相対だより(01/05/02 その2)


DVD版『ブルース・ブラザーズ』を既にご覧になった方々へ(ネタバレ注意!)。

さて。DVD版で追加されたシーンのいくつかは、映画『ブルース・ブラザーズ』が持つ意味、メッセージすら変えてしまいかねないものがある。この点が、俺にとって大いに不満なところだ。

例えば。トリプル=ロック教会でクリオファス=ジェイムス牧師(ジェイムス=ブラウン)のありがたーいお説教を聞き、“the Band!”と神の啓示を受ける彼ら。劇場公開版だと、夜のドライブでバンド再結成の相談 → 有名なモールでのカーチェイス → 木賃宿で一泊 → 爆破、とつながっていくのだが、その後DVD版ではエルウッドがそれまで務めていた工場を辞職するシーンが入っている。ここではなんと、エルウッドがサングラスをしておらず、彼自身の目がさらけ出されているのだ(一応、花粉症対策みたいな透明のゴーグルをつけてはいる)。

しかもこのエルウッドは、工場長らしき人物(黒人のインテリ風)に対し、やけにオドオドビクビクしながら「実は司祭になりたいので工場を辞めさせてください」と言う。その表情はなんか、今にも泣きそうな感じだ。モジモジするエルウッドに対し、工場長は「そうか、じゃあ頑張れ」みたいな感じで退職金の手続きをする。まあ確かにジェイクに比べれば、気弱でシャイな役柄のエルウッドらしいと言えばらしいシーンであるし、工場の商品をちゃっかり万引きして帰るのはやっぱりブルース・ブラザーズらしいと言えばらしいのだが。

だが俺にとってショックだったのは、あの「ブルース・ブラザーズ」がサングラスをはずしている、ということだ。あのグラサンは彼らのシンボルであり、エルウッドがノッポだったりジェイクがデブだったりすることとほぼ同じ意味を持っていると思っていた。ブルース・ブラザーズがブルース・ブラザーズであることの証明だと思っていた。それがまさか、映画のストーリーの中で、グラサンをはずす場面があるとは思わなかった。

俺にとってのブルース・ブラザーズは、あくまでもクールでカッコいい存在であった。だからこそ憧れたし、心酔した。そのカッコよさの一つに、「どんなことがあっても絶対にサングラスをはずさない」というのがある。眠るときも、サウナに入る時も、例え闇夜をドライブする時だって、彼らはグラサンのままだった。確かに冒頭の出所手続きのシーンで、ジェイクはグラサンをしていないが、これは刑務所という暴力装置の中にいるせいだろう。しかしその時、ジェイクの顔は絶対に正面から映らないようになっている。つまりブルース・ブラザーズの「素顔」は、あのサングラスまで含めたものであるべきなのだ。だからこそ、地下道でキャリー=フィッシャーの前ではずしてみせるサングラスに、「必殺武器」としての意味が出てくるのではないか。

そのグラサンが、「仕事」などという日常にまみれたシチュエーションであっさりとはずされているのを見て、俺はひどくがっかりすると同時に、とても悲しくなった。それはなんというか、「大人や企業の論理」に「ロックンロール」が負けた瞬間ではなかったか。中学生の俺に「音楽は正しい。ロックンロールは正しい」ということを教えてくれたのが、他ならぬブルース・ブラザーズだった。そのブルース・ブラザーズが今、30歳となり糞リーマンとなった俺に「ロックだって大人には勝てないんだ」ということを見せつけている。いやたかが映画にそこまで人生重ね合わせることもないかも知れないが、俺にとってはとてもショッキングな追加シーンだったのだ。


DVD版における追加シーンは、総じてこの調子なのである。他にもこういうのがある。バンドを再結成しようとしたが、メンバーの居所がわからない。手がかりはマルボロの空き箱の裏に書かれた落書きのようなメモだけ。こんな調子でメンバーが揃うのか。駐車場に車を止めた二人はため息をつき、ジェイクはこうつぶやくのだ。「神の御心は神秘だ」と。

違う、違うよ! こんなの俺の知ってるブルース・ブラザーズじゃない! エルウッドはおろか、ジェイクまで! 俺の知ってるブルース・ブラザーズは、常に確信犯だった。トリプル=ロック教会で神の啓示を受けた彼らは、例えアレサ=フランクリンに罵倒されても(俺ならソッコーで逃げ出しただろう)、揺るぎない信仰心に裏付けられ、着実に自らの「ミッション」を遂行するヤツらだった。それはキリスト教の神でもいいし、ロックの神でもいい。とにかく彼らは、常に確信と共に行動していた。まわりが何と言おうが、何をされようが、そんなことでひるんだりするような連中ではなかった。それがブルース・ブラザーズの持つ「クール」さだったのだ。

ところが、なんだこのシーンは。エルウッドはおろか、ジェイクですら「迷っている」のである。確信が持てずに、自ら信じるものに疑念を表明しているのである。なんだよお前ら。神の啓示を受けたんじゃなかったのかよ。そんなの違うよ。そんなのブルース・ブラザーズじゃねえよ。


極めつけが、ラストの刑務所における暴動シーンである。これは今まで、この映画が主張してきた音楽の素晴らしさ、音楽の力というものにとどめを指す決定的シーンであるはずだった。最初に観たときはマジでションベンちびりそうになったよ。体が震えた。どこにいようと、どんな人たちであろうと、音楽は人を熱狂させることが出来る。白人も黒人も金持ちも貧乏人も、犯罪者も禁治産者もデブもヤセもノッポもチビも、ロックを聴けば体が動く。ロックは正しい。ロックを信じろ。ロックンロールの神様を信じろ。それが映画『ブルース・ブラザーズ』の大いなる結論のはずだった。

しかし、あの追加されたシーンはそれを根本からひっくり返してしまった。踊り狂う囚人たちに対し、冷たく鳴り響く非常ベル。次々と走ってくる看守たちの手には、ショットガンが握られている。そしてただならぬ雰囲気のまま、しかし画面はブラックアウトしてエンドロールが始まり、名曲“Everybody Needs Somebody to love”がゆっくり流れる。

このラストシーンをどう観ればいいのだろう。つまりあれか? これって結局、「いくらロックを信じて踊ったって、ショットガンには敵わない」ってことなのか? 大人とか社会とか企業とか法律とか警察とか刑務所とか、そういったもんには勝てないってことなのか? 

初めてこのDVD版を観たとき、あまりのショックで眠れなかった。自分が15年以上信じ、800回ほど繰り返し観てきたこの映画が、全く違う物になってしまっていたのだ。人生の半分以上を支えてきた信念が揺らいでしまったのだ。俺はどうすればいい? やっぱりロックじゃ世界は変わらないのか? ジェイクやエルウッドがいくら歌っても、それは無力だったのか? 彼らの「ミッション」は無意味なものだったのか? 孤児院は教育委員会の手に渡り、子供達はロックを聴かずに、ラテン語かなんかを勉強させられるのか? 「ボブの店」で一人寂しくビールを飲み干したあのヒゲ男の涙はウソだったのか? 満員のホールで観客が一斉に叫んだあの“You, You, You!”ってのは、ありゃ幻だったのか?

あんまりだと思う。が、冷静に考えれば、あのラストシーンはやはりそういうことを言っているのだと思う。でも、中坊の時からずっと信じてきたことを、ある日突然「やっぱダメでしたあ」て言われたところで、はいそうですかと受け止められる訳もない。人間は面倒臭がりで、だから保守的な生き物だ。今までずうっとそうやってきた以上、これからもずっとそうしていきたがる。その方が楽だから。変わるということは、それまでの自分が間違っていたことを認めることであり、それは痛みを伴うものだから。だからそんなことには目をつぶって、今まで通りを続けたがるのが人間だ。

科学や学問の分野ならば、そのような態度は決して許されないだろう。全身から血を流してでも、誤りを認めるべきである。俺も辛いけど、頑張ってそうする。しかし、これは俺の信仰だ。中学生の時、『ブルース・ブラザーズ』から光を与えてもらい(まるでジェイクのように!)、以来ずっと保ち続けてきた、俺の大事な信仰なのだ。例えその啓示が、高島忠夫の解説するゴールデン洋画劇場だったとしても。例えそれが、今は亡き(あ、いますか?)バブルガムブラザーズの吹き替えだったとしても。ロックが正しいということは、パワーオブミュージックというものは、そして『ブルース・ブラザーズ』は、俺という人間を構成する、大事なだいじな信仰なのだ。


だから今、俺はあのラストシーンをこんな風に考えている。「確かに音楽は正しい。ロックは正しい。しかし、道は平坦ではなく、壁は高く厚い。しかしだからこそ、だからこそ我々には音楽が必要なのだ。ロックを忘れてはいかんのだ」と。こういう形で、俺はDVD版を受け止めようと思っている。

歴史上、多くの宗教指導者は、ご都合主義的な屁理屈を、なにか起きるたびにこしらえてきた。それは第三者からみれば片腹痛いだけだろう。ちゃんちゃらおかしくって、苦笑せざるを得ないのだろう。頭の一方で、それは俺自身も認識している。しかしこれは、俺が『ブルース・ブラザーズ』を愛し続けるために、どうしても必要なことなのだ。そうまでして何故、『ブルース・ブラザーズ』を愛し続けなければならないのか? それは俺の信仰だからだ。愛や信仰に、理由や理屈は必要ないのだ。

……でもやっぱ、劇場公開版も出して欲しいな。


穿って考えすぎかもしれないが、これがそもそも最初から予定されてた、映画『ブルース・ブラザーズ』の姿だったのだろうか。だとしたら、これまでの俺の信仰生活は悲しすぎる。が、これは最近になってランディスが編集し直した、ディレクターズカットである。DVDのおまけとしてついてきたメイキングビデオの中で、ランディスはこの映画について嬉々としてしゃべっていた。メイキングの中で、ランディスは主役だった。ほとんど出ずっぱりだった。そりゃ監督なんだから当たり前だとは思うが、やっぱヒマなんだろうな。『2000』もコケちゃったしな(コかしたのは、もちろん我々「阻止委員会」である)。最近撮った映画の話なんて、全然聞かないしな。そんなランディスの近況が、あのディレクターズカットのラストシーンに影響したのかどうか。我々には知る由もないが、そんなこともちらっと頭をかすめた、桜の季節であった。


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