神の国を探し求めて −新世紀の倫理− ホアン・カレラ・イ・カレラ、S.J.  <目次> 0.はじめに 1.新世紀の倫理 2.理性の自律と信仰 3.対話の倫理 4.新世紀の倫理の挑戦 5.注31 6.グループ討論のための質問 著者のホアン・カレラ・イ・カレラ(Joan Carrera i Carrera, s.j.)は1960年バルセロナ生まれ。医学・神学博士で、ISCREB(宗教学上高等究院)とカタルーニャ神学院、基礎神学研究所(Sant Cugat)で基礎倫理学の教授を務めている。ボルジア生命倫理研究所と「キリスト教と正義」研究センターのメンバーでもある。 ********************** 0.はじめに 「私たちは、隣人との対話に対して開かれるとき、 神との対話に対しても開かれているのです」 ヨハネ・パウロ2世  世紀の変わり目を迎えて、世界はおそらく歴史上もっとも大きな変革の時代を生きている。「グローバリゼーション」と呼ばれる現象は、私たちの先祖が暮らしてきた広い世界を「地球村」へと変えてしまった。この「地球村」では、コミュニケーションや輸送能力の大幅な向上によって、さまざまな民族や文化がかつてないほど激しくぶつかりあっている。  今日のグローバル化された世界では、昔のように同質な文化を共有する閉鎖的な社会はもはや存在しない。かつては、未知なる国の社会や文化は、「風変わり」でよそよそしいもの、「野蛮で」「未開な」ものとされていたが、今日では当たり前のように外国料理を食べたり、インドの女性が作った服を着たり、隣人が外国人だったりするのだ。 倫理への挑戦  こうした状況にあって、私たちは「寛容」や「違いの尊重」、「対話の必要性」といったテーマについて考えさせられる。私たちは、世界の「どんな人」とも仲良くやっていく必要がある。すべての人にとって共通な倫理的指針、この多様な世界で仲良く暮らすための指針を、どうすれば確立できるだろう? どんな人とも、どんな国や宗教とも仲良く暮らすために、共有すべき倫理原則とは何だろう? これが、新しいミレニアムに迎える最初の倫理的挑戦だ。  簡単そうにみえるが、決してそうではない。私たちが退けなければならない第一の誘惑は、違いを尊重することと、「何でも」認めることを混同することだ。どんな意見も尊重しなければならないとすれば、逆に、「本書の真理は全人類に当てはまる」と主張する「聖典」は拒絶される。その結果、倫理行為の根拠は主観的な意見以外になくなる。普遍的な価値にもとづく倫理命題は、原理主義やネオ・ファシズムのような「危険な」考えとみなされかねない。今日の倫理的主観主義は、こうして生まれる。  だが、こうした徹底的な主観主義をキリスト教倫理は認めない。なぜなら、キリスト教倫理は「神の国」の実現という企て(project)を引き受けるところから出発するからだ。この神の国は、一連の価値を私たちに提示する。したがって、神の国に賛成であれ反対であれ、「価値中立的でありえない」。どんなキリスト教倫理の命題にも一定の客観性が存在する。ここに新たな挑戦がある。主観性にもとづいて「自律的」であると同時に、客観的でもありうる倫理を案出する挑戦だ。  最後に、現代にはかつてない問題が出現している。  一方で私たちは、人類全体に影響をおよぼす諸問題に直面している。エコロジー、国際貿易、武器貿易、貧しい国々の対外債務、金融のグローバリゼーションなどである。私たちが直面する問題はグローバルな合意を必要としており、それには全当事者の参加が必要なのだ。  他方で、技術の進歩は、新たな権利義務、新たな倫理的スタンスを必要とする状況を生みだしている。クローニング、遺伝子操作、臓器移植、トランスジェニック(遺伝子組込み)細胞の利用、新軍事技術、インターネットなどである。  こうして、キリスト教倫理は昔ながらの問題だけでなく、新たな状況から生まれた新たな問題にも対処しなければならない。  21世紀のキリスト教倫理は、人間の自律と福音的価値の客観性を同時に守り、万人の参加を土台とし、近年の新たな問題に対処するものでなければならない。その上、教会は単に倫理的方向付けを与えるだけでは済まない。  教会の発言は「福音化」され、「よい知らせ」の運び手となり、倫理的判断の指針を与えるだけでなく、より大いなる完成への道を歩みつづける人類を励まし、共に歩まねばならないのだ。 ************************ 1.新世紀の倫理  教会が倫理的に発言する場合、「時のしるし」に注意する必要がある。新世紀のキリスト教倫理に不可欠な特徴は以下の通りだ。 1.耳を傾ける  苦しみながら生きている多くの人々の声に耳を傾ける倫理。  キリスト教倫理は現代文化と真剣に対話しなければならない。イエズス会の第34総会の一節は、こう語る。「人々が、福音は自分たちに向かって語りかけていないという場合に、わたしたちはその言葉を注意深く聞き、彼らのこの言表の背後に潜む文化の経験を理解しようとする必要がある。私たちが述べていること、行っていることは、わたしたちの周囲にいる人々にとって、彼らが神および他者との関係において現実に、また火急に必要としてることがらにこたえるものだろうか。もし、答えが『否』であるならば、わたしたちはおそらく奉仕している人々の生活に十分にかかわってはいないといわざるをえない」(第34総会、第4教令「私たちのミッションと文化」、27.7)  思索にふけり、忠告を与える前に、現実におりて人々(キリスト者であるか否かにかかわらず)の声に耳を傾けること。私たちは金持ちの青年のように、こう尋ねるべきだ。「(永遠の命を得るには)どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19.16)。これは、私たちが善い者となるため、人格的完成のためではなく、隣人の役に立つためにキリスト者として何をなすべきかという観点から理解されなければならない。 2.真理を探求する  善意あるすべての人々と共に真理を探求すること。急ぐあまり、拙速な答えを出さないよう気をつけなければならない。疑問や複雑さを恐れてはならない。教会は、全人類に影響をおよぼす新たな問題について、見解を発表しなければならないことが度々ある。だが、多くの場合、結論は出せないことを自覚する必要がある。教会は、傷つきやすい人々、貧しい人々、疎外された人々こそ、尊重されるべきであることを、常に世界に想い出させる必要がある。  ヨハネ・パウロ2世が述べるように、教会は過去何世紀もの間、多くの倫理問題において過ちを犯したことを認める。教会はそうした問題について絶対的な権威をもって語ってきたが、その土台となったデータは、神学よりもむしろ科学に属すべきものだった。このことを認めて許しを請うのは、教会にとって名誉なことで、その謙遜さは信頼を勝ち取るだろう。 3.人々と共にある  私たちがどっぷり浸かっている、この不正で連帯なき世界の価値観や態度に対して、預言的で批判的な態度をとること。「共にあること」(accompaniment)とは、人々の下す決断が間違っていたり望ましくなくても、決して見捨てないことである。人々がより小さな悪を選ばざるをえなかったり、自由に選択できない状況もありうることを、常に留意する必要がある(第4章を参照)。教会は、すべての人に対して寛大で、親身でなければならない。 4.共同で識別する  聖霊のうちに識別できるよう助けて下さる神のみ前で、謙遜に祈りながら考察する倫理。この識別のうちに教会の司牧的・預言的務めが示され、教会の関心と希望が信者の心に刻まれる。小教区や小共同体の声に耳を傾ける倫理。互いの関係がより兄弟的な倫理。法的正義よりも愛や無償奉仕、弱い人への配慮を重視する倫理。  この倫理は、教会に顕現する聖霊を深く信じ、成熟したキリスト者のあり方を求める。個々のキリスト者が識別し、神に祈った後で結論を出すのに貢献する(この識別は教会全体の識別に委ねられることになる)。多くの問題において、キリスト者は自由で責任を持っており、それゆえ罪を犯す(イエスのメッセージから離れてしまう)可能性があると考えるなら、同時に、ある問題について倫理的に識別し、その結果を教会全体に提示する自由と責任も持つことを認めるべきだ。教会と共に考察する倫理は、まったく忘れられてきた女性たちの積極的な参加を促すべきだ。キリスト教倫理は、もっぱら男性的な感性によって作られてきており、女性的な感性は省みられてこなかった。 5.貧しい人々の叫びを聞く  抑圧された人々、希望を失った人々の叫びに耳を傾ける倫理。神がなさったように、エジプトの奴隷にされた人々の叫びに耳を傾け、現代の新たな奴隷制度を告発する倫理。社会の「傷つきやすい人々に目を向ける」倫理。文化・言語・宗教的マイノリティや移民、領土をもたない民族、故郷を追われた人々、難民、そして女性を守る倫理(女性は多くの国で教育や文化を奪われ、奴隷状態に縛りつけられている)。たとえば、移民の権利を断固として守り、その権利侵害を断固、告発する。社会が重く見ない人々−心身障害者、まだ生まれていない赤ん坊や、重大な障害をもって生まれた赤ん坊に目を向ける。  キリスト教倫理は「他者の顔」を、応答しなければならない倫理的要請であると考える。教会は弱い人々や傷つきやすい人々の側に立つ以上、自分も弱く力のない者、資源も特権もない者となることを恐れるべきでない。だから教会は、自ら弱い者の立場に立って、たとえば、一部の政治家や軍隊と手を組んでいる国家やその官僚組織を非難することを恐れてはならない。なぜなら、そうした協力関係こそ、現代社会における政治・経済権力のあり方を示す、あいまいさの象徴だからである。 6.預言的である  悪ばかりを悲観的に語るのでなく、善を探求するよう「人々を励ます」ことこそ重要だ。聖パウロが言うように、「主の霊のおられるところに自由があります」(2コリ3.17)。  まともに機能していない制度を非難するだけでなく、現代社会がどっぷり浸かっている「沈黙」を打破するよう呼びかける。私たちは、「経済・社会・政治システムは変えようがない」と考えがちだ。この「変えようがないシステム」は、オルターナティブな(今までにない)価値を実現させる預言的なしるしが示されて、はじめて打破できる。  こうした預言的しるしは、今までにない価値観を生きる小さな共同体によって実現される。この共同体は、今までとは違った生き方が可能だと、身をもって示しているのだ。たとえば、協同組合、フェア・トレード(公正貿易)、共有財産、無償奉仕の交換、参加的民主主義といった試みは、不正や社会的不平等を生みだす経済とは異なるオルターナティブだ。  キリスト者は、自分が信じる価値を証するオルターナティブな場を創造しつづける必要がある。規則やアドバイスを示すよりもまず行動、信じる価値を実践することが求められる。こうして私たちはイエスの福音を、解放の体験として現代社会に提示するのだ。  賛成できない価値に反対の意志を示すもっともよい方法とは、別の価値を身をもって証することだ。私たちは移民の権利擁護を叫び、彼らを疎外するなと語る。だが、ミッション・スクールは移民に門戸を開放しているのか?  要するにキリスト教倫理は、愛と自由に満ちた人生の土台となる諸価値を指し示すのだ。 7.普遍的である  信者・非信者を問わず誰にも影響をおよぼす問題に対処するときは、全人類と一致して行動しなければならない。たとえば、ある国が大気や水の汚染を制限する政策とっても、隣の国が汚染をつづけていたら何の意味もない。水や大気は共有財産なのだ。  私たちは科学技術の発展のおかげで、人類は考え方や暮らし方がさまざまであっても、今なお同じ自然を共有する仲間であることを発見した。人類全体に影響を及ぼす問題は山積みで、自国の領土にとどまらない、グローバルな解決を探求する必要があるのだ。  普遍的な倫理の再発見とは、カトリック倫理の伝統的なカテゴリーである「道徳的自然法」の再発見といってよい。信者であるなしにかかわらず、全人類が人間性の基礎であると信ずるに足る道徳原則が存在するという考えである。この原則は、万人が参加する真摯な探求によって見いだされる。この原則の具体例が「世界人権宣言」だ。このような道徳原則は、全人類が共有すべき「最小限の倫理」と、キリスト者としての生き方である「最大限の倫理」を区別するのに役立つ。私たちは「最大限の倫理」を人間らしい幸せな生活に至る道と考えているが、それを信者でない人々に押しつけることはできないし、そうした倫理を、この価値観の多様な社会で立法化しようとしてもいけない。  教会は、「最小限の倫理」と考えられる問題が、国によっては法律で保護されていないのを見て、心を痛めずにはいられない。この問題は、「対話における不一致」についての議論で考えたい。  新しいミレニアムのキリスト教倫理は、「倫理におけるエキュメニズム(諸教派の一致)」というチャレンジを真剣にとりあげなければならない。このエキュメニズムという領域で、重要な進展が見られる。世界宗教者会議は「世界倫理宣言」(1993年)を発表した際に、あらゆる世界宗教に「共通の最小限の倫理」ともいうべきものが存在すると認めている。こうした「最小限の倫理」は、すでに述べたような世界倫理の創造に役立つだろう。 8.政治倫理  経済問題の社会的次元を再発見し、世界の3分の2の人々にとって不公正な、グローバル化された経済の問題に対処する、政治倫理の必要性。この政治倫理は、新たな形の参加的民主主義を恐れるどころか、それを促進する。  同様にこの政治倫理は、非西洋文化の影響を採り入れることによって、第一世界のリベラルなブルジョア文化の、共同体精神に乏しい個人主義を一掃する。また、西洋の非主流派の文化運動(エコロジー主義者、フェミニスト、オルターナティブ運動、平和主義者、ラディカル…)の影響も受けている。この倫理はブルジョア的な個人主義、「私有主義的」モラル、私有財産性、略奪的な発展などを問い直す。そうした「価値観」の一部はすでに現代の新たな偶像となっており、もはや誰もそれを問題にしていないのだ。 9.心の倫理  心こそ人間の行動に統一性と意味をもたらす場であり、人が自分自身や他の人々との関係を生きる場だからだ。福音は「新しい人」とはどんな者か、どのように行動すべきかを語る。この「新しい人」がイエスの霊にあずかる場こそ、心なのである。  キリスト教倫理は、識別をベースに、イエスの霊に満たされた心から生まれる。キリスト教生活の基本は、神が住まわれるこの核心である心で祈ることだ。  キリスト者は個人でも共同生活においても、毎日の行動において正しい生活習慣を身につける。こうして、より「霊的な」倫理コードが生まれ、「徳」(善に向かう習慣)が規則や法律よりも大切になる。こうした「徳」は、一定の価値観を示す。聖トマスが道徳命題の中心に「徳」を据えたことを想い出そう。個々バラバラの行為ではなく、一連の選択や態度に焦点を合わせた倫理は、より総合的な人間の見方にマッチし、罪の概念を明らかにするのに有効だ。  だが、根本的な神への選びは具体的行動において行われ、行動のうちにこそキリスト者の道徳的態度が問われることを無視するのは、ナイーブすぎる。  キリスト教倫理は、人間の心をよりよく理解するために−特に場合によって人が感じる責任感が異なる原因を理解するために、現代心理学の影響を受け入れる。キリスト教倫理は、あらゆる人に寛容でなければならないからだ。そして、こうした社会的観点から見てはじめて、キリスト教的な罪の概念の重大さが再発見されるのだ。 10.理性の自律の尊重  私たちは、他の人々や神との関係において自己を実現する。この命題はすべての人にあてはまる。それはすべての人の人間化をめざす企てであり、すべての人に受け入れられるからである。神の国を建設しようという企ては結局、すべての人を人間化しようという企てに他ならないのだ。善意あるすべての人がキリスト教のメッセージに惹かれるのは、そこに「人間化」という目標を見るからなのだ。 11.一貫性  あらゆる問題を同じ評価の尺度で扱うということ。まだ生まれていない生命に対する態度(妊娠中絶の絶対禁止)と、すでに生まれた生命に対する態度は同じでなければならない(なのに、いまだに死刑や戦争を正当化する意見がある)。首尾一貫した倫理。たとえば性倫理には厳格に判断する一方で、正義や経済、政治のような問題についてはより微妙な立場をとることは、慎むべきだ。 以上のような特徴をまとめて、「人間の自律性を尊重し、対話の重要性を重視する倫理の必要性」と言うことができる。このことについて、以下の章で議論を展開していきたい。 ************************** 2.理性の自律と信仰  私たちは、キリスト教倫理は自律的であるべきだと信じている。だが、キリスト教倫理の「自律性」とはどういう意味だろう? 倫理における「自律性」という概念は単純ではなく、多くの誤解を生みかねない。だから、しばしば「神律」(theonomy)という言葉が好んで使われる。これは、他律的な(heteronomous)倫理(外部から命じられた倫理)と、信仰にまつわるものはすべて排除する純粋な主観主義としての自律(autonomy)の間の、「第三の道」、「倫理的聖霊論」とでも呼ぶべきものだ。 1.誰にも理解される倫理  第一に、「どんな善意の人にも、人間的な行動とは何かを把握する能力がある」  キリスト教的に見れば、現実世界には神の霊が顕現している。この前提に立って、第二バチカン公会議は、信者だけでなく善意あるすべての人に語りかけた。こうして、キリスト教の目標が世界に示される。それは人類全体の人間化という企てであり、だからこそ、全人類に理解可能である*1。かくして、キリスト者の倫理目標は、合理的な妥当性に裏打ちされなければならない。善意あるすべての人はキリスト教のメッセージに惹かれるはずだ。なぜなら、彼らは理性によって、そのメッセージの人間化という内容を理解できるからだ。他方、その前提として、キリスト者は常にすべての人から学ばなければならない。そこで、次章では対話の重要性について述べる。 2.開かれた倫理  第二に、「キリスト者の信仰は、善意ある非キリスト者には発見できないような、キリスト教固有の倫理をもたらさない」  この主張は、倫理における信仰の役割を問いなおす。信仰や教会生活に見いだされる意味、ものの見方、動機づけのおかげで、私たちはキリストからいただいた使命を理解することができる。福音、イエスのよい知らせは、私たちを内面へと沈潜させ、キリスト教固有の動機(信仰、愛、無償の善意)を完成させる。信仰は、理性が自律的に見いだす諸価値を完成し、批判し、鼓舞するのだ。  こうして教会は、自律的に発展してきた倫理規範に、一定の役割を果たす。教会は、究極的な倫理目標への希望を語ることによって、歴史上の真摯な道徳運動を鼓舞する役割を担う。たしかに、教会はいつの時代も倫理的価値を直接に鼓舞してきたわけではないが、キリスト教的理念の多くは(人間の尊厳、男女の平等、万人の平等など)人類の良心を発展させてきた−時には、反面教師として。  他方、キリスト者が道徳的模範を引き受けるならば、神のみ言葉による識別が不可欠だ。なぜなら、どんなに道徳が向上しても、人間は依然、罪や過ち、利己主義にとらわれているからだ。こうして教会は、理性が見いだす「エートス」(社会精神、習慣)を完成させる役目を果たす。倫理的考察は、教会だけでなく、万人にとっての責務であり、教会は人間を完成へと導くあらゆる考察を引き受ける。  キリスト教固有の倫理を否定したからといって、教会が初代からイエスの言葉と行いに従うものとなろうと努めてきたことや、個々の時代の状況に、イエスに忠実に応えようと、倫理的行動規範を作ってきたことまで否定するわけではない。  だから、私たちは「キリスト教倫理」という言い方をするのだ。だが、この「倫理」は排他的ではない。その固有性は個々の命題ではなく、信仰に基づいたグローバルな姿勢、個々の行動規範の新たな解釈にこそあるからだ。神がキリストを通して人間に何をなさったか、今、何をなさっているかを絶えず想い起こすなら、キリスト者の生活の根本動機を見いだすことができるだろう。  このように神の業を絶えず想起するとき、あらゆるキリスト者の土台を決める根本的な選択である「回心」が求められる。それは、人間のうちに現存する神が生みだされる選択である。その選択は人間によるものであるが、その根源は間違いなく神にある。超越的な倫理行為である「回心」という根本的な選択は、あらゆる個人的な行為へと浸透していく。人間の行動の真の動機とは、神が人間に示される愛であり、この愛が回心を方向づける原動力である。  確かに、イエスのメッセージに含まれる人間論は、キリスト教倫理へと発展する。だが、ここで言いたいのは、人類の完成を示唆するイエスの人間論は、すべての善意ある人が見いだしうるものであるということだ。キリスト論によれば、キリストは人間の完成であり、キリストの復活において終末論が人間の歴史に入り込んだ。キリスト教の立場からは、人はみな神の子であり、神の霊は教会だけに限定されないのだから、キリストの人間論は万人に理解されると断言してよい。  キリスト者のなかには、こうした見方はキリスト教の価値を下げるものだと批判する人もいる。彼らは、キリスト教固有の価値が存在すると主張する。たとえば、殉教、独身生活、敵を愛することなどだ。だが、こうした価値は他の文化にもある。こうした価値が人間的でないとすれば、それはキリスト教的でもない。なぜなら、キリスト者であるとは、完全に人間的であることだからである。  問題は価値の中身でなく、すべての人が尊重すべき価値を知ることができる、という事実だ。教会には非常にしばしば、実行力、価値を実践しようという動機が欠けている。聖パウロは罪の支配と霊の支配をくらべて、こう述べている。「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ロマ7.19)。ここから教会の重要性、聖霊の現存の重要性、イエスのメッセージを深く生きた聖人の証の重要性が示される。聖霊はどんな場でも働くことができるが、教会がイエスに忠実でありつづけるかぎりは、聖霊は教会のうちに住みつづけるのだ。 3.義務と責任の喪失  第三に、現代の問題は自律と他律の間の対立ではなく、「義務と責任の喪失」にある。  最近の母親や少年による子ども殺しを想い出してほしい。私たちが、自分は人間として発展途上であると自覚し、隣人の訴えには無償で応えなければならないと自覚するとき、自律と義務との間に調和が保たれる。  前述のように、自律は人間同士の関係のなかで、倫理の客観性を十分に念頭において理解されるべきである。 ***************** 3.対話の倫理  紛争解決の手段としての対話について、多くのことが言われてきた。だが、現代社会における対話を深く分析すれば、それがしばしば、自分の考えを他人に押しつける闘いの、洗練された一手段であることが明らかになる(たとえば政治討論)。  西洋社会は暴力よりも対話を好むが、両者の根本原理は同じだ。対話が元々の語源である真の「dia-logos」(間+真理)であるなら、まず参加者は対等でなければならず、それによってはじめて、真理が姿を現すのだ。  多くの場合、対話の目的は真理に近づくことではなく、自分の信じる真理が正しいと証明することだと思われている。私たちは、対話において真の対等な関係が存在するかどうかに、真剣に配慮していない。対等でない関係で議論して勝ったとしても、自分の力によるのではなく、相手が弱いからだ。  真の対話にふさわしい条件は、J.ハバーマスやK.O.アペルのいわゆる「対話的倫理」によって示される。この倫理は純粋に「手続き的」であり、あらゆる規範の妥当性は、それが合意によって正当に決められたかどうかにかかっている。だが、自分を厳しく律する人が、いつも合意をめざす対話によって紛争を解決しようとするとは限らない。対話は、論理的な条件と同時に、倫理的な条件も備えていなければならない。 1.対話の神学的価値  「対話」には、私たちが知っておかなければならない宗教的意味がある。教皇パウロ6世の回勅『エクレジアム・スアム』の一文を想い出してみよう。「私は、この内からの愛のうながしに−それは愛の贈り物として目に見える形をとるようになるものであるが−今日広くもちいられるようになっている対話という名前を与えるであろう」(76)。この箇所は私たちの議論にとって重要だ。神の贈り物である愛(charity, love)が他の人々へと開かれるとき、対話という名前が与えられると言われているからだ。対話とは、他者への愛の一つの形なのだ。この対話は善意あるすべての人によって行われる。なぜなら、「だれも教会の心には他人でない。教会の仕事にとって、どちらでもよい人はだれもいない。自分自身敵となることをのぞまないならば、だれも教会の敵ではない」(110)からだ。  ヨハネ・パウロ二世が宗教間の対話について語った言葉も重要だ。「対話によって、神が私たちの間におられるようになります。私たちが他の人々に対して自分を開くとき、私たちは自分を神に対して開くのです」*2  私たちと共におられる神の歴史は、神と人間の愛に満ちた対話の歴史である。主導権は神が握っているが、この対話は一方通行ではなく、双方向だ。神は、あえて人間に影響される。神は人間に語りかけるだけでなく、人間の声をお聞きになる。神はご自分をみ言葉に変え、人間をその聞き手とされる一方、人間の移り気につきあう話し相手にもなる。神は、エジプトで奴隷となって苦しむ民の叫びを聞かれた(出エジプト2.23−24)。神は人間の訴えを聞いて、ご自分の計画を変えられるほどに、深く対話される。たとえばアブラハムは、ソドムを滅ぼそうという神の計画を変えさせた。彼は神と取り引きさえした(創世記18.16−23)。このように、キリスト教の神は対話する神である。神の愛は、人間を神と対等な話し相手とする。「もはや、わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない…わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ15.15)。対話する神の歴史は私たちに、人間同士が互いに愛しあうために、いかに対話しなければならないかを教える。  だから、対話は私たちが神の民であることの一部である。私たちが神に祈ることができるのは、神が「対話する」神だからである。対話が可能となるために、神は人間が神と出会う場を用意された。それは、私たちの内なる神の霊であり、この霊が私たちを神と対等な話し相手としてくれる。  対話によるキリスト教倫理の探求において留意すべきもう一つの点は、福音とは元々、イエスのメッセージと、そのメッセージを生きる特定の文化をもったコミュニティとの対話に他ならないということだ。だから、福音とは対話への招きなのだ。換言すれば、福音は、それが作られた当時の文化に適用されたイエスの教えと、今日の文化に適用されるイエスの教えの間のダイナミックな対話のプロセスへと招いているのだ。この対話のプロセス、文化的適応のプロセスは、それ自体がすでに福音的である。なぜなら、それは理解に満ちた対話、他者への愛、他者の立場に立ってみるにはどうすればよいかを伝えるからである。  だから、ヨハネ・パウロ2世が回勅『信仰と理性』でこう述べているのは、驚くに値しない。 「人々に提供すべきさまざまな役務の中で、教会が、特別に自ら固有のものとして自覚する一つの役務があります。それは真理の助祭職です。この役務は、一方においては、人々が真理に到達しようとして果たしてきた努力に信者の共同体を参加させます。他方において、獲得されたすべての真理は、あの完全な真理に至るための単なる一段階にしかすぎないことを自覚しているにしても、その知りえた確実なことを告げ知らせる責務を信者の共同体に負わせるのです」(『信仰と理性』2) 2.キリスト教的対話  次に、神と人との対話という枠組みから、対話がどんな特徴を持つべきかを考えよう。対話する人は「他者に対して自分をありのままに表現したい」と願う。自分の全存在、体験、知識をさらけだすのだ。すべての人の言葉は対等に扱われる。  対話する人は、問題を客観的に分析して真理を探究するという点で一致し、真摯に努力しなければならない。自分の発言の主観性を自覚して、両者の言葉が収れんしていく過程にこそ真理が現れるという事実を受け入れなければならない。これは、どちらかが他方を支配するということでなく、双方が当初の立場から譲歩し、より洗練された真理に近づくということなのだ。  そのための第一歩は、「聞く能力」、他者の目で見、他者を理解する能力である(『エクレジアム・スアム』、96)。聞くということは相手と交わりたいということであり、相手の言葉を自分に都合よく操作するのでなく、文字通り受け入れることである。  聞く能力、真理へと収れんする能力は、他者への愛に基づく。他者への愛の一つの方法としての対話は、他者を自分を害しうる「敵」ではなく、「兄弟」とみなす。対話の方法を学ぶということは、違いを豊かさの源、真理の探究における成長の源と評価することだ。  対話とは、自由で解放的な人間関係、所有の論理とは正反対の交わりの論理である。  キリスト者はこうした観点から、自分は完全な真理を所有していないことや、対話において自分の殻を破ること、相手に学ぶ態度が必要であることを自覚して、対話に入らなければならない。対話によってのみ、人は他者を愛する方法を学ぶ。私たちは対話に入るとき、教会のなかで感じている安心感が、対話によって失われてしまうのではないかという恐れを抱く。だが、アブラハムが「異国」へ旅立って、「こんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(ルカ3.7)神を知ったできごとに習う必要がある。  キリスト者は、たとえ相手が「支配してやろう、操作してやろう」という態度で臨んでも、前述の特徴を備えた対話をはじめるよう求められる。人は、愛によって他者を信頼し、身構えをすてて対話に臨まなければならない。カール・ラーナーはこう述べている。 「キリスト者は、自らのあやまった自尊心や頑固さ、虚偽の自信、暴力が対話を逸脱させ、社会的な嘘へと変えてしまう危険をわきまえて、真剣に対話に取り組む。彼は自分が罪人であることを知っており、それゆえ神の裁きと慈しみのもとに、対話に多大に貢献する…キリスト者は、愛だけが至高の知識の光であり、対話に関して聖パウロの言葉がきわめて適切であると知っている。『たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル』(1コリ13.1)」  対話における権威は、回勅『エクレジアム・スアム』によれば、「…言っていることが真理であり、言葉に愛があふれており、模範を示すところから(自然にそうなる)」(95)  他方、いったん対話がはじまったら、たとえ緊急のニーズに迫られて暫定的な合意を得なければならなくても、あわてて合意してしまってはならない。  個人と共同体の生活は、対話から、つまり人間同士のコミュニケーションからつくられる。私たちは生まれてすぐ、母親とはじめて対面したときから、外部から私たち自身を形づくる他者の言葉に開かれている。こうして私たちは、他者から学んで自己形成しつづける、文化的存在となる。 3.対話の条件  私たちが示す対話とは、形而上学的な」問題ではない。それどころか、きわめて具体的な人間的・社会的条件を含んでいるのだ。対話はあらゆる種類の暴力に反対し、すべての人が対話できる状況を求める。対話は支配や暴力の論理を拒絶する。対話は、参加者の平等という条件を前提としている。したがって、対話に基づいた倫理は、第三世界に暮らす人々も含めたすべての人が、真に対話に参加できるような社会改革を求める。この社会改革が実現されなければ、対話の倫理は第一世界だけに適用され、第三世界との間に生じた不平等を維持するいいわけにすぎなくなる。「対話の倫理」に批判的な哲学者はこう語る。 「…預言者が再び現れる必要がある。南の立場に立つ預言者、『話す能力がある』(loqui-capable)人にはしぶしぶ発言権を認めるが、声も持たない者は黙らせておくという、ロゴス中心の(logo-centered)傲慢さを一掃する預言者が。ユートピア的、預言的な行為が必要だ…ウサギがライオンに言ったように、私たちもこう言おう。『話し合おうというのなら、その傲慢なツメと、残忍なキバを引っこめてください』」  対話の倫理に、預言的内容は欠かせない。だが、暴力や不正が蔓延する状況で、対話の倫理は容易に適用されない。時には「暴力」という苦い薬によってしか対話が生みだされないこともある。 4.対話と不一致  対話の文化は不一致も許容しなければならない。だが、この不一致は暴力抜きで表明されなければならない。意見の相違は、寛容のうちに「証言」という形で示される必要がある。「証言」は、キリスト教独自の行動様式を、他の人々に理解させる手段となる。  いつの時代も、人類の進歩に貢献したのは、社会の合意を破った人だった。預言者も常にそうであり、そのため、しばしば彼らを排斥しようとする「既成権力」と衝突した。だが、預言者たちの言葉は残り、やがて世に広まった。後世の人々は、預言者を再発見し、神話化し、聖人に祭り上げた。対話を発展させたのは、まさにこうした預言者たちだった。もし、誰も合意を破らなかったら、たとえばキリスト者は今も奴隷制を認めていただろう。だが、そうした合意の破棄は、暴力ではなく、証言によって実現されたのだ。  ナザレのイエスは証言によって当時の宗教界の合意を破棄した。イエスが用いたのは強さや力ではなく、奉仕と弱さだった。イエスの模範にならう多くの預言者たちは、奉仕と非暴力によって不正を告発することを選んだ。「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マルコ10.45)。「神がおん子を私たちにつかわしたのは、私たちに命ずるためではなく、説得するためでした。なぜなら、暴力は神のうちに与えられるものではないからです」(ディオグノ人への手紙7.4、紀元2世紀頃)  私たちが隣人に向ける愛とは、自分の告白する価値を自分自身の生活で首尾一貫して実践することである。そうしてはじめて、自分の信じる価値を実現し、その価値を人々に自由に評価してもらうことができる。対話と模範、奉仕こそ、私たちが隣人愛を表現する方法なのだ。だから、たとえば教会が中絶を認めないのなら、人間の生命が受胎の瞬間から価値あるものであることを示すために、未婚の母がハンディキャップを負って子どもを育てるのを助けたり、家族計画を推進しなければならない(回勅『いのちの福音』88)。  対話をするということは、大切な価値が明らかに危機に瀕している場合でさえ、合意に達しない事実を受け入れなければならないということだ。神と人との対話は、人間がより人間らしくなることを学ぶ、漸進的で教育的な旅路である。十戒の「汝、殺すなかれ」という掟から、私たちは生命の価値の尊重を学ぶ。「汝、殺すなかれ」という聖書の掟は当初、同じ部族の人を殺すなということだったが、今では誰も殺すなということになった。同様に、多くの問題が深く学ばれてきた。たとえば、長年、許容されてきた拷問や死刑は、いまや全面的に拒絶されている。 5.教会内部での対話  他方、キリスト教共同体すなわち教会は、世界との対話を通して自分自身を「対話の共同体」へと変える。真の対話が存在するところに、教会の交わりが持たれる。『エクレジアム・スアム』の言葉を想い出してみよう。「教会は自分が生き抜くために居を定めているこの世界と話し合うようにしなければならない。教会は全身全霊をこめて語る。教会は全身全霊をこめて告げる。教会は全身全霊をこめて話し合うのである」(77)  したがって、教会が対話するためには、教会自身が交わりが支配する共同体となる必要がある。この前提が満たされてはじめて、強者によって対話が操作される現代社会にあって、新たな対話の仕方を証することができる。教会はその内部において、自分と同じ考えでない人をも愛することができる愛に満ちた対話*3、倫理的価値を押しつけるのではなく身をもって示す対話を行う必要がある。  対話を真剣に信じる教会は、この世界のあらゆる現実に聖霊が顕現していることも信じなければならない。換言すれば、教会は世界を、罪だけでなく聖霊にも満たされていると見なければならない。  一部の教導職でさえ、破滅的な物の見方をして、現代社会の否定的な面を強調しすぎる人もいる。この見方が現実とかけ離れていると認めなければ、教会は世界に恐れを抱いており、世界が自律的に見いだした善いものを評価しようとしないと思われても仕方ない。  私たちは、聖霊をより深く信ずる教会を必要としている。そのためには、より聖霊論的な教会論を創りあげることが不可欠だ。この点で、東方正教会とのエキュメニズムが大いに役立つだろう。 6.識別による対話  キリスト者の生活は、「もうすでに」と「まだ」の間にある。この生活のうちに、私たちは道徳を生き、行動を通して自己実現する。キリスト教倫理は常に、この「終末論的緊張」を維持しなければならない。かくして、キリスト者は識別を学ぶよう勧められ、識別は倫理のなかでもっとも重要なカテゴリーとなる。識別とは、あらゆる環境を福音にしたがって判断する能力のことである。  この識別は、時のしるしに対して行われる。教会は聖霊にしたがって、イエスの福音により忠実な態度や行いとは何かを、祈りのうちに識別することによって、時のしるしを読みとる。  換言すれば、それは聖霊のうちなる創造性である。聖霊に忠実な人だけが、新しい状況にあってどの道を選ぶべきかを識別できるからだ。聖パウロの言葉を借りれば、「心を新たにして、自分を変えていただき…」(ロマ12.2)、「『霊』の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」(1テサ5.19−20)。B.ヘーリンクが述べているように、もっとも正統で効果的な教えとは、聖人や殉教者が身をもって示した教えである。  祈りのうちなる識別は、聖霊に照らされた理性が、イエスのメッセージにもっとも忠実な行為を選択する「神学的場」である。この識別は二つの大きな段階で行われる。ここまで述べてきた第一の段階は、新たな挑戦を前にした教会の、祈りのうちなる倫理的指針の探求である。たとえば、農業における遺伝子組み替え技術の利用は人類の福祉に沿ったものか(全人類に貢献するのか、一部の多国籍企業にだけ寄与するのか)、また、生物多様性を尊重しているか否かを識別する、といったことである。こうした識別のうちに、考慮すべき価値を判断する倫理基準が示される。だが、識別はまた、個人の良心のうちにも与えられる。  識別は、倫理的判断に不可欠な助けとして、科学(生物学や社会学など)の解釈に耳を傾けなければならない。倫理学の歴史において常に、その時々の文化や科学が独自の貢献をしてきた。  こうして、キリスト教倫理は、第二バチカン公会議以前のように法律に近いものではなく、霊性と不可分に結ばれたものとなる。特に社会に蔓延する道徳的相対主義を前に、律法主義の誘惑に乗ってしまいかねない今日、このことを強調しなければならない。教会は、祈りと崇敬のうちに、社会を人間化する価値−私たちを神の国に近づけてくれる価値−を識別しなければならない。  聖パウロの言葉で締めくくろう。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」(フィリ1.9−10)。こうして、世俗的な問題における霊性とキリスト教倫理の分離が解消される。 7.対話についての結論  最後に、キリスト者は対話を他者への愛の一つの形、多様な社会における教会のあり方と考えなければならない。私たちは、現代社会における対話の行われ方を批判し、政治・経済権力を握る者が必ず勝つ、「対話」の衣裳をまとった「戦争」ではなく、真の対話を求めなければならない。神は、祈りのうちに私たちと対話を続けることによって、教会を進歩させてくださった。教会が真に愛と交わりの核であるなら、さまざまな役務やカリスマを持ったすべてのメンバーの間で、真摯な対話が広く行われなければならない。  キリスト者が、現代社会で行われる対話に参加させるよう非キリスト者に要求するなら、そして、その対話が真実なものとなるよう望むなら、まず教会の内部で対話を実践して、よい模範を示さなければならない。教会が愛の共同体となり、愛によって対話の仕方を学んでいくとき、教会は真のキリストの秘跡となる。  イエスは私たちに、愛すること、他者のために命を捧げることを教えられた。私たちが神の真理を三位一体、愛の共同体として表すとき、神は「対話的である」と言っているのと同じだ。三位一体の神は、同時に父であり子であり聖霊である。この神は真の共同体である。神は愛であり、孤独な神はありえない。もし、神が孤独なら、愛ではありえない。愛の源であるおん父は愛を伝えずにいられず、おん子はその愛の受け手である。おん子はおん父からの愛を受け入れ、ご自分のものとされる。そして、おん子もまた愛であるから、愛をご自分に留めておくことができず、愛情に満ちておん父に返される。このような「与える−受ける」「受ける−与える」というやりとりから聖霊が生まれる。こうして、聖霊は、おん父とおん子の親密な関係における「対話」から生まれるのだ。 *********************** 4.新世紀の倫理の挑戦  キリスト教倫理は神の国の建設を前提としている。したがってキリスト者は、どんな行動にも同等の正当性があるとみなす主観主義を認めない。神の国の建設に沿う行動がある一方で、神から引き離す行動もあるからだ。寛容が「何でも」受け入れることと誤解されがちな現代にあって、キリスト者はより人間らしい、神のご計画に沿った客観的な道徳原則の存在を主張する。 1.客観性  人間のすることは公平無私ではない。対話はコントロールではないし、労働は搾取ではない。ある人の「人としてのあり方」には、その人の行動と決断のすべてが含まれており、人としてのあり方次第で、世界がより人間的になるか、より非人間的になるかが分かれる。だからこそ、それ自体で価値ある倫理原則が存在する。  こうした価値や原則に加えて、キリスト教倫理は、「人は偉大な倫理的真理を知ることができる(少なくとも近づくことができる)」という信念を前提とする。  キリスト者にとって、私たちをより人間らしくする真理に近づくことは、認識論上の問題にとどまらず、何よりもまず「実践的な」問題(生きること、他者を愛すること、イエスを愛すること)である。人は考察だけでなく、自由な選択と体験によっても、倫理的に成長する。私たちは、歴史のうちに真理を示し続けるイエスの霊が、教会に顕現すると主張する。私たちキリスト者は、啓示の賜物を通して真理へと近づく可能性に(独占的ではないが)恵まれているのだ。既存の現実とは対照的なナザレのイエスの生き様は、教会に一つの行動スタイル(いわゆる「エートス/社会精神」)を形成した。教会が聖霊に助けられて、ナザレのイエスのメッセージに忠実であるためには、どんな態度や行動が必要かを識別するとき、この「エートス」は具体化する。  こうして、キリスト教倫理は常にある種の「客観性」を主張する。倫理行為は、「それ自体が根拠を持つ」倫理原則に従う。たとえば連帯、人間らしい幸福な生活、他者への尊敬などは、誰が認めようが認めまいが、人間にふさわしい価値である。  こうしたアプローチとは反対に、ポスト・モダンは「真理を知るのは不可能である」と主張する。そのため、全人類が共有する普遍的な倫理原則などあり得ないと主張する「情緒主義的」*4、「自己決定論的」な倫理が登場した。  現代では、個人と主観性を重視するあまり、客観性がまったく否定されるようになった。当然、道徳は純粋に「主観的な」選択にのみ左右されるようになり、いかなる倫理的考察も不可能となる。この世界に、誰にとっても正しい客観的な価値が存在しないなら、ある人の行為の是非をどんな権威をもって問えるだろう?  いまや、倫理的な大原則(たとえば「汝、殺すなかれ」)に明白に表されている客観性は、「今、ここ」で日毎に勢力を拡大する唯物主義との間で、緊張関係を強いられている。キリスト者は、自分たちが日々生きる具体的な状況で、イエスのメッセージにより忠実であるにはどうすればよいかを探求してきた。倫理原則は言う。「汝、殺すなかれ」。だが、この命題はどういう意味か? 自己防衛のためなら、戦争中なら、殺してもよいのか? 古代のキリスト者は、ローマ軍の軍務に就いてよいかどうかを識別する必要に迫られた。ローマ軍に所属するなら、殺すこと、異教徒の儀式に参加することを強いられたからだ。  偉大な倫理的真理は、歴史的な実効性を持つように定義されねばならない。だが、ある定義がすべての面で真理を反映しているわけではない。「人間化」の看板は、時にあいまいだ。私たちは時間と空間に縛られた限りある存在で、しかも罪人だからだ。私たちは神の国の完成を、賜物として、終末論的な歴史のうちに見いだす。神の国の完成のように見えるどんなものも部分的であり、常に改善する余地がある。こうして私たちは、歴史の途上にあって、人類の完成へと招かれているのだ。 2.歴史性  キリスト教倫理学は、人間のダイナミックな性質を前提としなければならない。人間は歴史的な存在、発展しつつある存在である。倫理神学は、倫理的真理の絶対性を、「不変性」(時の経過のなかで変えようがないこと)ではなく、「客観性」ととらえなければならない。別の言い方をすれば、倫理神学は、人間の歴史性を前提としなければならない。  人間は真理を知り、客観性を獲得することができるという認識から出発する必要がある。  人間は「不完全な」存在であり、完全な存在になるために必要なものを見つけながら歩んでいく−という人間学が、キリスト教倫理の出発点だ。この人間学は、人間が現実との出会いのうちに自己形成し続ける存在であることも認める。人は、行動してみてはじめて(たとえそれが間違っていても)、どう行動すべきか、どちらに進めば自己実現できるかを知る。だから、現実世界は常に完成への途上にある。それは、いまだ完成されていないが、完成へと招かれているものだ。この「現にあるもの」と「ありうべきもの」の対照こそ、道徳の動機である。  歴史を通じて、私たちは「汝、殺すなかれ」「(一方の頬を打たれたら)他の頬を差し出せ」といった教えの意味を見いだしてきた。ある時代には正当化された行為も、今日ではイエスのメッセージと正反対で、普遍的な人権にも反していると考えられる。  だから、倫理は「一度つくればそれっきり」ではなく、歴史に応じて変化していくのだ。 3.参加  現代では、西洋民主主義の政治モデルの欠陥にもかかわらず、民主主義精神が十分に実現されている。社会生活のさまざまなレベルで参加が実現している。この参加精神は、教会や倫理的考察でこそ実現されるべきだ。だからといって、倫理的価値の基準となる倫理原則が、教会内部で決められるべきだと言いたいわけではない。それこそ最初の人間(アダム)が陥った誘惑だ。この善悪の基準を自分で決めたいという誘惑は人類の歴史を通じて何度も繰り返され、多くの非人間的な行為を生みだしてきたのだ。  だが、新しい技術(クローニングや遺伝子操作など)がよりいっそうの人間化につながるかどうかについては、教会内部で万人の参加を得て考察されるべきだ。キリスト教の倫理原則は、イエスが示した人間学や初代教会の体験を反映しているが、それらの原則が今日の新しい問題にどう適用されるべきかは語られていない。たとえば、十戒には「汝、クローンすべからず」という掟はない。他方、「汝、殺すなかれ」という掟はあるのに、神の名の下に人々が殺されている(死刑や異教徒の殺害)。  だからこそ、教会における倫理的考察の方法論に、第二バチカン公会議が提示した、ヒエラルキー(位階)的ではなく共同体的な教会観が反映されるべきだ。ヒエラルキーを教会生活の片隅に追いやる教会観は不適切だが、同様に、いまだに信徒や女性を役務執行者よりも劣った人と見なす教会観も不適切だ。  あるものが人々にとって善いものかどうかを問うには、現実を読み解き、問われている価値とは何かを理解することが大前提であり、そのことについて言い分を持つすべての人が参加すべきである。この万人の参加はとても重要であり、それによって、教会のバラエティに富んだ感受性が保たれる。たとえば、遺伝子操作の技術を倫理的に評価するためには、医師や遺伝学の専門家の声を聞くことが欠かせないのだ。 4.自律  現代世界は人間の自律を重視している。キリスト教倫理は、対人的な側面を欠いた、行き過ぎた個人主義的自律の概念を採用するのは論外としても、「自律した」「大人の」倫理であるべきだ。問題は、この「自律」をどう理解すべきかということだ(「自律」という言葉そのものの妥当性も含めて)。  確かなことは、キリスト教倫理は「他律的に」もたらされるものではないということだ。キリスト教倫理とは、法律のように内容ではなく権威への畏敬によって受け入れられる、「外から押しつけられる」倫理ではないのだ。神は人間にとって善いものを望まれる。だからキリスト教倫理は、ある行為が人間にとって悪か善か、人間的か非人間的かの根拠を示さずに、神学的な議論(いわゆる他律的な道徳論)を進めてはならない。「神が望まれるのだから、そうすべきだ(すべきでない)」ではなく、「神がそうするように(しないように)望まれるのは、それが善いことだからだ」と説明すべきだ。  キリスト教倫理の一般原則は「完全な人間化」を目指しており、それは善意あるすべての人に理解される。だから、信者でない人と対話する際に、教会のなかでしか理解されない他律的な議論を進めてはならない。他方、人々は完全な人間化へと導く議論には積極的に耳を傾ける。たとえば、安楽死に関するカトリック教会の議論はあまりに神学的で、信者でない人には理解しにくい。たとえば、「神は命の主であり、私たちには命を捨てる権利はない」という議論は、信者には評価されるだろうが、無神論者にはどんな意味があるか? 5.グローバリズム  現代世界には、人類が直面するさまざまな問題(エコロジー、生命倫理、資源の配分など)に、グローバルな解答を求める声が満ちている。こうした問題について、信仰や信条に関わらず、全人類の合意を追求する努力が不可欠である。たとえば、第三世界の債務については多くの人が語っているが、それほど知られていない「環境債務」の存在を指摘したい。第一世界の国々が、かつて地球に高い環境コストを負わせながら、工業化と経済発展に取り組みはじめたとき、「環境債務」が発生した。なのに今、第一世界は、第二・第三世界にクリーンで環境を汚染しない工業化を求めているのだ!  こうした世界規模の問題を解決するには、「世界規模の経済的連帯」が欠かせない。以前にもまして地球レベルの倫理原則の樹立が不可欠であり、キリスト教はそこで重要な役割を果たす。 6.危機的状況  「小悪」を選択するしかないような「構造的罪に毒された」状況が増えている。善を選択するには、人並み外れた英雄的努力が必要な場合さえある。このような状況では、実行不可能な「厳格主義」の倫理は何の解決ももたらさないばかりか、人々を神の愛と慈しみから遠ざけるだけだ。こうした危機的状況にあっては、「小悪」を選択すること、「漸進主義」を選択することが認められるべきだ。究極的には理想の善を目指しながらも、当座は「小悪」を受け入れるのだ。こうした漸進主義は、人間は救いへの途上にあるという現実を反映している。 7.教会の応答  以上の挑戦を、教会はどのように受け止めてきたか、簡単に見てみよう。 第二バチカン公会議  第二バチカン公会議は、現代世界との対話姿勢を示した。また、全人類が同じ信仰を共有していなくても、世界に生じている問題に直面して、同じ倫理を共有する希望が生まれた。同様に、教会は神の言葉の保管人ではあっても、現代世界のあらゆる問題に答えを持ち合わせてはいないこと、その答えはすべての人との対話を通して見いだされることを認めた。教会は全人類の貢献によって豊かにされ、より人間的な社会への移行という共通の務めに参加する。  「教会は神の言葉を遺産として保管し、そこから宗教と道徳の分野における諸原理をくみとるのであって、個々の問題について常に解答を持ち合わせているわけではないが、啓示の光をすべての人の経験と合わせて、人類が近年踏み入った行路を照らそうと望む」(『現代世界憲章』、33)  「教会は無神論を絶対に退けるものであるが、信ずるものも信じていない者も、すべての人が、ともに生活しているこの世界を正しく建設するために尽力すべきであることを真心をこめて主張する。これは真心のある慎重な話し合いなくしてはあり得ない」(『現代世界憲章』、21)*5  対話を通して教会は人類家族との連帯を示し、福音の光で世界を照らして世界への愛を示す*6。教会は聖霊に助けられて現代世界の声に耳を傾け、識別し、み言葉に照らして判断するよう努める*7。  公会議は、世界を新しい視点から見るよう促す。現代世界の否定的な面を理解するだけでなく、さまざまな現実のうちに聖霊が働いていることも確信する。  教会は全人類に自らの人間観を示し、現実問題において共に人間の善性を探求するよう望む。教会は、すべての解答を持っているわけではないと認めた上で、解答の探求にあたって信仰の光が助けになると確信しつつ対話に取り組む。こうした対話の願いは、キリスト教諸教会の間で(公会議はキリスト教諸教会の多様性を受け入れる、『教会憲章』、12、22、32参照)、また全人類の間で(『現代世界憲章』、92)実現される。  対話を受け入れる前提として、教会は人類から教えられ、自らの間違いを正す覚悟が必要だ。ある問題に、自分はすでに決定的な答えを持っていると確信しながら、対話に臨むことはできない。対話についての積極的なビジョンを示したのが、教皇パウロ6世の回勅『エクレジアム・スアム』である。 ポスト・モダンに抗して  ポスト・モダンに突入して、教会の発言はより厳しく、憂慮に満ちていった。そのよい例は、回勅『真理の輝き』や、スペイン司教団の司牧指針『真理はあなたたちを自由にする』である。  ポスト・モダンは、私たちの信仰だけでなく理性にも危機をもたらした。ポスト・モダンによれば、道徳原則は個人の恣意に委ねられている。すでに見たように、個人の好みや感情が倫理的考察にとってかわり、倫理の普遍性が退けられ、「情緒主義的」「自己決定論的」倫理が蔓延している。倫理から客観性や普遍性が失われた結果、強い者が弱いものに押しつける、経済帝国主義的倫理が登場した。経済的な強者は、個人生活ではキリスト教倫理に従うが、社会問題においてはエゴイズムの論理、他者を搾取する論理しか信じない。  『真理の輝き』をグローバルな視点から読めば、ポスト・モダン社会における倫理生活の諸問題への教会の姿勢が分かる。この回勅は、信者向けに福音的ビジョンを強調する一方、信者でない人のために、第二バチカン公会議が忘れかけていた「自然法」という概念を取り上げて、倫理の合理性を再発見しようと試みている。  回勅は、純粋な主観主義に対して、倫理的真理の客観性を強調している。そして、倫理上の二者択一(「客観的秩序・法律」対「主観的な良心」)においては前者を採るのである。  回勅はまた、行為自体の客観的分析にも注目し、よい意図や信仰があればそれだけで、よい行為とは言えないと強調している。こうした考察によって回勅は、倫理分野で増大する相対主義を拒絶する。私たちは、倫理の客観性・絶対性を強調する一方で、キリスト教倫理が常に客観性と主観性の釣り合いを保たねばならないことも、忘れてはならない。  回勅は重要な諸価値が互いに対立する複雑な状況を考慮していない。だが、現実にはしばしば価値の対立に出会う。こうした対立を解消する考察を導入すべきだ。  だからといって、厳格な原理主義を採り入れろというわけではない。原理主義は、現実に起きる複雑な状況に具体的解答を示さず、長期的にはいっそうの相対主義と主観主義を引き起こすからだ。  キリスト者は、偉大な倫理的真理を保管しており、その真理を、慎重な配慮を要する複雑な状況のただなかで、現実に適用しなければならないことに留意すべきだ。  この点について、トマス・アキナスは今日も十分に通用する真理を想起させる。私たちが自然法の客観的・普遍的原則から離れれば離れるほど、それらの原則の個々具体的なあり方に大きな違いが生じていくということだ(『神学大全』T−U、第94問、4項)。  私たちが客観性にこだわりすぎ、自由を恐れるあまり、あらゆる状況を倫理規範によって管理しようとし、個人や教会の良心の働きを抑えてしまうとき、倫理的考察への信頼が失われる。教会は、科学技術の発達によって直面する新たな問題を前に、有効な解答を持っていない。科学的データの不足や不確実性を前提に、暫定的な立場をとらざるを得ない。  『真理の輝き』は道徳における創造性を求めている。「道徳生活は、自らの熟慮された行いの源泉であり原因である、人間特有の創造性と独創力を必要とします」(40)「道徳的規定は、歴史の流れを通じて種々の異なる文化のなかで忠実に保たれ、たえず実践されなければなりません」(25)  謙虚な態度は道徳的堅固さとは正反対ではない。むしろ、謙虚さは今日では信頼性につながる。イエスから受け継いだキリスト教の倫理的企てとは、人間の完成に他ならず、それは全人類に提供されうる善である。構造的罪が今日の文化を脅かしていることは認めるにせよ、ある倫理原則が合理的であるとか、真の人間化をもたらしうると理解されない場合に、その原因のすべてを構造的罪のせいにすることはできない。  新しいミレニアムのキリスト教倫理は、第二バチカン公会議の直観的考察を再発見すると同時に、『真理の輝き』の警告も深く心に留めなければならない。 終わりに  最後に、聖アウグスティヌスが残し、倫理学者が好んで用いてきた言葉を紹介しよう。この言葉は現代の倫理にも大いに通用する。"In necessaries, unitas; in dubiis, libertas; in omnibus, catitas"(必然なる事柄においては一致。疑わしき事柄においては自由。万事において愛)  教会がこの言葉に従うためには、ナザレのイエスの霊がこの世界に顕現していると信じきること、愛と真心と率直な対話に基づいて多様性を認めること、教会は神の国の完成への途上にあると自覚することが必要なのだ。 ******************** 注  1.第二バチカン公会議は倫理を、すべての人が協力するために集まる出会いの場と考えている。「良心に対する忠実ということにおいて、キリスト者は他の人々と結ばれて、ともに真理を追求し、個人生活と社会生活の中に生じる多くの道徳問題を真理に従って解決するよう努力しなければならない」(『現代世界憲章』、16)。こうして公会議は、たとえ同じ信仰を持っていなくても、善意あるすべての人が同じ倫理を共有できるという希望を抱く。  2.ヨハネ・パウロ2世、キリスト教以外の宗教の代表者への演説(マドラス、1986年5月2日)  3.『教会憲章』、37。この項では、教会の善に関わる権利と義務の問題として、信徒とヒエラルキー(聖職者)の対話について述べている。  4.情緒主義とは、道徳的判断は感情レベルでの好き嫌いの表明に他ならず、ゆえに真偽を判断することは不可能だという立場の倫理学である。  5.「次に、われわれは神を認め、その伝統の中に高貴な宗教的、人間的要素を保っているすべての人に心を向ける。われわれがすべて、霊の勧めを受け入れて力強くそれに従う者となるために率直な話し合いが期待される」(『現代世界憲章』、92)「教会はキリストにおける一致のしるしとして見える社会構造をもっているので、人間的社会生活の進歩によって豊かにされることができ、また豊かにされている」(同、44)  6.「したがって公会議は、キリストによって集められた神の民全体の信仰の証人および解説者として、これらの種々の問題について人類と話し合い、福音の光に照らしてそれを解明し、聖霊に導かれる教会がその創立者から授けられた救いの力を人類に提供することは、神の民が属している人類全家族に対する連帯感と尊敬と愛とをもっとも雄弁に証明することになると考える」(同、3)  7.「聖霊の助けのもとに現代の種々の声に耳を傾け、それを区別し解明し、神のことばの光に照らして判断することによって、啓示された真理が常によりよく知られ、理解され、述べられるように努めることは、神の民全体、とりわけ司牧者と神学者の務めである」(『現代世界憲章』、44) ****************** グループ討論のための質問 1.第1章の、新世紀のためのキリスト教倫理の特徴から、もっとも重要だと思うものを2つ選んで、その理由を述べてください。 各自の選択についてグループで討論して、どの特徴がもっとも重要かについて合意を得るよう試みてもよいでしょう。 2.11ページに「キリスト者の信仰は、善意ある非キリスト者には発見できないような、キリスト教固有の倫理をもたらさない」と書いてあります。  −あなたはこれに賛成しますか? その理由は?  −キリスト教信仰は倫理の分野にどんな貢献をするでしょう? 3.第3章では倫理における対話の特徴と条件について考えました。真の対話に固有の、そうした「特徴と条件」のリストを作ってみましょう。  −真の対話を促進するのはどんな要素でしょう? 4.教会は常に、倫理における一定の「客観性」を擁護します。  −どうして、教会はそうすると思いますか?  −この問題は重要だと思いますか? 5.「最大限の倫理」とは、キリスト教以外の人々にも幸福をもたらそうという企てのことです(8ページ)。  −このようなキリスト教的考えを、人々によりよく理解してもらい、心を動かすためには、どのように語りかければいいでしょう? 6.キリスト教的対話の特徴の中でも、著者は真心、真理への忠実さ、隣人愛を挙げています。  −個人的対立、社会的・政治的対立において、こうした対話の特徴や他の要素の何が対話に貢献するでしょう?