1月23日 朝  早朝6時頃

 「おきろ〜!」と言う声で目が覚める。
 眠っちゃいけないがどうしても眠りそうになり、そしてまた「おきろ〜!!」と言う声が・・・
 この毎朝繰り広げられる光景を、2陣として前日の夜に来た、後の”自称・起こし係”Iさん曰く、
「みんな何度言っても起きないから次第に切れながら言った」
と言っています。
 寝起きしている所が事務所なので、日中の業務に支障が無い様に、もそもそと布団を一カ所に山積みしにしながら、えっこらせと服を着て、バイクを置いているガレージに向かいます。
 大阪支社のヘルプとして毎日3名が残る事になっていますので、それに当たっている人は、今も羨ましい限りの睡眠を貪っています。あぁ、羨ましい。

 冷える早朝に、バイクをガレージから道路に出して暖気運転。
 ガレージのライダー控え室で眠気に包まれながら朝食とミーティングを行い、いざ出発!となります。
 箱付きのバイクが8台位も連なって走る姿は、大阪の皆様にはどの様に見えるのでしょうか?やっぱり異様な光景だと思います。
 しかも皆さん、ライディングに慣れて荒いハズ。威圧感を感じてもおかしくは全くないハズ・・・

 僕にとって、皆さんから離れずに付いていくのに必死です。
 仕事中でもそんな荒い走り、せっぱ詰まらない限りしない。
 コースは、大阪市福島区から出発してR2を神戸に向かいます。
 途中でR43に入り、後はもう抜け道を探し、歩道を走って、ガンガンすり抜けし、多くの原チャリを追い抜きながら、あの高速道路高架横倒し現場を眺め・・
 1時間半位かけて、兵庫区下山手通の日赤に着きます。
 有名になった「高速道路高架横倒し現場」は、通る度に取り壊し作業が日ごとに進んでいました。
 物的対応は政府は迅速な様でしたが、人的支援に対しては全くなっていないとは日々の避難所訪問で感じた事です。

 日赤の2階のボランティア控え室でミーティングが開かれ、打ち合わせを行います。
 Kさんから、昨日の調査の結果で援助が必要と判断した避難所に対して、夜から朝にかけて物資の輸送を行ったとの報告を受けました。
 そして、他の部署担当の人達も目を通しているという事を言われ、やりがいに励みがつき、より責任感を感じました。

 この日から、避難者名簿を頂くお願いをする際に、確かに日赤の職員として担当者がいますよ、と証明する書類を毎日、当日の日付に変更されながら頂く事になりました。これで堂々と交渉する事が出来ます。
 それから、外国から来た女性のカメラマンが避難所の取材をしたいので、通訳と共にバイクに乗せて走り回れる人が欲しいと言われました。この要求には、背の高いBAJAのYさんともう一人が行う事になりました。

 余談ですが、Yさんは翌日にはボランティアの可愛い看護婦さんを乗せ、実現こそしなかったものの、後にみんなのアイドルとなる日赤安否係のNさんを乗せる事になっていた等、女性運がついていて、密かに周りからの羨望を受けていた様でした(^^;

 ミーティングが終わると避難所巡りをする人達は、昨日も行った労働会館で準備をします。

 僕は、昨日の思ったよりも遅いペースを考えて、一番酷くて情報が欲しいと思われる避難所を重点的に回ろうと考えていました。

帰京直前の著者と神戸の街を走り回ったバイク

 ここまでで、体験記は中断してしまいました。
 この先の事をまた機会を改めて話したいと思うのですが、時間が取れなくて遅くなるかもしれません。
 しかし、既に1年以上の歳月が流れているので、このような文体ではもう書く事はできないでしょう。

 最後の感想ですが、今回の大震災では、生きようとする被災者の方々も、それを支援する方々も共に必至で、人というものは、やはり助け合って生きていくのだという熱い心を感じました。
 それから、この後当分はゴジラの映画は見る気になれませんでした。まったく洒落にもならないのです。

 僕のこの体験記が、その様子を垣間みる一端になれれば幸いです。