グローバリゼーション J.F.マリア・イ・セラノ、S.J.  <目次> はじめに 1.技術経済的グローバリゼーション 2.社会政治的グローバリゼーション 3.文化的グローバリゼーション 4.グローバリゼーションの制御 注 **************************************** <著者について> 著者のジョセフ・マリア・イ・セラノ(Josep F. Maria i Serrano, sj.)は1965年バルセロナ生まれ。経済学・神学修士で、経済学博士課程に在籍している。ESADE(マネージメント・スクール)で教授を務めている。「キリスト教と正義」運営委員会のメンバーでもある。 <原版について> 現版(英語)は下記の団体が発行している。 英語全文は下記のサイトで見ることができる。 CRISTIANISME I JUSTICIA R. de Lluria, 13, E-08010 Barcelona, Spain tel:(34)93 317 23 38 fax:(34)93 317 10 94 e-mail:espinal@redstb.es http://www.fespinal.com <日本版翻訳> イエズス会社会司牧センター e-mail:pyopyo@m78.com http://www.kiwi-us.com/~selasj/ **************************************** はじめに 「ああ、グローバリゼーションかい。 いろんなことの言い訳に使えるけっこうな言葉だ」 (R.M.ソロー、ノーベル経済学賞受賞者)  私たちは「ご託宣」を利用したがる。ありがたいが意味不明な言葉を持ち出して、相手の反対を封じ、コントロールするのだ。たとえば、親は子どもに勉強させるのに「将来のため」と言う。どんな「将来」か、親には保証できないが、とにかく「将来のため」といえば、子どもは従わざるをえない。  「グローバリゼーション」も、「ご託宣」になりつつある。それは一方で、現実の社会現象を説明しているが、同時に不正な現状を維持する目的でも利用されている。それこそ、ロバート・ソローが告発している事態だ。  西洋(特にヨーロッパ)が福祉国家によって万人の正義を高い水準で実現した現代に、野蛮な資本主義へと逆行しようとする一部の学者や経済人、政治家は、その口実として「グローバリゼーション」を利用している。さらには、先進国や途上国の一部には、国内政策の失敗を隠す言い訳に、「グローバリゼーション」を利用している。*1  だが、「グローバリゼーション」は実に多様な現実を反映している。今日、人々は電子メールによって地球の反対側の人とコミュニケーションできるようになった。また、テレビも世界中の情報を流している。「メード・イン・タイワン」の製品も当たり前になった。知り合いの一人くらいは外資系企業に勤めている。遠い外国の人権侵害がニュースになる。こうした状況はみな、グローバリゼーションに関係している。  グローバリゼーションに関して考えるべき問題は、他にもある。インターネットは子どもたちの教育にどんな影響をおよぼすのか?国際的なコミュニケーション手段として英語が圧倒的に優勢な現代、数百万人しか話さないような少数言語は滅び去るのか? サラリーマンは企業に対する待遇改善要求を、会社が国際競争力を失って倒産するのを避けるために、あきらめなければならないのか? 人権を侵害する政治家たちを裁く国際法廷が必要ではないか?  「グローバリゼーション」、この言葉はきわめてあいまいだ。だが同時に、この言葉は21世紀に待ち受けるリスクとチャンスを知る手がかりを与えてくれる。グローバリゼーションにともなうリスクを回避し、チャンスを生かすためには、まず、グローバリゼーションの概念を明確にしなければならない。  第一に、グローバリゼーションとは、世界経済危機(1973年)や資本主義の勝利(1989年)、高邁な理念やイデオロギーの没落という時代背景のもと、輸送コストの低下や情報コミュニケーション技術(IT)の発達による社会組織の統合によって加速された、金融・経済・社会・政治・文化的な相互結合である。この相互結合は、先進工業化社会のあり方を一変させる変化をもたらし、地理的・文化的な壁の撤廃が進んだ。その一方で、グローバリゼーションは、個人の経済的利益や、個人と集団の理想的な関係を助長する、無限の可能性も秘めている。  本書では、グローバリゼーションを三つのレベルから分析する。技術経済、社会政治、文化である。  −技術経済レベルの分析は個人の生存のニーズにかかわるもので、生産と分配の経済プロセスにおける新しい技術の利用について考察する。  −社会政治レベルの分析は人間の共生のニーズに関するもので、社会集団や政治権力のあり方に焦点を合わせる。  −最後に文化レベルの分析は、個人の人生の意味というニーズに関係しており、人々の生活を秩序づける人間集団の理念や価値観について考える。  経済・政治・文化の分析は、それぞれ独自のダイナミクスを持つ一方、互いに作用し合っている。たとえば、経営戦略は文化に影響を及ぼすし、逆に地域文化が経営の背景となる、といったようなことである。  多様な現実を説明するのに、三つのレベルのどれかが主になるわけではない。本書ではまず、技術経済の分析から始める。というのも、種々の社会組織の結合や、ヒトやモノの移動の容易化は、特に経済組織が技術革新によって享受してきた現象だからだ。だが、それは単に経済的動機だけでは説明できない現象でもある。  三つのレベルでの分析(第1章 技術経済的グローバリゼーション、第2章 社会政治的グローバリゼーション、第3章 文化的グローバリゼーション)の後、グローバリゼーションについて再定義したのち、グローバリゼーションの制御について考えてみたい(第4章)。実際、グローバリゼーションを分析すれば、その制御は絶対に必要だと認めざるをえない。その制御は、あらゆる人々、なかでも貧しい人々に有益なものとなるよう構築されるべきだと信じている。 **************************************** 1.技術経済的グローバリゼーション 1.IT革命  1970年代中頃に先進国の経済や生活に急速に浸透した情報コミュニケーション技術(IT)は、21世紀を迎えて世界を急激に変化させようとしている。  以下のデータは1995年と古いが*2、IT革命のさまざまな側面を推し量るうえで助けとなるだろう。 (千人あたり)  地域区分  TV所有率 電話加入率 インターネット  パソコン      利用率  所有率  先進工業国 524    414  17.9  156  発展途上国 145     39   0.5    7  全世界   228    122   4.8   44  特に、表の2列目と3列目は、電話とインターネットの利用率の大きな南北格差を示している。このようなIT革命は、先進国と発展途上国とで、きわめて不平等に進んでいるのだ。  一方、絶対数としては、1997年には全世界のテレビ視聴者は12億6千万人、電話加入者は6億9千万人、コンピュータの台数は2億台に達している。  今後の流れとしては、コンピュータ・コミュニケーションと、コミュニケーション産業が生みだすビジネスが、ますます増加するだろう。 2.ITの経済効果  1973年に発生した世界経済危機は、企業間の競争を激化させた。効率の低い企業は淘汰され、生き残った企業は組織運営を改善し、ITを国際レベルでも競争力の高いものへと向上させた。輸送コストの低下と組織運営の変化は、80年代の経済成長率を向上させた。  だが、こうした経済回復は同時に、経済の諸分野における不平等や変化をもたらした。  そうした不平等の実態は、以下のデータに現れている。  世界の階層別GDP所有率(%)   年度  最貧層1/5 中間層1/5 富裕層1/5  1900    8.9   40.2    50.9  1950    5.1   35.4    59.5  1980    3.4   40.8    55.8  1994    4.1   31.7    64.2  中間層は1950年から80年の間にGDP所有率を向上させたが、80年から94年の間に富裕層が55.8%から64.2%に向上させたため、中間層は同時期に再び9%も下げている。  貧困も増加している。国連事務総長のコフィ・アナンは、1999年7月ジュネーブで、「世界の貧困者の数は1974年以来、倍増した」と述べている。そして、1999年現在、60億人の世界人口の半分が一日3ドルで生活している。さらに、その半分が、一日1ドル以下の収入だ。 3.さまざまな変化  グローバリゼーションが経済のある分野にもたらした変化を分析すると、その変化が広範で、今後もさらに強力な変化が起こっていくことが予想される。  たとえば、 −新たな生産形態 −労働の変質 −資本の変化 −環境汚染 −国家の役割の変化 3.1.新たな生産形態:非物質化と国際化  新たな生産形態は、商品とその生産プロセスの非物質化と国際化から生まれる。 a)非物質化  商品の非物質化とは、商品の付加価値が、物質的要素から非物質的要素(デザイン、ブランド、特許など)へと転換してきたことを意味する。たとえば、コカ・コーラの価格構成においては、原材料よりも広告費や発明特許の占める割合が高くなっている。コンピュータ・ソフトの価格においては、プログラムを記録するディスクのコストよりも、ソフトの制作やプログラミングにかかるコストの割合が大きくなっている。  付加価値に占める商品イメージの割合が高まっているのは、消費が単なる経済行為でなく、人々の生き甲斐の中心となってきたからだ。宗教やイデオロギーといった理念は影響力を失い、企業の宣伝による「消費という快楽」が取って代わったのだ。  商品の非物質化は、企業自体も非物質化させている。今日の企業は、機械と労働者であふれる大工場を持つ必要がない。現代企業に求められるのは新しい商品アイディアと生産設備、販売システムであり、この三つが組織的に統合され、資金供給される。  だが、商品の非物質化は生産コストを低減させる。企業は他の企業に業務の一部を委託したり(アウトソーシング)、フランチャイズ方式で自社のブランド利用を許可したりする(たとえばマクドナルド)。実際、マクドナルド社は何千という民間小売業者に対して、自社のブランドや経営ノウハウ、製法の独占使用権を与えている。結局、マクドナルドの商品は料理や材料ではなく、ブランドや経営ノウハウなのだ。  販売システムに関しては、電子商取り引きの発達が、システムの簡素化、縮小を可能とした。  資金供給に関しては、特に先進国で、優秀なアイディアとコネクションを持つ起業家に融資する資本市場が発達してきた。  商品と企業の非物質化は大きなチャンスだ。金になるアイディアや経営ノウハウ、そしてコネクションを持っている人は、自由に起業できるようになったのだ。 b)国際化  商品の国際化は二つのことを明らかにしている。一つは、私たちがますます多くの外国製品を消費するようになったこと。もう一つは、「メード・イン〜」という生産地表示に寄せる信頼が低下していることだ。  国際貿易の増加にしたがって、私たちはより多くの外国製品を消費するようになる。事実、WTO(世界貿易機関)の強制力によって、また輸送コストの大幅な低下によって、貿易は著しく増えている。その結果、世界の総生産に占める輸出の割合は、1965年の9.1%から95年には15.0%へと上昇している*3。  「メード・イン〜」という生産地表示に対する信頼が失われているのは、IT革命と輸送手段の発達によって、生産の国際分業が容易になり、生産プロセスの各段階をもっとも利益の大きい国で行うのが当たり前になっているからだ。もちろん、すべての企業が生産を分業できるわけではない。資本集約的製品や技術集約的製品を生産する企業にとっては、分業は容易だ。同様に、熟練労働者を必要としない製品を生産する企業も、容易に国際分業できる。こうした製品は、生産プロセスのうちで労働集約的な部分を、安い肉体労働力を豊富に持つ国に移転することができる。これがいわゆる保税地区であり、外国から誘致された企業は地元労働者を酷使して、ある程度加工のすんだ製品の労働集約的な生産プロセスを行うのだ。こうした生産の国際分業化は、数値で計測するのは難しいが、明らかに増大している。 3.2.労働の変質  前節で分析した生産の変化は、労働者を二つのカテゴリーに分けた。自分でプログラムを立てられる労働者と一般労働者だ。前者は、ITを使いこなし、IT革命に順応できる人々だ。彼らは付加価値の重要な部分を生みだしており、かけがえのない存在だ。一方、後者の仕事はそれほど重要ではなく、頭数としては重宝されても、責任ある仕事は任されない。  このカテゴリー分けは、給料格差の増大につながる。自分でプログラムを立てられる労働者は、より不可欠なサービスを提供しており、一般労働者よりはるかに高い給料を得る。また、失業や職業の不安定は先進工業国の慢性病となりつつあり、提供するサービスが取り替え可能な一般労働者に、特に大きな影響を及ぼしている。さらに、失業や職業の不安定は経済的な影響とともに文化的な影響も及ぼす。労働者の自尊心の低下、家族の不安定化、非行の増加などである。  また、貧困と圧迫を逃れて、貧しい国々の労働者が豊かな国に出稼ぎに来る。そのため、先進国では失業率が上昇する一方で、国外からの労働者も増えるという矛盾した事態が起きている。現実には、外国人労働者は、地元の労働者がやりたがらない単純労働や、一部の人にしかできないような専門職(たとえば、コンピュータ)に就労している。 労働市場の分析  グローバリゼーションは、労働市場を自分でプログラムを立てられる労働者と一般労働者に分けるだけではない。グローバリゼーションは労働者を分断する。たとえば、就業者と失業者、派遣社員と正社員、正社員とアルバイト、男性と女性、国内の労働者と出稼ぎ労働者、合法的な労働者ともぐりの労働者、などだ。こうした労働市場の分断は、生産性の向上によって生みだされる富の分け前から、労働者を遠ざける。  国際的なレベルでも、さまざまな国の同一部門の労働者同士が競争し、それによって企業に対する交渉力が弱められる。  労働者の分断化は、労働の変質をもたらす。管理職を除く雇用労働者の所得は、企業の利益や経営陣の報酬を確保するために、低下している。たとえば、米国の高卒以下の労働者の平均給与は、1979年の時給11.23ドルから、93年には9.92ドルに低下している。 3.3.資本の変化  グローバリゼーションは、資本の所有形態も複雑にしている。  まず、オールド・リッチと呼ばれる伝統的な資本家がいる。彼らの富の源泉は、資本や天然資源の所有だ。次に、ニュー・リッチと呼ばれるビル・ゲイツのような企業家たちがいる。彼らは、商品のの非物質化現象のおかげで、資本も資金もなしに一大企業を築くことに成功した。  さらに、投資ファンドがある。その多くは労働者の貯えをかき集めたものであり、かくして労働者は、新たな形の資本家となった。こうした投資ファンドの巨額な資金は、少数の専門家チームによって運用されており、短期間に高い収益をあげることをめざしている。こうした投資ファンドの匿名性は、資本運用をいっそう危険なものとしている。IT革命によって促進されたグローバルな金融市場の統合は、こうした投資の匿名性や非人間性を増幅している。今日、世界のもっとも重要な株式市場(ロンドン、ニューヨーク、東京)は24時間オンラインで結ばれている。そこで取り引きされる株式総額は、どの政府もコントロールできないほど巨額だ。1995年には、市場で毎日1.5兆ドルが取り引きされていたが、国際貿易総額は一日100億ドルに過ぎなかった。つまり、資本市場は実体経済の必要額を150倍も上回るスピードで回転していたのだ。  他方で、企業間の競争は日々、激化している。ハンガリー人の投資家ジョージ・ソロスによれば、ビル・ゲイツが「自分はいつも(マイクロソフト社の)生き残りをかけて闘っている」と語ったのは誇張でも何でもない。  こうした資本所有の新しい形態は、労働者に悪影響をもたらす。実際、資本所有が生産や労働の現場から離れていけばいくほど、経営者の決断はますます非人間的になっていく。戦争が体験者によれば、兵士は戦う相手の顔をよく見れば見るほど、殺すのをためらうという。逆にグローバリゼーションの勝者と敗者が決して同じテーブルにつかなくなれば、勝者が敗者の利益を著しく損なう決定を下すことは、容易になるだろう。 3.4.環境汚染  最近、70年代とくらべて経済は回復している。だが、その間、多くの経済主体は生産や消費が環境に与える影響をほとんど考慮してこなかった。その結果、大地でも海でも大気中でも、深刻な環境汚染が起こった。  特に、国際貿易の増加や生産の国際分業化は、輸送の増加の原因と同時に結果でもあったが、こうした輸送の増加はしばしば、合理的に説明できないほど高い環境コストをともなっている。たとえば、1キロのブドウをカリフォルニアからドイツまで空輸する際に、大気中に排出される二酸化炭素は、20キロにのぼる。北海で獲れたカニを、モロッコで殻から外し、ポーランドでパックして、ハンブルグの市場に届ける場合などはもっとひどい。  西洋式の経済成長モデルは、環境の面から見て、持続不可能だ。 3.5.国家の役割の変化  最近までは、経済活動の大部分は、市場の枠組みを設定し、国民福祉を擁護する国家によって飼い慣らされて(domesticated)きた。だが、経済が国境を越える今日、各国政府が自由競争を擁護し、所得を再分配するために、マクロ経済をコントロールする政策手段は減っている。  今こそ、グローバル化する経済を、国民福祉に配慮する各国政府のコントロール下に置く、条約や制度を実現すべきである。にもかかわらず、多くの国は逆に、無差別な貿易自由化と資本移動を奨励しているのだ!  さらに、資本の移動に対する各国政府の規制は骨抜きにされている。資本移動の自由化は、IMF(国際通貨基金)による政治的な決定だ。その結果、各国中央銀行は、資本の国際移動をコントロールできなくなっている。こうした資本移動のコントロール不能から生じる混乱は、生産活動の機能不全をもたらしている。  発展途上国では特に、この資本移動の自由化は無惨な結果を生じさせている。途上国の対外債務見直し交渉を通じて、IMF/世界銀行は途上国政府に、インフレと公債発行の抑制だけでなく、国営企業の民営化や、外国資本や多国籍企業の進出自由化も強制している。対外債務の返済は、本来なら教育・保健支出の増額に充てられるべき資金を横取りしている。公債発行の抑制は、国営企業の外資への売却を引き起こし、貧しい国民への保護がいっそうおろそかになっていく。 ◇   ◇   ◇  以上、本章ではグローバリゼーションの経済的影響について見てきた。次章ではグローバリゼーションの社会政治的側面について分析しよう。 **************************************** 2.社会政治的グローバリゼーション  第1章で指摘したように、グローバリゼーションは、IC導入が加速した1970年代の経済危機の頃から、急速に進んだ。だが、グローバリゼーションの流れが決定的に強まったのは、1989年にベルリンの壁が崩壊し、資本主義が政治的に勝利してからだった。これが、グローバリゼーションの政治的勝利としての側面であり、その主役はいくつかの理念(自由、人権、民主主義)、政治家(ゴルバチョフ、エリツィン、ワレサ、ハベル)、社会運動(「連帯」、チェコスロバキアの「レター77」)であった。  だが、この政治的勝利には、技術・経済・文化的要素も貢献した。技術的観点からは、東側陣営の崩壊の一因は、旧ソ連の軍事テクノロジーの敗北であった。レーガン大統領が打ち出した戦略防衛構想に対して、ゴルバチョフ大統領は自国の防衛システムが時代遅れであると気づいたのだ。  社会主義経済も十分に機能していなかった。中央集権経済は、社会主義国が現実に到達していたレベルにくらべて、複雑すぎた。しかも、東側の最高の技術は、経済ではなく軍事に充てられていた*4。他方、西側のテレビ局は東側の国民に、西側の豊かな生活への憧れを植えつけた。この意味で、鉄のカーテンの崩壊は文化的グローバリゼーションの成果でもあった。 1.二極政治から三極経済へ  冷戦は1989年に終結し、米国は旧ワルシャワ条約機構諸国のNATO(北大西洋条約機構)への加盟を受け入れ、IMFを通してロシア連邦に資本主義への急激な移行を促して、資本主義の勝利を確かなものとした。敗者であるロシアが恨みを募らせ、新たな帝国の建設へと突き進むのを防ぐには、引き続き寛大な援助と熱心な働きかけが欠かせない。  いずれにしても、国際政治の関心事は、もはや二つの政治陣営の対立ではなく、政治的・文化的に異質な三つの経済センター(つまり米国、EU、日本=東南アジア)の出現なのだ。これら三つの経済センターの周囲には、それらのセンターとより緊密な関係を築いて、いっそうの繁栄をめざす国々が、同心円状にグループを形成している。そして、そうしたグループのさらに外側に、繁栄から取り残された国々が存在し、それらの国々では深刻な武力紛争が起こっている。 2.ネットワーク国家  グローバリゼーションは国民国家(Nation States)に、地域連合(regionalisation)と自治体の復権(valorisation of sub-state political units)という二つの方向性を持つ変化をもたらした。今日、環境や人権、組織犯罪など、国民国家の枠を超える問題が深刻化し、各国は地域レベルで連合して対処するようになっている(EU<ヨーロッパ連合>、NAFTA<北米自由貿易地域>など)。  その一方で、市民政治に関する諸問題について、政府より下位の自治体が主体性を発揮して、解決しようとする傾向がある(スペインの自治政府をはじめ、ヨーロッパ各地の地方自治体、旧ソ連崩壊後の独立国など)。  EUはいまや、地域連合化と自治体復権をめぐるさまざまな試みのゆりかごとなっている。EUの政治状況は複雑をきわめており、新たなニーズが生じるたびに、さまざまなレベルの暫定的な同盟を組んで対処せざるを得ない。  たとえば、1992年のバルセロナ・オリンピック組織委員会は、オリンピック開催に向けて、バルセロナ市、カタルーニャ自治政府、スペイン政府、EU当局に緊密な協力関係を確立させた。  いまやEUは、個々の利害関係に応じて自治体や国家同士の関係が変化し、その時々にプレーヤーが集まって役割を演ずる、新たな政治モデルの舞台となっている。こうした政治モデルこそ、マヌエル・カステルスが言うところのネットワーク国家だ。  問題は、ネットワーク国家が、福祉国家が歴史的に獲得してきた国民福祉を台無しにするのではないかという懸念だ。この福祉国家という政治モデルは、ヨーロッパの国民国家という枠組みの中で生まれ、今日、グローバリゼーションが脅している市民的・政治的・社会的権利を保証しているのだ。  実際、グローバリゼーションとネットワーク国家は、グローバル・ネットワークに連なる力を持たない国々を排除する。排除された国々は、野蛮な市場経済に立ち向かって、市民の社会経済的権利を守るだけの財政的力を持っていないのだ。 3.発展途上国の国家  フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」と呼んだベルリンの壁崩壊後、自由民主主義がソ連との冷戦に勝利し、残された課題は、この闘いに勝利した自由民主主義が全地球上に行き渡ることだけになった*5。そして実際、20世紀最後の10年に、民主主義が多くの国々に行き渡った。だが、この民主主義は現実にはうまく機能せず、貧困や開発の停滞、多国籍企業による支配など、多くの問題を生みだした。西洋流の民主主義による民族的文化遺産の破壊という問題もある。  自由民主主義の機能不全や、西洋的な市場文化と発展途上国のライフスタイルとの衝突は、しばしば深刻な対立を引き起こしてきた。政治的なグローバリゼーションは、必ずしも途上国の国民に福祉の向上をもたらすとは限らない。こうした対立はたびたび、反西洋というイデオロギーを帯びた原理主義(fundamentalisms)を生みだした。原理主義者は「自分たちを排除する西洋世界を排除する」ことによって、グローバリゼーションの恩恵からの排除に対抗する。こうして彼らは、伝統宗教を利用して、西洋世界を闘うべき敵と宣告する。  だが、グローバリゼーションから排除された人々によって進められてきた原理主義は、西洋のより巧妙な原理主義(それは経済的であると同時に政治的でもある)に対抗しているのだ。ヨハンネス・ミュラーによれば、この「原理主義の衝突」を解決するには、フクヤマのように西洋の視点から途上国を見下すのでなく、ヨーロッパ文化自身を問い直し、他の文化から学ぶ姿勢を持つことだ。  とはいえ、政治的グローバリゼーションとは単に、自由民主主義を他の政治形態の国に傲慢に押しつけることではない。たとえば、20世紀の終わりに設立された国際刑事裁判所は、人権の効果的・普遍的保証を前進させた。 4.市民運動  近年生じたさまざまな変化は、市民の間に、伝統的な政治勢力である政党や労働組合への不信を増大させてきた。政党は経済・政治状況の変化に翻弄され、メディアの論理にもてあそばれ、イデオロギーの終焉に幻惑されて、支持を失ってきた。労働組合は、第2章で見たように、経済のグローバリゼーションによって交渉力を失ってきた。  こうした政党や労働組合の復活も大事だが、新たに台頭してきた市民運動が、社会問題解決の一翼を担いつつある。新たな市民運動には以下の特徴がある。 −市民運動は個別の問題に関わるが、そうした問題は普通グローバルな側面を持っている(エコロジー、平和主義、フェミニズム、人権、開発協力、子どもの搾取など)。 −市民運動は、伝統的な組織に比べて、民主的で参加的だ。また、ITを利用して影響力を広げたり、政府や国際機関に耳を傾けさせたりする。この意味で、ITは連帯の道具となってきた。 −市民運動しばしば、国家外交を越えた独自の論理で行動し、国家間の対立を招いてしまうこともある。NGOのメンバーが活動国で拘束され、外交紛争に発展する事態も珍しくない。  この意味で、市民運動は多国籍企業や犯罪ネットワークと似かよった行動原理を持っている。この三者がネットワークを築く場は、いずれも国家の周縁である。この点で、グローバリゼーションと国際化(internationalisation)が区別される。国際化とは「nation(あるいはStates)の間」の関係である。グローバリゼーションとは逆に、異なる国々の個人や集団の間に、国家の仲介なしに関係を築き上げるのだ。 5.新たな社会的分断  近年、登場したグローバリゼーションは、ITをマスターして豊かになった人々と、依然として排除され貧しくされている人々との間に、新たな社会的分断をもたらした。グローバリゼーションの勝者は、以前よりはるかに豊かになり、外国に旅行し、英語はペラペラ、コンピュータを駆使し、西洋の音楽や映画に精通している。  その一方で、排除される人々がいる。カステルスはそれを、「情報資本主義のブラック・ホール」と名づけている。サハラ以南のアフリカや太平洋諸島、先進国のスラムに住む人々、教育の機会に恵まれない若者や一人暮らしの高齢者など、グローバリゼーションから排除されている人々は、もはや生活条件の悪化から逃れることは(ブラック・ホールから逃れるのと同様に)不可能なのだ。  このブラック・ホールに落ちる(落ちそうな)人の数は、日毎に増えている。こうしたブラック・ホールに落ちた人々は、資格もニュー・ビジネスへの適応力もなく、家庭環境の悪さから人格的な弱さを持ち、出稼ぎに行ってもその国の言葉さえ話せず、グローバルな文化に触れるチャンスも持っていない。この絶望的な状況から脱出する一つの方法は、犯罪ネットワーク、つまり麻薬や武器・子ども・女性の売買、不法移民、有害廃棄物の投棄などの国際ネットワークに加わることだ。この犯罪ネットワークの目的は勝利と富であり、合法性や基本的人権への配慮は一切ない。  情報資本主義のブラック・ホールには、強力な吸引力がある。一度、このブラック・ホールに入ったら、脱出は困難だ。内部には、強力な「内部連鎖」が働いているからだ。たとえば先進国で、貧困は悪しき生活習慣につながり、悪しき生活習慣は学業不振につながり、学業不振は失業につながり、失業は薬物やアルコールへの依存につながり、依存は売春や非行につながり、売春や非行は投獄につながり、投獄はAIDSによる死につながる。  第三世界にもブラック・ホールが存在する。グローバルなネットワークに加わる道を、一切閉ざされた国々だ。こうした国々では、外国文化やグローバル経済の悪影響が顕著だ。たとえば、宗教を中心に伝統的な生活を営む農村に、テレビなどを通して、魅力的だが手の届かない西洋風のライフスタイルが入ってくると、致命的な混乱が生じる。こうした外国文化の侵略は、以下の悪影響を及ぼす。  −外国文化は個人主義を促してて、経済的・政治的連帯をそこなう。たとえば、ラテン・アメリカやインドでは、国民生活を改善するためにはじめた協同組合、農民運動などの共同の取り組みを邪魔するために、特定の宗教グループ(実は外国から資金援助を受けている)が設立されている。  −外国文化の侵略は、原理主義的反発を呼び起こす。  −外国文化が浸透すると、都会暮らしにあこがれた人々が、都市や外国へと移住する。その移住先で、ブラック・ホールが再生産され、文化摩擦が生じる。  だが、グローバルな文化がローカルな社会に適応し、人々を人間らしい暮らしに導く可能性もある。私たちは次章でこの問題を取り上げ、グローバリゼーションの文化的側面について語ろう。 この章のまとめ  本書で国際化ではなくグローバリゼーションという言葉を用いているのは、誰もがこのプロセスの恩恵を受けているわけではないからだ。国際化とは対照的に、グローバリゼーションは地理的に離れた地域同士を結んでいる。  今日までのグローバリゼーションは、それを理解し、利用してきた人々と、そのために苦しんできた人々との間に分断を引き起こした。後者は情報資本主義のブラック・ホールに吸いこまれ、苦痛と生活条件の悪化から逃れることは不可能だ。 **************************************** 3.文化的グローバリゼーション  この章では、人が意味を求めることの必然性をグローバリゼーションがどう変えたのか、制度やメカニズムの面から考える。 「文化とは、その中で、ある一群の人々が生き、考え、感じ、自らを組織し、祝祭を行い、生活を分かち合うありようを意味する」*6  この定義は、文化の2つの側面を教えてくれる。一つは目に見えない側面(「生き、考え、感じる」)であり、理念や価値によって統合される。もう一つは目に見える側面(「組織し、祝祭を行い、生活を分かち合う」)であり、さまざまな経験(パーティ、宗教、映画、本、社交、仕事、夫婦生活、社会生活、政治)を通して、目に見えない理念や価値を具体化する。 1.文化  本章では、ITの導入や輸送費の低下が文化の領域にもたらした新しい現象について、以下の順に分析する。  −テレビやインターネットが伝える文化情報の増大が市民生活に与える影響(2節)  −企業が生みだすグローバル文化の影響力(3節)  −グローバル文化と文化摩擦(4節)  −グローバル文化の青少年への影響(5節) 2.新たなメディア  テレビやインターネットなどのメディアを通した文化情報の浸透は、二つの結果をもたらした。それは市民の考え方や価値観を広げる一方、余暇の過ごし方も豊かにした。  a)市民の考え方や価値観を広げたのは、インターネットの出現で、人々があらゆるテーマについて世界中から膨大な情報を得ることができるようになり、また、高度に専門的な事柄に関しても地球規模のバーチャル(仮想)ネットワークにアクセスできるようになったからである。  他方で、人々の視野が拡大するにつれて、イデオロギーは無力化し、ついにはベルリンの壁崩壊に行き着いた。かつて多くの思想、宗教、イデオロギー(自由主義や社会主義)、ナショナリズムを育んだ政治や宗教の聖典は、いまや無益なばかりか有害とさえみなされる。実際、近年の歴史はそうした理念やイデオロギーの暗い一面を物語っている。宗教の名の下に戦争が起こり、自由の名の下に貧困と不平等が生まれ、社会主義やナショナリズムの名の下に抑圧が行われるのだ。  発展という神話も、生態系破壊を招いた。こうしてイデオロギーや発展は、社会に真に新しいものはもたらさないと考えられるようになった。その結果、「人のやることに善悪は決められない」という相対主義と、「勝ちとるべき新しいものなど何もない」という消極性が支配する時代となった。  b)とはいえ、バーチャル(仮想的)な文化的情報(ビデオ、衛星放送、映画、電子メール、チャット、ネット・サーフィン)によって、余暇の過ごし方は豊かになった。バーチャルな情報はバーチャルな人間関係をもたらした。このバーチャルな関係の中で、私たちは物理的には顔を合わせていない人、直接会話することのないフィルム上の人と出会い、生活や行動の面で大きな影響を受けているのだ。こうしたバーチャルな関係は、マヌエル・カステルスのいうリアルなバーチャル文化を生みだす。それがバーチャル文化だというのは、それらの文化情報の媒体がコンピュータやテレビ・ゲーム、テレビや映画だからであり、リアルだというのは、それに接した人々の思想、価値観、行動に実際に影響するからだ。  実際、こうした文化においては、何がリアルで何がバーチャルかの境界は非常にあいまいだ。テレビを見る時間が増えるにしたがって、番組から受ける心理的な影響が増大して、フィクションと現実を混同してしまうようになった。  だから、たとえば重大事件がテレビで報道される場合、テレビで繰り返し放送されるイメージが現実として刷り込まれ、逆に現実を目にしたとき非現実感を覚えるという、本末転倒の事態も起こる。 3.グローバルな消費文化  私たちは第2章で、企業が宣伝によって商品に物語を付加することで、商品の売り上げをいかに増やすことができたかを見た。つまり、消費という行為は、理念が失われた時代に生きる個人に意味を与える行為となってきたのだ。この節では、グローバルな文化情報の多くが文化的商品、つまり、企業が利益を得るために生産したものであることについて考えたい。  グローバルな競争のなかで商品を売る企業は、さまざまな宣伝テクニックを駆使するが、そうした宣伝はほとんどの場合、消費者に商品の特徴を知らせることよりも、消費者を誘惑して、商品を買いたいという衝動を感じさせることを目的としている。  そうした宣伝は、「この商品を所有すれば、あなたの生活はこんなにハッピーになる」と訴え続ける。かくして、市民の価値観は変えられていく。そして、時には依存症的な生活習慣も植えつけられる*7。実際、宣伝はいつの時代もそうしたものだった。ただ、今日、新しいことといえば、宣伝を行う企業がグローバルな影響力を持っていることだ。  こうした企業の誘惑は、特にエンターテインメント産業(映画、ビデオ、テレビ、雑誌、ゲーム・ソフト、テーマ・パークも含めて)において顕著だ。  エンターテインメント企業の大部分は米国にある。世界の映画館で上映される映画の大部分は米国製だ*8。「考えずに見られる」映画をほしがる大衆の欲求に応えた、アメリカ映画の多くは、特定の価値観を再生産する。善悪二元論(しばしば、アメリカ人が善で外国人が悪だ)、対立を暴力で解決する態度、単純な恋愛観、成功至上主義などだ。テーマ・パークの代表格であるディズニー・ランドは愛くるしいキャラクターを売り物にし、多様な文化(?)さえ見せてくれる(ディズニーランドの「遙かなる西部」の何とステレオタイプなことか!)そして、CNNのような世界的なテレビ局は、自分たちが「面白い」と思うものだけを「ライブ」で世界中に流す。テレビ局こそニュースの創造者なのだ。 4.グローバル文化?  今日の新しい文化情報の重要な特徴の一つは、その発信源が遠く離れた人々や文化、いわばグローバル文化ともいうべきものであることだ。ベンジャミン・バーバーは、そうしたグローバル文化は確かに存在すると主張し、それをマック・ワールド(McWorld)文化と名付けた。それは、マクドナルド(McDonalds)やマッキントッシュ(McIntosh)といった商業ブランドと、その世界規模の影響力とを指している。バーバーによれば、マック・ワールド文化は、すでに経済的・政治的には均質化されている世界を、文化的にも均質化する。こうしたバーバーの予言は、「経済と政治の歴史の終わり」というフランシス・フクヤマの主張を、「文化の歴史の終わり」で補完するものだ。この「文化の終わり」の制度的な主体は、企業一般、なかでも米国のエンターテインメント産業だろう。  だが、このグローバル文化は、どこか特定の場所に「上陸し」、それを消費したり、関わってくれる大衆と結びつかねばならない。英語を理解する人は世界でも少数に過ぎないから、米国映画には吹き替えが必要だし、多くの国の視聴者は国内のニュースに興味を持っているから、CNNニュースも国内向けに編集する必要がある。  このように、明らかにアングロ・サクソン的なものであるグローバル文化も、上陸すると同時に差異化(differentiated)されることは確かだ。だが、この差異化はどの程度まで本質的なものか? たぶん、それは表面的なもので、本当の違いを隠すための戦略に過ぎない。たとえば、ラテン・アメリカ製のメロドラマは世界中のテレビで放映されているが、そこには経済的差異は現れず(貧乏人の登場人物はいない)、文化的差異も映し出されない(先住民も登場しない)。つまり、私たちが見ているのは差異の存在しない文化なのだ。このテレビ文化は、スクリーンの外の不平等で多様な世界に、強烈な差異を置き去りにする。だが、テレビの視聴者に「良心に関わる問題を提起する」ことは、売り上げには貢献しない。かくして、企業は私たちを落ち着かせ、「リラックスさせる」番組ばかり作るのだ…  だが、グローバル文化がいつも人を疎外したり、文化的違いを無視したりするわけではない。南アフリカ・ヨハネスブルグ郊外のソフィアタウンと呼ばれる町では、アメリカのポピュラー文化(黒人映画、ジャズ、アフリカ系アメリカ人の文化)の浸透によって、抑圧された人々が抗議の声を挙げ、反アパルトヘイト運動を組織して、南アフリカの民主化に貢献するようになった。このように「グローバル」な商品を上手に採り入れるなら、抑圧からの解放をめざす方法として役立ちうる。  とはいえ、そのためには、グローバル文化を受け入れる地元の主体が積極的で、「輸入された」グローバルな文化の情報を、地元の文化と調和させる必要がある。 5.青少年への影響  私たちはこの章のはじめで、文化とは人間集団に関わるさまざまな理念や価値観の総体であると知った。子どもが何かを体験し、その体験を内面的に磨き上げて、自分自身をある人間集団の「文化の受け手」から「作り手」へと変えていくプロセスを、社会化(socialization)と呼ぶ。  新しいグローバル文化の情報は、こうした社会化のプロセスに、時には矛盾する影響を及ぼす。つまり、一面では青少年にさまざまな文化やライフスタイルの情報を与えて、視野を広げ、自分たちの文化をより人間的に変えていくのを助ける。さらには、インターネットで世界を旅して、外国の人々とコミュニケートすることで、青少年は自分たちがかけがえのない地球の一部であり、共通の運命を分かち合っていると感じる。  他方で、バーチャルなメディアの乱用は、社会化のプロセスを弱める方向にも働く。社会化のプロセスを実現するためには、確かに情報を得ることが重要だ。だが、社会化のためには、その情報を沈黙の内に吟味したり、意味の分からない外国語の歌ではなく自国語の歌を聴いたり、夢物語でなく自分の生活体験に似通った文学や映画を通して、我が身を省みることも欠かせない。同様に、生身の友人とのコミュニケーションも欠かせないし、人間的なふれあいを通して友情や連帯、権威への理解といったリアルな人間関係を教えてくれる、学校や職場、サークルなどへの参加も必要だ。  にもかかわらず、テレビが私たちから物を書く時間や考える時間を取り上げるなら、あるいは、私たちが見るミュージカルや文学、映画が外国製のものや、「大衆向け」のお手軽なものばかりだったら、そして、もし私たちが、それらのバーチャルな登場人物と真摯に対話することなく、一方的な影響を受けてライフスタイルを変えるなら、社会化は不十分なものに終わりかねない。  こうした現状を前にとるべき正しい戦略とは、青少年をインターネットやテレビにアクセスさせないことではなく、インターネットやテレビを通して知る事柄を判断し、積極的に選択する能力を育てることだ。同様に、彼らがあまりやりたがらない自由時間の過ごし方−読書、沈黙、祈り、サークルへの参加など−の楽しさや意義深さを、理解するよう助けることも重要だ。 ◇   ◇   ◇  この章の議論は、グローバリゼーションの文化的な側面が、より人間らしい生き方の実現に奉仕するよう、私たちに積極的な行動を呼びかけている。それは、前の二つの章と同様である。  以上三つの章で見てきたチャレンジは、私たちが考察しているご託宣、つまりグローバリゼーションのより深い次元へといざなう。次の章では、グローバリゼーションの意味を改めて要約し、それが与えてくれるチャンスを生かし、危険を避けるための試みを提案したい。 **************************************** 4.グローバリゼーションの制御 1.グローバリゼーションの概念  グローバリゼーションという現象が具体的に現れる三つのレベルについての考察が済んだ今、グローバリゼーションというご託宣を改めて取り上げて、その意味をより正確に定義しよう。グローバリゼーションの意味内容を、より正確にするために、三つの概念について考えてみたい。国際化、「世界化」、そしてグローバリゼーションである。  国際化(internationalisation)とは、さまざまの国民国家が互いに関係を持ち合うプロセスだ。その意味で、グローバリゼーションは、より緊密な国際化を必要とする。なぜなら、グローバルな規模の有害な存在(犯罪ネットワークや環境破壊)に対処するために、諸国家のよりいっそうの協力態勢が必要だからである。だが他方で、これまで見てきたように、国民国家の周縁で働いているさまざまな国の人々や組織の間にも協力関係が生まれている。たとえば、多国籍企業、世界規模で活動するNGO、非合法経済のネットワーク、インターネット利用者の国境を越えた連帯などだ。その意味で、グローバリゼーションは国際化を超えている。  世界化(worldisation)とは、世界中の市民がある具体的な経験、価値観、善を分かち合うプロセスのことだ。だが、すでに見てきたように、そうした絆は世界中の全市民に届いていない。世界には、グローバリゼーションから一方的に被害を受けている集団や地域がある。彼らはいまだにコミュニケーション・ネットワークや資本の流れ、企業の投資先から切り離され、資本主義のブラック・ホールの暗闇に沈み、グローバリゼーションがあまねくもたらす活性化の波から取り残されている。  こうして、これまでに姿を現してきた限りでのグローバリゼーションは、万人に恩恵を分け与えてはいない。それは、世界化がもたらすはずの恩恵に比べれば、明らかに少なすぎる。  この意味で、ある人々や地域が、他よりグローバリゼーションの面で進んでいることが分かる。つまり、グローバリゼーションとは程度の問題なのだ。インターネットに接続し、グローバル経済に関わる仕事をし、外国に旅行し、遠く離れた国に友だちがいる人は、とてもグローバル化されている。特定の産品の貿易によって隣国と関係を持ちはじめた国は、少しはグローバル化されている。自己完結した社会に生き、外部からの経済的・政治的・文化的影響を受けずに暮らしている人々は、まったくグローバル化されていない。ただし、近年、グローバル化が急激に進んで、一番最後のような例を探すのは難しくなっている。  だが、ここで指摘しておきたいのは、グローバル化されるということは、かならずしも善か悪のどちらかとは限らないということだ。善であるとすれば、グローバリゼーションが人間らしい暮らし、つまり、生存のためのニーズや共同生活、人生の意義といったニーズが満たされた暮らしに導く場合である。それは、体が健康で、精神的にも奴隷や依存の状態から自由で、隣人との共生という意義深い関係にあり、他の国の人々に対する正義と連帯が行く手を照らす暮らしだ。 2.正しい立場  グローバリゼーションに対してとりうる立場は三つある。拒絶するか、無条件に受け入れるか、受け入れた上で制御して、万人の福祉−特にもっとも苦しんでいる人の福祉−に奉仕させるかだ。  第一の立場、拒絶は、グローバリゼーションから排除されている国々の原理主義が採る立場だ。その言い分は、「我々を拒絶する者を拒絶しよう」ということだ。だが、こうした反動的な立場も、ITの浸透を止めることはできない。そればかりか、その結果行われる経済・政治・文化政策は往々にして、非人間的な社会をもたらす。たとえば、一部のイスラム原理主義革命は貧困を引き延ばし、多くの女性に死をもたらして、女性への心理的抑圧を強めた。西洋にも反グローバリゼーション・グループがある。彼らはユートピア的な理想に立ち、グローバリゼーションを厳しく告発している。グローバリゼーションの悪影響や危険について啓発している限り、彼らの活動は意味がある。だが、彼らも常に純粋な反対運動であり続けられるとは限らない。自己の利益のために彼らを利用しようとする勢力も存在するのだ。たとえば1999年末にアメリカのシアトルで開かれたWTOのミレニアム・ラウンドの失敗は、グローバリゼーションに反対するNGOを喜ばせただけでなく、第三世界からヨーロッパへの農産物輸出の阻止を叫んでいたヨーロッパの農民たちにとっても朗報だった。だからこそ、反グローバリゼーション運動は、いつまでも反対運動に留まるのでなく、建設的な運動へ、つまり、グローバリゼーションを万人に奉仕させるための積極的な代案づくりへと進む必要がある。  第二の立場、つまりグローバリゼーションの無条件の受け入れは、ネオリベラリズムの立場に他ならない。ネオリベラリズム(新自由主義)は、東欧社会主義の敗北や西洋型福祉国家の苦戦につけこんで、弱肉強食の自由放任的な資本主義をおしすすめようとする経済的強者の武器となってきた。ネオリベラリズムは、いくつかの半面の真理を一般化し、普遍的真理であるかのように祭り上げた。だから、特定の経済主体によっておしすすめられてきた歴史的事実としてのグローバリゼーションを受け入れるにあたって、ネオリベラル主義者は、グローバリゼーションを世界的な政治機構に従属させることなく、あるがままにしておくべきだと主張した…だが、その結果、生態系のアンバランス、経済の不平等、社会における疎外、そして人間らしい文化の破壊が起こった。  ネオリベラリズムが、各国の現状を無視して経済・政治・文化政策を押しつけるなら、それは経済競争に勝利した資本主義国にのみふさわしい、もう一つの原理主義となってしまう。  第三の立場は、私たちが相互に結びついて暮らしており、そうした結びつきの手段が豊かになっていることを認めた上で、そこにはリスクとチャンスが共存していると考える。この立場はまた、グローバリゼーションを制御し、飼い慣らすことによって、万人の福祉−特に苦しんでいる人々の福祉−の増大に奉仕させることも可能だと考えている。第1章で見てきたように、企業へのITの導入は、ITを採用した国々のGDP増大をもたらした。この可能性に背を向ける原理主義の選択は、人類の大部分にとって必要な福祉の増大をストップさせることに他ならない。問題は、経済成長の回復がそのまま万人の福祉増大を意味しないということだ。それどころか、政治・文化面でのグローバリゼーションは、多くの国の人々に人間らしい暮らしをもたらすのに欠かせない、適応や対話をともなわずに進められることが多い。  この第三の道は、複雑なグローバリゼーションの現象のすべて−つまり、経済技術、社会政治、文化のすべてのレベル−において制御するということだ。すでに見てきたように、これらの三つのレベルは互いにつながり合い、それぞれがグローバリゼーションに固有の頑固な一面を表している。だからこそ、グローバリゼーションが具体化し、社会に影響を及ぼす、文化、政治、経済技術のどれか一つの面で働きかけるだけでは不十分なのだ。 3.具体的な提案  この第三の立場にたって、グローバリゼーションの制御のために、いくつか提案したい。 3.1.技術経済面で  a)国際経済機関(IMF、世界銀行、WTOなど)を強化・民主化して、金融と経済のグローバリゼーションを制御させ、グローバリゼーションをエコロジーと共存させ、今日生じている排除や貧困、不平等と闘わせること。  それによって、各国政府が、財政活力や社会保護水準を維持・向上させるのに必要な、経済政策を実施する自由を取り戻すことができる。  b)地域経済同盟を促進することによって、経済弱者の国々に貿易における優位性を獲得させ、同時に多国籍企業との交渉で成果を挙げるのに必要な、強力な政治力も持たせること。  c)エコロジーや財政面から輸送を規制して、第1章で見た非合理的な遠距離輸送のケースを排除し、生態系の破壊を防ぐこと。  d)第三世界の対外債務を、いったん免除すること。すでに返済は十分になされており、これ以上の債務返済は、第三世界の住民の未来を踏みにじる。債務を免除する際は、自由になった資金がすべての国民、特にもっとも貧しい人の福祉に充てられるよう、監視しなければならない。  e)経営者の信念や市民運動の圧力によって、企業に社会的責任の概念を導入すること。実際、ITの普及のおかげで、企業に対して、評判や顧客を失いたくなかったら自己変革するようにと圧力をかけるキャンペーンを、幅広く展開することが容易になった。たとえば、児童労働根絶のために電子メール・キャンペーンを行っているNGOなどがある。  f)企業を起こす才能に満ちた人を励ますこと。そうしたベンチャー企業は大企業よりも実際に多くの雇用を生みだし、地域社会の福祉により積極的に貢献し、伝統的な人間的価値観を簡単には破壊しない。  g)倫理的な投資ファンドを育成して、違法で破壊的な活動に投資する企業と、社会・エコロジー・倫理面の規準を遵守する企業とを選別すること。投資ファンドに出資する市民もまた資本家であるとするなら、その投資家としての権利を行使して、社会や生態系に悪影響をもたらさない企業や経済活動に投資を振り向けることは、大切だ。  h)フェア・トレード(市民運動による、生産者を搾取しない公正な貿易)や、利益の一部を市民運動に寄付する企業の商品を購入することによって、消費活動を連帯に役立てる 3.2.社会政治面で  a)グローバリゼーションの政治的制御−つまり人権の擁護、所得の再配分、国際犯罪ネットワークの取り締まり−のために働くこと。民主主義国家には、選挙、住民投票、組合活動、NGO活動への支援など、さまざまの具体的な政治参加の道がある。  b)政党や労働組合の国際的なネットワークを利用して、グローバルな問題について、世界各国の政府やNGO同士の対話を確立すること。  c)国際刑事裁判所のような人権擁護の国際機関を育成して、主権国家への不介入原則の大義名分に隠れて行われている人権じゅうりんをストップさせること。  d)排除されている人々や、排除の危険を犯しているグループと連帯する市民運動を強めて、資本主義のブラック・ホールに暮らし、より人間らしい生活へと脱出する道を探る人々と対話し、その声に耳を傾けること。 3.3.文化面で  a)一人ひとりの人と全人類とを、経済・政治・文化の関心の中心におくこと。複雑で対立に満ちた世界にあって、もっとも貧しい人々の福祉と人間化こそ、見失ってはならない座標軸だ。  b)市民運動やNGOを通して、普遍的な道徳意識を育み、全人類に実質的な市民権を与えるための闘いをおしすすめること。  c)家族や学校、NGO、宗教グループといった、青少年の社会化のプロセスに貢献する主体を強化し、グローバルでバーチャルで商業的な社会の中で、青少年の価値観や理念を正しく導くこと。その究極の目標は、青少年が完成された人格を持って、経済・政治・文化面で、世界の貧しい人々に奉仕することだ。  d)教育制度において、生徒が専門的な仕事に就けるような能力を育てると同時に、一人の人格として成長するよう、人間性も育むカリキュラムを作成すること。こうした人間教育において、積極的にITを活用し、エンターテインメント産業が与える商品を自分なりに消化する能力を育てることが不可欠だ。  e)宗教グループは、自己の伝統や諸宗教間の対話の内に、今日のグローバルな経済・社会・文化状況を建設的で人間的なものとするための、土台となる価値観を見いだす必要がある。それによって宗教者は、社会生活のさまざまな領域において、個人の人権と普遍的な市民権が中心におかれるよう、貢献することができる。 **************************************** 注  1.「はっきりさせなければならないのは、第三世界において、この概念(『グローバリゼーション』)が『依存』に代わって、近年、諸悪の根元と見られていることだ」(MULLER, J. "Weltkirche als Lerngemeinshaft. Modell einer menschengerechten Globalisierung?" Stimmen der Zeit 1999 (5), 317.  2.国連開発計画『人間開発報告書1998』  3.LAFONTAINE, O. MULLER, Ch. No hay que tener miedo a la globalizacion Biblioteca Nueva, Madrid 1998, 35. 著者らによれば、いずれにせよ、貿易とは国際間のものである(international)以上に地域間のものである(inter-regional)のだ。つまり、資本は世界レベルで移動し、財とサービスは地域間で、労働者は国内で移動するといえる。  4.「…ソビエト連邦は総予算の37%を兵器の製造に充てるに至ったが、それでも米国の予算の7%に過ぎなかった」BARRANCO, J. "Walters explica en Santander la victoria final de los EEUU sobre la URSS" La Vanguardia 10 VIII. 99.  5.Cf. FUKUYAMA, F. "The End of History" National Interest 1989.(邦訳は渡部昇一訳『歴史の終わり』三笠書房、1992年)  6.イエズス会第34総会、第4教令、1.  7.依存症は、化学的な物質(タバコ、アルコール、薬物)だけでなく、生活習慣(食べ物、セックス、ゲーム、買い物、テレビ、インターネット、仕事)によるものも含めて、驚くべき勢いで増えている。  8.1999年末の、ヨーロッパ連合(EU)における米国映画のシェアは54〜92%であり、同時期の米国におけるEU映画のシェアは3%にすぎなかった。米国の映画制作費はEU映画の4倍であり、米国映画の宣伝費はEU映画の15倍であった。