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女体素描
竹久夢二 


   ある画家の手記より

     ☆

 苦しい時にも嬉しい時にも人はその恋の経験を他人に話す事を好むものだが、決して経験をそのまゝには話さないものだ、ずつとあつさりか、ずつと誇張してか――

     ☆

 今一歩といふところで拒まれたと、彼は私に語つたが私の見るところでは、彼の最初の第一歩に於いて既に拒まれてゐたのだ。

     ☆

 母親は、自分が曾て娘であつたことを思ひ出して娘を理解することが出来るが、父親は、自分は曾て青年であつたことを、決して思ひ出すまいとする。だから娘の恋人にとつて、母親は味方であるが父親は屡々敵である。

     ☆

 父親にとつて、娘は可憐な動物(ペツト)だ。それは娘が女性だから。
 父親にとつて、娘は時に憎らしい人間に見える。それは娘が女性だから。

     ☆

 少しも反対しない娘に警戒せよ。わけても親は――

     ☆

 彼女の肉体を最初に所有する男性だと信ずることは、もはや迷信に過ぎない。
 彼女の最後の恋人になることが、男を生かす一つの途だ。

     ☆

 女の貞操をうたがふ時、男は、「まさか」といふ気安めで、不快から眼をそらさうとする。女は泣きながら「何もなかつた」ことを男に信じさせやうとする、男はさう信じやうとする。

     ☆

 実際に為した事実よりも、虚構して屡々話したことの方が、自分にも聞く人にも、ほんとうらしく思へることがある。

     ☆

 ある女の言葉――
 ほんたうのことを白状さへすれば、そんな罪でも許してやるとおっしゃるの? お可哀さうに、あなたはその一言で、もう私の愛情をつなぐことは出来ませんよ、何故つて仰言(おっしゃ)い。そんな事を私に白状出来ますかよ。でもお望みなら母親に叱られた小娘のやうに涙を流してその「外にはもうありません」ごめんなさいつて言つても好いわ。でもそれぢやあたしの気がすまないわ。あなただつてまた思ひ出して、何もかもつとあつたらうと疑ひに疑ひをかさねて不安の消える時はないでせうよ。だから、たつて言へと仰言るなら、あなたを怒らせないやうに上手にうそを言ひませう。ちつとも何もなかつたやうに――、さうするとあなたは、少しでも静かにするためにそれを信じて私を許してくれるでせう。
 さうするとあなたは何も知らないことになるんです。何も知らないあなたに、正直なキスをおかへし出来ると思つて?
 あなたはまあ取返しのつかないことを仰言つたわね。もう何も聞かないで、何も言はせないできれいに別れて下さいね。あなたのために、私のためにさようなら。


   女性崇拝

     ☆

 恋愛は女性崇拝にはじまり、女性崇拝に終る。

     ☆

 私の不幸は、私の夢が日毎に壊されることではない。夢がだんだん失はれてゆくことだ。私の不幸は、女が私を欺いて私を捨てたことではない。女の不信が、私の憧憬を打砕いたことだ。

     ☆

 人は自分の経験を語りたがるものだが、決して体験そのままには話さない。ずつとあつさりか、ずつと誇張してか――

     ☆

 人身売買が女に限られてゐると考へるのは偏見だ。

     ☆

 男は買はれ、女は売られる。買はれた男が売られた女を買ひにゆくのを、誰か涙なくして笑ふものぞ。

     ☆

 妬むことでもなかつたら、どんなに恋人は怠屈だらう。

     ☆

 すべての女がもつと美しかつたら、世界の工場と商店の半は閉鎖するだらう。

     ☆

 すこしも反対しない娘を、わけても親は警戒せよ。

     ☆

 妻に泣かれた夫は、すぐ負ける。

     ☆

 彼女は信じさせようとする。彼は信じようとする。それで家内に波風が立たずに済む。

     ☆

「悲しい恋語り」をすることは出来る。それが過ぎ去りさへすれば。

     ☆

 恋人は逢へば嘘言(うそ)ばかり言合ふ。別れて来れば真実(ほんたう)のことを考える。

     ☆

 恋人同志は、愛情も感覚もすつかり浪費してしまつてから、あわてて結婚する。

     ☆

 何一つ拒まぬ女は、何一つ持つてゐない。

     ☆

「月が綺麗ね」
 と彼女が言つた時、仰いで月を見る男は馬鹿だ。

     ☆

 女は入口で鏡を見る。しかし出口では忘れてゐる。

     ☆

 昔の女は忍んで来た。
 今の女は歩いてくる。

     ☆

 昔の男は欺されようとした。
 今の男は欺されまいとする。

     ☆

「あたしいくつに見えること?」彼女が訊ねたら、十七八といつでも答へるに越したことはない。よし彼女が五十八であつても。

     ☆

 女がもはや、モルフエでもペツトでもないことだけは解つた。

     ☆

 昔、失恋した女がゆく所が二つあつた。一つは尼寺。一つはラテン区。

     ☆

 昔は、見そめる、思ひそめる、思ひなやむ、こがれる、まよふ、おもひ死ぬ、等々といふ言葉があつた。が、今は一つしかない。「われなんぢを愛す。」

     ☆

 もしも金歯を入れてゐなかったら彼女は笑はないであらう。

     ☆

 女は、恋愛について笑ふ。猿のやうに笑ふ。

     ☆

 路で転んだ子供は、どこを石で打つたのか自分にも分からずに泣くものだ。女もそんな風に泣く。

     ☆

「これはあなただけよ」と言って彼女は話す。また他の人にも。

     ☆

 ある売られた娘がいふには――
 金のためにあたしたちが身売りをするのだとお考へになるのは、いかにも年とつたお嬢さんや、中産階級の奥さまの、お考へになりさうなことですはね。お生憎さま、うちわつて言へば、あたしたち貧しい娘だつて、美しい着物くらゐ着て、たまには面白い芝居でも見たいわ。おいしいものだつて食べたいわ。だけど、お金持ちになりたいなんて、一度だつて思つたことはないわ。


   恋愛秘語

     ☆

 何はさておき彼女を喜ばすものは何であるかをまづ考へしめよ。

     ☆

 普通名詞で彼女に呼びかけるのは得策ではない。必ず固有名詞で呼びかけるに限る。

     ☆

 彼女の美しきことを、ただ口で言ひさへすれば好い。

     ☆

 彼の顔がだん/\せむしの父親に肖(に)てくる、彼女がだん/\ロイマチスの母親に肖てくるのは是非もない。
     ☆

 「清いものほどよく汚れる。」
 清いものも女で、すぐ汚れるものもまた女だ。

     ☆

 人間以上に美しい美人画をかく閨秀画家が、人間以下に醜い女だつたのは面白い。

     ☆

 世界の女がみんなもつと美しかつたら、男はもつと武装しなくなるだらう。

     ☆

 「あなたの眼は美しい。まるで馬のやうだ」
とほめたら、その女は怒りだした。一体馬の眼はそんなに美しくないだらうか。

     ☆

 彼女は、隣の子供におばさんと呼ばれていやな顔をするほど若くはないのだが。

     ☆

 妻を耳から撰ぶ時代は過ぎた。ぼくのこの眼で女を見せてくれ、とある若者は、その仲人に言つた。

     ☆

 妻は手で撰ぶものだ。伯楽(ばくらう)が馬を買ふ時のやうに。

     ☆

 印度の「「愛の経典」のことば
――女の尻を打て。

     ☆

 イエスともノンとも言はぬ娘に注意せよ。

     ☆

 口にはノンと言つてゐても、彼女の身体がイエスのSの字になつてゐるのを見逃してはならぬ。

     ☆

 女は卓上の手を引込める。しかしながら卓の下では、時に足をすりよせる。

     ☆

 女生徒が男の先生におくる手紙――
 御返事は女名前で下さいね、と。彼女の桃色の封筒はカムフラアジだ。

     ☆

 よく熟れた木の実は、揺ぶれば落ちる。よく枯れた木の葉は、揺ぶらないでも落ちる。(ロシアの諺)

     ☆

 彼女の肉体の最初になることは、不幸な迷信である。
 彼女の最後の恋人になることだけが、男を幸福にするかも知れない。

     ☆

 女の貞操をうたがふ時、男はまさかというふ気やすめで、絶望から眼をそらさうとする。それを心得た女は、涙をながして何もなかつたことを男に信じさせようとする。

     ☆

 実際になした事実よりも、虚構して延々他人に話したことの方が、自分にも聞き手にも、真実らしく思へることがる。

     ☆

 「した」とも「しなかつた」とも女が白状しなかつたら骨の折れるほど撲るに限る。さうすると、きつと「しなかつた」と答へる。そこで男は助かる。

     ☆

 ともかく彼は彼女に充分まゐつてゐるのだから、彼女に勝つたと思はれても仕方がない。

     ☆

 嫉妬のために彼は彼女に空弾のピストルを放つた。女は倒れた。男は驚いて自分で医者を呼びにいつた。

     ☆

 彼女が何もしないに越したことはないが、ある男を私かに思ふ位はまだ我慢出来る。つい恋に落ちたとしても仕方がない。唇を与へただけなら、死んだつもりになればまだ許せる。だが、キス以上のものまで与へたとなつたら、とても我慢はならぬ。と彼は自分の女について言ふ。
 彼が金で買へる女を買ふのはあきらめてゐる。外の女に思をよせる位はまだ好い。だが、ある女と恋をするのをだまつて見てゐることは出来ない。と女は自分の男について考へる。

     ☆

「子供が可愛さうですから。」
 家出した女が帰つてきてから他人に言ふ。
「良人が不品行ですから。」
 家出した女が他人に言ひわけする。

     ☆

 ある男が悲憤のあまりその恋人をピストルで打殺した。彼女の頭をわつて見たらラブレターが一杯つまつていた。

     ☆

 ある彼女は「兄さんになつて下さいね」とはなか/\言はない。 ある彼女は「あたしの弟になつて頂戴ね」とすぐにいふ。

     ☆

「ねぇおくさん、あなたが今迄に誰にもしなかつた方法で、ぼくを愛して下さい。」
 弟になつたある若者がその恋人に言つた。
「あたしまだ人を殺した事がないのよ。」

     ☆
 彼女は、 経験によつて男がさうすれば喜ぶというふことを知つたに違ひない。そうすることは多くの男を喜ばせたに違ひない。

     ☆

「まああの人もそりあトマトが好きだつたのよ。」
 新婚旅行の朝あるホテルの食卓で、再婚した女が第二の男にさう言つた。

     ☆

 洗ひざらい言つてしまつたところが、翌晩はまた新しい疑をもつものだ。いつそなんにも言ひ出さないに越したことはない。愛すれば愛するほど。

     ☆

 何だつて愛するものを憎まねばならないのだらう。何だつて憎んでゐるものを愛さねばならないのだらう。
 夫婦だからだ。

     ☆

 支那の皇帝は、三千の後宮を持つた。しかし一人の女をも持たなかつた。

     ☆

「あたしあなたの御兄弟のことがそりや知りたいのよ」と彼女が言つたら、次の土曜日に結婚を申込んでも好い。

     ☆

 彼女のためなら、山も畑もいらないと思ふ時が、人生の一番幸福な時だと、彼が知つてさへゐたなら。
 領地を失つた王者がさう考へる。

     ☆

「花ちゃん遊ばないか。」
 垣根の外から男の子が叫ぶ。
「花ちゃんはゐませんよ。」
 花ちゃんのお母さんが内から言ふ。
「嘘だよ。花ちゃん遊ばないか。」

     ☆

 嬰児はまづ乳房に吸ひつく。それからはじめて母親の顔を見る。

     ☆

 それがもし彼女を喜ばすならば、彼女の年をきいても失礼ではない。

     ☆

 自分がいかにエライかを見せるよりも、いかに自分も彼女の如く馬鹿だかを示す方が早道だ。

     ☆

 なんしろ散歩には、女を携えるより、ステツキの方が軽便だ。


   訓蒙秘語抄

     ☆


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入力  kei
校正  nani
公開サイト 書籍デジタル化委員会
http://www.wao.or.jp/naniuji/
1999/12/05/掲載途中
NO.023
底本 『女体素描』1986/筑摩書房
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(註)
コード外の文字は[ ]で示し、別字またはカナで表記。
ウムラウト、アクサンなどは省略。