THE FINGERS BIOGRAPHY[1962〜69]
1962年、慶応高校1年だった三野村清雄(Vo. Pf. G.)、鈴木英夫(G.)、高橋信之(G.)、朝吹 誠(Drs.)、斉藤茂一(B.)‥等がバンドを結成した。当初はロカビリーバンドで、三野村が「監獄ロック」「ティーネイジ・ブギ」‥等を唄っていたが、三野村は子供の時からクラシックピアノを習っていてショパンやモーツァルトの曲を弾き、ジャズやスタンダードの曲も弾き、自分で作曲もし、ギターでアーサー・スミスの「ギター・ブギ」等も弾く‥という程多才であった。
その後ギターの鈴木が抜け、後釜に成毛が誘われた。
成毛は当時アコースティック・ギターでカントリーを弾いていてロカビリーに興味は無かったが、多才な三野村にあこがれて加入した。 三野村は兄もバンドをやっていて理論にも詳しく、成毛はバンドの練習はそっちのけで三野村に和音やスケールの理論を教わった。1963年3月、クリフ・リチャードの映画「Young Ones」が公開され、この映画でシャドウズを見た成毛はアコースティック・ギターからエレキに転向し、バンドはそれまで「Cool Boys」と言っていたバンド名を「The Savage」と改名し、シャドウズやサーフィン・バンドの曲を演奏するようになった。
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左から高橋,斉藤、朝吹、三野村、成毛
後にザ・フィンガーズ(第一期)になる又、慶応の先輩だったブルー・ジャンクメン(後にザ・プラネッツ)にベンチャーズやトレモロアームというものを教わり、ベンチャーズの曲も演奏するようになる。そして新宿のコタニ・レコードで自主制作レコードを作った。
新宿のコタニでカッティングした自主制作レコード
しかしエレキインストよりもロカビリーバンドがやりたかった高橋は「渋谷テアトル」「銀座ニュー美松」等のジャズ喫茶でブルージーンズを見て「俺達もブルーなんとかにしよう」と言い、バンド名は「ブルーサウンズ」になる。
当時のブルージーンズはほりまさゆき、内田裕也に加えてブルージーンバップスの渚一郎、桜井五郎、藤本好一と、ヴォーカルが五人も居た。そして一曲一曲振り付けがあり、藤本好一がバック転をしたり、ステージ狭しと走り回っていたので、高橋は「俺達もあれをやろう」と言ってステージを走り回る練習をした。
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ブルーサウンズ 左から斉藤、成毛、朝吹、三野村1964年1月、ベンチャーズの「Shanghied」をコピーしていた成毛は2弦を上に押し上げてピッチを変える事を発見し、三野村はこの音に感激してバンド名を「フィンガー・ヴィブラーツ」にしようと言った。
しかしちょっと長いのと、メンバーがちょうど五人だった事からバンド名は「ザ・フィンガーズ」となる。(第一期ザ・フィンガーズ)その後三野村は体を壊して脱退し、バンドは四人になったがバンド名はそのまま「ザ・フィンガーズ」でいく事になった。(第二期ザ・フィンガーズ)
1964年4月、立教大学のTHE BEATNIKSを中心にアマチュア・バンドのサークル、T.I.C.(Tokyo Instrumental Circle)が結成され、ザ・フィンガーズも創立メンバーとして参加する。この時のT.I.C.には三笠宮、都倉俊一、小松 久(後のヴィレッジ・シンガーズ)‥等もいた。
T.I.C.は「T.I.C. JAMBOREE」と称してコンサートを開き、その後エレキ・ブームが起こった時には当時日本でまだ知られていなかったライトゲージを使った奏法を広めるリーダー的存在となった。
T.I.C.JAMBOREEのザ・ビートニクス
'64年にストラト、バーンズを弾いている1965年3月、ベースの斉藤が交通事故で脱退し、6月にはドラムの朝吹がアメリカへ留学する事になり、メンバーは二人になってしまう。
しかし高橋は「何が何でもザ・フィンガーズをやるぞ!」と言ってどんどんコンサートやダンスパーティーの仕事を引き受け、他のバンドのドラムやベースに助っ人を頼んで活動を続けた。
当時のザ・フィンガーズの助っ人には‥
関口恵一 ザ・ヴィンディケイターズのドラム
鈴木 久 ザ・コミックスのリードギター
大隈勲弘 ザ・プラネッツのドラム
堤 光生 ザ・プラネッツのベース
岩崎道夫 ザ・プラネッツの二代目ベース
西沢真博 ザ・ルーレッツのベース
高橋ユキヒロ ブッダズ・ナルスィッスィのドラムで、高橋信之の弟
‥等がいた。
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助っ人と演奏するザ・フィンガーズ
左から大隈、成毛,堤
しかし演奏する度にメンバーが違う「その場しのぎ」にうんざりした成毛は、慶応で同じ学年だった羽根田武邦等のバンドに参加する。
このバンドで成毛はボサノバのギタリスト伊勢昌之氏に会い、「リズムののり」「コード・プログレッション」などを教わった。'65年8月、ザ・ヴィンディケイターズが解散してドラムの関口恵一がザ・フィンガーズに入る事になり、更に高橋の高校時代の同級生だった高須研一郎がベースで加入した。(第三期ザ・フィンガーズ)
又、高橋の知り合いだったイタリア人のチャーリー・コメリが押し掛けマネージャーになり、このチャーリーの口利きでザ・フィンガーズはビクターでレコーディングする事になる。そして本城和治氏のプロデュースでオリジナルの「CHARLEY WOOLYS JUDY」等4曲をレコーディングしたが、エレキ・インストというものを知らなかった本社から「なぜ唄が入ってないんだ?」‥と言われ、発売はされなかった。
CHARLEY WOOLYS JUDY.mp3
(2:35 1.2MB)このmp3ファイルは'66年に成毛の家で録音したもので、ビクターでレコーディングしたものはオルガンが無く、イントロにかぶってチャーリーの英語のしゃべりが入っていた。
チャーリーはその後ベンチャーズの通訳をしているうちにマネージャーになり、ベンチャーズとアメリカに渡った。'66年1月、高校までアメリカで育った帰国子女の蓮見不二男(クリストファー・レン)がヴォーカルとキーボードで加入し、メンバーは五人になる。(第四期ザ・フィンガーズ)
蓮見不二男(Christopher Lynn)はアメリカのパサディナ育ちで日本語よりも英語の方がネイティブに話せ、味噌汁をスプーンで飲み,ザ・フィンガーズに加入した当初はR&Bやストーンズの曲等を唄っていた。
又、英語での作詞も得意で次々と歌詞を書き、これに成毛が曲をつけた「By Exertion」「Baby, You Gotta Try」「I'm In Love」等のオリジナルも唄っていたが、これらはジェファーソン・エアプレイン、グレートフル・デッド風の所謂サイケデリック・シスコ・サウンドで、友人達が照明器具を持ち込んでライティングまでやっていた。
フライドエッグのアルバムタイトルにもなった「Dr.Siegel's Fried Egg Shooting Machine」の歌詞はこの頃に蓮見が書いたものである。後に成毛がストロベリー・パス、フライド・エッグでアルバムをレコーディングした時は蓮見が殆どの曲の歌詞を書き、その中につのだ☆ひろの「メリージェーン」もあった。
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左から関口、高須,蓮見、成毛
(ザ・フィンガーズ 第四期)
そして'66年5月、ザ・フィンガーズはT.I.C.を代表してフジTVの「勝ち抜きエレキ合戦」に出場し、4週勝ち抜いてグランド・チャンピオンになり、6月の「歴代グランド・チャンピオン大会」でも優勝して「エレキ日本一」になり、全国にT.I.C.の実力を見せつけた。
「勝ち抜きエレキ合戦」で毎週賞品をもらうザ・フィンガーズ(第四期)
しかしその後高須は脱退し、ベースは又助っ人を頼む事になる。T.I.C.は年長バンドが卒業して就職したため、'67年6月7日、日本青年館でのコンサートを最後に活動を終えた。
ザ・フィンガーズも卒業が間近になり、解散して就職するか、プロ入りするか意見が分かれたが、ドラムの関口は就職を選び、成毛、高橋、蓮見の三人はプロ入りする事になった。
そして'67年12月22日、三人は某音楽事務所と契約し、ザ・ディメンションズのリードギターだったシー・ユー・チェンがベースで加入し、松本幸三がドラムで加入し、GSとしてデビューした。(第五期ザ・フィンガーズ)
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ザ・フィンガーズ(第五期)
左から成毛、シー・ユー、高橋、蓮見,松本
The Dimensionsはアメリカンスクールの学生バンドで、メンバーは‥
シー・ユー・チェン(香港) LG.
トニー・ヤマモト(アメリカ) SG.
ティミー・ミヤケ(ハワイ) SG.
ワレン・プカナスト(タイ) B.
ジョー・パーカー(モンゴル) Drs.
‥というインターナショナル・バンドだと言っていたが、トニー・ヤマモトは,後の梁瀬トオル(スイング・ウエスト)であり、ジョー・パーカーは植田芳暁(ワイルド・ワンズ)である。
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The Dimensions('65年)
左からティミー、ワレン、ジョー、トニー、シーユー
当時日本では手に入らなかったフェンダーのエコー・チェンバー等の最新機器を駆使し、フジTV「勝ち抜きエレキ合戦」の第一回に出場して優勝し、初代チャンピオンになっている。
シー・ユー・チェンはフライド・エッグの2枚のアルバムの冒頭に英語でしゃべっていて、フィリップ・スカイ(Philip Sky)の名前で「Before You Descend」等の曲の作詞もし、蓮見と共にフライドエッグ・プロジェクトのブレーンであった。しかし成毛は事務所の女社長にギターを弾く事を禁じられ、慣れないピアノとオルガンを弾くのに四苦八苦する。
ジャズ喫茶で共演したモップスの鈴木ひろみつはステージで、“あの成毛君ていう人はいつも黙々とピアノを弾いていて、しゃべりさえしなかったらベートーベンみたいな人ですね”・・と言った。当時共演したバンドは誰も成毛がギタリストだとは思わなかった。'69年1月、日劇ウェスタンカーニバルに「その他大勢」で出演した後蓮見が脱退し、代わりにクロード芹沢がヴォーカルで入ったがザ・フィンガーズは全く売れず、'69年6月、解散が決定する。(第六期ザ・フィンガーズ)
解散が決まっても既に入っていた仕事はこなさなければならず、ザ・フィンガーズは残務整理をする事になったが、解散が決まったおかげで成毛はギターを弾けるようになり、ジャズ喫茶の第三ステージは「ヴァニラ・クリーム」と称してギターを持ち、シー・ユー(Vo. B.)、松本(Drs.)と三人でクリーム、ジミ・ヘン、テンイヤーズ・アフター、ブルース・プロジェクト‥等の曲を演奏し、ヴァニラ・ファッジ、ディープ・パープル等の曲を右手でオルガン、左手でギターを弾いて演奏した。
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VANILLA CREAM
左からシー・ユー、成毛、クロード皮肉なもので、ザ・フィンガーズが残務整理に入ってから急に客が増え始め、それまでいつもカラッポだったジャズ喫茶に固定客ができ、次のスケジュールを訊かれてマネージャーが返事に困る事もあった。
シー・ユーには「追っかけ」がつき、中に若き日のユーミンもいた。
GSの人気投票は圏外の200位以下から17位まで上がり、ジャズ喫茶で共演したバンドは、“アレッ、成毛君ギターも弾けるの‥?”と言った。
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VANILLA CREAM
成毛がクロスロードを唄っている珍しい写真'69年7月31日、新宿ラ・セーヌでのステージを最後に残務整理が終わってザ・フィンガーズは解散し、ヴァニラ・クリームは僅か二ヶ月で消滅した。そして翌8月1日、成毛とシーユーは喜び勇んでアメリカへ向かい、その後ウッドストックを見る事になる。
その後の成毛の活動については 成毛滋のレア音源:Dr.Siegel's Archive へ