Library
それから
夏目漱石 


 誰か慌ただしく門前を馳(か)けて行く足音がした時、代助の頭の中には、大きな俎下駄(まないたげた)が空から、ぶら下っていた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退(とおの)くに従って、すうと頭から抜け出して消えてしまった。そうして眼が覚めた。
 枕元を見ると、八重の椿が一輪畳の上に落ちている。代助は昨夕(ゆうべ)床の中で慥(たし)かにこの花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬(ゴムまり)を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更けて、四隣(あたり)が静かな所為(せい)かとも思ったが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋(あばら)のはずれに正しく中(あた)る血の音を確かめながら眠(ねむり)に就いた。
 ぼんやりして、少時(しばらく)、赤ん坊の頭程もある大きな花の色を見詰めていた彼は、急に思い出した様に、寐ながら胸の上に手を当てて、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の脈を聴いてみるのは彼の近来の癖になっている。動悸(どうき)は相変らず落ち付いて確に打っていた。彼は胸に手を当てたまま、この鼓動の下(もと)に、温かい紅(くれない)の血潮の緩く流れる様を想像してみた。これが命であると考えた。自分は今流れる命を掌(てのひら)で抑えているんだと考えた。それから、この掌に応える、時計の針に似た響は、自分を死に誘(いざな)う警鐘の様なものであると考えた。この警鐘を聞くことなしに生きていられたなら、――血を盛る袋が、時を盛る袋の用を兼ねなかったなら、如何(いか)に自分は気楽だろう。如何に自分は絶対に生を味わい得るだろう。けれども――代助は覚えずぞっとした。彼は血潮によって打たるる掛念(けねん)のない、静かな心臓を想像するに堪えぬ程に、生きたがる男である。彼は時々寐ながら、左の乳の下に手を置いて、もし、此所(ここ)を鉄槌(かなづち)で一つ撲(どや)されたならと思う事がある。彼は健全に生きていながら、この生きているという大丈夫な事実を、殆んど奇蹟(きせき)の如き僥倖(ぎょうこう)とのみ自覚し出す事さえある。
 彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の中から両手を出して、大きく左右に開くと、左側に男が女を斬っている絵があった。彼はすぐ外の頁へ眼を移した。其所(そこ)には学校騒動が大きな活字で出ている。代助は、しばらく、それを読んでいたが、やがて、惓怠(だる)そうな手から、はたりと新聞を夜具の上に落した。それから烟草(たばこ)を一本吹かしながら、五寸ばかり布団を摺(ず)り出して、畳の上の椿を取って、引っ繰り返して、鼻の先へ持って来た。口と口髭(くちひげ)と鼻の大部分が全く隠れた。烟(けむ)りは椿の弁(はなびら)と蕊(ずい)に絡まって漂う程濃く出た。それを白い敷布の上に置くと、立ち上がって風呂場へ行った。
 其所で叮寧(ていねい)に歯を磨いた。彼は歯並の好いのを常に嬉しく思っている。肌を脱いで綺麗に胸と脊を摩擦した。彼の皮膚には濃(こまや)かな一種の光沢(つや)がある。香油を塗り込んだあとを、よく拭き取った様に、肩を揺(うご)かしたり、腕を上げたりする度に、局所の脂肪が薄く漲(みなぎ)って見える。かれはそれにも満足である。次に黒い髪を分けた。油を塗(つ)けないでも面白い程自由になる。髭も髪同様に細くかつ初々(ういうい)しく、口の上を品よく蔽(おお)うている。代助はそのふっくらした頬を、両手で両三度撫(な)でながら、鏡の前にわが顔を映していた。まるで女が御白粉(おしろい)を付ける時の手付と一般であった。実際彼は必要があれば、御白粉さえ付けかねぬ程に、肉体に誇を置く人である。彼の尤(もっと)も嫌うのは羅漢(らかん)の様な骨骼(こっかく)と相好(そうごう)で、鏡に向うたんびに、あんな顔に生れなくって、まあ可(よ)かったと思う位である。その代り人から御洒落(おしゃれ)と云われても、何の苦痛も感じ得ない。それ程彼は旧時代の日本を乗り超えている。
 約三十分の後彼は食卓に就いた。熱い紅茶を啜(すす)りながら焼麺麭(パン)に牛酪(バタ)を付けていると、門野(かどの)と云う書生が座敷から新聞を畳んで持って来た。四つ折りにしたのを座布団の傍(わき)へ置きながら、
「先生、大変な事が始まりましたな」と仰山な声で話しかけた。この書生は代助を捕(つら)まえては、先生々々と敬語を使う。代助も、はじめ一二度は苦笑して抗議を申し込んだが、えへへへ、だって先生と、すぐ先生にしてしまうので、已(やむ)を得ずそのままにして置いたのが、いつか習慣になって、今では、この男に限って、平気に先生として通している。実際書生が代助の様な主人を呼ぶには、先生以外に別段適当な名称がないと云うことを、書生を置いてみて、代助も始めて悟ったのである。
「学校騒動の事じゃないか」と代助は落付いた顔をして麺麭を食っていた。
「だって痛快じゃありませんか」
「校長排斥がですか」
「ええ、到底辞職もんでしょう」と嬉しがっている。
「校長が辞職でもすれば、君は何か儲かる事でもあるんですか」
「冗談云っちゃ不可(いけ)ません。そう損得ずくで、痛快がられやしません」
 代助はやっぱり麺麭を食っていた。
「君、あれは本当に校長が悪(にく)らしくって排斥するのか、他(ほか)に損得問題があって排斥するのか知ってますか」と云いながら鉄瓶の湯を紅茶茶碗の中へ注(さ)した。
「知りませんな。何ですか、先生は御存じなんですか」
「僕も知らないさ。知らないけれども、今の人間が、得にならないと思って、あんな騒動をやるもんかね。ありゃ方便だよ、君」
「へえ、そんなもんですかな」と門野は稍(やや)真面目な顔をした。代助はそれぎり黙ってしまった。門野はこれより以上通じない男である。これより以上は、いくら行っても、へえそんなもんですかなで押し通して澄ましている。此方(こちら)の云うことが応えるのだか、応えないのだかまるで要領を得ない。代助は、其所が漠然として、刺激が要らなくって好いと思って書生に使っているのである。その代り、学校へも行かず、勉強もせず、一日ごろごろしている。君、ちっと、外国語でも研究しちゃどうだなどと云う事がある。すると門野は何時(いつ)でも、そうでしょうか、とか、そんなもんでしょうか、とか答えるだけである。決して為(し)ましょうという事は口にしない。又こう、怠惰(なまけ)ものでは、そう判然(はっきり)した答が出来ないのである。代助の方でも、門野を教育しに生れて来た訳でもないから、好加減(いいかげん)にして放って置く。幸い頭と違って、身体の方は善く動くので、代助はそこを大いに重宝がっている。代助ばかりではない、従来からいる婆さんも門野の御蔭(おかげ)でこの頃は大変助かる様になった。その原因で婆さんと門野とは頗(すこぶ)る仲が好い。主人の留守などには、よく二人で話をする。
「先生は一体何を為る気なんだろうね。小母さん」
「あの位になっていらっしゃれば、何でも出来ますよ。心配するがものはない」
「心配はせんがね。何か為たら好さそうなもんだと思うんだが」
「まあ奥様でも御貰いになってから、緩(ゆ)っくり、御役でも御探しなさる御積りなんでしょうよ」
「いい積りだなあ。僕も、あんな風に一日本を読んだり、音楽を聞きに行ったりして暮していたいな」
「御前さんが?」
「本は読まんでも好いがね。ああ云う具合に遊んでいたいね」
「それはみんな、前世からの約束だから仕方がない」
「そんなものかな」
 まずこう云う調子である。門野が代助の所へ引き移る二週間前には、この若い独身の主人と、この食客(いそうろう)との間に下(しも)の様な会話があった。
「君は何方(どっち)の学校へ行ってるんですか」
「もとは行きましたがな。今は廃(や)めちまいました」
「もと、何処(どこ)へ行ったんです」
「何処って方々行きました。然しどうも厭(あ)きっぽいもんだから」
「じき厭(いや)になるんですか」
「まあ、そうですな」
「で、大して勉強する考えもないんですか」
「ええ、一寸(ちょっと)有りませんな。それに近頃家(うち)の都合が、あんまり好くないもんですから」
「家(うち)の婆さんは、あなたの御母(おっか)さんを知ってるんだってね」
「ええ、もと、直(じき)近所に居たもんですから」
「御母さんはやっぱり……」
「やっぱりつまらない内職をしているんですが、どうも近頃は不景気で、余(あん)まり好くない様です」
「好くない様ですって、君、一所に居るんじゃないですか」
「一所に居ることは居ますが、つい面倒だから聞いた事もありません。何でも能(よ)くこぼしてる様です」
「兄さんは」
「兄は郵便局の方へ出ています」
「家(うち)はそれだけですか」
「まだ弟がいます。これは銀行の――まあ小使に少し毛の生えた位な所なんでしょう」
「すると遊(あす)んでるのは、君ばかりじゃないか」
「まあ、そんなもんですな」
「それで、家にいるときは、何をしているんです」
「まあ、大抵寐ていますな。でなければ散歩でも為ますかな」
「外のものが、みんな稼いでるのに、君ばかり寐ているのは苦痛じゃないですか」
「いえ、そうでもありませんな」
「家庭が余っ程円満なんですか」
「別段喧嘩(けんか)もしませんがな。妙なもんで」
「だって、御母さんや兄さんから云ったら、一日も早く君に独立して貰いたいでしょうがね」
「そうかも知れませんな」
「君は余っ程気楽な性分と見える。それが本当の所なんですか」
「ええ、別に嘘を吐(つ)く料簡(りょうけん)もありませんな」
「じゃ全くの呑気屋(のんきや)なんだね」
「ええ、まあ呑気屋って云うもんでしょうか」
「兄さんは何歳(いくつ)になるんです」
「こうつと、取って六になりますか」
「すると、もう細君でも貰わなくちゃならないでしょう。兄さんの細君が出来ても、やっぱり今の様にしている積りですか」
「その時に為(な)ってみなくっちゃ、自分でも見当が付きませんが、何しろ、どうか為るだろうと思ってます」
「その外に親類はないんですか」
「叔母が一人ありますがな。こいつは今、浜で運漕(うんそう)業をやってます」
「叔母さんが?」
「叔母が遣ってる訳でもないんでしょうが、まあ叔父ですな」
「其所へでも頼んで使って貰っちゃ、どうです。運漕業なら大分人が要るでしょう」
「根が怠惰(なまけ)もんですからな。大方断わるだろうと思ってるんです」
「そう自任していちゃ困る。実は君の御母さんが、家の婆さんに頼んで、君を僕の宅(うち)へ置いてくれまいかという相談があるんですよ」
「ええ、何だかそんな事を云ってました」
「君自身は、一体どう云う気なんです」
「ええ、なるべく怠けない様にして……」
「家へ来る方が好いんですか」
「まあ、そうですな」
「然し寐て散歩するだけじゃ困る」
「そりゃ大丈夫です。身体の方は達者ですから。風呂でも何でも汲(く)みます」
「風呂は水道があるから汲まないでも可(い)い」
「じゃ、掃除でもしましょう」
 門野はこう云う条件で代助の書生になったのである。
 代助はやがて食事を済まして、烟草を吹かし出した。今まで茶箪笥(ちゃだんす)の陰に、ぽつねんと膝を抱えて柱に倚(よ)り懸っていた門野は、もう好い時分だと思って、又主人に質問を掛けた。
「先生、今朝は心臓の具合はどうですか」
 この間から代助の癖を知っているので、幾分か茶化した調子である。
「今日はまだ大丈夫だ」
「何だか明日にも危(あや)しくなりそうですな。どうも先生みた様に身体を気にしちゃ、――仕舞には本当の病気に取っ付かれるかも知れませんよ」
「もう病気ですよ」
 門野は只へええと云ったぎり、代助の光沢の好い顔色や肉の豊かな肩のあたりを羽織の上から眺めている。代助はこんな場合になると何時でもこの青年を気の毒に思う。代助から見ると、この青年の頭は、牛の脳味噌で一杯詰っているとしか考えられないのである。話をすると、平民の通る大通りを半町位しか付いて来ない。たまに横町へでも曲ると、すぐ迷児(まいご)になってしまう。論理の地盤を竪(たて)に切り下げた坑道などへは、てんから足も踏み込めない。彼の神経系に至っては猶更(なおさら)粗末である。あたかも荒縄で組み立てられたるかの感が起る。代助はこの青年の生活状態を観察して、彼は必竟(ひっきょう)何の為に呼吸を敢てして存在するかを怪しむ事さえある。それでいて彼は平気にのらくらしている。しかもこののらくらを以(もっ)て、暗に自分の態度と同一型に属するものと心得て、中々得意に振舞たがる。その上頑強一点張りの肉体を笠に着て、却(かえ)って主人の神経的な局所へ肉薄して来る。自分の神経は、自分に特有なる細緻(さいち)な思索力と、鋭敏な感応性に対して払う租税である。高尚な教育の彼岸に起る反響の苦痛である。天爵(てんしゃく)的に貴族となった報(むくい)に受ける不文の刑罰である。これ等の犠牲に甘んずればこそ、自分は今の自分に為れた。否、ある時はこれ等の犠牲そのものに、人生の意義をまともに認める場合さえある。門野にはそんな事はまるで分らない。
「門野さん、郵便は来ていなかったかね」
「郵便ですか。こうつと。来ていました。端書と封書が。机の上に置きました。持って来ますか」
「いや、僕が彼方(あっち)へ行っても可(い)い」
 歯切れのわるい返事なので、門野はもう立ってしまった。そうして端書と郵便を持って来た。端書は、今日二時東京着、ただちに表面へ投宿、取敢えず御報、明日午前会いたし、と薄墨の走り書の簡単極るもので、表に裏神保町(じんぼうちょう)の宿屋の名と平岡常次郎という差出人の姓名が、表と同じ乱暴さ加減で書いてある。
「もう来たのか。昨日着いたんだな」と独り言の様に云いながら、封書の方を取り上げると、これは親爺の手蹟(て)である。二三日前帰って来た。急ぐ用事でもないが、色々話しがあるから、この手紙が着いたら来てくれろと書いて、あとには京都の花がまだ早かったの、急行列車が一杯で窮屈だったなどという閑文字(かんもじ)が数行列(つら)ねてある。代助は封書を巻きながら、妙な顔をして、両方見較べていた。
「君、電話を掛けてくれませんか。家(うち)へ」
「はあ、御宅へ。何て掛けます」
「今日は約束があって、待ち合せる人があるから上がれないって。明日(あした)か明後日(あさって)きっと伺いますからって」
「はあ。何方(どなた)に」
「親爺が旅行から帰って来て、話があるから一寸来いって云うんだが、――何親爺を呼び出さないでも可いから、誰にでもそう云ってくれ給え」
「はあ」
 門野は無造作に出て行った。代助は茶の間から、座敷を通って書斎へ帰った。見ると、綺麗に掃除が出来ている。落椿(おちつばき)も何処(どこ)かへ掃き出されてしまった。代助は花瓶(かへい)の右手にある組み重ねの書棚の前へ行って、上に載せた重い写真帖を取り上げて、立ちながら、金の留金を外して、一枚二枚と繰り始めたが、中頃まで来てぴたりと手を留めた。其所には二十歳(はたち)位の女の半身がある。代助は眼を俯(ふ)せて凝(じっ)と女の顔を見詰めていた。


 着物でも着換えて、此方(こっち)から平岡の宿を訪ねようかと思っている所へ、折よく先方(むこう)から遣って来た。車をがらがらと門前まで乗り付けて、此所(ここ)だ此所だと梶棒(かじぼう)を下(おろ)さした声は慥(たし)かに三年前分れた時そっくりである。玄関で、取次の婆さんを捕(つら)まえて、宿へ蟇口(がまぐち)を忘れて来たから、一寸二十銭貸してくれと云った所などは、どうしても学校時代の平岡を思い出さずにはいられない。代助は玄関まで馳(か)け出して行って、手を執らぬばかりに旧友を座敷へ上げた。
「どうした。まあ緩(ゆっ)くりするが好い」
「おや、椅子だね」と云いながら平岡は安楽椅子へ、どさりと身体を投げ掛けた。十五貫目以上もあろうと云うわが肉に、三文の価値(ねうち)を置いていない様な扱かい方に見えた。それから椅子の脊に坊主頭を靠(も)たして、一寸部屋の中(うち)を見廻しながら、
「中々、好い家(うち)だね。思ったより好い」と賞めた。代助は黙って巻莨入(まきたばこいれ)の蓋を開けた。
「それから、以後どうだい」
「どうの、こうのって、――まあ色々話すがね」
「もとは、よく手紙が来たから、様子が分ったが、近頃じゃ些(ちっ)とも寄(よこ)さないもんだから」
「いや何所(どこ)も彼所(かしこ)も御無沙汰で」と平岡は突然眼鏡を外して、脊広の胸から皺だらけの手帛(ハンケチ)を出して、眼をぱちぱちさせながら拭き始めた。学校時代からの近眼である。代助は凝(じっ)とその様子を眺めていた。
「僕より君はどうだい」と云いながら、細い蔓(つる)を耳の後へ絡みつけに、両手で持って行った。
「僕は相変らずだよ」
「相変らずが一番好いな。あんまり相変るものだから」
 そこで平岡は八の字を寄せて、庭の模様を眺め出したが、不意に語調を更(か)えて、
「やあ、桜がある。今漸(よう)やく咲き掛けた所だね。余程気候が違う」と云った。話の具合が何だか故(もと)の様にしんみりしない。代助も少し気の抜けた風に、
「向うは大分暖かいだろう」と序(ついで)同然の挨拶をした。すると、今度は寧(むし)ろ法外に熱した具合で、
「うん、大分暖かい」と力の這入(はい)った返事があった。あたかも自己の存在を急に意識して、はっと思った調子である。代助は又平岡の顔を眺めた。平岡は巻莨(まきたばこ)に火を点けた。その時婆さんが漸(ようや)く急須に茶を淹(い)れて持って出た。今しがた鉄瓶に水を注(さ)してしまったので、煮立るのに暇が入って、つい遅くなって済みませんと言訳をしながら、洋卓(テーブル)の上へ盆を載せた。二人は婆さんの喋舌(しゃべっ)てる間、紫檀(したん)の盆を見て黙っていた。婆さんは相手にされないので、独りで愛想笑いをして座敷を出た。
「ありゃ何だい」
「婆さんさ。雇ったんだ。飯を食わなくっちゃならないから」
「御世辞が好いね」
 代助は赤い唇の両端を、少し弓なりに下の方へ彎(ま)げて蔑(さげす)む様に笑った。
「今までこんな所へ奉公した事がないんだから仕方がない」
「君の家から連れて来れば好(いい)のに。大勢いるだろう」
「みんな若いのばかりでね」と代助は真面目に答えた。平岡はこの時始めて声を出して笑った。
「若けりゃ猶結構じゃないか」
「とにかく家の奴は好くないよ」
「あの婆さんの外に誰かいるのかい」
「書生が一人いる」
 門野は何時の間にか帰って、台所の方で婆さんと話をしていた。
「それぎりかい」
「それぎりだ。何故」
「細君はまだ貰わないのかい」
 代助は心持赤い顔をしたが、すぐ尋常一般の極めて平凡な調子になった。
「妻(さい)を貰ったら、君の所へ通知位する筈じゃないか。それよりか君の」と云いかけて、ぴたりと已(や)めた。
 代助と平岡とは中学時代からの知り合で、殊に学校を卒業して後、一年間というものは、殆んど兄弟の様に親しく往来した。その時分は互に凡(すべ)てを打ち明けて、互に力に為り合う様なことを云うのが、互に娯楽の尤もなるものであった。この娯楽が変じて実行となった事も少なくないので、彼等は相互の為(た)めに口にした凡ての言葉には、娯楽どころか、常に一種の犠牲を含んでいると確信していた。そうしてその犠牲を即座に払えば、娯楽の性質が、忽然(こつぜん)苦痛に変ずるものであると云う陳腐な事実にさえ気が付かずにいた。一年の後平岡は結婚した。同時に、自分の勤めている銀行の、京坂(けいはん)地方のある支店詰になった。代助は、出立(しゅったつ)の当時、新夫婦を新橋の停車場(ステーション)に送って、愉快そうに、直(じき)帰って来給えと平岡の手を握った。平岡は、仕方がない、当分辛抱するさと打遣(うっちゃ)る様に云ったが、その眼鏡の裏には得意の色が羨(うらや)ましい位動いた。それを見た時、代助は急にこの友達を憎らしく思った。家(うち)へ帰って、一日部屋へ這入ったなり考え込んでいた。嫂(あによめ)を連れて音楽会へ行く筈の所を断わって、大いに嫂に気を揉(も)ました位である。
 平岡からは断えず音便(たより)があった。安着の端書、向うで世帯を持った報知、それが済むと、支店勤務の模様、自己将来の希望、色々あった。手紙の来るたびに、代助は何時も丁寧な返事を出した。不思議な事に、代助が返事を書くときは、何時でも一種の不安に襲われる。たまには我慢するのが厭になって、途中で返事を已めてしまう事がある。ただ平岡の方から、自分の過去の行為に対して、幾分か感謝の意を表して来る場合に限って、安々と筆が動いて、比較的なだらかな返事が書けた。
 そのうち段々手紙の遣り取りが疎遠になって、月に二遍が、一遍になり、一遍が又二月、三月に跨(また)がる様に間を置いて来ると、今度は手紙を書かない方が、却って不安になって、何の意味もないのに、只この感じを駆逐する為に封書の糊(のり)を湿す事があった。それが半年ばかり続くうちに、代助の頭も胸も段々組織が変って来る様に感ぜられて来た。この変化に伴って、平岡へは手紙を書いても書かなくっても、まるで苦痛を覚えない様になってしまった。現に代助が一戸を構えて以来、約一年余と云うものは、この春年賀状の交換のとき、序(ついで)を以って、今の住所を知らしただけである。
 それでも、ある事情があって、平岡の事はまるで忘れる訳には行(ゆ)かなかった。時々思い出す。そうして今頃はどうして暮しているだろうと、色々に想像してみる事がある。然しただ思い出すだけで、別段問い合せたりする程に、気を揉む勇気も必要もなく、今日まで過して来た所へ、二週間前に突然平岡からの書信が届いたのである。その手紙には近近当地を引き上げて、御地へまかり越す積りである。但し本店からの命令で、栄転の意味を含んだ他動的の進退と思ってくれては困る。少し考があって、急に職業替をする気になったから、着京の上は何分宜しく頼むとあった。この何分宜しく頼むの頼むは本当の意味の頼むか、又は単に辞令上の頼むか不明だけれども、平岡の一身上に急激な変化のあったのは争うべからざる事実である。代助はその時はっと思った。
 それで、逢うや否やこの変動の一部始終を聞こうと待設けていたのだが、不幸にして話が外れて容易に其所へ戻って来ない。折を見て此方から持ち掛けると、まあ緩っくり話すとか何とか云って、中々埒(らち)を開けない。代助は仕方なしに、仕舞に、
「久し振りだから、其所いらで飯でも食おう」と云い出した。平岡は、それでも、まだ、何れ緩くりを繰返したがるのを、無理に引張って、近所の西洋料理へ上った。
 両人(ふたり)は其所で大分飲んだ。飲む事と食う事は昔の通りだねと言ったのが始りで、硬(こわ)い舌が段々弛(ゆる)んで来た。代助は面白そうに、二三日前自分の観に行った、ニコライの復活祭の話をした。御祭が夜の十二時を相図に、世の中の寐静まる頃を見計って始る。参詣人が長い廊下を廻って本堂へ帰って来ると、何時の間にか幾千本の蝋燭(ろうそく)が一度に点いている。法衣(ころも)を着た坊主が行列して向うを通るときに、黒い影が、無地の壁へ非常に大きく映る。――平岡は頬杖(ほおづえ)を突いて、眼鏡の奥の二重瞼(ふたえまぶち)を赤くしながら聞いていた。代助はそれから夜の二時頃広い御成(おなり)街道を通って、深夜の鉄軌(レール)が、暗い中を真直に渡っている上を、たった一人上野の森まで来て、そうして電燈に照らされた花の中に這入った。
「人気(ひとけ)のない夜桜は好いもんだよ」と云った。平岡は黙って盃(さかずき)を干したが、一寸気の毒そうに口元を動かして、
「好いだろう、僕はまだ見た事がないが。――然し、そんな真似が出来る間はまだ気楽なんだよ。世の中へ出ると、中々それどころじゃない」と暗に相手の無経験を上から見た様な事を云った。代助にはその調子よりもその返事の内容が不合理に感ぜられた。彼は生活上世渡りの経験よりも、復活祭当夜の経験の方が、人生に於て有意義なものと考えている。其所でこんな答をした。
「僕は所謂(いわゆる)処世上の経験程愚なものはないと思っている。苦痛があるだけじゃないか」
 平岡は酔った眼を心持大きくした。
「大分考えが違って来た様だね。――けれどもその苦痛が後から薬になるんだって、もとは君の持説じゃなかったか」
「そりゃ不見識な青年が、流俗の諺(ことわざ)に降参して、好加減(いいかげん)な事を云っていた時分の持説だ。もう、とっくに撤回しちまった」
「だって、君だって、もう大抵世の中へ出なくっちゃなるまい。その時それじゃ困るよ」
「世の中へは昔から出ているさ。ことに君と分れてから、大変世の中が広くなった様な気がする。ただ君の出ている世の中とは種類が違うだけだ」
「そんな事を云って威張ったって、今に降参するだけだよ」
「無論食うに困る様になれば、何時でも降参するさ。然し今日(こんにち)に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を嘗(な)めるものか。印度(インド)人が外套(がいとう)を着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの」
 平岡の眉の間に、一寸不快の色が閃(ひら)めいた。赤い眼を据えてぷかぷか烟草を吹かしている。代助は、ちと云い過ぎたと思って、少し調子を穏やかにした。――
「僕の知ったものに、まるで音楽の解らないものがある。学校の教師をして、一軒じゃ飯が食えないもんだから、三軒も四軒も掛け持をやっているが、そりゃ気の毒なもんで、下読をするのと、教場へ出て器械的に口を動かしているより外に全く暇がない。たまの日曜などは骨休めとか号して一日ぐうぐう寐ている。だから何所(どこ)に音楽会があろうと、どんな名人が外国から来ようと聞きに行く機会がない。つまり楽という一種の美くしい世界にはまるで足を踏み込まないで死んでしまわなくっちゃならない。僕から云わせると、これ程憐れな無経験はないと思う。麺麭(パン)に関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。麺麭(パン)を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくっちゃ人間の甲斐はない。君は僕をまだ坊っちゃんだと考えているらしいが、僕の住んでいる贅沢な世界では、君よりずっと年長者の積りだ」
 平岡は巻莨(まきたばこ)の灰を、皿の上にはたきながら、沈んだ暗い調子で、
「うん、何時までもそう云う世界に住んでいられれば結構さ」と云った。その重い言葉の足が、富に対する一種の呪詛(じゅそ)を引き摺(ず)っている様に聴えた。
 両人は酔って、戸外(おもて)へ出た。酒の勢で変な議論をしたものだから、肝心の一身上の話はまだ少しも発展せずにいる。
「少し歩かないか」と代助が誘った。平岡も口程忙がしくはないと見えて、生返事をしながら、一所に歩を運んで来た。通を曲って横町へ出て、なるべく、話の為好(しい)い閑(しずか)な場所を選んで行くうちに、何時か緒口(いとくち)が付いて、思うあたりへ談柄(だんぺい)が落ちた。
 平岡の云う所によると、赴任の当時彼は事務見習のため、地方の経済状況取調のため、大分忙がしく働らいてみた。出来得るならば、学理的に実地の応用を研究しようと思った位であったが、地位がそれ程高くないので、已(やむ)を得ず、自分の計画は計画として未来の試験用に頭の中に入れて置いた。尤も始めのうちは色々支店長に建策した事もあるが、支店長は冷然として、何時も取り合わなかった。むずかしい理窟(りくつ)などを持ち出すと甚だ御機嫌が悪い。青二才に何が分るものかと云う様な風をする。その癖自分は実際何も分っていないらしい。平岡から見ると、その相手にしない所が、相手にするに足らないからではなくって、寧ろ相手にするのが怖いからの様に思われた。其所に平岡の癪(しゃく)はあった。衝突しかけた事も一度や二度ではない。
 けれども、時日を経過するに従って、肝癪(かんしゃく)が何時となく薄らいできて、次第に自分の頭が、周囲の空気と融和する様になった。又なるべくは、融和する様に力(つと)めた。それについて、支店長の自分に対する態度も段々変って来た。時々は向うから相談をかける事さえある。すると学校を出たての平岡でないから、先方(むこう)に解らない、かつ都合のわるいことはなるべく云わない様にして置く。
「無暗に御世辞を使ったり、胡麻(ごま)を摺るのとは違うが」と平岡はわざわざ断った。代助は真面目な顔をして、「そりゃ無論そうだろう」と答えた。
 支店長は平岡の未来の事に就て、色々心配してくれた。近いうちに本店に帰る番に中(あた)っているから、その時は一所に来給えなどと冗談半分に約束までした。その頃は事務にも慣れるし、信用も厚くなるし、交際も殖えるし、勉強をする暇が自然となくなって、又勉強が却って事務の妨(さまたげ)をする様に感ぜられて来た。
 支店長が、自分に万事を打ち明ける如く、自分は自分の部下の関という男を信任して、色々と相談相手にしておった。ところがこの男がある芸妓(げいしゃ)と関係(かかりあ)って、何時の間にか会計に穴を明けた。それが曝露(ばくろ)したので、本人は無論解雇しなければならないが、ある事情からして、放って置くと、支店長にまで多少の煩(わずらい)が及んで来そうだったから、其所で自分が責(せめ)を引いて辞職を申し出た。
 平岡の語る所は、ざっとこうであるが、代助には彼が支店長から因果を含められて、所決を促がされた様にも聞えた。それは平岡の話しの末に「会社員なんてものは、上になればなる程旨(うま)い事が出来るものでね。実は関なんて、あれっばかりの金を使い込んで、すぐ免職になるのは気の毒な位なものさ」という句があったのから推したのである。
「じゃ支店長は一番旨い事をしている訳だね」と代助が聞いた。
「或はそんなものかも知れない」と平岡は言葉を濁してしまった。
「それでその男の使い込んだ金はどうした」
「千に足らない金だったから、僕が出して置いた」
「よく有ったね。君も大分旨い事をしたと見える」
 平岡は苦い顔をして、じろりと代助を見た。
「旨い事をしたと仮定しても、皆使ってしまっている。生活(くらし)にさえ足りない位だ。その金は借りたんだよ」
「そうか」と代助は落ち付き払って受けた。代助はどんな時でも平生の調子を失わない男である。そうしてその調子には低く明らかなうちに一種の丸味が出ている。
「支店長から借りて埋めて置いた」
「何故支店長がじかにその関とか何とか云う男に貸して遣(や)らないのかな」
 平岡は何とも答えなかった。代助も押しては聞かなかった。二人は無言のまましばらくの間並んで歩いて行った。
 代助は平岡が語ったより外に、まだ何かあるに違ないと鑑定した。けれども彼はもう一歩進んで飽(あく)までその真相を研究する程の権利を有っていないことを自覚している。又そんな好奇心を引き起すには、実際あまり都会化し過ぎていた。二十世紀の日本に生息する彼は、三十になるか、ならないのに既に nil admirari (ニル アドミラリ)の域に達してしまった。彼の思想は、人間の暗黒面に出逢って喫驚(びっくり)する程の山出(やまだし)ではなかった。彼の神経は斯様(かよう)に陳腐な秘密を嗅(か)いで嬉しがる様に退屈を感じてはいなかった。否、これより幾倍か快よい刺激でさえ、感受するを甘んざる位、一面から云えば、困憊(こんぱい)していた。
 代助は平岡のそれとは殆んど縁故のない自家特有の世界の中で、もうこれ程に進化――進化の裏面を見ると、何時でも退化であるのは、古今を通じて悲しむべき現象だが――していたのである。それを平岡は全く知らない。代助をもって、依然として旧態を改めざる三年前(ぜん)の初心(うぶ)と見ているらしい。こう云う御坊っちゃんに、洗い浚(ざら)い自分の弱点を打ち明けては、徒らに馬糞(まぐそ)を投げて、御嬢さまを驚ろかせると同結果に陥いり易い。余計な事をして愛想を尽かされるよりは黙っている方が安全だ。――代助には平岡の腹がこう取れた。それで平岡が自分に返事もせずに無言で歩いて行くのが、何となく馬鹿らしく見えた。平岡が代助を小供視する程度に於て、あるいはそれ以上の程度に於て、代助は平岡を小供視し始めたのである。けれども両人が十五六間過ぎて、又話を遣り出した時は、どちらにも、そんな痕跡は更になかった。最初に口を切ったのは代助であった。
「それで、これから先どうする積りかね」
「さあ」
「やっぱり今までの経験もあるんだから、同じ職業が可(い)いかも知れないね」
「さあ。事情次第だが。実は緩くり君に相談してみようと思っていたんだが。どうだろう、君の兄さんの会社の方に口はあるまいか」
「うん、頼んでみよう、二三日内に家(うち)へ行く用があるから。然しどうかな」
「もし、実業の方が駄目なら、どっか新聞へでも這入ろうかと思う」
「それも好いだろう」
 両人は又電車の通る通へ出た。平岡は向うから来た電車の軒を見ていたが、突然これに乗って帰ると云い出した。代助はそうかと答えたまま、留めもしない、と云って直(すぐ)分れもしなかった。赤い棒の立っている停留所まで歩いて来た。そこで、
「三千代(みちよ)さんはどうした」と聞いた。
「有難う、まあ相変らずだ。君に宜しく云っていた。実は今日連れて来ようと思ったんだけれども、何だか汽車に揺れたんで頭が悪いというから宿屋へ置いて来た」
 電車が二人の前で留まった。平岡は二三歩早足に行きかけたが、代助から注意されて已めた。彼の乗るべき車はまだ着かなかったのである。
「子供は惜しい事をしたね」
「うん。可哀相な事をした。その節は又御丁嚀(ごていねい)に有難う。どうせ死ぬ位なら生れない方が好かった」
「その後はどうだい。まだ後が出来ないか」
「うん、未(ま)だにも何にも、もう駄目だろう。身体があんまり好くないものだからね」
「こんなに動く時は子供のない方が却って便利で可いかも知れない」
「それもそうさ。一層君の様に一人身なら、猶の事、気楽で可いかも知れない」
「一人身になるさ」
「冗談云ってら――それよりか、妻(さい)が頻りに、君はもう奥さんを持ったろうか、未だだろうかって気にしていたぜ」
 ところへ電車が来た。


 代助の父は長井得(ながいとく)といって、御維新(ごいつしん)のとき、戦争に出た経験のある位な老人であるが、今でも至極達者に生きている。役人を已めてから、実業界に這入(はい)って、何かかにかしているうちに、自然と金が貯って、この十四五年来は大分(だいぶん)の財産家になった。
 誠吾と云う兄がある。学校を卒業してすぐ、父の関係している会社へ出たので、今では其所で重要な地位を占める様になった。梅子という夫人に、二人の子供が出来た。兄は誠太郎と云って十五になる。妹は縫といって三つ違である。
 誠吾の外に姉がまだ一人あるが、これはある外交官に嫁いで、今は夫と共に西洋にいる。誠吾とこの姉の間にもう一人、それからこの姉と代助の間にも、まだ一人兄弟があったけれども、それは二人とも早く死んでしまった。母も死んでしまった。
 代助の一家(いっけ)はこれだけの人数から出来上っている。そのうちで外へ出ているものは、西洋に行った姉と、近頃一戸を構えた代助ばかりだから、本家には大小合せて五人残る訳になる。
 代助は月に一度は必ず本家へ金を貰いに行く。代助は親の金とも、兄の金ともつかぬものを使って生きている。月に一度の外にも、退屈になれば出掛けて行く。そうして子供に調戯(からか)ったり、書生と五目並べをしたり、嫂(あによめ)と芝居の評をしたりして帰って来る。
 代助はこの嫂を好いている。この嫂は、天保調(てんぽうちょう)と明治の現代調を、容赦なく継ぎ合せた様な一種の人物である。わざわざ仏蘭西(ふらんす)にいる義妹(いもうと)に注文して、むずかしい名のつく、頗(すこぶ)る高価な織物を取寄せて、それを四五人で裁って、帯に仕立てて着てみたり何かする。後で、それは日本から輸出したものだと云う事が分って大笑いになった。三越陳列所へ行って、それを調べて来たものは代助である。それから西洋の音楽が好きで、よく代助に誘い出されて聞に行く。そうかと思うと易断(うらない)に非常な興味を有(も)っている。石龍子(せきりゅうし)と尾島某(なにがし)を大いに崇拝する。代助も二三度御相伴に、俥(くるま)で易者の許(もと)まで食付(くっつ)いて行った事がある。
 誠太郎と云う子は近頃ベースボールに熱中している。代助が行って時々球を投げてやる事がある。彼は妙な希望を持った子供である。毎年夏の初めに、多くの焼芋屋が俄然(がぜん)として氷水屋に変化するとき、第一番に馳(か)けつけて、汗も出ないのに、氷菓(アイスクリーム)を食うものは誠太郎である。氷菓がないときには、氷水で我慢する。そうして得意になって帰って来る。近頃では、もし相撲の常設館が出来たら、一番先へ這入ってみたいと云っている。叔父さんは誰か相撲を知りませんかと代助に聞いた事がある。
 縫という娘は、何か云うと、好くってよ、知らないわと答える。そうして日に何遍となくリボンを掛け易(か)える。近頃はヴァイオリンの稽古に行(ゆ)く。帰って来ると、鋸(のこぎり)の目立ての様な声を出して御浚(おさら)いをする。ただし人が見ていると決して遣らない。室(へや)を締め切って、きいきい云わせるのだから、親は可なり上手だと思っている。代助だけが時々そっと戸を明けるので、好くってよ、知らないわと叱られる。
 兄は大抵不在勝である。ことに忙がしい時になると、家(うち)で食うのは朝食(あさめし)位なもので、あとは、どうして暮しているのか、二人の子供には全く分らない。同程度に於て代助にも分らない。これは分らない方が好ましいので、必要のない限りは、兄の日々(にちにち)の戸外生活に就て決して研究しないのである。
 代助は二人の子供に大変人望がある。嫂にも可なりある。兄には、あるんだか、ないんだか分らない。たまに兄と弟が顔を合せると、ただ浮世話をする。双方とも普通の顔で、大いに平気で遣っている。陳腐に慣れ抜いた様子である。
代助の尤(もっと)も応えるのは親爺(おやじ)である。好い年をして、若い妾(めかけ)を持っているが、それは構わない。代助から云うと寧ろ賛成な位なもので、彼は妾を置く余裕のないものに限って、蓄妾(ちくしょう)の攻撃をするんだと考えている。親爺は又大分のやかまし屋である。子供のうちは心魂に徹して困却した事がある。しかし成人の今日では、それにも別段辟易する必要を認めない。ただ応えるのは、自分の青年時代と、代助の現今とを混同して、両方共大した変りはないと信じている事である。それだから、自分の昔し世に処した時の心掛けでもって、代助も遣らなくっては、嘘だという論理になる。尤も代助の方では、何が嘘ですかと聞き返した事がない。だから決して喧嘩にはならない。代助は子供の頃非常な肝癪持(かんしゃくもち)で、十八九の自分親爺と組打をした事が一二返(へん)ある位だが、成長して学校を卒業して、しばらくすると、この肝癪がぱたりと已んでしまった。それから以後ついぞ怒った試しがない。親爺はこれを自分の薫育の効果と信じてひそかに誇っている。
 実際を云うと親爺の所謂薫育は、この父子の間に纏綿(てんめん)する暖かい情味を次第に冷却せしめただけである。少なくとも代助はそう思っている。ところが親爺の腹のなかでは、それが全く反対(あべこべ)に解釈されてしまった。何をしようと血肉の親子である。子が親に対する天賦の情合(じょうあい)が、子を取扱う方法の如何(いかん)に因って変る筈がない。教育の為め、少しの無理はしようとも、その結果は決して骨肉の恩愛に影響を及ぼすものではない。儒教の感化を受けた親爺は、固くこう信じていた。自分が代助に存在を与えたという単純な事実が、あらゆる不快苦痛に対して、永久愛情の保証になると考えた親爺は、その信念をもって、ぐんぐん押して行った。そうして自分に冷淡な一個の息子を作り上げた。尤も代助の卒業前後からはその待遇法も大分変って来て、ある点から云えば、驚ろく程寛大になった所もある。然しそれは代助が生れ落ちるや否や、この親爺が代助に向って作ったプログラムの一部分の遂行に過ぎないので、代助の心意の変移を見抜いた適宜の処置ではなかったのである。自分の教育が代助に及ぼした悪結果に至っては、今に至って全く気が付かずにいる。
 親爺は戦争に出たのを頗(すこぶ)る自慢にする。稍もすると、御前などはまだ戦争をした事がないから、度胸が据らなくって不可(いか)んと一概にけなしてしまう。あたかも度胸が人間至上な能力であるかの如き言草である。代助はこれを聞かせられるたんびに厭な心持がする。胆力は命の遣り取りの劇しい、親爺の若い頃の様な野蛮時代にあってこそ、生存に必要な資格かも知れないが、文明の今日から云えば、古風な弓術撃剣の類と大差はない道具と、代助は心得ている。否、胆力とは両立し得ないで、しかも胆力以上に難有(ありがた)がって然るべき能力が沢山ある様に考えられる。御父さんから又胆力の講釈を聞いた。御父さんの様に云うと、世の中で石地蔵が一番偉いことになってしまう様だねと云って、嫂と笑った事がある。
 こう云う代助は無論臆病である。又臆病で耻ずかしいという気は心(しん)から起らない。ある場合には臆病を以て自任したくなる位である。子供の時、親爺の使嗾(しそう)で、夜中にわざわざ青山の墓地まで出掛けた事がある。気味のわるいのを我慢して一時間も居たら、たまらなくなって、蒼青(まっさお)な顔をして家へ帰って来た。その折は自分でも残念に思った。あくる朝親爺に笑われたときは、親爺が憎らしかった。親爺の云う所によると、彼と同時代の少年は、胆力修養の為め、夜半に結束して、たった一人、御城の北一里にある剣が峯の天頂(てっぺん)まで登って、其所の辻堂で夜明(よあかし)をして、日の出を拝んで帰ってくる習慣であったそうだ。今の若いものとは心得方からして違うと親爺が批評した。
 こんな事を真面目に口にした、又今でも口にしかねまじき親爺は気の毒なものだと、代助は考える。彼は地震が嫌(きらい)である。瞬間の動揺でも胸に波が打つ。あるときは書斎で凝(じっ)と坐っていて、何かの拍子に、ああ地震が遠くから寄せて来るなと感ずる事がある。すると、尻の下に敷いている坐蒲団も、畳も、乃至(ないし)床板も明らかに震える様に思われる。彼はこれが自分の本来だと信じている。親爺の如きは、神経未熟の野人が、然らずんば己れを偽わる愚者としか代助には受け取れないのである。
 代助は今この親爺と対坐している。廂(ひさし)の長い小さな部屋なので、居ながら庭を見ると、廂の先で庭が仕切られた様な感がある。少なくとも空は広く見えない。その代り静かで、落ち付いて、尻の据り具合が好い。
 親爺は刻み烟草を吹かすので、手のある長い烟草盆を前へ引き付けて、時々灰吹をぽんぽんと叩く。それが静かな庭へ響いて好い音がする。代助の方は金の吸口を四五本手焙(てあぶり)の中へ並べた。もう鼻から烟(けむ)を出すのが厭になったので、腕組をして親爺の顔を眺めている。その顔には年の割に肉が多い。それでいて頬は痩(こ)けている。濃い眉の下に眼の皮が弛(たる)んで見える。髭は真白と云わんよりは、寧ろ黄色である。そうして、話をするときに相手の膝頭(ひざがしら)と顔とを半々に見較べる癖がある。その時の眼の動かし方で、白眼が一寸(ちょっと)ちらついて、相手に妙な心持をさせる。
 老人は今こんな事を云っている。――
「そう人間は自分だけを考えるべきではない。世の中もある。国家もある。少しは人の為に何かしなくっては心持のわるいものだ。御前だって、そう、ぶらぶらしていて心持の好い筈はなかろう。そりゃ、下等社会の無教育のものなら格別だが、最高の教育を受けたものが、決して遊んでいて面白い理由がない。学んだものは、実地に応用して始めて趣味が出るものだからな」
「そうです」と代助は答えている。親爺から説法されるたんびに、代助は返答に窮するから好加減な事を云う習慣になっている。代助に云わせると、親爺の考えは、万事中途半端に、或物を独り勝手に断定してから出立(しゅったつ)するんだから、毫(ごう)も根本的の意義を有していない。しかのみならず、今利本位でやってるかと思うと、何時の間にか利己本位に変っている。言葉だけは滾々(こんこん)として、勿体らしく出るが、要するに端倪(たんげい)すべからざる空談である。それを基礎から打ち崩して懸かるのは大変な難事業だし、又必竟(ひっきょう)出来ない相談だから、始めよりなるべく触らない様にしている。ところが親爺の方では代助を以て無論自己の太陽系に属すべきものと心得ているので、自己は飽までも代助の軌道を支配する権利があると信じて押して来る。そこで代助も已を得ず親爺という老太陽の周囲を、行儀よく回転する様に見せている。
「それは実業が厭なら厭で好い。何も金を儲けるだけが日本の為になるとも限るまいから。金は取らんでも構わない。金の為にとやかく云うとなると、御前も心持がわるかろう。金は今まで通り己が補助して遣る。おれも、もう何時死ぬか分らないし、死にゃ金を持って行く訳にも行かないし。月々御前の生計(くらし)位どうでもしてやる。だから奮発して何か為(す)るが好い。国民の義務としてするが好い。もう三十だろう」
「そうです」
「三十になって遊民として、のらくらしているのは、如何(いか)にも不体裁だな」
 代助は決してのらくらしているとは思わない。ただ職業の為に汚されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考えているだけである。親爺がこんな事を云うたびに、実は気の毒になる。親爺の幼稚な頭脳には、かく有意義に月日を利用しつつある結果が、自己の思想情操の上に、結晶して吹き出しているのが、全く映らないのである。仕方がないから、真面目な顔をして、
「ええ、困ります」と答えた。老人は頭から代助を小僧視している上に、その返事が何時でも幼気(おさなげ)を失わない、簡単な、世帯離れをした文句だものだから、馬鹿にするうちにも、どうも坊ちゃんは成人しても仕様がない、困ったものだと云う気になる。そうかと思うと、代助の口調が如何にも平気で、冷静で、はにかまず、もじ付かず、尋常極まっているので、此奴(こいつ)は手の付け様がないという気にもなる。
「身体は丈夫だね」
「二三年このかた風邪を引いた事もありません」
「頭も悪い方じゃないだろう。学校の成績も可なりだったんじゃないか」
「まあそうです」
「それで遊んでいるのは勿体ない。あの何とか云ったね、そら御前の所へ善く話しに来た男があるだろう。己(おれ)も一二度逢ったことがある」
「平岡ですか」
「そう平岡。あの人なぞは、あまり出来の可い方じゃなかったそうだが、卒業すると、すぐ何処かへ行ったじゃないか」
「その代り失敗(しくじっ)て、もう帰って来ました」
 老人は苦笑を禁じ得なかった。
「どうして」と聞いた。
「つまり食う為に働らくからでしょう」
 老人にはこの意味が善く解らなかった。
「何か面白くない事でも遣ったのかな」と聞き返した。
「その場々々で当然の事を遣るんでしょうけれども、その当然がやっぱり失敗(しくじり)になるんでしょう」
「はああ」と気の乗らない返事をしたが、やがて調子を易えて、説き出した。
「若い人がよく失敗(しくじる)というが、全く誠実と熱心が足りないからだ。己も多年の経験で、この年になるまで遣って来たが、どうしてもこの二つがないと成功しないね」
「誠実と熱心があるために、却って遣り損うこともあるでしょう」
「いや、先(まず)ないな」
 親爺の頭の上に、誠者天之道也(まことはてんのみちなり)と云う額が麗々と掛けてある。先代の旧藩主に書いて貰ったとか云って、親爺は尤も珍重している。代助はこの額が甚だ嫌である。第一字が嫌(いや)だ。その上文句が気に喰わない。誠は天の道なりの後へ、人の道にあらずと附け加えたい様な心持がする。
 その昔し藩の財政が疲弊して、始末が付かなくなった時、整理の任に当った長井は、藩侯に縁故のある町人を二三人呼び集めて、刀を脱いでその前に頭を下げて、彼等に一時の融通を頼んだ事がある。固より返せるか、返せないか、分らなかったんだから、分らないと真直に自白して、それがためにその時成功した。その因縁でこの額を藩主に書いて貰ったんである。爾来(じらい)長井は何時でも、これを自分の居間に掛けて朝夕(ちょうせき)眺めている。代助はこの額の由来を何遍聞かされたか知れない。
 今から十五六年前(ぜん)に、旧藩主の家で、月々の支出が嵩(かさ)んできて、折角持ち直した経済が又崩れ出した時にも、長井は前年の手腕によって、再度の整理を委託された。その時長井は自分で風呂の薪を焚いてみて、実際の消費高と帳面づらの消費高との差違から調べにかかったが、終日終夜この事だけに精魂を打ち込んだ結果は、約一ヵ月内に立派な方法を立て得るに至った。それより以後藩主の家では比較的豊かな生計(くらし)をしている。
 こう云う過去の歴史を持っていて、この過去の歴史以外には、一歩も踏み出して考える事を敢てしない長井は、何によらず、誠実と熱心へ持って行きたがる。
「御前は、どう云うものか、誠実と熱心が欠けている様だ。それじゃ不可ん。だから何にも出来ないんだ」
「誠実も熱心もあるんですが、ただ人事上に応用出来ないんです」
「どう云う訳で」
 代助は又返答に窮した。代助の考えによると、誠実だろうが、熱心だろうが、自分が出来合の奴を胸に蓄わえているんじゃなくって、石と鉄と触れて火花の出る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者二人(ににん)の間に起るべき現象である。自分の有する性質と云うよりは寧ろ精神の交換作用である。だから相手が悪くっては起り様がない。
「御父さんは論語だの、王陽明だのという、金の延金(のべがね)を呑んでいらっしゃるから、そういう事を仰しゃるんでしょう」
「金の延金とは」
 代助はしばらく黙っていたが、漸やく、
「延金のまま出て来るんです」と云った。長井は、書物癖のある、偏屈な、世慣れない若輩のいいたがる不得要領の警句として、好奇心のあるにも拘わらず、取り合う事を敢てしなかった。
 それから約四十分程して、老人は着物を着換えて、袴を穿いて、俥に乗って、何処かへ出て行った。代助も玄関まで送って出たが、又引き返して客間の戸を開けて中へ這入った。これは近頃になって建て増した西洋作りで、内部の装飾その他の大部分は、代助の意匠に本づいて、専門家へ注文して出来上ったものである。ことに欄間の周囲に張った模様画は、自分の知り合いのさる画家に頼んで、色々相談の揚句に成ったものだから、特更興味が深い。代助は立ちながら、画巻物を展開した様な、横長の色彩を眺めていたが、どう云うものか、この前来て見た時よりは、痛く見劣りがする。これでは頼もしくないと思いながら、猶(なお)局部々々に眼を付けて吟味していると、突然嫂(あによめ)が這入って来た。
「おや、此所(ここ)にいらっしゃるの」と云ったが、「一寸(ちょいと)其所(そこい)らに私の櫛が落ちていなくって」と聞いた。櫛は長椅子(ソーファ)の足の所にあった。昨日縫子に貸して遣ったら、何所(どこ)かへ失(なく)なしてしまったんで、探しに来たんだそうである。両手で頭を抑える様にして、櫛を束髪の根方へ押し付けて、上眼で代助を見ながら、
「相変らず茫乎(ぼんやり)してるじゃありませんか」と調戯(からか)った。
「御父さんから御談義を聞かされちまった」
「また? 能く叱られるのね。御帰り[そうそう]、随分気が利かないわね。然し貴方もあんまり、好(よ)かないわ。些(ちっ)とも御父さんの云う通りになさらないんだもの」
「御父さんの前で議論なんかしやしませんよ。万事控え目に大人しくしているんです」
「だから猶始末が悪いのよ。何か云うと、へいへいって、そうして、些とも云う事を聞かないんだもの」
 代助は苦笑して黙ってしまった。梅子は代助の方へ向いて、椅子を腰へ卸した。脊(せい)のすらりとした、色の浅黒い、眉の濃い、唇の薄い女である。
「まあ、御掛けなさい。少し話し相手になって上げるから」
 代助はやっぱり立ったまま、嫂の姿を見守っていた。
「今日は妙な半襟を掛けてますね」
「これ?」
 梅子は顎を縮めて、八の字を寄せて、自分の襦袢の襟を見ようとした。
「此間(こないだ)買ったの」
「好い色だ」
「まあ、そんな事は、どうでも可いから、其所へ御掛けなさいよ」
 代助は嫂の真正面へ腰を卸した。
「へえ掛けました」
「一体今日は何を叱られたんです」
「何を叱られたんだか、あんまり要領を得ない。然し御父さんの国家社会の為に尽すには驚ろいた。何でも十八の年から今日までのべつに尽してるんだってね」
「それだから、あの位に御成りになったんじゃありませんか」
「国家社会の為に尽して、金が御父さん位儲かるなら、僕も尽しても好い」
「だから遊んでないで、御尽しなさいな。貴方は寐ていて御金を取ろうとするから狡猾(こうかつ)よ」
「御金を取ろうとした事は、まだ有りません」
「取ろうとしなくっても、使うから同じじゃありませんか」
「兄さんが何とか云ってましたか」
「兄さんは呆れてるから、何とも云やしません」
「随分猛烈だな。然し御父さんより兄さんの方が偉いですね」
「どうして。――あら悪らしい、又あんな御世辞を使って。貴方はそれが悪いのよ。真面目な顔をして他(ひと)を茶化すから」
「そんなもんでしょうか」
「そんなもんでしょうかって、他(ひと)の事じゃあるまいし。少しゃ考えて御覧なさいな」
「どうも此所へ来ると、まるで門野と同じ様になっちまうから困る」
「門野って何です」
「なに宅(うち)にいる書生ですがね。人に何か云われると、きっとそんなもんでしょうか、とか、そうでしょうか、とか答えるんです」
「あの人が? 余っ程妙なのね」
 代助は一寸話を已めて、梅子の肩越に、窓掛の間から、綺麗な空を透かす様に見ていた。遠くに大きな樹が一本ある。薄茶色の芽を全体に吹いて、柔らかい梢(こずえ)の端(はじ)が天に接(つづ)く所は、糠雨(ぬかあめ)で暈(ぼか)されたかの如くに霞んでいる。
「好(い)い気候になりましたね。何所か御花見にでも行(ゆ)きましょうか」
「行きましょう。行くから仰(おっ)しゃい」
「何を」
「御父さまから云われた事を」
「云われた事は色々あるんですが、秩序立てて繰り返すのは困るですよ。頭が悪いんだから」
「まだ空っとぼけていらっしゃる。ちゃんと知ってますよ」
「じゃ、伺いましょうか」
 梅子は少しつんとした。
「貴方は近頃余っ程減らず口が達者におなりね」
「何、姉さんが辟易する程じゃない。――時に今日は大変静かですね。どうしました、子供達は」
「子供は学校です」
 十六七の小間使が戸を開けて顔を出した。あの、旦那様が、奥様に一寸電話口までと取り次いだなり、黙って梅子の返事を待っている。梅子はすぐ立った。代助も立った。つづいて客間を出ようとすると、梅子は振り向いた。
「あなたは、其所に居らっしゃい。少し話しがあるから」
 代助には嫂のこう云う命令的の言葉が何時でも面白く感ぜられる。御緩(ごゆっくり)と見送ったまま、又腰を掛けて、再び例の画を眺め出した。しばらくすると、その色が壁の上に塗り付けてあるのでなくって、自分の眼球の中から飛び出して、壁の上へ行って、べたべた喰っ付く様に見えて来た。仕舞には眼球から色を出す具合一つで、向うにある人物樹木が、此方(こちら)の思い通りに変化出来る様になった。代助はかくして、下手な個所々々を悉く塗り更えて、とうとう自分の想像し得る限りの尤も美くしい色彩に包囲されて、恍惚と坐っていた。所へ梅子が帰って来たので、忽ち当り前の自分に戻ってしまった。
 梅子の用事と云うのを改まって聞いてみると、又例の縁談の事であった。代助は学校を卒業する前から、梅子の御蔭で写真実物色々な細君の候補者に接した。けれども、何ずれも不合格者ばかりであった。始めのうちは体裁の好い逃口上で断わっていたが、二年程前からは、急に図迂々々(ずうずう)しくなって、きっと相手にけちを付ける。口と顎の角度が悪いとか、眼の長さが顔の幅に比例しないとか、耳の位置が間違ってるとか、必ず妙な非難を持って来る。それが悉く尋常な言草でないので、仕舞いには梅子も少々考え出した。これは必竟(ひっきょう)世話を焼き過ぎるから、付け上って、人を困らせるのだろう。当分打遣って置いて、向うから頼み出させるに若(し)くはない。と決心して、それからは縁故の事をついぞ口にしなくなった。ところが本人は一向困った様子もなく、依然として海のものとも、山のものとも見当が付かない態度で今日まで暮して来た。
 其所へ親爺が甚だ因縁の深いある候補者を見付けて、旅行先から帰った。梅子は代助の来る二三日前に、その話を親爺から聞かされたので、今日の会談は必ずそれだろうと推したのである。然し代助は実際老人から結婚問題に付いては、この日何にも聞かなかったのである。老人は或はそれを披露する気で、呼んだのかも知れないが、代助の態度を見て、もう少し控えて置く方が得策だという料簡を起した結果、故意と話題を避けたとも取れる。
 この候補者に対して代助は一種特殊な関係を有っていた。候補者の姓は知っている。けれども名は知らない。年齢、容貌、教育、性質に至っては全く知らない。何故その女が候補者に立ったと云う因縁になると又能く知っている。
 代助の父には一人の兄があった。直記と云って、父とはたった一つ違いの年上だが、父よりは小柄なうえに、顔付目鼻立が非常に似ていたものだから、知らない人には往々双子と間違えられた。その折は父も得とは云わなかった。誠之進(せいのしん)という幼名で通っていた。
 直記と誠之進とは外貌のよく似ていた如く、気質も本当の兄弟であった。両方に差支のあるときは特別、都合さえ付けば、同じ所に食っ付き合って、同じ事をして暮していた。稽古も同時同刻に往き返りをする。読書にも一つ燈火(ともしび)を分った位親しかった。
 丁度直記の十八の秋であった。ある時二人は城下外の等覚寺という寺へ親の使に行った。これは藩主の菩提寺で、そこにいる楚水(そすい)という坊さんが、二人の親とは昵近(じっこん)なので、用の手紙を、この楚水さんに渡しに行ったのである。用は囲碁の招待か何かで返事にも及ばない程簡略なものであったが、楚水さんに留められて、色々話しているうちに遅くなって、日の暮れる一時間程前に漸く寺を出た。その日は何か祭のある折で、市中は大分雑沓していた。二人は群集のなかを急いで帰る拍子に、ある横町を曲ろうとする角で、川向いの方限(ほうぎ)りの某というものに突き当った。この某と二人とは、かねてから仲が悪かった。その時某は大分酒気を帯びていたと見えて、二言三言いい争ううちに刀を抜いて、いきなり斬り付けた。斬り付けられた方は兄であった。已を得ずこれも腰の物を抜いて立向ったが、相手は平生から極めて評判のわるい乱暴ものだけあって、酩酊(めいてい)しているにも拘わらず、強かった。黙っていれば兄の方が負ける。そこで弟も刀を抜いた。そうして二人で滅茶苦茶に相手を斬り殺してしまった。
 その頃の習慣として、侍が侍を殺せば、殺した方が切腹をしなければならない。兄弟はその覚悟で家へ帰って来た。父も二人を並べて置いて順々に自分で介錯(かいしゃく)をする気であった。ところが母が生憎祭で知己(ちかづき)の家へ呼ばれて留守である。父は二人に切腹をさせる前、もう一遍母に逢わしてやりたいと云う人情から、すぐ母を迎にやった。そうして母の来る間、二人に訓戒を加えたり、或は切腹する座敷の用意をさせたりなるべく愚図々々していた。
 母の客に行っていた所は、その遠縁にあたる高木という勢力家であったので、大変都合が好かった。と云うのは、その頃は世の中の動き掛けた当時で、侍の掟も昔の様には厳重に行われなかった。殊更殺された相手は評判の悪い無頼の青年であった。ので高木は母とともに長井の家へ来て、何分の沙汰が公向(おもてむき)からあるまでは、当分そのままにして、手を着けずに置くようにと、父を諭した。
 高木はそれから奔走を始めた。そうして第一に家老を説き付けた。それから家老を通して藩主を説き付けた。殺された某の親は又、存外訳の解った人で、平生から倅(せがれ)の行跡の良くないのを苦に病んでいたのみならず、斬り付けた当時も、此方(こっち)から狼藉(ろうぜき)をしかけたと同然であるという事が明瞭になったので、兄弟を寛大に処分する運動に就ては別段の苦情を持ち出さなかった。兄弟はしばらく一間(ひとま)の内に閉じ籠って、謹慎の意を表して後、二人とも人知れず家を捨てた。
 三年の後兄は京都で浪士に殺された。四年目に天下が明治となった。又五六年してから、誠之進は両親を国元から東京へ呼び寄せた。そうして妻を迎えて、得という一字名になった。その時は自分の命を助けてくれた高木はもう死んで、養子の代になっていた。東京へ出て士官の方法でも講じたらと思って色々勧めてみたが応じなかった。この養子に子供が二人あって、男の方は京都へ出て同志社へ這入た。其所を卒業してから、長らく亜米利加に居(お)ったそうだが、今では神戸で実業に従事して、相当の資産家になっている。女の方は県下の多額納税者の所へ嫁に行った。代助の細君の候補者というのはこの多額納税者の娘である。
「大変込み入ってるのね。私驚いちまった」と嫂が代助に云った。
「御父さんから何返も聞いてるじゃありませんか」
「だって、何時もは御嫁の話が出ないから、好い加減に聞いてるのよ」
「佐川にそんな娘があったのかな。僕も些っとも知らなかった」
「御貰なさいよ」
「賛成なんですか」
「賛成ですとも。因縁つきじゃありませんか」
「先祖の拵らえた因縁よりも、まだ自分の拵えた因縁で貰う方が貰い好い様だな」
「おや、そんなものがあるの」
 代助は苦笑して答えなかった。




----------------------------------------
入力  takeko
校正  nani
公開サイト 書籍デジタル化委員会
http://www.wao.or.jp/naniuji/
2000/01/03/掲載途中
NO.022
底本 『それから』新潮文庫/1970/新潮社
----------------------------------------
(註)
コード外の文字は[ ]で示し、別字またはカナで表記。
ウムラウト、アクサンなどは省略。