第2章 突如襲われる心とその傷つき 〜心的外傷後ストレス障害〜



 (心的)外傷後ストレス障害 = PTSD 

 この診断名は、日本では1995年に起きた阪神淡路大震災の時の被災者の方々への心のケアの考え方として、次第に知られていくようになりました。
 これは、あまりにも強烈なショックを受ける出来事により心が深い傷を負い、心の状態が不安定になってしまった人に対して診断されるDSM-IV-TRの診断名の一つです。
 この場合の強烈なショックとは、戦争体験・レイプ・犯罪被害体験・事故・災害・身体的虐待・親しい人の死を間のあたりにする事等で、DSM-IV-TRでは「不安障害(Anxiety Disorder)」の中に含められていて、詳しくは次のような診断基準となっています。


外傷後ストレス障害 ( Posttraumatic Stress Disorder )

(別訳で「心的外傷後ストレス障害 ( Post-traumatic Stress Disorder )」とも呼ばれる)

A・その人は、以下の2つがともに認められる外傷的な出来事に暴露されたことがある
 (1)実際にまたは危うく死ぬまたは重傷を負うような出来事を、1度または数度、
   あるいは自分または他人の身体の保全に迫る危険を、その人が体験し、目撃し、
   または直面した
 (2)その人の反応は強い恐怖、無力感または戦慄に関するものである
   注:子供の場合はむしろ、まとまりのないまたは興奮した行動によって表現される
   ことがある
B・外傷的な出来事が、以下の1つ(またはそれ以上)の形で再体験され続けている
 (1)出来事の反復的、侵入的、かつ苦痛な想起で、それは心象、思考、または知覚を
   含む
   注:小さい子供の場合、外傷の主題または側面を表現する遊びを繰り返すことがある
 (2)出来事についての反復的で苦痛な夢
   注:子供の場合は、はっきりとした内容のない恐ろしい夢であることがある
 (3)外傷的な出来事が再び起こっているかのように行動したり、感じたりする(その
   体験を再体験する感覚、錯覚、幻覚、および解離性フラッシュバックのエピソード
   を含む、また、覚醒時または中毒時に起こるものを含む)
   注:小さい子供、外傷特異的なことの再演が行われることがある
 (4)外傷的出来事の1つの側面を象徴し、または類似している内的または外的きっかけ
   に暴露された場合に生じる、強い心理的苦痛
 (5)外傷的出来事の1つの側面を象徴し、または類似している内的または外的きっかけ
   に暴露された場合の生理学的反応性
C・以下の3つ(またはそれ以上)によって示される、(外傷以前には存在していなかった
  )外傷と関連した刺激の持続的回数と、全般的反応性の麻痺
 (1)外傷と関連した思考、感情、または会話を回避しようとする努力
 (2)外傷を想起させる活動、場所または人物を避けようとする努力
 (3)外傷の重要な側面の想起不能
 (4)重要な活動への関心または参加の著しい減退
 (5)他の人から孤立している、または疎遠になっているという感覚
 (6)感情の範囲の縮小(例:愛の感情をもつことができない)
 (7)未来が短縮した感覚(例:仕事、結婚、子供、または正常な寿命を期待しない)
D・(外傷以前には存在していなかった)持続的で覚醒亢進症状で、以下の2つ(または
  それ以上)によって示される
 (1)入眠、または睡眠維持の困難
 (2)いらだたしさまたは怒りの爆発
 (3)集中困難
 (4)過度の警戒心
 (5)過剰な驚愕反応
E・障害(基準B、C、およびDの症状)の持続期間が1ヶ月以上
F・障害は、臨床的に著しい苦痛、または社会的、職業的、または他の重要な領域における
  機能の障害を引き起こしている

●該当すれば特定せよ        
急性:症状の持続期間が3ヶ月未満の場合
慢性:症状の持続期間が3ヶ月以上の場合
●該当すれば特定せよ        
           発症遅延:発症の発現がストレス因子から少なくとも6ヶ月の場合

引用文献:『DSM-IV-TR 精神疾患の分類と診断の手引 新訂版』 医学書院
注意:これは邦訳からの引用ですので、厳密に知るには原本を読まなくてはなりません。
また、親本と呼ばれる『DSM-IV-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル』も読まなくてはなりません。


 これをもう少し具体的に述べてみます。



 この疾患の基本像は、通常の人間の体験(単なる死別や慢性疾患、ビジネスの失敗等)からほど遠い、心理的に抑うつされるような出来事に引き続き、特徴的な症状が起こる。
 これらの症状を生み出すストレッサーはほとんど全ての人に著しい苦痛を与えるもので、それを体験すると通常、強烈な不安や恐怖、無力感が生じてくる。

1・その人が通常の体験を超えた出来事を体験した事があり、それは、ほとんど誰も
  がひどく苦痛を感じるものである事。
2・トラウマとなった出来事をしつこく再体験する事
3・トラウマに関連のある刺激を完全に回避、またはトラウマ以前には見られなかっ
  た一般的な反応の麻痺(無感覚)
4・トラウマ以前にはなかった、過度の警戒心や寝つきが悪いなどの覚醒感が強まっ
  たような症状がでる。

   そして、例えば次のようなものが原因となる

  • 人間の生命や体に対する深刻な脅威を受ける
  • 自分の子ども、配偶者、身近な親族、友人にたいする深刻な脅威・害
  • 家庭や共同体の突然の崩壊
  • 事故現場・暴行現場・殺害現場を目撃する


引用・参考文献「トラウマ-心の後遺症を治す」
       David Muss/著 村山寿美子/訳 大野裕/監修 講談社




 PTSDの原因になる強烈なショックは、世界の今どこかで常に起きています。
 紛争地帯や武力侵攻などの武力衝突の場で兵士や一般市民が受けたり目の当たりにする血の惨状、大地震・水害・火災・津波・落雷などの天災や人災の災害やテロ現場に遭遇した人々の命を失う恐怖、レイプされた女性の屈辱と恐怖等....。そして世界史を紐解けば、そこには第1・2次世界大戦を始めとする悲惨な出来事のオンパレードを観る事でしょう。



 私は阪神大震災直後の1995年1月21日から9日間を、救援活動の為に神戸市へバイクで入り、長田区南部を初めとして広範囲に渡って街の崩壊状況を見てきましたが、「もし東京都心がこの地震に襲われたら・・・」と想うと、絶句を超えた惨状を前にして、その恐ろしさを感じずにはいられませんでした。恐らく多くの都民が、強烈なショックを受けて打ちのめされるでしょう。事前対策が甘く、いざという時の迅速な救援対応が全くなっていない日本は、言葉は悪いですが「平和ボケ」していると、当時の神戸の街の中で感じました。
(補足:2004年11月現在では、「平和ボケ」という考えにも異なる複数の視点があると思えています)



 PTSDは、最近研究されだした新しい領域です。
 元々米国ではベトナム戦争の帰還兵の多くに、生活不適応者が現れた事から取り組まれ出したと言われていて、PTSDが診断マニュアルに登場したのが、以前のDSM-IIを一新して1980年に作成されたDSM-III以降になります。
 今までこのようなトラウマは、「忘れるしかない」「時が全てを解決してくれるさ」等といったありきたりな言葉を、自分で思いこんだり周りからかけられたりして堪え忍ぶしかなかったと思われます。しかし、こうした周りからの慰めで心が癒される可能性を明確に否定している専門家もいます。

 これからはPTSDの視点から、衝撃的な出来事によって受けた心の深い傷のサポートを考える事が、必要な時代になると思われます(米国では、CRT「クライシス・レスポンス・チーム」と呼ばれる、徹底した訓練を受けた”ボランティア”による心の危機介入組織が活動し、成果を上げています)



 子ども時代に受けた深く激しい心の傷を持つ人達の心の傷を、このPTSDの視点から捉える(PTSDそのものはあくまで限定された診断名です)事は、有効な事だと私には思えます。

 子どもは養育者の前では心身共に無力で、しかも愛情を養育者に求めています。この時期に養育者からどんな形であれ虐待を受けているなら、それは子どもにとっては大きな打撃に間違いないでしょう。
 しかも養育者との関係は、子どもが1人で生活が出来るまで続きますので、その傷はボディーブローを受け続けるように、雪が降り積もるように溜まっていく事が予想されます。これを累積的外傷と呼ぶ専門家がいます。

 これは養育者との関係だけに限りません。
 昔から存在して多くの自殺者という犠牲者を産み、今になってようやく大きな取り組みをされている「いじめ」も、深く激しい心の傷になりえます。
 学校は子どもにとっては生活の場ですから、いじめに限らず「無視される」「仲間外れにされる」等も、クラスメイトから受けると精神的にとても苦痛で、淋しさや孤独も感じます。

 孤立無縁の集団の中で、時に激しい攻撃を受けたり、脅しを絶えず受け続けるという事は、感受性の鋭い子どもにとって、戦争のゲリラ戦の恐怖にも値する恐ろしい体験なのではないかと私は思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか?

 そして、家庭と学校の両方で傷を受け続けて、心から安心できる場所・心を許せる人がいない子どもの場合は、必然的に心が歪んでいくのではないかと思えます。

 その歪みの先が、境界例(ボーダーライン)境界性パーソナリティ障害(BPD)であるかもしれませんし、傷があまりにも深くて耐えられなければ、多重人格(診断名としては「解離性同一性障害 ( Dissociative Identity Disorder = DID)」。DSM-III-Rまでは「多重人格性障害(Multiple Personality Disorder = MPD)だった」)として人格が分離(解離)して、トラウマを忌まわしい記憶として無意識的に思い出せないようにして激しい傷に対処するのかもしれません。
どちらであっても、悲劇に違いはありません。


〜 補足 〜

 ここでは簡単に、最近の知見を述べたいと思います。

 心的外傷についての歴史は古く、19世紀末フランスの神経科医・シャルコーが診た女性の「ヒステリー患者」にまで起源が辿れます。

 その後、シャルコーの元で学んだフロイトが一時期、「ヒステリーの原因は、女性患者が幼児期に実際に受けた性虐待の結果である」という見解を出しましたが、その後急速に「患者の性的欲求の幻想である」という見解に転向して、以後、精神分析学では主にその視点で理論が展開されて行く事になります。

 後の第1次世界大戦で、戦闘兵士の中から戦闘行為が行えなくなるという不適応問題が発生し、改めて心的外傷についての研究が盛んになったとの事ですが、戦争終結と共に、急速にその関心が低下し、後の第2次世界大戦改めて研究される事になりました。
 興味深いのは、その時の米国の精神科医、エブラハム・カーディナーという方の心的外傷の定義が、PTSDの定義とほぼ同じらしいという事です。

 しかし、またもや戦争終結と共に関心は低下し、次のベトナム戦争を迎えて初めて継続的な研究今日まで続くようになりました。
 同時に、フェミニスト運動の側から女性のレイプ犯罪被害者の心的外傷の研究が進み、こちらからも様々な知見が蓄積されました。

 この、男性の戦争による心的外傷と、女性のレイプ犯罪被害の心的外傷がもたらす結果本質的に同じであるという知見が深まり、1980年に作成されたDSM-IIIに「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」という、障害の発生原因を例外的に特定した項目が設置されました。

 現在では、「PTSD」単発的な出来事によって受ける心的外傷とみなして、もっと長期間の幼児期から受け続け続けた虐待、長期にわたる監禁状態等から受けた心的外傷を、「 複雑性PTSD」等(専門家によって呼び名は異なるがおおむね共通の概念)とみなす考え方が出てきています。

 これはDSM−IVで採用が論議されたとの事ですが、DSMの症状記述型の診断方針を揺るがす重大なものであるという推測話も背景にあり、実際には採用はされませんでした。
 もし、この「複雑性PTSD」も包括した視点で各種の障害診断名を診るならば、それぞれは、「この診断名の原因となる心的外傷から派生した、形を変えて出現した症状群・症候群である」という見方が可能かもしれません。

 整理しますと、現在の先鋭的な心的外傷の「診断」は、もっと議論されなくてはなりませんがとりあえず、簡単に表すとこのように整理されるかもしれません。

 1・急性ストレス障害(Acute Stress Disorder)- DSM-IV-TR -
 2・外傷後ストレス障害(Posttraumatic Stress Disorder)- DSM-IV-TR -

もっと突っ込みたい方は、「長期反復性(心的)外傷後症候群-草稿・非公式-」をご覧下さると良いでしょう。
但し、この草案は専門家のチェックを受けていません)。


「解離性同一性障害(Dissociative Identity Disorder=DID)」については、NHKが「NHKスペシャル」として1996年初頭に「私の中の他人〜現代が生む多重人格症〜」という優れたドキュメンタリーを放映しています。

補足:2004/05/07
エリザベス・ロフタスという方が、J.L.ハーマンらの主張と行動に対して反論されておられるとの情報を得ましたので、公平を期すために、その方の邦訳本通販へリンクをします。第3者の批評を介さない、当事者同士の著作の生の主張を比較する事で、問題の核心が見えてくるかも知れません。
(この方の意見に同調している日本人達の著作は「成り行きを直接見ているとは思えないので間接的」と見なし論外として排します)

犯罪被害によるトラウマの受傷をもっと追求されたい方には、こちらのサイトも読まれる事をお勧めします。



『トラウマ-「心の後遺症」を治す』
   ディビッド・マス/著 村山寿美子/訳 大野裕/監修  講談社
ISBN4-06-207778-7
『DSM-IV 精神疾患の分類と診断の手引』 
          訳/高橋三郎・大野裕・染矢俊幸  医学書院
(Quick Reference to the DIAGNOSTIC CRITERIA FROM DSM-VI
               AMERICAN PSYCHIATRIC ASSOCIATION)
ISBN4-260-11793-9
『DSM-IV-TR 精神疾患の分類と診断の手引 新訂版』 
          訳/高橋三郎・大野裕・染矢俊幸  医学書院
(Quick Reference to the DIAGNOSTIC CRITERIA FROM DSM-VI-TR
               AMERICAN PSYCHIATRIC ASSOCIATION)
ISBN4-260-11886-2
『精神療法 特集:DSMの今日的意義』 Vol.27_No.5 金剛出版
(備考:DSM-IVとICD-10、2000年発刊の新基準「DSM-IV-TR」の紹介について6名が解説している)
ISBN4-7724-0715-4
『imago 特集:心の傷とは何か』 1994年7月号 Vol.5-8  青土社
絶版
『imago 特集:狂喜と妄想』   1995年9月号 Vol.6-10  青土社
  P.198:自己破壊的行動の子供時代の起源 B.A.ファンデア.コルク/著
絶版
『imago 特集:人の意識の誕生』 1996年1月号 Vol.7-1  青土社
  P.248:複雑型PTSD J.L.ハーマン/著
絶版
『imago 特集:ニュー・セラピー』1996年8月号 Vol.7-9  青土社
  P.176:トラウマの反復強迫 B.A.ファン.デア.コルク/著
絶版
『心的外傷と回復<増補版>』
      ジュディス.L.ハーマン/著 中井久夫/訳  みすず書房
ISBN4-622-04113-8
〜この文献は、心的外傷論について歴史的な流れを説明した後に、
心的外傷を心的力動と社会環境との相互関係から広く深く説明しています。
著者はフェミニストでもあるとの事でその運動からの知見と、
1997年に来日された際に伺えたヴァン.デア.コークM.D.との活発なディスカッションの存在の示唆が、
この著書を豊かにしています 〜
『外傷性精神障害』 岡野憲一郎/著  岩崎学術出版社 ISBN4-7533-9512-X
『多重人格障害』 F.パトナム・他/編 笠原敏雄/訳  春秋社 ISBN4-393-36042-7
『心的外傷の再発見』
  J.M.グッドウィン/編 市田勝・成田善弘/訳  岩崎学術出版社
ISBN4-7533-9712-2
『霧と夜』ドイツ強制収容所の体験記録
        V.E.フランクル/著 霜山徳爾/訳  みすず書房
ISBN4-622-00601-4
『それでも人生にイエスと言う』
    V.E.フランクル/著 山田邦男・松井美佳/訳  春秋社
ISBN4-393-36360-4
『宿命を超えて、自己を超えて』V.E.フランクル
   (聞き手/F.クロイツァ) /山田邦男・松井美佳/訳  春秋社
ISBN4-393-36416-3
『過去への旅 ---精神分析10話』 小此木啓吾/著  近代文芸社 ISBN4-7733-5773-8
『生き抜く力』
   ジュリアス・シーガル/著 小此木啓吾/訳  フォー・ユー
ISBN4-89376-015-7
サーチ:
Amazon.co.jpアソシエイト