われわれの誰も傍観者ではなく、みな何らかの形で加害者である。われわれの中にも犯罪者に通じるような憎しみの根があり、心底から解放され、癒される必要がある。だが、死刑を求めることによってそれが不可能になるし、社会全体も決して憎しみの根から解放されない(マタイ13:29「毒麦を抜き集める時、それらと一緒に良い麦も引き抜いてしまうかもしれない。刈り入れまで、双方とも一緒に成長させなさい」)。
このような聖書の教えにもとづいて、日本カトリック司教団は、ミレニアム・メッセージである『いのちへのまなざし』において次のように述べている。「ゆるし難きをゆるし合っていくことから、真の人間の輝きが現れてきます。それは、十字架を前にして弟子たちに剣を放棄することを命じ、自分を十字架に釘付けるものたちのためにゆるしを願いつつ息を引き取ったキリストが歩んだ道です。多くの人々を引き寄せ、多くの人々の心に訴える力を持ち続けるキリストの魅力は、報復ではなく、いのちを賭けてゆるしの道を選択したことにあります」(69)。 |
しかし、こうした観点に至るには、人類の歴史でも、そして教会の歴史でも時間がかかった。現代では考えられないようなこと、たとえば奴隷制度や戦争、そして死刑といったことがらは、過去には時代の限界のもとで止むを得なかったとしても、今日においては「いのちを擁護する」という一貫した立場から対応しなければならないことがあきらかになってきた。
初代教会のキリスト者たちが、死刑を拒否していたことをわすれてはならない。だが、後にキリスト教がローマ帝国から国教として認められるようになると、教会は国家から特権と保護を与えられ、国家の代弁者になってしまう。古代のアウグスティヌスや中世のトマス・アクィナスも、そして16世紀の有名な人権擁護者トマス・モアでさえも、死刑廃止まではいかず、止むを得ず死刑を認めていた。
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ともあれ、時代とともに教会の教え、特に具体的な倫理上の問題に関する教えがより正しく理解され、見直されることがある。この点で死刑問題をめぐっての教会の立場の変化は、教義の発展を研究する上でとても興味深い。たとえば、13世紀の公文書に現在とは全く違うような意見が見られる。当時、教皇イノチェンチオ3世がバルデンスの異端者に対して謝罪文を書かせたが、その中で国家権力が死刑判決を下す権利をもっていることを認めさせようとしているのだ。幸いなことに、20世紀半ばの第二ヴァチカン公会議が促した反省が、ミレニアムを機会に教皇ヨハネ・パウロ2世が教会の過ちを謝罪するという画期的なできごととして結実した。現代、教会は福音に基づいて、ますます人権の問題と人間の尊厳に敏感になり、死刑廃止運動を積極的に支持するようになってきたのである。
1970年代後半から80年代にかけて、各国のカトリック司教団が死刑廃止を求める発言を行った。
1978年、ヨーロッパ各国の「カトリック正義と平和委員会」の代表者たちが、カトリック教会に「死刑制度廃止」を主張するようにと求めた。 |
日本カトリック司教団は1984年に、死刑に反対して、「現代人が死刑を含めて、戦争、その他のあらゆる人権の侵害に対して、以前より敏感になっているにもかかわらず、他方でいわゆる中絶の自由化を叫ぶのは、矛盾しているように思われてなりません」と述べている(『生命、神のたまもの』)。
1988年に米国のバーナーディン枢機卿は『生命倫理への一貫したアプローチを求めて』という文書を出し、中絶、安楽死、死刑などをとりあげるとき、一貫した物差しをもつように訴えた。この意見は10年後にやっと、教皇の回勅の言葉に反映されるようになった。現教皇ヨハネ・パウロ2世は、一人一人の命の尊厳を訴えるにあたって、キリスト者は一貫した立場から「すべての命に対して、また誰の命に対しても」尊厳を認め、意図的な中絶だけではなく、死刑や戦争や差別などにも当然反対すべきであると述べて、「殺してはならない」という掟は「あらゆる命、しかも犯罪者やよこしまな攻撃者のいのちであっても」含むとしている(『いのちの福音』57)。 |
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1992年のカテキズム(「カトリック要理」2266-2267)は死刑に触れているが、その表現は物足りない。「正当な理由なく攻撃する者に対して、血を流さずにすむ手段で人命を十分に守ることができ、また公共の秩序と人々の安全を守ることができるのであれば、公権の発動はそのような手段に制限されるべきである。そのような手段は、共通善の具体的な状況にいっそうよく合致するからであり、人間の尊厳にいっそうかなうからである」(『カテキズム』2267)。
1995年にヨハネ・パウロ2世が出した回勅『いのちの福音』のほうが、よりはっきりした立場に立っている。その中で教皇はこう述べている。「死刑に反対する世論があきらかに強まってきました。現代社会は実際のところ、犯罪者に対して更正する機会を完全に拒むことなく、彼らが害を及ぼさないようにさせるやり方で、犯罪を効果的に抑止する手だてをもっています」(27)…「こうして、公権は公的秩序を守り、ひとびとの安全を確保する目的をも満たします。同時にその一方で、犯罪者に生き方を改め更正するよう動機を与え、支援を提供します」(56)。
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その後も、死刑廃止に関する教皇の発言が注目されている。1998年のクリスマス・メッセージ、1999年1月25日のメキシコでの演説、1999年1月27日の米国のセント・ルイスでの演説などで、教皇は死刑廃止を強く訴えた。
教皇は「死刑は残酷であり、何の役にも立たないものである」とはっきり言っている(ロッセルバトーレ・ロマーノ紙、1999年1月30日)。
さらに、教皇は1999年12月12日に、サン・ピエトロ広場でお告げの祈りに集まっていた人々にむかって、「世界の全ての指導者たちが死刑廃止に同意するよう、改めて訴えたい」と語っている。
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