「居場所」
「今日からこちらでお世話になります。お義父さん、お義母さんどうぞよろしくお願いします」
大人顔負けのキチンとした口上を述べ、まだ幼い少年は非の打ち所のない正座の姿勢のまま畳に額を付けた。
少年の名は克己。齢5にして天涯孤独の身の上になった”悲劇の子”でありながら、その姿には取り乱した気配
は全くない。
「おぅ、克己よぉ、ここは今日からてめぇん家だ。そんなに畏まるこたぁねぇぜい」
少年とは対照的に、浴衣の裾が乱れることに頓着することもなく、豪快に行儀悪く片胡座をかいた坊主頭の男が
その容貌にふさわしい太い声で克己の挨拶に応じた。
男の名は愚地独歩。背こそさほど高くないものの、その肉の付き片は素人目にも”普通”ではない。傷だらけの
皮膚に覆われた恐ろしく頑丈な自然石、とでも表現すれば良いのだろうか?とにかくその肉体から絶えず発散する
モノが尋常ではない。現に今こうしてこの上もなくくつろいだ姿勢をとっていてもまるで付け入る隙がない。事が
起きれば、否、その前兆を察知した瞬間、彼の全身のバネは最も合理的な反応を本能によって取るに違いない。
一代にして実践空手・神心会を興し、自ら虎殺しの異名を持つ武神。
それがありがちなハッタリなどでないことを、克己はこの男と対峙した瞬間に悟っていた。そう、克己もまた幼い
ながらに数多の試練を乗り越えてきたのである。
「はい。徐々に慣れてゆくつもりです」
「かぁー、まいったねぇ、こりゃぁ」
克己のソツのない受け答えに、独歩が頭髪のない頭をペチペチと叩く。
「もう、ドッポちゃんったら」
それまで夫の傍らで優しい微笑を浮かべて正座していた夏江が、堪らないというようにコロコロと笑った。
「おいおい、ガキの前でドッポちゃんはよせやい」
「あらあら、カッコつけて。いつでもどこでも私のドッポちゃんはドッポちゃん。私の大好きなスーパーマンだわ」
「ははははは、参ったなこりゃぁ」
克己は戸惑った。目の前に座った恐ろしくいかつい男の浮かべる表情に。男と男の妻とのやり取りに。
サーカスという特殊な環境で。物心ついた頃から母を知らずに育った克己は、こうした他愛のない夫婦のじゃれ
合いというものを見たことがなかったのだ。
優しいが生真面目だった父親は、再婚の素振りも見せず、女性団員と冗談を言い合うことすらまれであったし、
夫婦者の団員もいるにはいたが、団長である克己の父親が子持ちの男やもめであることに遠慮して、人目につく
場所で大っぴらにノロケたりはしなかったのだ。
「ねぇ、克己君」
「あ、はいっ」
「ふふ、そんなに緊張しなくていいの」
「あ、えと、ごめんなさい」
楽しげに笑っていた夏江に突然名を呼ばれ、この日克己は初めて狼狽し、直後それを恥じた。
そう、得体の知れない相手の前では弱味を見せてはいけないのだ。
誰に教えられたわけでもないが、猛獣と観客の前に幼い身を晒してきた克己は本能でそれを理解していた。
口元をへの字に引き結んだことでようやく年相応の表情になて克己に、夏江の頬が自然に緩む。子供はこれで
いいのだ。
「確かにあなたと私たちは”親子”になったけれど、こういうことがとても難しいってことくらい、私もわかってる。
だからね克己君、無理しなくていいの」
警戒を解こうとしない克己に、できるだけの誠意を持って、不自然でない程度に優しい声で語りかける。
「だからね、今すぐ私とドッポちゃんをお父さんお母さんって無理に呼ばなくてもいいの。私だってまだ君のこと
”克己”とは呼べないンだから。しばらくは”克己君”それでいいわね?克己君?」
「は、はいっ」
この時克己は自分でも訳がわからないままに頬が熱くなるのを感じた。
この目の前の中年女性がどんな人間なのかはまだわからない。だが、克己の夏江にたいする第一印象は決して
悪いものではなかった。