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斜 坑
夢野久作 

(上)

 地の底の遠い遠い所から透きとおるような陰気な声が震え起こって、斜坑の上がり口まで這い上がってきた。「……ほとけ……さまあああ……イイ……ヨオオオイイ……旧坑口だぞおお……イイ……ヨオオオ……イイ……イイ……」
 その声が耳に止まった福太郎はフト足を佇(と)めて、背後の闇黒(やみ)を振り返った。
 それはズット以前から、この炭坑地方に残っている奇妙な風習であった。
 坑内で死んだものがあるとその死骸はけっしてその場で僧侶や遺族の手にわたさない。そこに駆けつけた仲間の者の数人が担架やトロッコにかつぎ載せて、せわしなく行ったり来たりする炭車の間を縫いながら、ユックリユックリした足どりで坑口まで運び出してくるのであるが、その途中で曲り角や要所要所の前を通過するとそのたんびに側についている連中の中(うち)の一人ができるだけ高い声でハッキリとその場所の名前を呼んで、死人に言い聞かせてゆく。そうして長い時間をかけて坑口まで運び出すと、医局に持ち込んで検死を受け手から初めて僧侶や、身よりの者の手に引き渡すのであった。
 炭坑の中で死んだ者はそこに魂を残すものである。いつまでもそこに仕事をしかけたまま倒れているつもりで、自分の身体が外に運び出されたことを知らないでいる。だから他の者がその仕事場(キリハ)に作業をしに行くと、その魂が腹を立てて邪魔(ワザ)をすることがある。通り風や、青い火や、幽霊になって現われて、鶴嘴(つるはし)の尖端を掴んだり、安全燈(ランプ)をけしたり、爆薬(ハッパ)を不発(ボヤ)にしたりする。モットひどい時には硬炭(ボタ)を落として殺したりすることさえあるので、そんな事のないように、運び出されて行く道筋を死骸によっく言い聞かせて、後に思いを残させないようにする……というのがこうした習慣の起源(おこり)だそうで、年がら年中暗黒の底に埋もれてる坑夫たちにとっては、いかにも道理至極した、涙ぐましい儀式のように考えられているのであった。
 今運び出されているのは旧坑口に近い保存炭柱の仕事場に掛かっていた勇夫(いさお)という若い坑夫の死骸であった。むろん福太郎の配下(うけもち)ではなかったが、目端(めはし)の利くシッカリ者だったのに、思いがけなく落盤に打たれてズタズタに粉砕されたという話を、福太郎はタッタ今通りすがりの坑夫から聞かされていた。また、呼んでいる声は吉三郎という年輩の坑夫であったが、この男はかつて一度この山で大爆発があった際に坑底で吹き飛ばされて死んだつもりでいたのが、まもなく息を吹き返してみると、いつの間にか太陽のカンカン照っている草原に運びだされて医者の介抱を受けていることがわかったので、ビックリしてモウ一度気絶したことがあった。だからそれ以来いっそう深くこの迷信に囚われたものらしく、死人があるたんびに駆けつけると、仕事をそっちのけにして、こうした呼び役を引き受けたので、仲間からはアノヨの吉と呼ばれているのであった。
 吉三郎の声は普通よりもズッと甲高くて女のように透きとおっていたのみならず、ズタズタになった死体の耳に口を寄せて、シンカラ死人の魂に呼びかけるべく一生懸命の声を絞っているので、そこいらの坊さんの声なぞよりもはるかに徹底して……無限の暗黒を含む大地の底を冥途(あのよ)の奥の奥まで沁み通して行くような、なんとも言えない物悲しい反響を起こしつつ、遠くなったり近くなったりして震えて来るのであった。
「……ここはアアア……ポンプ座ぞオオオ……イヨオオオ……イイイ……イイイ……イイ………」
 その声に聞き入っていた福太郎は、やがてなにかしらゾーッと身ぶるいをしてそこいらを見まわした。吉三郎のすきとおった遠い遠い呼び声を利くにつれて、前後左右の暗黒の中に凝然(じつ)としている者の一切合財が、一つ一つに自分の生命を呪い縮めよう呪い縮めようとしているような気はいが感じられてきたので……。
 福太郎は元来こんなに神経過敏な男ではなかった。工業学校を出てからおよそ三年の愛だこの炭坑で正直一途に小頭の仕事を勤めてきたお陰で、今では地の底の暗黒にスッカリ慣れきって、自分の生まれ故郷みたような懐かしいアジさえ感じていたばかりでなく、生まれつき頭が悪いせいか、かなり危険なめに会っても無神経と同様で、めったに感傷的な気持ちになったことはないのであった。ところが去年の暮れ近くになって女房というものを持ってからというものは、何となく身体のぐあいが変テコになって、シンが弱ったように思われて来るにつれて、いろんなつまらない事が気にかかりはじめたのを、頭の悪いなりにウスウス意識していたので、ことにこの時が一番方から二番方まで十八時間ブッ通しの仕事を押しつけられていたせいでもあったろう。頭が妙に冴えてきて、なんとも言えない気味の悪さが、上下左右の闇の中から自分に迫って来るように思われてしようがなくなったのであった。
 ……俺も遠からず、あんげなタヨリない声で呼ばれることになりはせんか……。
 ……ツイ今しがた仕繰夫(しくり)の源次を載せて、眼の前の斜坑口を上がって行った六時の交代の炭車(トロッコ)が、索条(ロープ)でも断(き)れて逆行(ひっかえ)しては来はせんか……。
 ……それとも頭の上の硬炭(ボタ)が今にも落ちて来はせんか……。
 といったようなイヤな予感に次から次に襲われはじめると同時に、それが疑いもない事実のように思われ出して、われ知らず安全燈(ランプ)の薄明かりの中に立ち竦(すく)んでしまったのであった。
 すると、そうした不吉な予感の渦巻きの中心に何よりも先に浮かんだのは、女房のお作の白い顔であった。
 お作というのは福太郎よりも四ツ五ツ年上であったが、まだ何も知らなかった好人物(おひとよし)の福太郎に初めてにんげんの途を教えたお陰で、今では福太郎から天にも地にもかけがえのないタッタ一人の女神様のように思われている女であった……だからその母親か姉さんのようになつかしい……またはスバラシイ妖精(ばけもの)ではないかと思われるくらい婀娜(あだ)っぽいお作の白々と襟化粧をした丸顔が、モウ二度と会われない幽霊かなんぞのようにニコニコと(笑)ながら、ツイ鼻の先の暗黒の中に浮かび現われた時に、福太郎は思わずヨロヨロと前にノメリそうになった。そうして初めてお作に会った時からのいろいろな曰く因縁の数々を思い出しながら、今更のようにホッと溜息をするのであった。
 お作は元来福太郎のほうから思いかけた女ではなかった。ちょうど福太郎がこの山に来た自分に舌の町の饂飩屋(うどんや)に住み込んで流れ渡りの白ゆもじで、その丸ポチャの極度に肉感的な身体つきと持って生まれた押しの太さとでいろいろな男を手玉に取ってきたのであったが、その中でも仕繰夫(しくり)の指導係(さきやま)をやっているチャンチャンの源次という独身(ひとりもの)の中年男が仲間から笑われるくらい打ち込んで、有らん限り入れ揚げたのを、お作は絞れるだけ絞り上げたあげくにアッサリと突き放して見向きもしなくなった。……というのはこれが縁というものであったろうか、その頃から時時饂飩を喰いに来るだけで、酒なぞ一度も飲んだことのない福太郎のオズオズした坊ちゃんじみた風つきに、お作のほうから人知れずに打ち込んでいたものらしい。去年の冬の初めに饂飩屋から暇を取るとそのまま貯金の通帳といっしょに福太郎の自炊している小頭用の納屋に転がり込んで、無理からの押蒐(おしかけ)女房になってしまったのであった。
 その時はさすがに鈍感な福太郎もすくなからず面喰らわせられた。何もかも心得ているお作の前にかしこまって、赤ん坊のようにオドオドするばかりであったが、それでもどうしていいのか解からないまま、五日十日と経っていくうちに、福太郎はいつの間にかお作の白い顔を見に帰るべく仕事の仕上げを急ぐようになっていった。毎朝起きて見ると、自炊時代と打って変わって家の中がサッパリと片づいている。枕元に、キチンと食事の用意ができているのがもったいないくらいに嬉しかったばかりでなく、夕方疲れてトボトボとうなだれて帰って来る薄暗がりの中に自分の家だけがアカアカとランプが点(つ)いているのを見ると、ありがたいとも何とも言いようのない想いで胸が一パイになって、涙が出そうになるくらいであった。しかもそれと同時に、翌くる朝四時から起きて一番方の炭坑入りをしなければならないことを思い出すと、タマラナイ不愉快な気持ちに満たされて、またも力なくうなだれさせられる福太郎であった。
 こうして単純な福太郎の心は物の半月も経たない中にグングンと地底の暗黒から引き離されていった。そうしてこんな炭山(やま)の中には珍しいお作の柔らかい、かわいらしい両掌の中に日一日と小さく小さく丸め込まれていくのであったが、それにつれてまた福太郎は、そうしたお作との仲が炭山中の大評判になっている事実を毎日のように聞かされて、寄ると触れると冷やかし相手にされなければならなかったのには、少なからず弱らされたものであった。しかもそんな冷やかし話の中でも「源次に怨まれているぞ」という言葉を特に真面目になって言い聞かせられるのが、好人物の福太郎にとっては何よりの苦手であった。
「源次という男は仕事にかけると三丁下りの癖に、口先ばっかりはどこまでも柔媚(やわ)いかわからん腹黒男(はらぐろ)ぞ。彼奴(きゃつ)元来詐欺賭博(いかさま)で入獄(いろあげ)してきた男だけに、することなす事インチキずくめじゃあ、そいつに楯突いたやつは、いつの間にか坑(あな)の中であいつの手にかかって消え失せるちゅう話ぞ。彼奴がソレくらいの卑怯な事をしかねんやつちゅうことはだれも知っとる。あいつに違いないと言いよる者もいるにはいるが、なにせ暗闇の中で特別念入りに殺(や)りよるとみえて、証拠が一つも残っとらん。第一あいつは水道ネズミのごとくスバシコイうえに、坑長の台所に取り入ってるもんじゃけんトウトウ一度も問題にならずに済んできとるが、用心せんとイカンてや。ドゲナ仕返しをするか解らんけになあ。元来お作どんの貯金ちゅうのがハシタの一銭まで源次の入れ揚げた金ちゅう話じゃけんのう!」
 と親切な朋輩連中からシミジミ意見されたことが一度や二度ではなかったが、そんな話を聞かされるたんびに頭の悪い福太郎はオドオドと困惑して心配するばかりで、ドンナふうに用心をしたらいいのか見当がつかないので困ってしまった。
「……そげに言うたて俺が知った事じゃなかろうもん」
 と涙ぐんで赤面したり、
「源次はそげな悪い人間じゃろうかなあ……」
 と溜息しいしい夢を見るような眼つきをしてみせたりしたので、せっかく親切に忠告してくれる通中もツイ張合抜けがしてしまう場合が多かった。
 しかし問題はそれだけでは済まなかった。福太郎は自分が源次に怨まれている原因が単にお作に関係したことばかりではない。それ以外にもモット重大な、深刻な理由があることを、それから後も繰り返し繰り返し聞かされなければならなかった。
 ……と言うのは外でもなかった。
 福太郎は元来何に突けても頭の働きの遅鈍(のろ)いわりに、妙に小手先の器用な性質で、その中でも大工道具イジリが三度の飯よりも炭であった。工業学校へ入る時でも最初建築のほうを志望していたのを死んだ両親に言い聞かせられて、不承不承に不得手な採鉱のほうに廻ったお陰で、ヤット炭坑から学資を出してもらうことができたのであったが、それでもチョイチョイ小遣いを溜めては買い集めた大工道具の一式を今でもチャント納屋の押入に仕舞い込んでいるくらいで、どんなに疲れている時でもでも頼まれさえすればすぐにその箱を担いで出かけるというふうであった。だから坑内の仕繰の仕事なぞも本職の源次よりかズット見込みが良い上に馬鹿念を入れるので、出来上がりがガッチリしていて評判がなかなかよかった。現にタッタ今潜って来た炭坑の大動脈とも言うべき斜坑の入り口なぞも、去年の夏頃に源次が一度手を入れたものであったが、まもなくその源次が風邪をひいて寝ているうちにいつの間にか天井の重圧(おもみ)で鴨居が下がってきて、炭車(トロッコ)の縁とスレスレになっていたので、知らないで乗って来た坑夫の頭が二ツも暗闇の中でフッ飛んでしまった。そこでとりあえず福太郎が頼まれて指導者(さきやま)になって手を入れた結果、ヤット炭車の縁から一尺ばかりの高さに喰い止めたものであったが、その時に、源次が材料を盗んで良い加減な仕事をしてさえいなければ、モウ二尺ぐらい上のほうへ押し上げられるであろうことが立ち会っていた役員連中の眼にもハッキリ解ったのであった。
 こうした福太郎の晴れがましい仕事ぶりが炭坑中に知れ渡らないはずはなかった。……と同時に本職の源次から怨まれないはずはないのであった。
 源次はこうしてホンノ駆け出しの青二才に仕事の上で大きな恥をかかされたうえに、入れ揚げた女まで取られてしまったのだから、なんとかして復讐(しかえし)をしなければ引込みのつかない形になってしまっているのであったが、しかしそこがチャンチャン坊主と言われた源次の特徴であったろうか、それとも源次が皆の思っているよりもズット怜悧な人間であったせいであろうか。気の早い炭坑連中からイクラ冷笑(ひやか)されても、腰抜け扱いされても源次は知らん顔をしていたばかりではなく、かえってそれから後というものは福太郎と出会うたんびに、ヒョコヒョコと頭を下げて抜目なく機嫌を取ろう取ろうとする素振りを見せはじめたのであった。
 するとまたそうした源次の態度が眼についてくるにつれて他(はた)の者はなおの事源次の気持ちを疑うようになった。……今に見てろ。源次がやるぞ。福太郎とお作に何か仕かけるぞ……といったような炭坑地方特有の、一種の残忍さを夫君だ興味を持ってみるようになったものであるが、しかもそのさ中にカンジンの福太郎夫婦だけは、そんな事をいっこうに問題にもしていない模様だったので、いっそう、皆の者の目を瞠(みは)らせたのであった。お人好しの福太郎は源次に対しても、他の者と同様に何のコダワリもないニコニコ顔を見せる一方に、お作はまたお作で、
「あの腰抜けの源次に何ができようかい」
 と言わぬ半分の大ザッパな調子でタカを括(くく)っていたらしく、今までの白ゆもじを燃え立つような赤ゆもじに改良したり、饂飩屋にいた時分どおりの、真白な襟化粧を復活させたりするばかりでなく、その襟化粧と赤ゆもじで毎日毎日福太郎の帰りを途中まで出迎えに行きはじめる。一方には坑長の住宅の新築祝いに手伝いに行ってから以来(このかた)、若い二度目の奥さんにとり入ってあたかも源次の勢力に対抗するかのようにチョイチョイ御機嫌伺いに行っては、坑長の着古しの襯衣(シャツ)や古靴などを福太郎に貰ってきてやったりなぞ、これ見よがしに福太郎を大切にかけて見せたので、炭坑中の取沙汰はイヨイヨ緊張していくばかりであった。
 福太郎は斜坑の入口で、自分の手に堤げた安全燈(ランプ)の光の中に突っ立ったまま、そんな取り沙汰や思い出の数々を、次から次に思い出すともなく思い出していた。しかもその中でも源次に関係したことばっかりは今の今まで……自分のせいじゃない……といったような気持ちから一度も気にかけたことはないのであったが、この時に限って、アリアリと眼の前に浮かび出て来るお作の白い顔といっしょに、そんな忠告をしてくれた連中の眼つきや口つきを思い出してみると、そんな評判や取り沙汰が妙に事実らしく考えられてくるのであった。
 その当の相手の源次はタッタ今上がって行った十台ばかりの炭車の真中あたりの新しい空函の中に、低い天井の岩壁から反射する薄明りの中を、頭を打たない用心らしく背中を丸くしてつっぷしたまま揺られていった。着ている印半纏(しるしばんてん)の背印は平常の¬(かね)サとは違っていたけれども。その半纏の腋の下の破れ目から見えた軍隊用の青い筋の入った襯衣と、光るほど刈り込んだ五分刈頭の恰好が源次のうしろ姿に間違いないのであった。しかもソンナふうに頭を抱えて小さくなった源次のうしろ姿を今一度お作の白い顔と並べて思い出した福太郎は、怖ろしいと言うよりもむしろ、なんだか済まないような……源次に怨まれるのも当然のような気がしてしようがなくなった。源次の姿を吸い込んで行った斜坑の暗闇に向って人知れずソッと頭を下げてみたいようなタヨリない気持ちにさえなったのであった。
 しかし福太郎はまもなくそんな思い出や、感傷的な気持ちの一切合財が、クラ闇の中で冴え返って行く自分の神経作用でしかないように思われてきたので、そんな馬鹿げた妄想の全部を打ち切るべく頭を強く左右に振った。するとその拍子に堤げている安全燈の光がクルクルと廻転するにつれて、今度は眼の前の岩壁の凸凹がどこやら痩せこけた源次の顔に似ているように思われてきた。しかもだれかに打ち殺された無念の形相かなんぞのようにジット眼を顰(しか)めていて、一文字に噛み締めている岩の唇の間から流れしたたる水滴が血でも吐いているかのように陰惨な黒光りをしているのに気がついた。
 ところが、その黒い水の滴(したた)りを見ると福太郎はまた、別の事を思い出させられて、われ知らず身ぶるいをさせられたのであった。
 その岩の間から洩れる水滴が奇怪にも摂氏六十度うらいの温度を保っていることを、福太郎はズット前から聞いて知っていた。それはその岩の割目の奥の深いところにある炭層の隙間にこの間の大爆発の名残りの火が燃えていて、その水の通過する地盤をあたためているせいである……しかも炭坑側ではそれを手のつけようがないままに放ったらかして構わずに坑夫を入れているのであるが、そのうちにだんだんとその火熱が高くなってくる一方に坑内の瓦斯(がす)が充満してきたら、またも必然的に爆発するであろうことあ今からチャンと解りきっていた。だからこの炭坑に入るのはそれこそホントウの生命がけでなければならなかったのであるが、しかしそうした事実を知っているのはごく小数の幹部以外にはその相談を盗み聞いた仕繰夫(しくり)の源次だけであった。ところがそうした秘密がいつの間にか源次の口からコッソリとお作の耳に洩れこんでいたのを、福太郎がまたコッソリとお作から寝物語に帰化されていたので、
「インマの中(うち)に他の炭坑へ住み換えようか。それとも町へ出てウドン屋でも始めようじゃないか」
 とその時にお作が言ったのに対してシンカラ首肯(うなず)いて見せたことを福太郎はいま一度はっきり思い出させられた。そうして今日限り二度とコンナ危険なところへは入れない……といったような突き詰めた気持ちに囚われながら、オズオズと前後左右を見まわしたのであった。
「……書写部屋(かきべや)(事務所)ぞオオ……イイイヨオオ……イイヨ……オオイイイ……」
 という呼び声がツイ鼻の先の声のように……と……またも遠い遠い冥途(あのよ)からの声のように、福太郎の耳朶(みみたぶ)に這い寄ってきた。
 その声に追い立てられるように福太郎は腰を屈(かが)めながら、斜坑の三十度地格の急斜面を十四、五間ほどスタスタと登って行った。そうして斜坑が少しばかり右に曲線を描いて真西に向っているところで来てチョット腰を伸ばしかけた。
 ……その時であった。
 福太郎はツイ鼻の先の漆(うるし)のような空間に、真紅の火花がタラタラと流れるのを見た。それを見た一瞬間に福太郎は、
「彼岸の中日になると、真赤な夕日が斜坑の真正面に沈むぞい。南無南無南無……」
 と言って聞かせた老坑夫の顔を思い出したように思ったが、まもなく轟然たる大音響が前後左右に起こって、息苦しい土煙に全身を包まれたように思うと、そのまま気が遠くなった。
 ……何もかもわからなくなってしまった。

(中)


「福太郎が命拾いをしたちゅうケ」
「小頭どんがエライことでしたなあ」
 挨拶をしながら、表口から入ってくる者……。
「どうしてマア助かんなさったとかいな」
「土金神(どこんじん)さんのお助けじゃろうかなあ」
 と見舞いを言う男や女の群れで、二室(ふたま)しかない福太郎の納屋が一パイになってしまった。
 そのまん中に頭を白い布片(きれ)で巻いた、浴衣一貫の福太郎がボンヤリと坐っていたが、スッカリ気抜けしたような恰好で、何を尋ねられても返事ができないままヒョコヒョコと頭を下げているばかりであった。
 福太郎は実際のところ自分がどうして死に損なったのかわからなかった、頭の頂上(てっぺん)にチクチク痛んでいる小さな打ち破(わ)り疵がいつどこで、どうしてできたのかイクラ考えても思い出しえないのであった。
 集って来た連中の話によると、福太郎は千五百尺の斜坑を一直線に逆行して来た四台の炭車(トロッコ)が折り重なって脱線をした上から、巨大な硬炭(ボタ)が落ちかかって作ったわずかな隙間に挟み込まれたもので、顔中を血だらけにして両眼をカッと見開いたままで硬炭(ボタ)の平面の下に坐っていたそうである。しかもそれが丁度六時の交代前の出来事だったので、山中を震撼(ゆるが)す大音響を聞くと同時に三十間ばかり離れた人道のほうから入坑(はい)りかけていた二番目の坑夫たちがスワ大変とばかり何十人となく駆けつけて来た。それに後から寄り集まった大勢の野次馬が加わって、油売り半分の面白半分と言った調子で、ワイワイ騒ぎ立てたので狭い坑道の中が芋を洗うようにごった返したが、その中に浮き上がった炭車の車輪の下から思いがえけない安全燈の光といっしょに古靴を穿(は)いた福太郎の片足が発見されたのでイヨイヨ大騒ぎになったものだと言う。それからヤット駆けつけた仕様夫の源次が先心配していた連中もその声を聞いてホーッと安心の溜息をしたのであったが、その中の二、三人が早くもゲラゲラ笑いだしながら、
「どこじゃろかい。お前の家じゃないか」
 と言って聞かせたけれども福太郎はまだ腑に落ちないらしく、そう言う朋連中の顔をマジリマジリと見まわしていた。そのうちに付き添っていたお作が濡れ手拭で、汗と、血と、泥と、吹っかけられた水に汚れた顔を拭いてやりながら、メソメソと嬉し泣きをしはじめたが、それでも福太郎はまだキョトンとした瞳をランプの光に据えていたので、背後(うしろ)のほうにいただれかが腹を抱えて笑い出しながら、
「まあだ解からんけえ。おいアノヨの吉公。チョットここい来て呼んでやらんけえ。汝(われ)が家だぞオオオ………イヨオオオイ……イイ……というふうにナ……」 と、吉三郎の声色を使ったので、皆は閧(どつ)と吹き出してしまった。しかしそれでも福太郎はまだ腑に落ちないような顔で口真似をするかのように、
「……アノヨ……アノヨ……」
 と呟いたので皆は死ぬほど笑い転げさせられたと言う。
 一方に炭坑の事務所から駆けつけた人事係長や人事係、棹取(さおとり)、または坑内の現場係なぞという連中がホンノひととおり立会って現場を調査したのであったが、その報告によると福太郎は帰りを急いだものらしく、迂回した人道を行かずに禁を犯して斜坑のほうへ足を入れた。しかも六時の交代前の十台の炭車がまだ斜坑を上り切って終(しま)わないうちに跡を追うようにして着炭場(斜坑口)から徒歩で上りはじめたものであったが、折悪くその第七番目の鰐口(わにぐち)に刺さっていた鉄棒(ピン)がドウした途端(はずみ)か六番目の炭車の連結機(ケッチン)の環から外れたので、四台の炭車が繋がりあったまま逆行して来て、ちょうど、福太郎が足を踏み掛けていた曲線(カーブ)のところで折り重なって脱線転覆したもので、さもなければ福太郎は側圧で狭くなった坑道の中でメチャメチャに粉砕されていたはずであったと言う。
 しかし元来坑道に敷いてある炭車の軌条は非常に粗末な凸凹した物なので、連結機(ワッチン)の鉄棒(ピン)が折れたり外れたり、または索条(ワイヤロープ)が結目(トツタリ)の付根から断(き)れたりすることは、あまり珍しくないのであった。ことに最近斜坑の入口で二人の坑夫が遭難した後で、危険を恐れて炭車に乗ることを厳禁されていたので、その炭車にだれか乗っていて福太郎が上がってくるのを見かけて故意にケッチンのピンを抜いたろう……なぞということはだれ一人想像しえる者がなかった。またカンジンの御本尊の福太郎も激しい打撃を受けた後のこととて、その炭車にだれか乗っていたか……なぞという事はキレイに忘れてしまっていたばかりでなく、自分が何のために、どうして斜坑を歩いていたかすら判然(はっきり)と思い出せなくなっていたので、ヤット気が落ち着いて皆の話が耳に止まるようになると、一も二もなく皆の言うとおりの事実を信じて、驚いて、呆れて、茫然となっているばかりであった。
 そんな状態であったから結局、出来事の原因は解からないずくめになってしまって、福太郎の遭難も自業自得と言ったようなことで、万事が平々凡々に解決してしまった。その後で他所から帰ってきた炭坑医も、福太郎の疵があんまり軽いので笑い笑い帰って行ったくらいの事だったので、集まっていた連中もスッカリ軽い気持ちになって、ただ無闇と福太郎の運のいいのに驚くばかりであった。そうしたあげくの果ては、 「お前があんまり可愛がりすぎるけんで、福太郎がどんが帰りを急ぐとぞい」 とお作が皆から冷やかされることになったが、さすがに海千山千のお作もこの時ばかりは受太刀どころか、返事もできないまま真赤になって裏口から逃げ出して行ったくらいであった。
 しかしお作はそれでもよほど嬉しかったらしい。その足で飯場から酒を二升ばかり掲げて来てとりあえず冷やのまま茶碗を添えて皆の前に出した。するとそれにつれて済まないと言うので手に手に五合なり一升なりを掲げて来る者がでてくる。自宅(うち)の惣菜や乾物の残りを持ち込んで七輪をおこす女連もいるわけで、なにやかや片づいた十一時過ぎになると、福太郎の狭い納屋は時ならぬ酒宴の場面に変っていった。
「小頭どん一つお祝いに……」
「オイ。福ちゃん、あやかるで」
「生命のほうとじゃが、ま一つのほうもなあ。アハハハ……」
 と言ったように賑やかな挨拶がみるみる室の中を明るくした。それにつれて後から後から福太郎に盃を持って来る者が多かったが、その中でも最前からなにくれとなく世話を焼いていたサキヤマの源次が、特別に執拗(しつこ)く、盃を差しつけたので、元来がイケナイ性質(たち)の福太郎は逃げるのに困ってしまった。
「おらあ酒は飲みきらん飲みきらん」
 の一点張りで押し除(の)けても、
「今日ばっかりは別ですばい」
 と源次が妙に改まってナカンカ後へ退きそうにない。そこへお作が横合いから割り込んで、
「福さんはなあ。親譲りの癖でなあ。どうぞ源次さん悪う思わんでなあ」
 とさんざんにあやまったのでヤット源次だけは盃を引いたが、他の者はその源次への面当て何ぞのように無理矢理にお作を押し除けてしまった。
「いかんいかん。源公が承知しても俺が承知せん。酒を飲んで気の違う人間は福太郎ばっかりじゃなかろう。親代わりの俺がついとるけに心配すんな」
 とか何とか喚めき立てながら口を割るようにして日陽(ひなた)くさいなおし酒を含ませたので、福太郎はみるみる顔が破裂しそうなるくらい真赤になってしまった。平生(ふだん)から無口なのがイヨイヨ意気地がなくなって、盃を逃げ逃げ後退(あとずさ)りをして行くうちに、部屋の隅の押入れの半分開いた襖の前に横倒しになって、涙ぐんだ眼をマジリマジリと開いたり閉じたりしながら、手を合わせて盃を拝むようになった。
 すると集った連中は、これで御本尊が酔い倒れたものと思って満足したらしい。盃を押しつけたり、お酌をさせられたりしていたが、そのうちにいつの間にかお作自身が酔っ払ってしまったらしい。白い脂切った腕を肩までまくり上げると、黄色い声で相手構わず愛嬌を振り撒(ま)きはじめた。
「サア持って来なさい。茶碗でも丼でも何でもよか」
「アハハハ。お作どんが景気づいたぞい」
「今啼(な)いた鴉がモウ笑ろうた。ハハハハ」
「ええこの口腐れ。一杯差しなさらんか」
「ようし。そんならこのコップで行こうで」
「まア……イヤラッサナア…冷たい盃や受けんチュウタラ」
「ヨウヨウ。久しぶりのお作どんじゃい。若い亭主持ってもなかなか衰弱(めげ)んなあ」
「メゲるものかえ。五人や十人……若かりゃ若いほどよか」
「アハハハ。なんち言うて赤いゆもじはだれがためかい」
「知りまっせん。おおかた伜と娘のためだっしょ」
「ウワア。こらあたまらん。福太郎はどこさ行ったかい」
「押入れの前で死んだごとなって寝とる」
「アハハハ。なるほど、死んどるしんどる。ウデ蛸のごとなって死んどる。酒で死ぬやつあ鰌(どじょう)ばっかりションガイナと来た」
「トロッコの下で死ぬよりよかろ」
「お作どんの下ならなおよかろ」
「ワハハハハ」
「おい。みんな手を借せ手を借せ。はやせはやせ」
 と言ううちに皆はコップを抱えたお作の周囲(まわり)をドヤドヤと取り巻いた。そうしてかつて、ウドン屋でお作を囃(はや)した時のとおりに、手拍子を拍(う)って納屋節を唄い出した。
  白い湯もじを島田に結わせエ
  赤いゆもじを買わせたやつはア
  どこのドンジョの何奴(どんぞ)かア
  ドンヤツドンヤツどんやつかア
  ウワア−−アアア−−
「ようし……」
 とお作は唄が終る終らぬかにコップの冷酒をグイと飲み干して立ち上がった。
「そんげに妾(あたし)は冷やかしなさるなら、妾もイッチョ若うなりまっしょ」
 と言ううちにそこに落ちていただれかの手拭を拾って姉さん冠(かぶ)りにした。それから手早く前褄を取って問題の赤ゆもじを高々とマクリ出したので、皆いっせいに鯨波(ときのこえ)を上げて喝采した。
「……道行き道行き……」
 叫んだ者が二、三人あったが、その連中を睨みまわしながらお作は白い腕を伸ばしてランプの芯を煤の出るほど大きくした。
「源次さん。仕繰りの源次さん……アラ……源次さんはどこへ行きなさったとかいな」
 その声が終るか終らないかにモウ一度、割れんばかりの喝采が納屋を揺るがしたが、今度はたちまち打ち切ったようにピッタリと静まり返った。
「イヤラッサなあ。タッタ今そこい御座ったとじゃが。小便に行かしゃったとじゃろうか」
 と呟きながらお作はチョイト表のほうの暗がりを振り返った。すると皆も釣り込まれたようにお作といっしょの方角を見たが、外のほうには源次らしい咳払いすら聞こえなかった。
 仕繰夫の源次はそうした皆の視線と反対の方向に小さくなって隠れていたのであった。室の奥野押入れの前に立てた新聞貼りの枕屏風の陰にコッソリと跼(かが)まり込みながら、眼の前で苦しそうに肩で呼吸している福太郎の顔を一心に凝視していた。ツイ今先刻(さっき)まで真赤になっていたその顔が、洋燈の片明りの中で次第次第に青ざめて、眼を見開いた死人のように気味悪い、物凄い表情に変っていくのを、驚き怪しみなが見とれているのであった。
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入力  ルリヲ
校正  nani
公開サイト 書籍デジタル化委員会
http://www.wao.or.jp/naniuji/
1999/12/07/掲載途中
NO.024
底本 『夢野久作全集2』1986/三一書房
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(註)
コード外の文字は[ ]で示し、別字またはカナで表記。
ウムラウト、アクサンなどは省略。