→→→→→ 「第29回 カトリツク正義と平和全国集会・さいたま」の第6分科会において、「死刑制度を問い直すカトリック」(仮称)として、教会のグル―プがどのように死刑問題を考えているのか情報を提供すると同時に共有するインタ―ネツト等で結ばれたグル―プを立ち上げました。その第1報告として、以下の内容を報告したいと思います。 ←←←←←
11月22日から三日間、大宮教会において、全国集会が北海道から沖縄まで約300人が集まり開かれた。その一部です。
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ホアン・マシア(イエズス会神学院・教皇庁立神学部教授) |
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「裁きとはどういうことなのか? 償うとはどういうことか? そして、ゆるすとはどういうことなのか」 |
- 常識を考え直す
- マシア師は死刑問題に関し、ある程度知識を持っている人の集まりとして話した。
死刑廃止を唱える人も存続派も、前提になっている常識的な考えを洗い直す必要がある。
裁きとは、そもそもどういうことなのか? 償いをするとはどういうことなのか考え直す必要がある。
- 9・11テロにおいて、テロリストも被害者である。又、私を含め、皆何らかのかたちで責任がある。そして、被害者においては私も被害者であり、被害者が死ねば、私の一部も死ぬということである。
- 私のうちに憎しみがあり、悪の根がある。私は被害者であると共に加害者である。善玉、悪玉を峻別して、死刑問題の解決はない。懲罰とは加害者が罪をみとめ、回心して、社会に復帰するためのものである。
- 教皇の死刑に関する変化
- 92年の『カテキズム』での死刑反対(2266,2267)へのえん曲な文章に不満を抱いた人々がいた。95年の『いのちの福音』ではカテキズムより反対を強く述べた。その後、各国への訪問において、メキシコ、ロスアンジェルス、アルゼンチンでのスピ―チで、死刑は「無意味で、残酷で、役立たない」とはっきり述べた。
- 70年〜80年にかけて各国の司教団が廃止を打ち出した。78年、欧州の正平協の代表者が死刑廃止を求めた。
- 日本の司教団は84年『生命―神のたまもの』において、「いのち」の観点から死刑を含め人権侵害を訴え、中絶も、いのちの尊重で一貫したした姿勢であるような教育改革を訴えている。中絶反対を訴え、死刑賛成は自己矛盾なのである。米国やスペインでも中絶反対、戦争賛成、その反対も一貫性に欠けることになる。
- 88年、米国の故バ―ナ―ディン枢機卿は『生命、倫理を求めて』において、中絶、戦争、死刑の廃止と一貫したした態度を表明した。それを教皇は取り入れた。95年の『いのちの福音』に反映している。その57番にある通り、「誰のいのちに対しても尊厳を認め、戦争、死刑、差別に反対すべきである。犯罪者のよこしまないのちでも・・・」
- それ以降、全世界的に死刑廃止の風潮強まった。
- 教皇の主張の強さは98年クリスマス・メッセ―ジ、先の99年1月メキシコ、ロスアンジェルス(犯罪多発地区)で、死刑廃止を明言した。つまり、死刑制度は「残酷で、無意味、役に立たない」と述べた。同年、定例のアンジェラスの祈りにおいては全ての指導者に「死刑廃止」を訴えた。
- 一方、日本の司教団は2001年『いのちへのまなざし』P96〜102において、国家共同体がいのちを奪うのは神の権限を侵すと述べた。旧約において、神はカインを生かした。生きていれば回心のチャンスがある。「許し難いを許すこと」こそに、人間が輝くと述べている。
- 学校教育の倫理において、ギリシャのアリストテレスの「ニコマコス倫理学」でも正義と友愛を主張するが、弱い立場の人人、敵対関係の人々、文化の違いを超えて、敵への「ゆるし」は出てこない。教皇が述べるように、「ゆるしあいがなければ平和はない」
- 「ゆるす」とはどういうことなのか?
- では、敵を愛し、「ゆるす」とはどういうことなのか?
- 私は母国での司牧の経験から、あちらでも、兄弟同士憎み合い、殺したい位に思うのだが、でも、クリスチャンだから悩みは深いと、相談を受けることは結構あった。敵を憎みつつ相手を愛するなんて出来ないというのだ。だが、待ってください。「やるす」とは相手に対して愛情を持つことではない。そんなこと、我々に出来ないということは、とっくに、イエスはご存知なのである。そうではなく、この憎しみを抱き「許すこと」の出来ない私を許してください、と神に祈ることは出来る。また、加害者のひどいことやったのを、回心するように、神に祈ることは出来る。いわば、憎みながら、自分のため、相手のために神に祈ることは出来るのである。このように言うと、いや、それなら、出来ます。胸のつかえが幾分とれました。という体験をした。そうなのです。私のため、相手のために、憎しみを抱き、しかもふっきれない、この私を許してくださいとの祈りなのです。マタイの「敵を愛しなさい」の聖句には敵のために祈りなさいとあり、それはこのように解釈すると私は考えています。
- マシア師は個人的なミサで、主の祈りの前、4・5人は脳裏に浮かぶ許せない者のために、そのように許せない私は許してくださいと沈黙のうちに祈ると言った。そうでなければ主の祈りは唱えられない、とも言う。
- 米国には被害者の会があり、死刑廃止を求めている。娘を殺された親が加害者に死刑を当然と考えていた。だが、よく、よくみると、その加害者の親は幼い時、同じ教会の信者であった。そして、死刑になれば、その知り合いも自分と同じに子を失うのだ、同じ立場になるのだと気づき、死刑には反対をするようになった。
- 日本の原田さんは兄弟を殺された死刑囚のために刑を執行しないよう、法務大臣に嘆願した。(注:去年、その甲斐もなく、死刑が執行されてしまった)
- 翌日の話し合いの内容を補足すると、マシア師はゆるすのも裁くのも神である。私みたいな者も神から許していただいているのだから、「許す」というのが深い宗教体験である、と述べた。
- 「ゆるす」ということが誤解されている。犯罪者が回心するよう祈ることは出来る。
- もう一つ大切な点は、マシア師は大学の授業で、死刑の問題を取り上げるのだが、学生は最初は賛成していても、正しい情報を提供すると反対に回る人はいると言った。従って、死刑に関する様々な正しい情報を知り、共有することはとても大切である。
文責・八鍬 収治(横浜教区正平協・大和教会担当)
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