「資料を使う」ことと「想像力」

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昨今のガンダム業界で気になっているひとつに、「資料をよく使う人への批判」がある。例えば『G20』第7号でも「MSV原理主義者」と命名してヤリ玉にあげ、辛辣な批判を浴びせているし、俺がこないだ買ったラポート『一年戦争サーガ』でも「想像力の欠如に等しい、何かの資料がなければ自分の意見を出せない人が多い」と、否定的な扱われかたをしている。

これに対して、俺や俺のそばにいる「資料をよく使う人々」がカチンときちゃって、それ系のひとがよく集まる掲示板でちょっと話題になったりした。ラポート『一年戦争サーガ』についてはいろいろ言いたいこともあるのだが、今回はこの「資料をよく使う人への批判」について。

「何かの資料がなければ自分の意見が出せない人」が、「想像力」の「欠如」だ、つーのは、俺もまったく同感である。俺自身はそういう人をナマで見た経験がないし、だからなんとも言えないのだが、もしそういう人がいたら、やっぱりそれは「想像力の欠如」だと思う。

ただ自分自身は「そうではない」と思っているし、ネット上で親しくさせてもらってるガン系のお友達の中にも、「何かの資料をがなければ自分の意見を出せない人」はいないと思っている。俺は12の頃から毎日、想像だけでオナニーしてきた。エロ本やエロビデオなんか使ったこともない。だから想像力のたくましさは折り紙つきだ。俺の周囲のガン系お友達も、俺が見る限り「想像力に欠けた人」はいない。

だから多分、G20やラポートの人は、俺の知らないそういう人々のことを言ってるのだと思う。資料がなければなんにもできない人々が、俺は知らないがこの世界には現実に存在するのだろう。ただそういう人をわざわざ「マス媒体」で揶揄するのはどうかと思うし、そんなことして何になるのか、書いた人にどういう得があるのかよくわからん。類推はできるが、ほんとのところはようわからん。


さて、むしろこっからが本題。こうした「資料をよく使うひとびと」を批判するとき、必ずセットのようについてくるのが「想像力の欠如」という言葉だ。今回これをちょっと考えてみたい。

例えば俺や俺の周辺にいる「資料をよく使うひとびと」が、「資料がなければなにもできない人」かというと、もちろんそんなこたない。みんな立派に「想像力」や「創造力」をもっている人達ばかりで、だから資料に頼るようなことはしなくてもいいんだけど、それでもマメに資料を漁ってきて、それを重視している。

それはなぜかっていうと、結局ひとりよがりの、いわゆる「俺ガン」になっちゃうからである。ネット上の、誰がみてるかわからないし相手がどんな人かも分からない状況で、お互いガンダムについて言葉をつくそう、考えを深めようと思ったら、資料を使った方が一番確実だし効率がいいからなんである。

自由な、奔放な想像力の翼を広げるのは大いに結構だけど、それだけじゃ他人とお話できないのだ。話が進まない。だから資料が出てくる。資料を拠り所にしてる訳じゃないし、それが目的じゃない。それはあくまで手段なのだ。見知らぬ第三者とコミュニケートし、ガンダムを共有するためのね。そして俺は、自分ひとりの世界に閉じこもるんじゃなくて、もっといろんな人とガンダムの話をしたいのである。

俺らはたいがいトーシロで、だから他人が「へへーっ」って土下座して聞いてくれるような、「大マスコミ様」の印篭なんかもってない。そういう立場の俺らが自分のアイデア(もちろんこれは「想像力」の産物)を伝えたり聞いてもらったりするためには、なにか説得力のあるもの、他人と共有できるものを持ってこなければならないのである。そこで資料ってえもんが出てくるのだ。

そりゃあね、俺が言った事が全部「公式」になる、つーならさ、なんぼでも想像力使いますって。俺、毎日オナニーで鍛えてるもん。いくらでも広げられますよ。ただしそれが、これだけ膨れ上がっちゃったガンダムファンのどれだけを納得させられるかというと、怪しいもんだけどね。だから結局、どんな形でも「資料」は使うと思うんだけどね。

ガンダム世界のいろいろなことについて考えたり、話をしたりするのは、我々の大きな楽しみである。遊びである。で、ここで俺は思うのだが、遊びだからこそ真剣にやる必要があるのではないだろうか。

例えばみんなで楽しく、サッカーをして遊んでいるとしよう。サッカーはご存知の通り、手を使ってはいけない。足や頭だけを使って、ボールを敵陣ゴールまで運んでいかなければならない。そこで突然誰かが、「どうせ遊びなんだからいいじゃん」といいながら、ボールを手でつかんで走り出し、ゴールへ投げ込んだらどうなるだろうか。「イエー俺の勝ちィ、一点いってん、ゴーーーーールゥーーーーーー!! 素晴らしいシュートですイエー、お前ら下手だなあ、運動能力(=想像力)がねえなあ、まったく」なんて言ったらどうなるだろうか。

これが許されるのは、そいつが番長だったり金持ちだったり、なんらかの「権力」を握っている時だけである。権力、つまりマス媒体で自分の意見を発表することができる、強引に通すことができる時だけである。

遊びでも、いや遊びだからこそ、厳格にルールを守り、真剣に取り組むべきなのだ。みんなが夢中になってサッカーして、勝った負けたで喜んだり悔しがったりしているときに、「俺、どうせまじめにやってなかったからね、手ェ抜いてたからね。だから別に負けても悔しくないよーん」なんて言ったらどうなるだろう。一緒に楽しく遊んでいた友達は、一気に興ざめするだろう。そんなやつとはもう、遊びたくなくなるだろう。

それでもまたそいつが遊びに加わってくるのは、これまたそいつが番長だったり金持ちだったり、なんらかの「権力」を持っている時だけだ。

「自由」というものを「素晴らしいものだ」と考えている人がいるかもしれない。「不自由」ということを「いけないことだ」と考えている人がいるかもしれない。でも俺はそうは思わない。自由は自由だし、不自由は不自由だ。善とか悪とか、そういったこととは別次元だ。一緒くたにするべきではない。関係ない話なのだ。

強いて言うなら、「よい自由」と「悪い自由」がある、ということだろうか。同様に「よい不自由」と「悪い不自由」があるのは言うまでもない。「自由」だからなんでもかんでも「よい」というのは、俺は賛成しない。先のサッカーの例でわかるように、「ルールなんかに縛られず、自由にやろうよ、どうせ遊びなんだから楽しもうよ」といったところで、結果はどうなるかおわかりだろう。はしゃいでるのは本人だけで、周りはしらけきっているのだ。

ルールを厳格に守るからこそ、楽しめるのである。ルールを守るからこそ、その中で素晴らしいプレーやゲームが生まれるのである。どんなスーパープレーもそれが反則に支えられたものだとしたら、拍手してくれる観客はいるだろうか。ましてそれが金を取っている「プロ」だとしたら?

自由な想像力は大いに結構である。ただそれは、サッカーをする以上はサッカーのルール内でやって欲しいと思う。それが不満なら、自分でまったく新しい競技を作ればいいじゃないか、サッカー以外の。せっかく想像力持ってんだからさあ、自由に翼を広げてくださいよ。そしてそこで「自由に」遊んでくださいよ。

ましてルールを守らない(守れない)ヤツらが罪悪感感じた挙げ句、「なにアイツラ、バカみてえにルール守っちゃってさあ、あいつらがサッカーつまんなくしてるんだよ」なんて悪口言われた日にゃあ、どうします? どうしたらいいんです? 正しいとか間違ってるとか、そんなこたどうでもいい。ただひたすら、悲しむことしかできないよ俺は。俺はサッカーが大好きだからさあ。

「資料に頼る」んじゃない、「資料を使う」んである。資料はあくまで手段であって、決して目的ではない。その辺のとこ、けっこうみんな勘違いしてるんじゃないのかなあ。だってさ、全く起伏のない平地で、自由に駆け回ることと、高く険しい山を苦労して登るのと、どっちが体力使うと思う? 例えば月面で3mジャンプできるひとと、地球上で3mジャンプするひと、どっちが「ジャンプ力」があると思う?

「厳格に資料を尊重し、その整合性を図ろうとする」ことと、「想像力」は、まったく矛盾しない。むしろ両者は必要不可欠な、密接な関係にある。資料を持ち出すと自由な想像力が失われると考えている人もいるようだが、そんなことはない。資料を厳格に尊重するからこそ、そこでほんとうの想像力ってもんが必要となるのだ。なんにもないところで走り回るのに、体力はあまり必要ない。

資料を使ってどんないいことがあるかというと、さっきも言ったとおり「他人と共有できる」点である。自分ひとりの「俺ガン」ではなくて、ある程度の普遍性を持ったガンダムになる。さらにいいことには、こうしてできあがったガンダムは「残る」んである。

資料を厳格に遵守し、他人と共有することで説得力を高めたガンダムというのは、あくまで結果的なんだけども、時間が経過しても耐えるのである。ガンダム業界で「正しい」という言葉には激しい拒否反応があるから使わないけど、それは「時間がたっても錆びない」ことは確かである。それと矛盾する、「新しい資料」が出てこない限りはね。

だから俺は、そっちの道を選ぶのである。できればひとりよがりは辞めて、他人とガンダムを共有したいし、時間が経っても錆びないガンダムの話をしたいしね。ついでにいえば、「なにものにも縛られず、自由に想像力を広げたモノ」というのは、実は他人にとってはあんまり面白いものじゃないのだ。楽しいのは自分だけだったりしてね。俺は他人に喜んでもらうことに興味があるから、どうしてもそういうことする気にはなれないんである。そうじゃない人は違うんだろうけど、さ。

俺は「思う」。資料をおろそかにするヤツこそ、真に想像力の欠如なのだと。しかし俺は、決してそんなことで他人をどうこう「言ったり」はしない。ガンダムにはいろんな楽しみ方があるべきだし、俺の楽しみをどうこう言われたくない以上、他人にもどうこう言いたくないからだ。もちろん「楽しんでる」レベルを超えて、金を稼いでいるヤツは別だけど。

だから「自分の方が想像力がある」などと威張ったりもしないし、したくもない。まして「自分より想像力に劣る(と思いこんでいる)連中をあげつらって、公共の場所でコケにしたり悪口を言ったりもしたくない。そんなことでお金を稼ぎたくもない。でも残念ながら、そういう人が世の中には、けっこういるようである。ほんとうに悲しいことだと思う。


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