「居場所」
克己が愚地家の一員となって一週間が過ぎた。それは普通の子供が環境に順応するのには短すぎる時間であったが、
克己はその間に一応の精神的・物理的な整理を終えていた。物心つく前から土地から土地へと移動する暮らしをしてきた
彼ならではの芸当である。
ここの暮らしは悪くない。
布団に仰向けに寝転がり、薄闇の中ぼんやりと浮かぶ天上の木目を眺めながら、克己はここでの一週間を振り返っていた。
新しい土地。新しい幼稚園。新しい先生に。いつものことだ。いつもと違うのは新しい家、新しい父。
そして、初めての母。
克己は”母”というものにどのように接してよいのかわからなかった。言うまでもなくこれは彼の責任ではないのだが、
それでも克己は夏江が傷つくような振る舞いはしたくなかった。
夏江を”母”として受け入れているのかはまだ自分でもわからなかったが、克己はこの一週間で笑顔の温かい中年の女性
のことがすっかり好きになっていた。
実父が死去した際、克己には愚地家の養子になる以外の選択肢も用意されていた。
父が生前最も信頼していた男が臨時団長となったサーカスに残り、今まで通りサーカスで団員を家族として暮らし、成人
した暁に父の跡を継いで団長となる。無論それには芸人としての熟練、経営者としての手腕が求められるが、克己に関して
は素質は充分すぎるほどにある。
だが、彼は敢えてその選択肢をとらなかった。
何故か?
サーカスは克己にとって生まれ育った故郷であり、そこには亡き父との様々な思い出が詰まっている。
初めて一輪車に乗れたとき、初めて玉乗りができたとき、そして初めて空中ブランコの大役を務め上げた時、いつも言葉
少なに自分を褒めながら、ゴツゴツとして乾いた掌で頭を撫でた父。生真面目で人一倍礼儀作法には口やかましかったが、
自分を誰よりも愛してくれた父。
そして、巨大な獣に冗談のような呆気なさで命を絶たれた父。
そうした思い出に囲まれて暮らすことは、いかに大人びていようと5歳の子供には辛すぎた。
もう、僕はココにはいられない。もうココに僕の居場所はない。
それが克己の出した結論だった。
「僕は間違っていない」
微かに残るサーカスへの未練を断ち切るように、声に出して言ってみる。いかに気丈であっても、5歳の子供は子供である。
克己とてこの新しい”家”にまったく不安がないと言えばやはりそれは嘘になる。
「しっかりしなきゃ」
自分自身に言い聞かせる。自己憐憫が何の解決にもならぬことを、克己は本能的に知っている。だから彼はこの”家”に
少しでも早く溶け込み、自分にとってよりよい生活環境を築くための行動計画をすでに練っていた。後は明日幼稚園が
終わってからそれを実行するのみである。
12時少し前。原則的に早寝早起き稽古の毎日を旨とする独歩は、夏江と布団を並べ既に寝る体勢に入っていた。
「ねぇ、ドッポちゃん・・・」
夫の就寝を妨げることに微かな遠慮を見せながら、夏江がそっと呼びかける。
「何でぇ?」
夏江の切り出す話の見当はおおよそついていたが、独歩は敢えて素っ気なく答える。
一つ、夏江と布団を並べて眠ること。
一つ、夏江と朝餉を共にすること。
一つ夏江の話をまずは最後までキチンと聞くこと。
若い時分から空手三昧の修行三昧、世間一般の価値観からすれば相当に好き勝手をし、またそれを自覚しつつ改める気が
全くない独歩が、最低限の妻への礼儀として自らに課している三箇条である。
だからこういう時は、先回りしたりせずにまずは夏江に喋らせる。
「克己君のことなんだけれど・・・」
「おぅ、悪タレでもつかれたか?」
言葉を探すように言いよどむ夏江に軽く水を向けてやる。
「いいえ、そんなんじゃないの。・・・何て言うのかしら、その、むしろいい子過ぎて・・・」
「結構なことじゃねぇか俺のガキの時分みてぇだったらおめぇ大変だぜ?」
夏江の言いたいことを諒解した上で茶化す。
「でも、あのくらいの年の男の子って、もっとワンパクで生意気で、ワガママ言ったりするものじゃない?・・・私は、
そういうことよくワカらないけど・・・ダメな”お母さん”だわね」
「バァ〜カ。ダメなもんか」
夏江の寂しげな横顔を直視できずに、独歩は岩を削ったような腕の中に彼女の小さな身体を抱き寄せた。
いつもニコニコと朗らかな姿からは想像もつかぬが、独歩は早くに両親を亡くした彼女が親戚中たらい回しにされ、
ひとかたならず苦労してきたことを知っている。
思えばその昔、師匠に連れられて入った小さな居酒屋で働いていた彼女に惹かれたのも、そうした内面的な強さを感じた
ことが大きい。
「おめぇみてぇなイイ女がダメなわけねぇだろ?経験なんざなくたって、おめぇは俺の最高の女房になったんだ。だったら
最高の母ちゃんにだってなれるに決まってるじゃねぇか」
腕の中の妻に言い聞かせる言葉に偽りはない。自分の妻に大して嘘偽りのお世辞がスラスラと出てくるような男ではないのだ。
「アハっ!すぐにそうやって私を甘やかして!大好きよ、ドッポちゃん。世界で一番大好きよ」
真っ直ぐすぎる夫に、夏江もまた真正直に答える。痛いほど硬い夫の腕が、夏江には涙が出るほど優しく温かい。いつでも
どこでもあるがままの自分を余裕で受け止めてくれる夫は、正に彼女の、彼女だけのスーパーマンなのだ。
「へっ、よせやい。照れるじゃねぇか」
顔を押しつけた夫の体温が上がる。
きっと真っ赤になってるのね。
外見からは想像もつかぬシャイな面をもつ夫の表情を思い浮かべ、夏江は思わず吹き出した。
「と、ところでよぉ、俺ぁ、克己にそろそろ空手を教えてやろうと思うんだがどうでぇ?」
強引に話題をすり替える夫を笑いながら、それでも夏江はやんわりと釘を差すことを忘れない。
「あの子がそれを望むなら、私は反対はしませんよ」
そう、あくまで本人の気持ち次第なのだ。今の世の中、親の仕事を子が継がねばならぬなどという法はない。第一、空手の
ような特殊なことを無理強いしたところで成果が得られるはずもない。それは本人にとって苦痛以外のなにものでもない。
「おめぇもサーカスで見ただろ?あのガキはてぇしたタマだ。今から仕込めばおめぇ、俺よりいい空手家になるぜぇ」
「そうね。ドッポちゃんの言うとおりよ。でも、いくら才能があっても好きじゃなければ始まらないでしょ?」
独歩が素質のある跡継ぎ息子を欲しがる気持はよくわかる。子供を産めなかった自分に対し非難がましいことは一切口に
せず、また一度として子供が欲しいと言ったことのない夫。その思いやりには感謝してもしきれない。が、それとこれとは
話が別である。
「そんなことくらいワカってらぁ」
チェっと口を尖らす夫の姿が夏江の笑みを誘う。夫のこういう悟り切れていないところが彼女は無性に好きなのだ。
「克己君が空手を好きになってくれるといいわね」
虫の良い話であることを百も承知で夏江は本心からそう願った。