「居場所」
幼稚園からの帰り道。我が家と呼ぶことにはまだいくばかの抵抗はあるものの、既に克己の足はごく自然に独歩邸
へと向かうようになっていた。サーカス上がりの順応力は克己にとって得がたい財産である。
それでも、今日ばかりはさすがの克己も緊張の色を隠せなかった。
何と言って切り出せばいいのだろう?
”お養父さん、僕に空手を教えて下さい”。
その一言で事は済むのだが、その一言がなかなかスラッと出てこない。昨晩一人で何度も練習した台詞。だが、
実際に独歩を目の前にして言えるだろうか?
「言えなくても言わなきゃ」
弱冠日本語的な矛盾はあるものの、克己の決意は本物だった。
立派な門構えの前で大きく一つ深呼吸をする。
きゅ〜。
克己の健康な食欲が、味噌汁と焼き魚の何とも言えぬ匂いに率直な反応を示した。
「あ・・・」
誰に聞かれたわけでもないのだが、克己は一人赤面した。
「ただいま帰りましたっ!」
できるだけいつもと変わらぬよう、大きな声でキチンと帰宅の挨拶をする。
「はいはい、お帰りなさい。すぐご飯にしたげる」
何も知らない夏江が、これまたいつものようにニコニコと出迎える。
「あの、館長は?」
「え?ああ、ドッポちゃんね」
自分の問いかけに、ほんの一瞬ではあるが夏江の肩が張ったことに、常の克己であればすぐに気付いたに違い
ないが、あいにく今の彼には他人の細かな所作に気を配るような余裕はない。
「今日は午後から少年部に稽古をつける日だから、もうじき帰ってくるわよ」
いいぞ、予定通りだ。
克己は胸の内で大きく頷いた。
月曜から金曜までは毎朝・毎昼を自分の稽古、夕方から夜間を青年部・壮年部の稽古に当て、小・中学生が午前
授業で帰宅する土曜は朝と夜を自分の稽古に、午後から夕方を少年部の稽古に当てる。日曜は試合・昇級昇段試験
等のイベントがない限り、腕の立つ黒帯−主に寮生−を相手に一日中自分の稽古に明け暮れる。
これが神心会館長愚地独歩の、正に空手三昧を地で行く一週間である。そう、こと空手に関する限り、彼の暦に
土日祝日などというものは存在しないのである。
「さ、鞄を置いて、手を洗ってらっしゃい」
「はい、夏江さん」
夏江の言葉に素直に従いながら、克己は気付かれないようにもう一度息を整えた。切り出すのは昼食時。養父母
が揃っているときだ。
「どうなることやら・・・」
元気良く手洗いに向かう克己にの背中を見送りながら、夏江は昨夜夫と交わした会話を思い出して溜息をついた。
『俺ぁ、明日あいつを少年部の稽古に連れていってやろうと思うんだが、どうでぇ?』
空手をするもしないも克己の自由意志に任せ決して無理強いせぬこと。そう釘を刺すには刺した。そして夫もそれを
理解してくれた。そう、理論的には。
『好きも嫌ぇもまずはやってみねぇことにゃぁわかんねぇだろ?だからよ、明日ちぃとばかし少年部の稽古に連れ
てってよ、結論はそれからってことなら文句はあるめぇ?』
独歩の主張は間違ってはいない。好きも嫌いもやってから。一般論として正しい意見である。
が、夏江は夫が口ではそう言いながら、既に克己を鍛え上げるプランを練っていることを一瞬で看破した。元来、
彼女の夫は隠し事が下手だった。良くも悪くも感情がか表に出やすいのである。
『そう、ね。いいんじゃないかしら』
夏江としてはそう答えるしかなかった。とどのつまりは夫にベタ惚れている夏江である。彼女にとって夫の楽しそうな
姿を見ることほど嬉しいことはないのである。
(でも、もし克己君が嫌がったら、その時は克己君の味方をして上げなくちゃ)
知らず知らずの内に夫贔屓に傾く自分自身にも釘を刺す。
克己と暮らして一週間。彼女は既に”母”だった。
充実した朝稽古を終えた独歩は、いつも以上に意気揚々と帰路に就いていた。
何事に付けあるレベルに達してしまうと鍛錬にマンネリの気が出るものであるが、こと独歩に限って言えば、そう
した心配は全くの杞憂である。彼にとって空手の稽古とは何万べん繰り返そうと常に新しい何かが飛び出してくる
秘密の宝箱なのだ。
そして今の彼には、その宝箱を共有するに足る後継者がいるときている。これで浮かれるなと言う方が無理な話だ。
むろん独歩とて夏江の言うことが分からぬわけではないし、嫌がる者に無理矢理空手をやらせようとは思わない。
だが、そうした全てを越えて克己のポテンシャルには激しく惹かれるものがあるのも事実だ。
もともと幼くしてサーカスでメインを張っていたくらいだから、身体を動かして訓練することが嫌いとは考えに
くい。
ならば、同年代の子供達が楽しんで稽古に参加している姿を見せてやればきっと空手に興味を持つに違いない。
それにどうしても空手が嫌いだというのなら、キックでもボクシングでもサンボでも柔術でも構わないではない
かと、少々的外れな妥協の仕方をする独歩であった。
(それにしても、あいつもすっかりお袋になっちまったなぁ)
独歩は昨夜の妻の表情を思い出しながら、驚嘆とも感嘆ともつかぬ感慨を抱いた。
妻にとっての最優先時効はいつだって自分だった。そう、彼女自身のこと以上にだ。それがたった一週間で克己
が同列になっているではないか。
(ガキを持つってなぁ案外妬けるもんだぜぇ)
頭髪のない丸いが厳つい頭をポリポリと掻きながら、克己に妻を奪われぬよう、より一層男に磨きを掛けねばと
決意する独歩であった。
「帰ぇったぞ」
「おかえりなさぁーい」
「お帰りなさい、館長」
夏江と克己の出迎えを受け、独歩はつい己の頬が緩むのを自覚した。武術家としての覚悟を決めている身とはいえ、
やはり帰る家があって、自分を出迎えてくれる家族がいるというのは良いものである。
克己はまだ独歩を”お父さん”と呼ぶことに抵抗があるのか、”館長”と呼ぶ。だがそれは、とうの独歩にとっ
てささやかどころか全く気にならぬことであった。
「ご飯できてますよ」
「おぅ、ご苦労」
漂ってくる味噌汁の匂いに目を細めて妻をねぎらう。夏江の味噌汁は独歩の好物の一つだ。独身時代自炊した怪し
げな味噌味の液体とは雲泥の差である。
「頂きます」
「召し上がれ」
孤独な少女時代を余儀なくされた夏江には、こうして家族揃って食卓を囲む時間は至福とも言っても過言ではな
かった。
昼間から家族が揃って、自分の作った料理を美味しいと食べてくれる。
仕事が忙しいからと、家族とロクに顔も会わさない夫。一人孤独に皿をつつく妻。そうした夫婦が少なくもない
御時世、何と贅沢な話だろう。世間ではこういうことを小さな幸せ等と言うようだが、小さななどと言ってはバチ
があたる。自分には過ぎたる幸せではないか。
懸念も忘れて夏江は満ち足りた微笑を浮かべた。
独歩が三杯目のお代わりを食べ終わり、熱い日本茶の湯飲みを手にするのを見計らって、克己はようやく言わねば
ならぬことを口にするタイミングを掴んだ。
誰にも悟られぬように息を吸って吐く。
「おぅ、克己ィ」
「あっ、はいっ!」
完全に間を外された上にいきなり名を呼ばれた克己の肩が跳ね上がる。初対面の印象通り、やはりこの独歩という
男は一筋縄では行かない。
「あぁん?何驚いてやがる?おかしなガキだな」
克己の心中を知っているのかいないのか、独歩が怪訝な表情をする。
「まぁいい。どうでぇ、今日の午後からちぃと俺に付き合わねぇか?」
「付き、合う?」
独歩の言葉の真意を測りかね、今度は克己は怪訝な表情をする。
(まったく、もっと言い方があるでしょうに)
端で聞いている夏江の方がやきもきとする。こういうことは大人の側が慎重にならねばならない。こちらに何か
を強制する意志がなかったとしても、子供の方は”大人の命令には従わなければならない”という強迫観念に捕ら
われるのだ。少女時代を親類中たらい回しにされた夏江には、他家に身を寄せて暮らさざるを得ない心細さやスト
レスといったものが痛いほどわかる。克己のように大人に囲まれて育ち、良くも悪くも精神的に早熟で敏感な子供
の場合は尚更である。
「ああ、午後の稽古だ」
夏江の心配をよそに、独歩はどこまでもあっけらかんとしている。
「稽古?空手の?」
思わぬ成り行きに戸惑いながらも、克己は事態が都合の良い方向に進んでいることを直感した。
「おうよ。今日は午後から夕方まで少年部の稽古がある。丁度おめぇぐらいの年のガキが大勢来るから、俺と一緒
にどうでぃ?」
克己にとっては願ってもないチャンスであった。
「はい!館長!!」
元気の良い克己の返事に、そうかそうかと独歩は目を細める。こういう時独歩は大物ぶってポーカーフェイスを
決め込んだりしない。
「よし、決まりだ。ちゃんと道着も持ってきといてやったからな」
「まぁ準備の良いこと」
いそいそと風呂敷包みをほどき、真新しい子供用の小さな空手着と白帯を克己に手渡す夫の姿に、夏江は思わず
苦笑した。
克己が空手を好きになるかどうかはわからない。だが、身体を動かすことは決して悪いことではないし、いろいろな
場所で同年代の友達を作ることができればそれにこしたことはない。
「楽しんでらっしゃいね、克己君」
「はい!」
大きく頷く克己の顔には、心からの笑顔が浮かんでいた。