ブルーノ・マンサー氏の死亡が公式に宣告される

ブルーノ・マンサー基金による

2005年3月10日:バーゼル民事裁判所は2005年3月10日付けの判定で、スイス籍の熱帯林保護・人権活動家ブルーノ・マンサー氏が死亡したと推定されることを宣告した。よって、マレーシア・サラワク州(ボルネオ島)の熱帯林に跡も残さず姿を消してから5年後、マンサー氏は法律上、死亡したと見なされることとなった。バーゼル民事裁判所は、同宣告が2000年5月25日まで遡って有効であると宣言した。

ブルーノ・マンサー氏が行方不明で死亡したと見なす宣言を求める裁判手続きは、マンサー氏の家族からの依頼により2003年秋に開始された。マンサー氏が生きていたことを示す最後の形跡は、サラワク州とカリマンタン(インドネシア)の国境沿いにあるバリオ村に近い場所から彼がガールフレンド宛に送った手紙であった。この時ブルーノ・マンサー氏は、以前に6年間いっしょに暮らした移動プナン人に会うためにアダン川流域を目指していた。捜索隊がいくつも派遣されたにもかかわらず、マンサー氏の消息をつかむことはできなかった。

1954年8月25日にバーゼルで生まれたブルーノ・マンサー氏は、世界各地で危機に瀕している熱帯雨林の保全のため、そしてプナン人の権利のために、もっとも心血を注ぎ、高い信頼を得た活動家の一人として人々の記憶の中で生き続けるだろう。多くの才能を持ち、様々な分野で仕事を経験したマンサー氏は、プナン人と共に生活し、その文化から学び、自然に密着した生活を共有するため、1984年夏に祖国を離れた。移動プナン人は、狩猟採集だけで生計を立てる地球に残された数少ない民族の一つである。

マレーシアに滞在している間にマンサー氏は地元伐採会社によってボルネオ島の原生林が容赦なく伐採されるのを目の当たりにした。彼は、プナン人が伐採に対する市民抵抗運動を組織し、国際メディアと接触するのを支援した。1990年4月にスイスに帰国後、マンサーは問題への関与を続け、プナン人の問題を訴えるために日本、イギリス、そして1992年にリオ・ジャネイロで行われた地球サミットなどを訪問した。1993年にベルンの国会議事堂前で60日間のハンガー・ストライキを行ったことで彼は国内でさらに有名になった。1990年代後半、マンサー氏は世間をアッと言わせる様々な大胆な行動によって、未だ解決されない熱帯雨林の危機に市民の目を向けさせようとした。例えば、1999年3月にはパラグライダーでサラワク州主席大臣官邸の近くに飛び降りた。

ブルーノ・マンサー氏とプナン人長老アロン・セガ氏

マンサー氏は、政治問題への取り組みを高く評価され、様々な賞を受賞した。彼はプナン人と生活を共にした経験を"Tagebucher aus dem Regenwald"(Christoph-Merian-Verlag出版、邦訳:「熱帯雨林からの声―森に生きる民族の証言」(野草社)))で書き記した。また、バーゼル在住のジャーナリスト、Ruedi Suter氏による"Bruno Manser-Die Stimme des Waldes"(ブルーノ・マンサー:森の声)と題する伝記がZytglogge Verlag社(ベルン)から出版される予定である。

バーゼルに事務局を置くブルーノ・マンサー基金は、熱帯雨林に住む先住民族に一生を捧げたブルーノ・マンサー氏の手がけた活動を続けようとしている。現在の最も重要な取り組みは、特別な訓練を受けたプナン人のチームが伝統的な土地利用区域の地図を作るのを支援する「コミュニティー・マッピング・プロジェクト」である。プロジェクトで作られた地図は、現地裁判所で土地に対する権利を主張する資料として役立てられる予定である。

詳しくは、下記までお問い合わせ下さい:

Lukas Straumann、Director、Bruno Manser Fonds, Basel
Tel. +41 61 261 94 74

Kaspar Muller、 Bruno Manserの管財人
Tel. +41 61 261 93 20

Ruedi Suter、"Bruno Manser ・Die Stimme des Waldes"の著者

Tel. +41 61 321 06 16