の丸山氏によれば、起こされた時のオレの応答は大変不機嫌だそうである。悪気はないのだが、お口がまだ寝ているのでどう仕様もない。

はて?もしオレがオレに連絡しようとすると、オレ(起こした方)の気分を害さずに電話するにはどうすれば良いのだろうか・・・。


2003年7月24日

シカゴ一のブルースファン、エディのことを知らないブルースミュージシャンやブルースクラブの従業員はモグリだ。エディが店に来ると誰もが「シカゴイチのブルースファン、エディ」とステージから紹介する。

小柄でまるっこい初老の彼は吃音癖のある軽い知的障害者で、数十年前からこの界隈に出入りしている。障害者が自立し周りも当然のことと受け入れる環境は、(少なくとも日本よりは)アメリカの素晴らしいところだ。彼は決して人に迷惑を掛けないし一人で行動も出来るので、店や主なミュージシャンからは、遠巻きにだが可愛がられている。

そのエディが癌を患っていると聞いたのは5年程前のことだった。現代医学の進歩は目覚ましいのだろう、幸いエディの訃報を聞くことはなかった。しかしオレがシカゴに戻ったこの2年間は顔を見ることが滅多にない。たまに声を掛けても、(10年以上姿を消していた)オレを認知しているのかどうか分からない様子で、気が付けば姿を消している。昔はオレを見付けると名前を連呼しながら近寄って来たのに、どことなく寂しい気持ちになってしまう。病気のせいだろうか、街随一のブルースファンと認められたパワーは失せてしまっていた。

一ヶ月振りにビリーが戻ってきた今夜のバディ・ガイズ・レジェンドで、大きな袋を2つ提げたエディは最前列に陣取っていた。袋の中は古新聞や雑誌で、婦人のように肘に掛けて持ち歩く。憮然とした表情で、目はどこを向いているのか分からなかった。

スロー曲のオレのソロの、静かな一音の隙間を縫うように誰かが名前を呼んだ気がした。ちらっと前を見るとエディがこちらを指差している。ソロが何かを覚醒させたのか、ハッキリと彼の声が聞こえた。十数年振りに聞いた懐かしい呼び声。

「・・・エエエエエィリオ、エエエエエィリオ・・・」

ステージを終えた時、彼の姿はもうなかった。


2003年7月27日

この週末のSOBはビリーに煽られて張り切っていた。

約一ヶ月もよそのバンド(ケニー・ニール)でお客さんしていたビリーは、久しぶりに我が家に帰って寛ぐ如く、改めて自分のバンドが気に入ったようだ。ケニーのバンドも良かったらしいが、相当気を遣っていたことが窺われる。気兼ねなく立ち回れるSOBを従えると、長旅で崩した体調も考えずにずっと飛ばしていた。

こういう時は決まってバンドの音が大きくなり、(音量的に)立場の弱いオレは指の先から火をフキフキ、汗をカキカキ、腕をブラブラさせて追い付こうとするのだ。皆のように情緒的になる余裕などない。

でも、ビリーやメンバーの嬉しそうに演奏している顔を見ると、汗をかくのが嫌いなオレも体を揺らせ、自然と笑顔を返していた。但し、良い演奏だったかどうかは分からない。


2003年7月29日

カルロスの調子が悪く今日のスタジオは欠席したが、ビリー頑張る。

あるソロパートの録音の一回目に彼が凄い演奏をしたので、プロデューサーとして欲が出てしまい、「今のをキープしておいてもう一回しませんか?」と押してみた。普段はビリーがボスだがこの瞬間はオレがボスなのだ。オレの細かい音楽的な説明を丁寧に聞いたあと彼が言った。

「アリヨ、今のソロが多分ベストだ」
「でも一回目でこれが録れたんだから・・・」
「いや、今までスタジオ録音した中で今のソロがベストの演奏だと思う」
「!」
「ライブでは多分ベストの演奏はたくさんあるかも知れない。でも、スタジオ録音では今の演奏がベストで120点の出来なんだ」
「!!」

レコーディング中は熱い気分や、その場の雰囲気でOKを出してしまいがちになる。しかしここまで自分の演奏を気に入り、率直に自己評価することは滅多にない。特に音楽の世界では「絶対」のモノなんてないし、後日冷静になって聴いてみると、印象が変わることがあることを皆知っている。その上でビリーは言い切った。今まで数知れない録音を残しているビリーは、「ベストの演奏が録音された」と言い切った。

この場合の欲はレベルをこえると気分に過ぎない。オレはビリーの言葉に感動し、その演奏に携わることが出来て幸せに違いない。感激性の幸福というよりも、彼の言葉が耳朶に染み入ってじわじわと耳穴に忍び込むような、摘みどころのない感情なのだ。

破顔ではない喜びの表情がスタジオに広がった。


2003年7月30日

共同通信の記者様がご帰国された。

カンボジアで地雷撤去をしたり、タイでムエタイの修行をしたりと、世界中での様々な体験記を全国40紙に配信している共同通信の企画がある。今回はご本人もブルースギターを弾かれる記者のF氏がシカゴに乗り込み、本場のブルースバンドとのジャムセッションの模様をルポルタージュするという。その受け入れバンドに指名されたのが偶然にも我がSOBだったので、微力ながらもお手伝いすることとなった。

顛末はプロの手に拠り膨らみ、秋頃には津々浦々の皆様のお目に留まるそうなので、ここでは割愛せざるを得ない。ううう・・・書きたい・・・

F氏ご来駕の本旨とは異なるが、シカゴブルースシーンで活躍する日本人ミュージシャンも文化面で取り上げてくれることとなり、ヨーコ(野毛よう子)やモトさん(牧野)、シュン(菊田俊介)、同僚の丸山さんなど我々も取材を受ける。

約束が午後の早い時間だったので、寝ぼけ眼(まなこ)にぼさぼさ頭、着の身着のまま状態でオレがホテルへ向かうと、F氏にはカメラマンが帯同している。へろっ?まさかインタビューの様子を写すんですか?前もって言ってくれればそれなりの格好をして来たものの、今日はご勘弁をと泣きすがり了解を得た。了解を得た・・・筈なのに。

報道カメラマンは職人的でマイペースという気質の印象がある。しかしこのカメラマンのK氏は中々の聞き上手なのだ。記者が聞き上手なのはそれが本職だろうが、F氏と並んで腰掛けた、K氏の微妙な間の手やにこやかな頷きに面すると、もう何でも話しますよって気持ちになってしまう。天分に違いない・・・あれは私がやりました・・・ヤツはこうですぜダンナ・・・もう何でもゲロするに違いない。

K氏はこちらの油断を見透かしたのか、F氏の問いかけに紛れて何気なく「やっぱり少し撮っておきましょう」と誘い込む。オレは思わず「はいっ」と頷いてしまった。
恐るべし報道カメラマン!いつの日か司直の手に掛かった折は、貴男さまだけには醜顔を晒しましょう。

今となってはK氏に、なるたけ若そうでカッコ良く、モテそうな写真を焼いて頂くのを祈るしかない。

取材最終日、オレがモトさんを引き合わせることとなった。夕方の時間はミュージシャンにとって一日の始まりである。シャワーを浴びてさっぱりとし、ダンディにキメたシュガー・ブルーの元バンドリーダー、モトさんが現れた。

しかし彼は、日程の都合でカメラマンのK氏が先に帰国したことを知らなかった。